たましいを守って 2-2
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フォークナーは次々に上がってくる戦況報告に対し、怒鳴り散らしたい気持ちを必死に抑えていた。
心のなか、ぐつぐつと煮立った血潮に湧き上がった気泡は、吐き出すところもなく溜め込まれていく一方である。
せめてひとつのよい報告があれば溜飲も下がるというところ、それなのに、天幕に入れ替わり立ち代わり、報告へくる兵士たちはといえば、異口同音。
「第五戦線でも苦戦、思うように侵攻が進まず」
とばかり。
そんなことは報告を上げずともわかっていることだ、とフォークナーは歯を鳴らす。
苦戦はいまにはじまったことではない、そのような報告を求めていないことはわかっているだろうに、愚鈍な兵士たちはそれにすら気づいておらぬ。
そんな兵士たちだからこそ、化け物の国ひとつ攻略するのにこれほどの時間と労力がかかるのだ、平気で、苦戦、などと報告するような兵士たちだから。
フォークナーは床几を軋ませ、机に広げた地図を覗き込む。
情報官によって戦況が書き込まれ、あるいは削除されて最新の状態に保たれている地図だが、ここ数ヶ月大きな変化はない。
地図には折り重なる山々の稜線が描かれているが、巍々たる頂までは描かれていない。
森の様子も極力省略され、ほとんど白紙に近い地図、そこに途切れ途切れの線がいくつも伸びている。
戦線を意味する直線、あるいは曲線だが、その位置はいくつかの山を入ったところから微動するばかりで、大きく山のなかへ入り込むことはない。
そもそも、大小様々な山が数百も連なる異様に険しい土地であった。
山同士は自然の迷宮を作るように前後左右から重なりあい、谷間を抜けていると思えばいつの間にか知らぬ森のなかへ迷い込み、一度自分の位置を見失えば二度ともとの麓へ戻ることはできないと、このあたりは古くから人間たちのあいだで恐れられているのだ。
斥候によれば、あまりに険しい山々で、土地の起伏も激しいため、一部では気候さえでたらめになっているのだという。
いやに湿気が高く、密林のような森があり、手のひら以上もあるてんとう虫や七節、毒々しい紫色の、ぽってりと腹の膨らんだ蜘蛛や動物が腐乱したような匂いを放つ植物などをかいくぐって命からがら外へ出れば、針葉樹が立ち並ぶ真冬のような寒さの森になっている、というようなことも決して珍しくないらしい。
無論、ひとが住める環境ではない。
だからこそ化け物の巣窟なのだ、とフォークナーは、そうした細かな状況までは書き込まれていない地図を睨みつける。
「第二戦線でも苦戦だそうですな」
情報官は呟きながら地図を書き換える。
第二戦線が、わずかに前進。
苦々しい顔つきのフォークナーに気づかぬふりをして、情報官はさっと姿を消す。
フォークナーは再びどかりと床几に座り込んだ。
ハルシャ帝国で大将を任されているフォークナーは、若者が多い軍では珍しい、旧ハルシャ王国からの生き残りである。
よく太った丸い顔を、いつもほんのりと赤く好調させ、髪は橙色、ハルシャ式の軍服を身にまとい、ぐんと突き出した腹が収まるように上着は特注で、短い足の先には黒く光沢のある靴、年は五十をすこし超えたころ。
常になにか苛立っているような顔のフォークナーだが、新しいハルシャ帝国の方法論をよく理解し、俗にハルシャの皇帝ロマンの右腕とも呼ばれる男である。
そのフォークナーをもってしても、大陸の西に太古から居座る「化け物」、ニナトールを落とすのに、すでに一年近くの時間がかかっている。
それも、この一年での成果といえば、百からある山々の、ほんのひとつやふたつを超えただけというから、常に苛立った顔をしているのも無理はない。
「フォークナー大将」
天幕に伝令兵がひとり駆け込んでくる。
また苦戦の報告か、とフォークナーはため息をつき、ともかく目線で先を促した。
「ロマンさまが作戦本部にいらっしゃいました」
「なに、ロマンさまが?」
フォークナーは床几を蹴って立ち上がり、慌てて天幕を出た。
作戦本部はハルシャ側から山をひとつ超えたところに設営されている。
左右はぐんと高い山で、稜線は鋭く、切り立った崖の露出した斜面もあれば、頂きにうっすらと雲がかかる山もある。
山間には細い川が流れ、山肌は深い緑の木々が茂って、風が吹けば山全体がうごめくように揺れた。
作戦本部にはフォークナーが詰める天幕以外にもいくつも天幕があり、それがぐるりと輪を作るような形、即席の馬小屋がその外にあり、地面は古の洪水で流れてきた大小様々な砂利である。
フォークナーが天幕の外へ出たとき、ちょうどロマンの乗った馬が、ほかに二頭ほどを引き連れて作戦本部に入ってきたところだった。
ロマンはフォークナーよりも二十歳は若い。
赤毛の馬に乗り、すこし背中を丸めて、なんともなしに短く刈り込んだ髪を撫でていた。
「ロマンさま、よくいらっしゃいました」
「うむ」
すぐさま馬の足元に跪いたフォークナーにも無関心そうに、ロマンはぐるりとあたりを見回して、青白い頬に手をやった。
「賑やかだな」
「はっ――ちょうど各部隊からの伝令がくる時間でして」
そうか、と呟いてロマンは馬から飛び降りた。
砂利がぎしと鳴り、付き従う護衛も馬を降りるが、フォークナーはロマンだけを作戦本部の天幕へ導く。
ロマンはさっそく地図に目を落とし、仔細観察するあいだ、フォークナーは気が気ではない。
この方面の先頭はフォークナーに任せられているはずだが、そこへロマンが出てくるとなれば、結果に不満をもっているせいにちがいない。
事実、フォークナー自身納得のいくような成果が出せていないのが現状だった。
ロマンは腰の後ろで手を組み、ぐいと上半身を乗り出して地図に覆いかぶさり、目を細めて地図上の戦況を眺める。
フォークナーは普段怒りに紅潮させている顔を青ざめ、浮かぶ汗を頻繁に拭いながら、その後頭部あたりを見ている。
「この地図を作ったのはだれだ?」
「はっ――たしか、情報官のだれかだと存じまするが、それがどうか」
「文目のわからぬ地図だ。この地図を作った情報官を探し出し、首を刎ねろ」
「首を――」
「どうかしたか?」
ロマンが振り返る。
怒っているのでもないが、なにか底知れぬ暗い目をした男である。
フォークナーは頭を下げ、
「いえ、おっしゃるとおりに」
「地図もすぐに作り直せ。地形を正確に把握できんのでは作戦の立てようもない。おまえの権限でそうしてもよかったのだぞ、フォークナー」
二十は年下のロマンに言われ、フォークナーは説教を食らった子どものようにうなだれた。
「申し訳ございませぬ」
「この戦線の位置は正確なのだな」
「はっ、先ほど書き換えたところでございますれば」
「ではかれこれ二週間、戦線はわずかに前進しただけといえる」
ロマンは机をぐるりと回りこみ、フォークナーが倒した床几を自らの手で起こして、そこにゆっくり腰掛けた。
ロマンの指先がつつと地図上を這い、
「第一と第二戦線は、すでに意味がない。それよりも第六、第七方面に集中し、そこから攻め落としたほうがよかろう。第三から第五にかけては現状を維持、可能であれば前進せよ。最優先すべきは敵の殲滅である。戦線の位置そのものは取るに足らぬ問題だが、風上を奪うことには意義がある」
ロマンの言葉を聞くと、すぐに伝令兵が天幕を飛び出す。
フォークナーは恐る恐るという顔で、
「ロマンさま、よくこのような辺境まで」
「別段、おまえを叱咤しにきたわけではない」
無頓着にロマンは言った。
こういうところが不思議なのだ、とフォークナーは思う、他人のことなど考えていないように見えて、その実心を読む能力でもあるようにひとの思考を奪い取る。
「すこし戦況に変化がありそうなのでな。それを伝えにきたのだ」
「わ、わざわざロマンさまご自身で」
「皇国から以南のすべての国、集落を攻め落とした。もはやニナトール以外に目標がないのだ。退屈しのぎだよ」
「は、はあ――そ、それで、戦況に変化とは」
「どうやら化け物どもは、皇国に助けを求めたようだぞ」
ロマンははじめてにやりと笑った。
笑えば、存外に若い男である。
フォークナーはその知らせに、笑みを浮かべられなかった。
「こ、皇国に? では、皇国はニナトールにつくということですか」
「そうなろう。ずいぶんとおもしろい展開になってきたではないか。それもこれも、おまえがニナトール攻略に手間取ったおかげよ」
フォークナーは羞恥にかっと顔を赤らめ、
「では、今後は皇国の兵士との戦いになるのですか」
「化け物どもと、皇国、それに周辺の国々から集った合同軍が相手だ。おそらく戦力としては十万、こちらは全体の六割、三十万を投入している。数の上で負けることはないが、いかんせん化け物相手ではな」
「しかし化け物どもが皇国に助けを求めるというのは意外ですな。いままで人間と関わることなどなかった連中ですが」
「それほど、おまえの侵攻が効果的だったということであろう。いかに化け物でも、自らの生存を望む気持ちは人間と変わらん」
ロマンは足を組み、腕も組んで、ぐいとフォークナーを見上げた。
「それで、おまえはどうする?」
「ど、どうする、とおっしゃいますと」
「いまのまま、ここで大将をやるか? それともおれが代わって指揮をとるか。十万の合同軍とやりあうつもりはないというなら、おれが代わってやる。おまえが指揮し、勝てるというなら、すべてを任せよう。好きなほうを選べ」
ぐっとフォークナーは喉の奥を鳴らした。
ロマンの目は、いったいおれになにを求めているのだ?
自分の引き際を見極めろと言いたいのか、言葉のとおり続けたければ続けるがよいと言いたいのか。
ロマンの性格から考えて、遠まわしに物事を伝えることはない、それなら言葉通りと考えてもよかろうが、もしいまおれは試されているのだとしたら?
この先、自分の右腕として使うに値する男かどうか、おれを値踏みしているのだとしたら。
フォークナーは、自身のひとを見る目には絶対の信頼を置いてきた。
ハルシャ王国では一兵卒に過ぎなかったロマンが堂々と反旗を翻したとき、フォークナーはロマンという若者の底知れぬ野望と力を見抜き、だれよりも早くロマンの支持へ回ったのだ。
しかし近ごろ、その目をもってしてもロマンのことは窺い知れぬと思うようになっている。
世界の闇を覗いたような黒い瞳に、かつては権力に対する熱い炎を見た気がするが、それが実現したいま、ロマンの瞳にはいったいなにが映っているのか。
ロマンの行動理念を、フォークナーは理解できていない。
「ま、任せていただけるのであれば、今一度私めに汚名返上の機会を」
「そうか」
散々苦悩して出した答えに、ロマンは軽くうなずいただけだった。
「では、ニナトールはおまえに任せたぞ、フォークナー」
「はっ。そのご期待、決して裏切りませぬ」
「期待?」
とロマンは不思議そうに首をかしげ、
「おれは、おまえに期待などしていない。期待というのは未知のものに対して行われるが、おれはおまえの技量を知っている。おまえができること、できぬこと、どちらも把握しているから、おまえに任せるのだ。もしおまえがおれを裏切るようなことがあるなら、それはおまえが裏切る意志を持ったときだけだろうよ」
「う、裏切る意志など、滅相もない」
「それもわかっている。まあ、がんばってくれ」
床几から立ち上がったロマンは、年長者のフォークナーの肩をぽんと叩き、天幕を出ていった。
見送りにあとを追ったフォークナーに、ロマンは馬に飛び乗りながら、
「おまえが必要と感じるなら、ハルシャ兵を好きなだけ投入するがいい。そのときはおれの権限を使え」
「はっ、了解いたしました」
「では――」
ロマンは手綱をぐいと引き、馬が大きくいなないた。
踵を返した馬上で、ロマンはフォークナーを見下ろして言った。
「必ずニナトールの鼻持ちならぬ化け物どもを剿滅させよ。われわれの過ぎたあと、塵のひとつも残してはならぬ――ただ絶望のほかは」




