馬の目 5-1
5
講和が成功することを信じ、夜を徹して待ち続けていた人々のなかに、亡骸ひとつ持って戻る正行とミーチェの心情といったら。
騒ぎでどこかへ逃げてしまった馬を見つけることもできず、正行はアレクの亡骸を背負い、ミーチェはそのとなりを、正行の裳裾をちいさな手に握りしめたままとぼとぼと歩いて、野営へたどり着いたころにはうっすらと東の空が白みはじめたころ。
明るくなってみれば、正行とミーチェの格好もひどいものである。
正行は全身土にまみれ、服はすり切れてほつれ、頬には浅い切り傷、肩のあたりからも出血して、左腕が赤く染まっている。
ミーチェはといえば、騒ぎのなかで髪留めをなくしたらしく、いつもひとつにまとめている髪がばっと背中に流れ、頬といわず額といわず、返り血がべっとりとこびりついて赤黒く凝固している。
明るい光のもとに見れば、アレクもまた大きな傷を負っていて、腹から背中へかけて剣で貫かれたらしく、どちらからも大量の出血、しかし顔はほとんど汚れず、蝋人形のように青白く光っていた。
まさか、三人がそんな姿で戻るとは予期していなかった人々、ただ明るい報告だけを待ち受けていたが、状況に驚き、事態を把握したあとは沈鬱に顔をゆがめてうつむいた。
野営の奥へ行くあいだ、正行はすすり泣きを背負い、アレクの亡骸を天幕のなかに横たえた。
ミーチェはそのまま天幕に残り、正行が外へ出ると、すかさずアリスとクレアが駆け寄って、
「大丈夫ですか、正行さま――お怪我は?」
「おれは、大丈夫だ」
正行はふたりの顔を見るとほっとしたように笑って、
「怪我も大したことない――どこを怪我したのかもわからないくらいだから」
「でも、すこし休まれたほうが……」
「いや、そのひまはない。すぐに動き出したほうがいい」
「動き出す?」
「――アレクとの約束を、果たさないとな」
正行はぽつりと独りごちて、天幕から出てきたミーチェを振り返った。
「大丈夫か、ミーチェ」
「ん――別に、怪我はしてない」
ミーチェは返り血に濡れた頬をぐいと拭うが、もはやそんなことでは落ちぬ血で。
「それに、休んでいるひまはない」
「どうするつもりだ」
「兄上の弔い戦をやるんだ。あいつらは、卑怯な手段で兄上を殺した。絶対に許しておけない」
強く拳を握り、再びせり上がってきた涙を堪えるようなミーチェに、正行はぽんとその頭を撫でて、
「そうだな――最後の戦を、やらなくちゃな。おれも手伝うよ」
「ん――」
ミーチェは正行の腹のあたりに顔を埋め、声もなく身体を震わせた。
そのちいさな背中には、善悪を超えて兄への愛と敵への憎しみが募り、いまにも背骨をへし折らんとするようにのしかかる。
正行はそれをいくらか軽減してやらなければと思い、しかしミーチェにかける言葉が見つからず、ただ泣き顔を隠すために自分の身体を貸し与えるしかできなかった。
襲撃の事情は、すぐに人々のあいだに広まった。
それでなお、決裂した講和にしがみつく者はひとりも出なかった。
全員が全員、アレクの弔い戦を希望し、相手への憎悪とアレクへの悲しみに暮れ、武器をとった。
正行は、あくまでグレアム兵は戦闘に参加させない方針を崩さなかったが、兵士のなかにすらだまし討ちのような形でアレクを殺した敵への復讐を主張する者があり、それをなだめるのも一苦労だった。
「でも、本当にこのまま戦いへ向かってよいのでしょうか」
とアリスは、不安げに両手を重ねて呟く。
「アレクさまは、この戦いを避けるために尽力なさったのでしょう。その死をもって戦いをはじめるのは、アレクさまの本意ではないはずです」
「ああ、おれもそう思う」
正行は上半身裸で、クレアに包帯を巻いてもらいながらちいさくうなずいた。
「きっと戦いは避けるべきなんだ。冷静に考えても、アレクのことを考えても――でも、これはきっと止まらない。彼らは決して相手を許さないだろうし、相手もまた、おれたちへの敵意を隠さない」
「相手も?」
「これは仕組まれた戦いなんだ」
正行は厳しく顔をしかめる。
「向こうにも、たぶんいくつかの意見があるんだろう。あくまで戦うと主張する連中と、講和を受け入れて、すくなくとも同じ民族で戦うのはよそうとする派――向こうの代表者は後者だったけど、その下まで同じとはかぎらない。たぶん向こうの抗戦派がおれたちを襲ったんだ。もう講和なんて露とも浮かばないように、両者の関係をかき回したんだよ」
包帯を巻き終わり、正行が立ち上がると同時に天幕の袖がさっと開いて、
「まさゆ――わっ、な、なんで上半身裸なんだっ」
「服の上から包帯を巻くわけにはいかないだろ」
と正行は服を羽織り、むむとにらむミーチェとともに天幕を出た。
ミーチェは正行のとなり、短い歩幅で従いながら、ちらと横目で見上げて、
「怪我は、大丈夫なのか」
「たぶんな。クレアは問題ないってさ」
「ふうん――それなら、いいけど」
「なんだ、心配してくれたのか?」
「ば、ばか言え。おまえが倒れたら、その、いろいろと面倒なだけだ」
ぷいとそっぽを向くミーチェ、正行はちいさく笑って、
「そうかい、まあ、心配してくれてありがとな」
「し、心配なんかしてないって言ってるだろっ」
「素直じゃねえなあ」
「だれが!」
「おまえは大丈夫なのか。どこか、怪我はしてないか」
「してない。血は、全部返り血だ」
ミーチェもすでに顔を拭き、新しい布で髪をまとめている。
空を見上げれば、東の空から天球の半分ほどが明るく白み、すでに夜明けといってもいい時間、もはや一刻の猶予もなしと正行は唇を噛む。
「これからどうするつもりだ、ミーチェ」
「もちろん、あの連中を倒しに行く」
まっすぐ前方、そこに敵がいるかのようににらむミーチェに、正行はうなずいて、
「それなら、すぐにここを出たほうがいい」
「すぐに?」
「ああ。たぶん、もうすぐで敵のほうから攻めこんでくるはずだ」
「どうして――」
「向こうがどんなつもりでおれたちを襲ったにせよ、そのことは向こうに伝わっているだろう。そしたらおれたちがすぐにでも向こうへ攻め込むのは自明の理、奇襲は不意を打ったほうが勝つんだ、きっと向こうはその前にこっちの野営を討つつもりにちがいない。こっちより前に動こうと思うなら、夜が明けてすぐ、もう向こうは兵を進めているかもしれない。馬ならさほど遠くない距離だ」
「じゃあ、あたしたちはどうすればいいんだ」
「向こうが不意を打つなら、こっちはその裏をかけばいい」
正行はぽんとミーチェの頭に手をやって、
「大丈夫、絶対に勝たせてやる。アレクとの約束だ」
ミーチェはしばらくぼんやりと正行を見上げたあと、ふんと鼻を鳴らして、
「お、おまえみたいなやつがそんなこと言ったって、本当かどうか」
「なんだよ、おれをだれだと思ってる?」
正行はにやり、
「おれは大学者ベンノの弟子、世に言う天才雲井正行だぜ」




