たましいを守って 0
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ベルは杯の底に残った最後の一口をぐいと飲み干し、あたりをぼんやり見回せば、いつの間にか騒がしかった店内は森閑として、カウンターには背中を丸めて座るベルひとり、その内側で、店主も半分寝たような顔で。
というのも、すでに夜を超え、早朝といってもいい時間帯。
扉から白々とした光が差し込んで、いまや店内の照明より明るいが、なんとなくよどんだような空気が漂う店内で、ベルが鼻を鳴らせばあたりはすっかり酒のにおい、自分の身体か店のどちらから漂ってくるのか知らないが。
こつんと杯をおけば、それで店主もまどろみからはっと目覚め、腕組みに困ったため息、
「そろそろよしなよ、ベルさん。なんのやけ酒か知らないが、どうせ奥さんとけんかでもしたんだろう」
あくびをかみ殺すふりもせずに。
ベルは夜通しの酒でどろりとよどんだ目を店主に向けて、
「なんだあ、酒場ってのは客に酒を出す場所じゃねえのかい。おれの勘違いだったかな」
と呂律も怪しいが。
「たしかに酒を出す場所だがね、こっちにも営業時間ってもんがあるわけさ。それをあんたがどうしてももう一杯だけというから。すっかり朝になっちまったよ。今日の営業は休みだな」
「どうせ夕方からの営業だろう。おれなんか、これから仕事だぜ」
「早起きがいやなら、酒屋をやればよかったんだ。いまさら遅いがね」
と店主はまた大あくび、ちらとベルに目をやって、
「なにでけんかしたのか知らないが、どうせ悪いのはあんたさ。いつだって女の言うことが正しい。素直に頭下げたほうがいいよ。実際あんた、家にも帰れないからこんなところで飲んだくれてるんだろう」
「自分の店を、こんなところ、とはよく言ったものだ。おい、もう一杯頼むぜ」
「もうないよ。いまのが最後の一杯さ。今日の酒は今日仕入れなきゃないんだから」
「ちぇ、そうかい」
どいつもこいつも困ったもんだな、とベル、席を立ってよろよろと蹣跚。
「大丈夫かい、ベルさん。間違って階段から転げ落ちたりしたら死んじまうよ」
「なあに、階段なんか使いやしねえさ。這ったって家には帰れる。なんせおれの家なんだから」
そうだ、おれの家なのだ、ほかの何者でもなく。
それを、あいつったら、いやなら出ていけばいいでしょ、だもんな、それで出てきちまうおれもおれだが。
酒屋を出たベルは、そのまま細い路地をふらふら、あまりに千鳥足なのが心配で、店主も店先から顔を出す。
ベルは酒で火照った身体に肌寒い風を受け、不意にもう夏も過ぎ去ろうとしているのだと知った。
見上げれば、今日はすこし天気が悪い、立ち込めた灰色の雲が皇国の城壁で丸く切り取られている。
これだけ分厚い雲に遮られ、それでも煌々たる照明よりもぐんと明るい陽光も不思議だが、改めて考えれば、皇国の造りもまた不思議。
そもそも皇国全体が奇妙に隆起した台座型の丘にあり、その丘の中央がぐんとえぐられているものだから、自然皇国もすり鉢状の土地に沿って構築され、ベルが立つのはその斜面の中程、見下ろせば、ただでさえふらつく足元がさらに不安定な思いがする急な勾配で、切り立った斜面には蜂の巣のように民家が張りついている。
その最深、すり鉢状の土地の底には立派な宮殿があり、ぬっと突き出した尖塔の屋根の、たまねぎに似るのがよく見える。
見上げればまた異様。
真四角のちいさな家々が斜面に張りつき、ぶら下がり、そのあたりをぐるりと周回している通路までは見えないから、みすぼらしい蓑虫が斜面にびっしりと巣作っているような。
そこからまた高い城壁が立ちふさがって、わずかに肌寒い風が吹き込んでくるものの、城壁の外に比べればそよ風もそよ風、偉大なる皇国の悩みといえば、年中の湿気とわだかまった空気で。
興味に任せて、ベルが通路からぐいと身を乗り出して皇国の下を見れば、
「危ないよ、ベルさん!」
と慌てたような店主の声、ベルはそれににやりと笑い、家のほうへ歩いていく。
背中で店主のため息を聞いても、ベルはずいぶんと上機嫌、たっぷり酒を溜め込んだ腹を撫でさすり、赤らんだ顔でにやにや。
いいさ、おれをしゃべる馬車馬としか思っていないような女房も、酒を出さない酒屋の店主も許してやるさ。
なんだっておれは寛大で、おれ以上に寛大な男もいないのだから、おれが許してやらずにだれが許してやるというんだ、頭のひとつやふたつ、下げたところで死ぬわけじゃなし。
いまごろ気後れもなく眠っているであろう女房に、珍しく花でも送ってやろうかと路地を見回すが、まだ早朝の、朝露も消えぬころ、花屋も起きていない。
ベルはしかし至って上機嫌に、だれもいない路地をふらふら、右へ寄ってはおっとっと、左へ戻っては家の壁にぶつかって、悪態をつくのかと思えばにたにた笑い、
「いいさ、許してやるよ。今日のおれはなんだって許してやるのさ。なにしろ寛大だからな」
むしろ壁をとんと愛想よく叩き、去っていくのも、むしろ怪しいが。
散々酔いが回っていい気分、帰巣本能だけで皇国特有のゆったりと湾曲した路地を進めば、前方にちらと人影、むろん愛想のよいベルは片手を挙げて、
「おう、だれだか知らねえが、こんな朝からご苦労なことだ。あんたも女房に家を追い出されたのかい? はっは、そりゃおれことだがね」
と時間をはばからない大声で言えば、相手はぴたりと立ち止まるものの、返答はない。
ベルは眉をひそめて、ぶつぶつ、こっちが愛想よく話しかけてやってるのに、返事のひとつも返さねえとは。
そもそも、どこのどいつだ?
目を凝らし、近づいてゆくあいだ、相手は身じろぎもせず、どうやらそれは見たことのない若い女、少女といってもいいほどで、ベルとは親子以上に年の差がある。
なんといっても奇妙なのは、少女の格好と髪の色。
朝霧をまとったような白いワンピースで、髪は鮮やかな緑、新緑のように艶やかで、背中にゆったりと流れ、頭の真ん中で左右へ分けて額を見せている。
すこし釣り目がちなのが、じっとベルを見つめ、薄い唇は真一文、上背はなく小柄で、浮世離れしたいでたちで。
天使だ、とベルは感じる。
ありゃあ、天使にちがいない――おれは死ぬのか、そうでなけりゃ酔って夢でも見ているのか。
蝋細工のような、つるりとして染みのない肌、朝日は差し込まぬが、少女の周囲だけほんのりと明るいのは、気のせいではあるまい。
羽根はなく、妖精をつれているわけでもないが、深く沈んだ黒い瞳が、鏡面のように凪いだ湖を覗き込むように、ベルは瞳の奥の奥まで引き込まれる。
立ちすくむベルに、少女のほうでもなにを言うわけでもなく。
あれを天使だとは、ずいぶん酔っ払っているらしい、これじゃあ家に帰ってもカミさんにどやされるのがおちだ、とベル、赤毛の頭を掻きながら、
「お嬢ちゃん、こんな時間にどうしたんだい。このあたりのやつじゃないな。宿ならもうふたつほど下の階だぜ」
「ふたつほど下?」
としゃべる声もか細く、静寂の早朝だが、それでもかろうじて聞き取れるというくらい、そよ風に乗った小鳥の鳴き声のようで。
「そうさ。この階に宿はねえ。ああ、外の人間じゃわかんねえかな、階ってのは通路の数のことだ。階段をひとつ降りりゃ、一階下ったってことになる。迷子になったなら、とにかくいちばん下へ行けばいい。だいたいここの子どもはそうしてるし、親のほうでもそれがわかってるから、ひと探しはまず宮殿前からはじまるわけだ」
「いちばん下――」
少女はちらと通路の外、皇国のどこからも見える宮殿を見下ろして、こくんとうなずいた。
そのまま礼のひとつを言えばよいものを、とことこと階段を下っていくものだから、ベルは鼻を鳴らし、
「なんだい、あれは。あの年ごろの娘ってのはわかんねえな。うちの娘と同じ年ごろだと思って珍しく親切してみりゃ、礼もなくほとんど無視とは。まったく、酔いも醒めちまったぜ」
言いつつ、足取りはおぼつかぬままだが。
ベルは階段を下りてゆく少女の背中を覗き込み、おっとと危うく自分も落ちるところ、頭を振って酔いを追い出し、また路地をふらふら。
やっぱり、もうすこし時間を潰して、土産でも買ってから帰るか――カミさんも娘も、酒のにおいを漂わせた酔っ払いが言う誠意より、きれいな花のひとつでも買って帰ったほうがよろこぶにちがいないのだから。
皇国の城門を守る衛兵は、一日に三交代、ふたりずつの勤務が通常である。
勤務中、決して座ることは許されず、松明の下、ぴたりと閉じた門に寄りかかることもなく、いつどこからくるとも知れぬ不審者を警戒するのは文字どおりの激務、そのなかでも衛兵たちが嫌がるのは、夜中から朝にかけての夜勤で。
なぜといって、いまだかつて皇国において闖入者などあったことはなく、皇国のひとびとはみな皇族に対する尊敬と忠義に満ち充ちているから、不貞の輩などあるはずがない。
夜勤において警戒すべきは、自らのうちにある眠気なのである。
門の左右に陣取る衛兵の、彼らから見て右側の兵士、ウェイズはぐっと奥歯をかみ締めてあくびを殺し、槍の柄をしかと握った――隊長は、皇帝一家に対する忠義心さえあれば眠気など、というが、どれだけ忠義心に溢れていても夜になれば眠たくなるのが人間の常、あくびひとつにつき説教ひとつなんて、無茶を言うよなあ、と内心。
「早く言えよ」
と左側の兵士、ラインがせっつく。
「ちょっと待てよ。えっと、なんだっけ、『わ』で止まってたんだっけ」
「おまえが止めてるんだ。制限時間ぎりぎりだぜ」
「鰐」
「庭」
「また『わ』じゃないかよ」
「そういうもんだろ、しりとりって」
そうかな、とウェイズ、たしかに勝とうと思うならむずかしい前振りでもって相手を苦しませるのも手だが、それだけがしりとりではないような。
つまり、ふたりで協力してどれだけ長く続けられるか、というのも遊び方のひとつで、できるだけ長時間続ける必要があるいまはその遊び方を選んだほうがよいのでは、と思ういまはもう空も白んで、早起きの住民はそろそろ起き出そうかという時間。
宮殿のなかはまだ静かだが、もう一時間もすれば召使たちが起き出して、そのなかでも早起きの皇女クラリスもいまごろ目を覚ましているころだろう。
ウェイズは雲の立ち込める空をちらと見上げて、
「鷲」
「皺」
「もう『わ』はよせ」
「早く次を言えよ」
「枠」
「鍬」
「だから『わ』はよせったら」
「だれだ、止まれ」
「『れ』か? またむずかしいのを」
「ばか、ちがうよ」
視線を空からついと墜とせば、いつの間にか門の前、薄ぼんやりした朝日に立つ人影がある。
白いワンピースを着た、奇妙な髪の色をした少女、階段を下りてきたところでぼんやり頭上を見上げ、皇国の圧巻を眺めている。
両腕をだらりと下げて立つ姿はなんとなく気が抜けていて、奇妙なのは髪の色ばかりではない、少女は裸足で、かわいらしい足の指が見えている。
ウェイズはわずかに首をかしげて、一応槍を構えながら心中でぽつり、不貞の輩というよりはなんとなく幽霊じみているけれど。
「ここは皇帝陛下の宮殿である。許可なく立ち入ることは許されぬ。引き返し、町へ戻りたまえ」
ラインの口調は型どおりで、やはりラインも真剣に危険だとは思っていないふう。
少女はゆっくり顔を正面に向けたが、かけられた言葉を気にしたという雰囲気でもなく、風も言葉も少女の髪をわずかに揺らすだけ、するりと通り抜けてしまうらしく、最後には少女の涼しげな、無表情といってもいい顔と、深く澄んだ黒い瞳だけが残る。
なにかおかしな気配だ、とウェイズはすこし警戒を強める。
このあたりでは見かけない顔だし、迷子というわけでもないだろう、かといって危険があるようには思えないが。
ラインもやはり不思議そうに、傍らの松明をとって少女のほうへ向けながら、
「聞いているのか。ここは皇帝陛下の宮殿である。みだりに近づくことは許されぬ」
「話がある」
「なんだって?」
炎の爆ぜる音よりもちいさく、すり鉢の底でよどんだ空気が動く音よりはわずかに大きい少女の声。
澄み渡った清流のような、それでいてはかなげにかすんだような。
きれいな子だな、ウェイズは場違いに思う、美人というわけでも可憐というわけでもないけれど、そうだ、天使や天女というものがいるとすれば、こんなふうなんだろうと納得できる。
「ウェイズ、いま、あの子はなんて言ったんだ?」
「さあ、聞こえなかったけど――」
「話がある」
と少女は再び言うのも、先ほどと変わらぬ音量で、今度はなんとか聞き取って、
「話とは、なんだ。ウェイズ、知り合いなのか?」
「まさか。ラインの知り合いでもないとしたら、話の相手はおれたちじゃなさそうだ」
こんな少女なら話というのも歓迎だが、とウェイズ、
「宮殿のなかにいるだれかと話がしたいのか? 許可があるなら、呼んできてやるけど」
「皇帝と話がある」
少女はまたぽつりと、
「わたしはそのためにここへきた」
「へ、陛下と話だって?」
ウェイズとラインは顔を見合わせ、互いに首をかしげて、
「陛下との面会なんて話、聞いていないぞ。許可なく陛下と会うことなんて、王侯貴族でも無理だ」
ましては素性の知れない緑の髪の少女など。
「許可を取る時間もなかった」
少女は平然、ふたりの兵士の視線を受け流し、
「いまも、時間はない。一刻も早く皇帝と面会しなければならない。そのためにはここを通る必要がある」
「だから、許可がなければ通れないんだよ。なんで陛下と会わなきゃいけないんだ。理由も知らないままでは、どうあったって通せない」
「理由は皇帝に話す。きみたちは皇帝ではない。よってきみたちに話す必要はない」
ふむ、ばかにされているのかな、とウェイズは考えるが、少女の無表情を見ているかぎり、どうもそんなふうでもない。
少女は本気で言葉のとおりに考え、あるいは考えたとおりを言葉にしているらしい。
まさか、本当に皇帝へ会うつもり、会えるつもりでいるのかな、まだほとんどの人間が寝静まっているこんな早朝に、約束もなしにやってきて?
「ともかく、陛下には会わせられない。どうしてもというなら、日を改めて、もちろん時間もだが、約束を取り付けてからにしなければ。いまは一旦、宿にでも帰ったほうがいい」
「わたしはどうしても皇帝に会わなければならない」
少女は頑として言い張る、そのくせ表情には変化がなく、強い意志は感じられないのだが。
「わたしはそのために意志を携えてやってきている」
「意思を携えて? 聞いたことない言い回しだが――そう言うなら、こちらも同じだ。あんたには悪いが、どうしても皇帝陛下に会わせるわけにはいかない。あんたをこの門の向こうへはやれないんだよ、衛兵としてね」
少女は小首をかしげて、はじめてそれが人間らしい感情表現に見えたが、実際のところ困っているのか諦めたのか定かではない。
ただ、ぼんやり立ちすくんで、裸足の踵を返す気配がないところを見ると、どうやらまだ皇帝に、あろうことかこの世界でもっとも偉大なる皇帝陛下に会おうという意思は変えぬよう。
困ったな、どうしたものか。
相手は若い女の子、無理やり追い返すというのもかわいそうだが、情のひとつで門をくぐらせてやるわけにも、当然いかない。
ウェイズは腕組み、困ったように息をついたところで、浮世離れした少女はふとウェイズを見て、
「どうしてもだめなのか?」
と問えば、まさか色仕掛けとはいえまいが。
「ど、どうしてもだめなのかと聞かれてもな」
ウェイズは黒い瞳にまっすぐ見つめられ、照れたように頭を掻いてラインをちらり、
「もちろん、だめだよな?」
「そりゃあ、だめさ。許可のないものを宮殿に入れてみろ、おれたちは即刻クビだぜ。それでもいいんなら、まだしも」
「それは困る。今度、スザンナとデートの約束を取りつけたんだ。ほかはよくたって、いまクビになるわけにはいかない」
そうさ、スザンナのこともあるが、不審者から宮殿を守る、それが仕事なのだ。
ウェイズは少女に向き直り、
「悪いけど、きみを宮殿のなかに入れるわけにはいかない。話ってのは、どうしても陛下でなければだめなのかい? ほかのひとなら、うまくすれば取り次げるかもしれないぜ。陛下にはさすがに無理だけど」
「皇帝でなければ意味がない」
「ふうむ、困ったな」
腕組みに、鎧ががしゃりと鳴る。
そこに頭上から、りんりんと軽い金属を打ち鳴らしたような声、
「なにかあったのか?」
ウェイズは振り向きざまに、
「く、クラリスさま! そ、その、眠りを妨げて申し訳ございません」
「いや、もう起きていた――だからここにいるのだ。もし眠っていたら、まだベッドのなかだろう」
かすかに笑う雰囲気、跪く衛兵ふたりに、少女はぼんやり斜め上、閉ざされた門の奥にあるテラスを見上げて。
まずは手すりに白い指先、やがて現れた皇族の証である銀髪は陽光がない朝にも輝いて、少女の前に堂々と皇女クラリスのお出ましである。
クラリスの自室は宮殿の奥にあり、贅を尽くした皇女らしい一室、白い壁紙に金細工の装飾が施され、ひとりで眠るには大きすぎるベッドもまた金銀貴石。
それが落ち着かぬというわけでは、決してない。
そもそも生まれ落ちた場所がそんな部屋、美しく着飾った皇族に見守られてこの世へ出てきたのだ、いまさら奢侈たる生活に違和感を覚えるはずもない。
ただ、その部屋にはクラリスが求めるものはなにひとつない。
彼女が求めるのは力であり、ひとびとであり、自ら駆け上がるための段差である。
なにもかも平らに均された、つるつるとよく滑る大理石の床よりも、いびつで荒れ果てた荒野のほうがいくらか楽しめるというもの、そもそもだ、とクラリス、侍女にコルセットを締め上げられながら考えている、ただ自分の意見に従うだけのひとびとに囲まれて生きることの、なにが楽しいというのだ。
ひとはすべて立ち向かうために生きているのだ。
障害があるから乗り越える、歯向かう相手がいるから戦う、それを生きていると呼ぶのだから、あらゆる危険を取り払われた、すでにだれかが整地してくれた場所を歩くだけの人生など、路傍の石にも劣る。
腰から胸にかけて、ぎゅうぎゅうと強くコルセットが締めつけられる。
侍女がふたりがかり、クラリスはその真ん中に立っているだけだが、ちらと侍女があくびを噛み殺したのを見て、
「すまないな、こんな早朝に起こして」
「い、いえ! も、申し訳ございませんでしたっ」
「なにを謝る? あくびをしたことか? 仕事もせずに、というならまだしも、きみはいま立派に仕事を果たしている、なにも謝る必要はない」
「は、はあ――い、以後、気をつけます」
「だから、あくびはしてもよいというのだ。そんなものは失礼でもなんでもない。それよりも、すこしコルセットがきつすぎるのではないか」
クラリスに慣れていない侍女が慌てて緩めようとするのを、すっかり慣れた年長の侍女はむしろぐいと紐を引っ張りあげ、クラリスに苦しげな息を吐かせる。
「これはこういうものです。苦しいくらいがちょうどよいのですよ、クラリスさま」
「そうか――なら、そうなのだろう」
やはりこのほうがいい、なにもかも命令に従うだけではなく、自分の正しいと思うことをしてくれるほうがよっぽど忠義というもの。
クラリスは姿見で、見事に引き絞られた腰回りを見る。
なるほど、ドレスとはよくできたもので、腰回りはぎゅうぎゅうと締めつけて、その分胸元に寄せて、谷間が浮かび上がるようになっている。
裳裾はぱっと広く、折り目も正しい。
クラリスが身体を回しながら裾を揺らせば、花びらのように美しく広がり、ふわりと落ち着くまでに細い足首が見える仕様。
後ろで満足げにうなずく年長の侍女に、若い侍女はほんのりと頬も赤く見とれている。
「今日は朝にお客さまがありますから、それまではこの格好でがまんしてくださいまし。そのあとはもっと楽なご衣装に着替えられて朝食を」
「わかっている。さすがに、この締めつけでは喉を通っても腹は狭すぎる」
「クラリスさま、言葉遣いにお気をつけを」
「おっと、しまった」
言葉遣いと美しいドレスは似ている、とクラリス、怏々と姿見を離れて。
ドレスは身体を着飾り、言葉は心を着飾るもの、どちらも美しくなければ皇女としてふさわしくないわけだ。
美しさとは内から染み出すものではなく、権威と同じ、裸の上に着るものだから、なにもかも脱いでしまえばなんの価値もない、ただ「美しかったもの」として床に打ち捨てられる運命だろう。
そこへきて強さはといえば、たとえその両手になにも握られていなくても、鎧のひとつも着ていなくても、心ひとつさえあればよい、それこそ人間としての美しさとでもいうべきであろうが、それに気づく人間のすくなさよ。
クラリスがベッドに腰掛け、両足を投げ出せば、年長の侍女は着替えの後片付けをしながら、
「姿勢にはお気をつけください。せっかくの美しいドレスに皺ができてしまいます」
「どうしてこのベッドはこれほど大きいのだ。ひとりで寝るにはあまりに大きすぎる。――そうか、いつか殿方と眠るときに必要になるのだな」
「ご結婚なされたら、もっと大きなベッドが用意されましょう。なにもここから家具を持っていかずとも先方ですべて用意してくださるでしょうから」
「先方にそれほどの資産がなければ?」
「そんなことはあり得ません」
ふふん、とクラリスは鼻で笑って、
「皇女の私が嫁ぐのは王侯貴族に決まっている、というわけか。いっそ、ハルシャの皇帝のもとにでも嫁ぐとするかな。いまやわが皇国よりも資産を持っておるであろうし、なによりこの大陸にあって皇帝を名乗るなど何百年もなかったこと、それをやってのけるほどの男だ、度胸も充分にちがいない」
「ご冗談を、クラリスさま。ハルシャといえばわが皇国最大の敵、天地が逆転してもそのようなことはございませぬ」
どうであろう、はじめは冗談だったが、考えてみればあり得ぬ話でもない、クラリスは豪奢な天幕を見上げながら考える。
ハルシャは、皇国がその力を誇示するために叩き潰す対象としては巨大になりすぎている。
いまや戦って、どちらが勝つかもわからぬが、まさか皇国が戦わずして降伏するはずもない、同じだけの確実性をもって絶望的な全面戦争の果ての完全消滅もあり得ぬ。
となれば、皇国は必ずハルシャとの和解、平和的解決に動くはず。
古くから平和な政治的戦争のうちには政略結婚があると決まっているのだ、その役割として第一皇女クラリスほどふさわしい存在はない。
言うなれば、皇国は完全消滅を避ける代わり、ハルシャの皇帝を婿として、代替わりによる緩やかな侵略を手助けする、という外交的選択を選ぶ可能性はずいぶんと高い。
そんなこと、されてたまるものか。
クラリスはベッドから跳ね起きる。
「しかしいま、ハルシャの皇帝以外に私と吊り合う相手はおるものか」
「皇国を友好関係にある王国貴族の方々がいらっしゃいます」
晩餐会で会う、あのひげ面の、見た目ばかりはご立派な男たちのことか。
無論、あんな連中はこちらから願い下げである、まだ妻でもないのに自らの所有物のように視線で身体を舐めまわし、そのくせ皇国を敵に回してまで私の銀髪に触れようとしない臆病者など。
クラリスが踵を鳴らしながら部屋を出ると、すかさず従う侍女ふたり、
「自分の結婚相手くらい、自分で決めたいものだな。生涯の伴侶となる男くらいは」
「あら、クラリスさまの口からそのような言葉を聞くとは」
「意外か」
「女ならだれもが憧れるドレスを身にまとってもむっすりと黙りこんで、社交界で見目麗しい殿方に囲まれても儀礼的な笑顔しか浮かべないクラリスさまですもの」
「外からはそう見えるか」
とクラリスは苦笑いで、
「案外、楽しいものではないぞ。私の一言で皇国の数百年にわたる輝かしい記録が地に落ちるかもしれぬ。それにドレスは――」
「コルセットが苦しい?」
「そういうことだ」
言われてみれば、すこしは変わったかもしれぬ、とクラリス、以前は不満があっても皇女である以上仕方がないと諦めていたが、いまはそれに対抗できる、戦おうと覚悟を決めることができる。
自分の人生、自分の運命が気に入らないというなら、そんなものは自分の手で変えてしまえばよいのだ。
それを人づてに教えてくれた男はいまごろ、大陸の北端へ戻っているころか。
クラリスはいつものように、客がくるまで宮殿正面のテラスへ出る。
途中、女中ふたりと分かれるとき、ちらと振り返り、
「私は自分で自分の嫁ぎ先を見つけるつもりだ。すでにひとり、目をつけている男がいる」
「さぞかしご立派な方なのでしょうね」
と冗談にしか思っていないような侍女に、クラリスは秘めたる笑顔でうなずいて、
「私よりも若いが、立派な殿方だ」
これから立派になる、かな、どちらにせよ同じことだが。
そうしてテラスへ出たクラリス、今日は曇り空かとすり鉢の底からはるか高みを見上げたところで、例の声が聞こえてきたので。
テラスの、白く華奢なのに手をかけて、閉ざされた門に視線を落とせば、跪いている衛兵がふたりと、その後ろで不遜にも直立し、クラリスをまっすぐ見上げている女がひとり。
「ほう」
と思わずクラリスがうなったのは、女の髪がまるで自ら発光しているような明るい緑色だったせい。
自分以外にも変な髪の色をした女がいたのか、それにどちらかといえば緑色のほうが異質だ、とクラリスは一目でその女、少女が気に入って、
「なにがあったのだ。その女は?」
「はっ、それが――」
と衛兵が説明したところによると、どうやらその緑髪の女、あろうことか皇帝と話がしたいとこの早朝に突然やってきたらしく。
クラリスは衛兵から女に視線を流し、女のほうでは表情のない目でクラリスを仰いだまま、
「父上に話したいこととはなんだ。この場では言えぬことか?」
「秘匿すべきものではないが」
女の声を聞き取るため、クラリスは手すりからぐいと身を乗り出した。
「皇帝ではないあなたたちに話しても無駄なこと、私は皇国の代表者と話すためにやってきた」
「きみ、クラリスさまに向かって失礼だぞ!」
「いや、よい」
とクラリス、衛兵を立たせ、
「その女をここまで連れてきてくれ。責任は私が持つ。ほかには秘密だがな」
冗談めかして言うのに、衛兵ふたりはどきりとした顔、慌てて門を開き、女を連れてひとりは宮殿内へ、もうひとりは警備のためにその場に残る。
テラスは、さほど広くはないが、猫足の白い机に優雅な曲線で作られた椅子が二脚、その一方にクラリスは座って、机に肘を突き、頬杖で。
やっぱりすこしきつすぎるような気がする、とコルセットの腹を撫でれば、静かに衛兵がやってきて、一礼とともに女がテラスへ出てくる。
「ご苦労、門の警備に戻ってくれ」
「はっ、失礼いたします」
再びの敬礼で衛兵が去ってゆけば、クラリスはまじまじと女の姿を見つめた。
萌えたばかりの新緑のような明るい緑、髪はゆるやかに波打って背中へかかり、白い額に細い眉、黒い瞳が目立つのは、まばたきが極端にすくないせいか。
小柄な身体を白いワンピースで包み、裳裾はちょうどひざ丈、足元を見れば裸足のままで、足指の爪がちいさく子どもらしい。
無論、ただの子どもではあるまいが。
「名は、なんという」
椅子に座ったクラリス、足組みに問えば、女は平然とその視線を見返して、
「名はない」
とふざけているわけでもないらしいが。
「名のない人間がいるものか。なにかあるだろう。正式な名でなくてもよい。他人からはなんと呼ばれているのだ」
「繰り返すようだが、私に名はない。人間たちはなにかと名前をつけたがる、理由は明らかである。自己と他を区別するため、名が必要なのだ。私には、そのような区別は必要ない。よって名を持つ必要もない」
「ふむ、なるほど」
足を組み替えても、女の視線はクラリスの瞳から動かない。
「なぜ父上に、皇国の代表者に会いたいというのだ。そう簡単に会える相手でもあるまい。ましてや、唐突に門を叩いて聞き入れられる望みでないことはわかりそうなものだが」
「正規の手続きをとる時間がなかった。緊急に、どうしても皇国の代表者と面会しなければならない」
「理由は本人にしか話せぬ、というわけだな」
両腕をだらりと下げ、表情を変えずしゃべるのは、人間としては異様な雰囲気だが、なにかしら近づきがたいような印象もある。
クラリスはにやりと笑い、
「では、私に話すがよい。私は次期皇帝であり、現在は第一皇女である。多忙な父上に代わり、皇国の代表者を務めておる」
人間、ときには少量のうそというものも必要になってくるものだ、とくに交渉事には、とクラリス、うっすらと笑みで女を見つめる。
女も、表情はまるで変えないが、品定めするようにクラリスを眺めて、やがてちいさくうなずいた。
「あなたを皇国の代表者と認識し、ニナトールは正式に皇国へ協力を要請する」
「ニナトール?」
大陸の西部に位置する巨大な国、しかしその形態が異様なため、他国との接触はまったくない奇妙な国家である。
女はクラリスの前に跪いた。
「どうかわれわれに救援を。でなければ、われわれはハルシャに滅ぼされてしまう」




