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八重鏡  作者: 藤崎悠貴
たましいを守って
95/122

たましいを守って 3-1

  3


 兵二千が大陸の西端へ向けて旅立ったあと、セントラム城は表面上なにも変わらず、穏やかな日々をすごしていた。

 城下町は活気に満ち、セントラム港では毎日数え切れぬ船が行き来して、波止場では荷揚げの掛け声が一日中絶えない。

 港のなかでは船大工が大忙し、修繕や新しい船の製造に走り回り、これぞ大陸一の港町とひとびとに感嘆せしめる賑やかさである。

 城下町でも、船に乗ってやってきたよその国の人間が安全に往来し、港近くの倉庫では二、三十人の女たちが新鮮な魚を樽に塩漬けし、こんがりと日焼けした男たちがそれを大陸中へ運び出す。

 宿屋は常に満室、酒屋は常に満席で、あぶれた客は仕方なく波止場へ戻り、波に足を晒しながらぼんやりと酒を傾けたり、そのまま寄って眠っては水夫たちに身体を抱えられて城へ送り届けられる。

 そのため、城では常にいくつもの寝床が用意され、これほどの大国には似合わぬほど出入りは自由で、日によっては若き女王アリスが直接城下町の様子を見て回ったり、運び込まれた酔っぱらいの世話までするほどで。

 心配性の臣下たちは、アリスにもしものことがあったら、と落ち着かぬ日々だが、もしものことが起こらぬほど平和なのが、いまのセントラム城なのである。

 学者コジモはこれを無為にして化すという理想政治の典型だと考えるが、一方で理想は理想、現実は現実で存在する。

 それをとくに痛感するのは、城の内政を一任されているアントンである。

 もともとやせぎすなのが、苦労のせいかなんなのか、近ごろさらに痩せて、それでいながら目をぎらぎらと輝かせて城のなかを歩きまわっている様子は、口さがない女中たちいわく、古いセントラム城に巣くう亡霊のようらしい。

 アントン自身も、そのようにうわさされているのを知っている。

 好きに呼ぶがいい、亡霊だのなんだのと言われることにどれほどの意味があるというのか。

 事実、アントン抜きには、グレアム王国は回らない。

 かつて大学者ベンノと共同して国の内部を管理していたのが、いまではすっかりアントンひとりになり、もちろん財政や司法、貿易でそれぞれに人間を置いているが、それらに指示を与えるのはアントンであった。

 陰気であり、人付き合いを好まず、ほかの大臣や臣下とは意見を異にすることも多い。

 しかしアントンの功績は疑うべくもない。

 人柄としてはともかく、仕事面での有能はたしかだ、というのが城の人間の一致した見解であり、陰口が出ることはあっても、それを気にするアントンではなかったし、またほかの人間もアントンを貶める気はなかった。

 アントンは皇国の呼びかけに呼応して二千の兵士が出兵したあとも、普段と変わらぬ生活を続けている。

 つまり、仕事、仕事の日々である。

 財政状況や司法の問題、貿易に関する税や制度の苦情といったものが日々アントンの手元に届けられ、必要であればそれらの改善を指示し、そうでなければ自ら出向いて相手と話し込むこともあった。

 その日もアントンは朝一番で港へ向かい、昨夜遅くに荷揚げの税について苦情を上げてきた東の町の漁師に平等性を説いて説得し、城へ戻ってきたところであった。


「アントンさま、アントンさま――少々お時間をよろしいですか」


 いつも額にうっすらと汗を浮かべ、青白い顔でせかせかと前のめりに歩いているアントンを呼び止めたのは、鎧は着ていないが、屈強な身体つきの男である。

 豊かな金髪を肩のあたりまで伸ばし、目は澄んだ青色、すっと細めて、アントンを見ている。


「なにか問題でも?」


 とアントンは煩わしいのを隠そうともせず眉をひそめ、立ち止まる。

 アントンにとっては、相手は見たことのない兵士であった。

 グレアム王国や、セントラム王国についていた傭兵ではない、名前と顔が一致するほどではなくとも、日常的に城へ出入りする人間の顔くらいは覚えている。

 となれば、アルフォンヌの反乱で降伏し、そのままグレアム側へ収まった兵士のなかのひとりにちがいない。


「いまは――というより常にだが、私は忙しいのだが」

「存じております。それでも、アントンさまのお耳に入れておかねばならぬ重大な問題でして」

「なんだ?」

「ここでは、すこし」


 男はあたりをはばかるように眼球だけをぐるりと動かした。


「こちらに部屋が用意してあります。詳しい話はそこで」

「それほど重要なことなのか? 給料の交渉なら応じられぬが」

「断じてそのような些事ではございませぬ。この国の行く末に関わる、重大な問題にありますれば」

「ふむ――では、話だけでも聞こうか」


 とアントンが歩き出した後ろ、男とアントンは気づかぬふうだが、ロベルトがひょっこりと顔を出し、密談でもするように肩を寄せて歩いていく背中を見ている。


「あれは――アントン殿か。なぜ兵士と歩いてるんだ?」


 真剣な眼差しからは溢れんばかりの疑念が感じ取られる。

 アントンは兵士が導くまま、回廊から細い廊下へと入り、その途中の部屋へ進んだ。


「ふん」


 とアントンが鼻を鳴らしたのは、進んだ部屋には四、五人の男たちが待ち構えていたからで。

 蝋燭が灯された、さほど大きくはない部屋、壁には布もかけられず、空気はひんやりと冷たく引き締まる。

 そこに机がひとつ、椅子は二脚しかない。

 男のひとりがそのうちのひとつ、部屋の奥側に座り、対面の椅子は空いていて、ほかの男たちは壁にもたれて立っていた。

 鎧や武器は帯びず、剣呑な雰囲気はない。

 ただ、男たちの目が怪しげにきらめくのは、白刃のきらめきに相当していた。

 椅子に座っている男は、アントンも知っている男である。

 かつて、まだ千に満たなかったころからグレアム軍にいる兵士、いまでは五十人からなる班をまとめあげる地位にいる男。

 揺らめく炎で、頬に微妙な陰影をつけるほかの男たちは、アントンも知らぬ男たちであった。

 アントンの背後で扉が閉まる。

 ぎぎといびつに軋んで鳴るのが、妙に白々しいが。

 狭い部屋のなか、背後にひとり、正面に五人で、アントンは表情を変えず言った。


「それで、問題というのはなにかね」

「まあ、お座りください。落ち着いて話をしましょう。これは重要なことなのです」

「ふむ。座れというなら、座るが」


 椅子の脚が床の石に鳴る。

 アントンは背もたれに身体を預け、対面の男を見た。


「ハリス、だったか。訓練はよいのかね」

「ええ、もうそんなことはよいのです」


 ハリスは机の腕で手を組み合わせ、わずかな笑みをもってアントンを見た。


「ロベルト殿が聞けば無事には済まぬ言い草だな」

「聞かれることはありませんので、ご心配なく」

「そうか。悪いが、私にはきみたちと雑談している時間はない。本題へ入ってもらおうか」

「では、単刀直入に申し上げますが――アントンさま、われわれとともに真のグレアム王国を興しませぬか」

「ほう」


 アントンは額に浮かんだ汗を拭った。

 ハリスは卓上に身を乗り出し、ふたりの中間に置かれた燭台が揺れる、その陰影が、本来であれば精悍なはずのハリスの顔を、ひどく醜い獣のように見せていた。

「現在、グレアム王国は存亡の危機に瀕している、とわれわれは見ております。なるほど、領土は拡大し、兵士は増えた。国は富み、展望も明るい――そんなふうに見えながら、その実、国の内部では大きな変革が起きている。グレアム王やベンノさまの死去、度重なる戦争で軍部の発言権が増しているのは、アントンさまもお感じでしょう。グレアム王がご健在であったころは、そんなことはなかった。すべての臣下が平等に扱われていたのです。それが、いまはどうです、一部の兵士や臣下ばかりがもてはやされる。その最たる例は正行殿――いや、雲井正行でしょう」

 ハリスは悔しげに唇を噛み締める。


「ベンノさまの後継者だかなんだか知らぬが、国へきて一年やそこらの若造が、軍全体を指揮する立場におるのです。実際に敵兵とぶつかり、傷つき、命を落とすのはわれわれ兵士だというのに。雲井正行はいままで剣戟のひとつも経験していなければ、おそらく敵兵のひとりを殺したこともありますまい。言うなれば口だけ達者な若造です。それが、うまくアリスさまに取り行って、どんな手を使ったか考えたくもないが、軍を牛耳るほどの権力を得ている。これはグレアム王国の危機といっても過言ではない。あのような若造が軍を指揮し、さらに野心を出すともしれぬ、それでよいと思われますか!」


 ハリスは両手で激しく机を叩いた。

 燭台が揺れ、倒れて、炎の欠片が卓上に散る。

 それが一瞬、ぱっと朱色に爆ぜて、アントンがそっと燭台を起こしたあとには、黒い焦げ跡が残った。

 あたりにもすこし木が焼ける匂いが立ち込めて、ハリスは荒く息をしながら背もたれにもたれる。


「正行殿に与えられた過度の権力に対しては、私も思うところがある」


 アントンはぽつりと言った。


「しかし、だからどうしろというのだ。われわれはわれわれの仕事をするほかにない。きみの意見は理解できる。しかし私ときみでは立場がちがう。きみは影でこそこそと計画を練ってもよいのだろうが、私はグレアム王国がグレアム王国であるために仕事をしなければならぬ。それも山積みになった仕事だ。悪巧みなら、ほかを誘うがよかろう」

「雲井正行が邪魔なら、排除すればよい」


 席を立ったアントンに、ハリスが言った。


「雲井正行ひとりが強大な権力を握る現在は、グレアム王国にとっても決して有益ではない。われわれは反乱を起こそうというのではない、本来あり得べきグレアム王国に戻そうというのです」


 ひとつの燭台が照らす室内、薄暗く、空気も淀んでいるなかを、アントンはぐるりと見回した。

 ハリスの顔だけが暗闇に浮かび上がるような、不気味な光景である。

 ほかの男たちは気配だけを感じさせ、口を開こうとはしない。

 ふむ、とアントンはうなずき、席に戻った。


「正行殿を排除する、というなら、その方法も当然考えておるのだろうな。それとも、希望を口にしているだけか?」

「無論、考えております。現在、この城に雲井正行はいない。残っているのは無力な女王に、わずかな兵だけだ。すでにわが方は三千の味方がおります」

「三千? ――ふむ、なるほど。アルフォンヌ王子が連れていた兵が、そのままグレアム王国の転覆に尽力するというわけか。なにやらきなくさい連中とは思っておったがな」


 アントンはちらと背後を振り返り、扉の前に立つ男を見たが、男は不気味に笑うばかり、否定も肯定もしない。


「そもそも、アルフォンヌが引き連れていた傭兵とは、どこの兵なのだ? 三千もの兵を貸し、それがすべてグレアム王国に寝返っても文句のひとつも言わぬ国など、この大陸にあるものかな」

「われわれがどこの兵かというのは、この際問題ではありますまい」


 アントンの背後で言うのに、ハリスもうなずいて、


「いま重要なのは、われわれはたしかにこの国を変革できるだけの兵力を持っている、ということです。そもそもアルフォンヌ王子の反乱時、勢力はグレアム五千にアルフォンヌ側三千でしたな。いまはグレアム側が八千の大群となったが、そのうち二千が出払い、反乱後にグレアム方となった三千はわれわれの味方を約束している。グレアム方に残った三千は、ロベルト隊長の指示により、国境の警備に散り散り、城や城塞に残っているものをかき集めても、せいぜい千五百から二千というところ。それなれば、わが方三千よりも下回る」


 アントンは腕組みをして考え込んだ。

 なるほど、彼らの言うことは正しい。

 電光石火の攻撃が成功するなら、数で勝るほうが負けるはずはない。


「しかし、いったいだれと戦い、なにを要求するつもりだ。最終的に、変革はなにをもって成功とされる?」

「われわれとて、血に飢えた獣ではない。最終的にはアリス女王に退陣していただき、グレアム王国を真に思う方を擁立したいと考えております」

「グレアム王国を真に思う方?」

「たとえば、あなたさま」

「私に僭王たれというか」

「あなたは古くからグレアム王国に仕え、だれよりもグレアム王を尊敬なさっていた方だ。そのあなたが王になるというなら、かつてのグレアム王国を愛したひとびとであれば決して反対はしますまい」


 このおれが、王か。

 腕組みしたアントンはうつむく。

 考えたこともなかったが、一国の、それもこれほどの領地を持つ国の王だ。

 わずらわしい他人と関わることもなく、自分の好きなようにやって生きていける、という身分、それを王というならそれ以上によい身分もないだろうが、実際はとてもそんなものではない。

 だれよりも多く仕事をこなし、だれよりも多くの人間を気遣うこと、それが王の基本業務なら、自分のやりたいことをやるひまなどありはしない。

 しかし、とアントンは思う、王という餌は、無視するにはあまりに大きすぎる。


「アリス女王はそう簡単に退陣するだろうか」

「兵を失い、なぜ強がる必要があるのです? 剣のひとつも突きつければ、必ずや王座を明け渡すでしょう」

「とても理知的な解決とはいえぬな」

「歴史とは大抵血なまぐさいものでございますれば」

「ロベルトはどうする」


 敬称をつけることも忘れているのに、男たちはにやりと笑う。


「彼が勇猛果敢な猛将であることはたしかですが、しかしひとりでなにができます? 城西から城まで兵が引き返してくるあいだに、すべては決しているでしょう」

「半年も経てば、ニナトールから雲井正行が戻ってくる。おそらくは国境付近に配備されている兵たちを引き連れて。それにはどう対処するつもりだ。いくら若造といえど、いくつもの戦争に勝ってきた彼を過小評価してはならぬぞ」

「半年もあれば、セントラムにある資金を使って強兵することもできましょう。この戦火吹き荒れる大陸には、親兄弟を失い、金のためなら命を賭ける傭兵がいくらでもおります。無論、信に足りるかどうかの問題はありますが、ひとまずはそれで凌ぐ」


 ふむ、周到に考えられているものだ、とアントンは感心した思いでうなずいた。

 ハリスは再び卓上に身を乗り出し、


「それでは、アントンさまもご協力いただけますかな」

「よかろう。しかし怪しまれてはならぬため、私はできるだけ日ごろのとおりに仕事をする。諸君らの手助けもすこしならできようが、あまり大手を振ってはできぬぞ」

「結構でございます。やはり、真の忠臣たるアントンさまならご協力してくださると信じておりました。今後われらは仲間です」

「ふん、私はもともと他人は信じぬ性格でな。諸君らとも慣れ合うつもりはない」


 アントンが席を立てば、この場所へ導いた金髪の男が扉の前からすっと退いた。

 そちらをちらりと見たアントンだが、言葉は交わさず、部屋を出る。

 薄暗かった室内を出れば、外は眩しく輝いて、思わず目を細めるのも、心に後ろ暗いものがあるせいか。

 アントンは執務室へ帰る途中だったが、道を変え、巨大な通路を通って城の外へ出た。

 開かれた城門を抜ければ、門番ふたりがさっと敬礼、アントンは軽くうなずき、踵を返してぐいと頭上を仰ぎ見る。

 白く輝き、姿も定かではない太陽は、ちょうど天球の頂点、ぬっと伸びたセントラム城の尖塔に突き刺さっている。

 上へ上へ、天上人の住まう空を目指して作られたセントラム城は、巨大ではあるが、背中に背負う太陽と比べるといくらか見劣りするのも事実である。

 いままで何度となく見た城の姿も、いまのアントンには異なったものに見えた。

 ふん、悪くはない、とアントンは珍しく口元に笑みを浮かべ、城に戻っていく。

 それを見た門番ふたりは、アントンの笑顔という奇妙なものを目撃して互いに目を見合わせ、振り返り、アントンの背中を見送りながら、


「いま、笑ってたよな?」

「なにかあったんだろうか、アントンさまは」


 と囁き合うが、彼らが真実を知るはずもないのである。

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