たましいを守って 4-2
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三ヶ月。
それが多国籍軍がニナトールへ到着するまでにかかった時間であった。
道中、大きな問題もなく、正行が個人的に心配していた、補給線が伸びきったところをハルシャの伏兵に叩かれるという最悪の事態も起こらないまま、無事にニナトール領内の一端へたどり着いたのだ。
そこは深い森である。
大陸西端は峻峭な山々が連なり、そのひとつひとつが三千四千メートル級という大きさだから、はるか遠くからでも雲からぬっと突き出した山頂が見えるほど、近づけばさながら自然の城壁となる。
まるで、空からでたらめに山を落として作ったような地形、それゆえに気候はひどく不安定で、ある山の裾では雪がちらつくのに、その反対の裾では三十度を超える蒸し暑い夏のような気候ということが珍しくない。
山そのものも姿は様々ある。
三千メートルを超えるような山の頂上付近は、無論植物も生えず、火山の噴火による岩がごろごろと転がり、なかにはまだ活火山である続ける若い山もあって、山のいたるところから強い硫黄の匂いを放つ乳白色の煙を吐き、生物の立ち入りをかたくなに拒んでいた。
火口ではぐつぐつとマグマが煮立ち、あたりを有毒の煙が覆い隠して、生物の気配もまるでないが、火山ガスの噴火口には黄色い微生物がびっしり住み着いて、やはりこのような環境にも生物は適応しうるらしい。
山を下ってゆけば、土の地面に植物も根を張っている。
しかし変わりやすい気候と環境に対応しているのか、あまり喬木は見かけず、代わりに幹の太い潅木が茂っていた。
葉は分厚いものもあれば薄く細いものもあり、蔦のたぐいはやはり旺盛で、枝から枝へと飛び移り、森全体をひとつの網で絡めとったような状況。
そこにひょいと止まる鳥も、臨機応変さでは劣る巨体を失い、手のひらに乗るような大きさで、背と短い尾は黒いが、腹の部分は鮮やかに青く、嘴が異様に細長い。
丸い身体を枝へ移し、嘴を幹にこつんこつんと当てながら様子を見て、分厚い幹に開いた穴から嘴の先を突き入れた。
それで空洞になった内部を探り、昆虫を咥えて引っ張り出すのである。
しかしそこまでこなす前に、麓の森ががさりと揺れて、驚いた鳥は葉に羽根を打ちつけながら飛び立った。
叢中からぬっと顔を出したのは、日に焼けて脂汗を浮かべた兵士である。
左右をすばやく伺い、身体ごと出てくれば、後ろからも数十人がぞろぞろと従う。
「どこへ行った、化け物め――」
手には抜き身の剣、木々のあいだに反射した光がきらめいて、光が幹のごつごつした表面を切り取る。
そこへ、わっと背後から声が聞こえ、先頭の兵士が振り返ったときには、茶色い毛玉のようなものが恐ろしい勢いで足元へ突っ込んでいた。
「くそ――」
舌打ちで飛び退き、転がる地面も狭く、すぐ背中を幹に打ちつける。
そこに別の、今度は鋭利に尖った角を持つ、体長が一メートルあるかないかという獣が激しく足を踏み鳴らして体当たりを仕掛けた。
危うく躱し、しかし太ももをぐさりとやられて、兵士は幹に捕まって苦々しく立ち上がる。
見れば、ほかの兵士も似たようなもの、前後左右から入り乱れる獣に追い回され、剣を放り出して逃げまわる者もいる。
「撤退だ、一度撤退する!」
隊長は指示を出し、再び叢中へ逃げこんで、ぐっと背後を振り返った。
二十頭からなる猪の集団、しかし体長はどれもちいさく、もっとも大きいもので一メートル前後、それ以外は三十センチ程度のものがほとんどである。
角の有無もまちまちで、自分の体長と同程度の角を持っていたり、ほんのちいさな突起に過ぎなかったり、はじめからまるきりなにもなかったり。
一様なのは、兵士たちを睨むちいさな目に敵意がたっぷりと込められていること。
しんがりをゆく隊長はぐっと唇を噛み、腹いせに剣を奮って、無闇に周囲の植物を傷つける。
それからぐいと空を見上げて、
「報告が憂鬱だな。動物相手に為す術もなく追い返されました、とは」
報告を受け取るフォークナーも、無論心中穏やかではない。
しかし兵士に怒鳴り散らすのも無駄と知っている以上、どんな報告が上がってきても、
「了解した。さらに精進せよ」
としか言えないのである。
しかしすべての兵士が天幕から出てゆくと、フォークナーは机に拳を打ちつけて、ひとしきり吠えた。
「もう三ヶ月経つのだぞ。それが、なんだ! 丸三ヶ月、三十万もの兵を動員して落とした山はたったのふたつみっつ、それがなんになるというのだ。ニナトールの化け物どもは、顔もないくせに、ほくそ笑んでおるにちがいない――やはり人間は無能だと。このままではロマンさまに合わせる顔もない」
フォークナーはがっくりとうなだれ、着実だが、微々たる速度で変更されてゆく地図を見る。
ロマンの指示により、細かい山の高度や谷間の深さまで書き込まれた地図で、ハルシャが超えた山は青く乗り潰してあるが、ニナトール領内から見ればごく一部、端をほんのすこし削っただけにすぎない。
まだまだニナトールの山々、そして裾に広がる森は広く、これらをすべて手に入れるには、もう何年かかるかしれない。
フォークナーがため息とともに顔を上げたところ、新たな伝令がやってきて、敬礼もそこそこに報告をはじめる。
「計画していた火攻めですが、今回もやはりニナトールの妨害に遭い、相手への損害はきわめて軽微にとどまったと思われます」
「――了解した。新たな作戦を考えるか、あるいは火攻めの方法を考えよ。決してくじけるな。どれだけ時間がかかろうとも、勝敗の帰趨はわが方に落ち着くであろう」
「はっ――」
兵士が天幕を出ていったあとで、ふん、とフォークナーは鼻を鳴らした。
火攻めなど、何十回と試みられてきたが、成功した試しはひとつもない。
なにしろニナトールの連中ときたら、展開する戦線すべてに共通の意識を持ち、森を通じ、動物を通じ、あらゆるものを同時に動かすことができるのだ。
一方の戦線で、動物を使って兵士を追い返しながら、そこから数キロ離れた戦線で罠にはめる、そうしながら別の戦線で様子を見て、ということをひとつの意識でやられては、奇襲などかけようもない。
火攻めをやるなら、ニナトールの気づかぬうちにやってしまわなければならないが、そんなことは不可能なのだ。
ニナトールが気づいていることを承知で炎を立てても、燃えた木々のすぐ奥で動物たちが木を切り倒し、延焼を防がれる。
炎と同時に踊りかかっても無駄だ、人間が入り込めぬぎりぎりの範囲をやつらは見極め、森を分断する。
そもそも、ニナトールの木は焼けにくい。
水分を多く含み、立派に育っている木々が多いこともあるが、それ以上にニナトールが干渉し、一時的に地面が干上がるほどの水分を木に吸わせ、多少の炎なら表面を焦がすだけで精いっぱいになってしまうのである。
火攻めは不可能だ、とフォークナーは結論する。
やはり別の手を考えさせたほうがよい。
いまのところ、もっとも有効なのは、もっとも非効率だが、人間の手でもって木々を一本一本切り倒し、現れた動物を一体一体殺していくこと。
それでも三十万の人間を動員すれば、すべての山を丸裸にすることもむずかしくないと考えたが、実際はこれほど手こずっている。
フォークナーは天幕を出て、背後の山を振り返った。
前方はいまだ深い森だが、後方では、山の裾野にも木々が失われている。
ただ白く日焼けしていない木の年輪だけが何万と並び、動物の気配もなく、さながら死の土地であった。
それも、いましがた死んだばかりの、老体の死骸たち。
巨大な山をひとつ超える、それを殺し尽くすというのは、多大な力を必要とする。
しかしニナトールというとりとめのない存在に打ち勝つには、そうするしかない。
フォークナーはふと、ロマンはなぜニナトールにこれほどこだわるのかと不思議に思った。
相手から攻撃を仕掛けてくることなどあり得ぬ話、ハルシャはすでに広大な領土を持ち、兵力も大陸一となって、皇国を落としてもよい時機に思われるのである。
そこへきて、兵を失うことはなくとも、このように緩慢な戦を繰り返すばかりでは、まさに時間の無駄遣い、食料の無駄遣い。
ましては、いまはまだよいが、そう遠くないうちに皇国から十万の兵が押し寄せてくる。
そうなっては犠牲抜きに戦を終わらせることもできぬはず、果たしてロマンさまはいかに考えておられるのか、とフォークナーが腕組みしたとき、ひとりの兵士がほとんど転がるように足元へ飛び込んできた。
「フォークナーさま、敵軍であります!」
「なにっ。もうきたか」
フォークナーは歯噛みして、さっと前方の山に目をやった。
「連中、すでに森のなかへ入ったか?」
「そ、それが、わが軍の背後に!」
「背後――しまった、やられた!」




