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八重鏡  作者: 藤崎悠貴
馬の目
86/122

馬の目 4-2

  *


 つい昨日まで殺し合っていた相手をまじまじ観察するということもめずらしい。

 堂々と野営に入り込むアレクとその護衛らしいふたつの影を、ぐるりと遠巻きに見つめるいくつもの人影、これが晴れ渡った空の下ならともかく、鼻の先も見えぬような深い闇のなか、あらゆるものを覆い隠す夜の帳が降りたあととあっては怪しさも拭いきれず、見るほうも見られるほうも、なんともいえぬ緊張に包まれている。

 向かう天幕は野営の奥、すでに光が漏れているところ。


「ふたりはここで待っていてくれ」


 とアレクは同行するふたりに言って、天幕を片手で払い、そのひだの向こうへと消えてゆく。

 なかは煌々と光の炊かれた、広さもさほどではない空間で、布の敷かれた地面に男がひとり座っていた。

 中肉中背、優男の面持ちで、あぐらを組み、すこし背中を丸めてアレクをぐいと上目遣い、


「よくきた。まあ、そこらへんに座ってくれ」


 アレクもまた遠慮なく、どんと地面に座って、片手に持参した酒をふたりのあいだに置いた。


「上等のものではないが、おれは好きな酒だ」

「ほう、ありがたい。ではさっそく」


 と男のほうも予め容易していたらしい杯を取り出し、自分にひとつとアレクにひとつ、それに透明な酒が満たされ、ぐいと一杯飲み干した。

 男は杯をとんと布に置き、にたりと笑う。


「なるほど、なかなかいい酒だ」

「気に入ってもらえたならよかったが」


 とアクレも杯を傾け、満足そうにうなずいた。


「しかし本当に、よくきてくれたな」


 男はゆっくり息をついて、


「おれはラヴルフ、一応ここでは頭領ということになっている」

「アレクだ。肩書きは似たようなものだろうな」

「ふむ――実は、おれのほうから出向こうかとも思っていたところだったんだ」


 ラヴルフはすこし親しげに笑い、


「ばかげた戦いは、もうたくさんだ。それで貴重な人命が失われ、いつまでも野蛮な「誇り」などというものが幅を利かせている。おれはこの民族を文明化しようと思っている。そのためには同族同士の小競り合いなどやめ、むしろ手を取り合って協力していくべきだ。そのための講和なら、こちらは無条件で飲むつもりでいる」

「講和に応じてくれるのはありがたいが――こちらの目的とは、すこしちがうようだ」

「目的が、すこしちがう?」


 ラヴルフはぴくりと頬をひきつらせ、小首をかしげる。


「どういうことだ」


 アレクはあくまでゆっくりと杯を傾け、酒を喉の奥へと流し込みながら、


「おれはこの民族を文明化しようとは思っていない。ただ、この戦いをやめたいというだけなんだ」

「ふむ――では、同族同士の戦いをやめても、家を持たず草原を放浪する生活を続けるということか」

「そうなる。そちらはどうやら、すっかり考え方を文明化させたようだが、こちらはそうではない。まだひとびとは誇りを信じているし、戦いなくして生はないと確信している。生活の文明化にはまだ時間がかかるだろう」

「なに、状況はこちらも変わらんよ」


 とラヴルフは深々とため息、杯の縁を指で撫でながら、


「変わらず、戦いこそがすべてだという人間も多い。おれは時間をかけてそうした連中の頭をすこしずつ柔らかくしていったんだ。それでようやく、半数近くはおれと意見を同じにしてくれるようになったが、もう半数程度はまだだめだろう。しかしこの講和で状況は変わるはずだ。連中は戦いの必要性を、まず敵襲という形で説く。敵が襲ってきたとき、戦わずしてどうするというわけだ。実際、いまのような日常的に小競り合いを繰り返す状況では、戦いは不要だと説いてもなかなか聞いてはくれんが、こうして講和が成り、敵がなくなれば、戦いはいっそうおれたちの生活から遠のくだろう。目的はちがえど、ひとまず選ぶ手段は同じ、突き詰めればもとは同じ民族同士でもある。まあ、仲良くしようじゃないか」


 ラヴルフは手を差し出し、アレクはそれを握った。

 にたりと笑うラヴルフに対し、アレクの表情はどこか冴えぬままだったが――。



 天幕の外で待つ正行とミーチェは、互いに並んで立ちながら、どこか相手を意識するようなしないような、会話はとくになく、遠巻きに感じる視線のせいもあるのだろうが、それにしてもミーチェの拗ねたような唇が目立つ。

 正行は天幕を背に、背筋を伸ばして立ち、傍らの松明がぱちぱちと音を立てているのを聞きながら、


「話し合いはうまくいくかな」


 と話しかけるとも独りごちるともつかぬ声色で。

 ミーチェも正面を向いたまま、


「兄上のことだ、うまくやるに決まってる」

「そうか――まあ、そうだな。アレクなら、うまくやるか」

「む……おまえがどうして兄上のことを知っているんだ。まだ出会って三日も経っていないくせに」

「だれかさんが酔っぱらって寝てるあいだにいろいろと話したからな」

「よ、酔っぱらってない!」


 ミーチェはぽっと頬を赤らめて、悔しげに正行の裳裾をきゅっと握る。


「なんだ、あのとき酔ってなかったのか?」

「酔って……よ、酔ってたかもしれないけどっ。ま、正行だって酔ってたくせに!」

「そりゃおれも酔ってたけど、寝るほどじゃなかったよ」

「む、むむ……」

「――しかしこうもじっと見つめられると照れるな」

「み、見つめてないぞ!」

「ミーチェのことじゃない、ここのひとたちのことだ」


 正行は視線だけであたりをぐるり見回して、薄闇に潜んだ何人かの視線と気配を感じ取り、ちいさくため息。


「警戒されるのはわかるんだけど、どうせなら目の前で警戒してほしいもんだな」

「ふん――目の前に出てくる度胸もない連中なんだろう」


 と胸を張るミーチェの頭を、正行がこんと叩く。


「そういう言い方しちゃだめだって、ここへくる途中アレクにも言われただろ」

「事実は事実だ。あたしがあいつらの立場なら、すぐに斬りかかっている」

「どこの猛獣だよ、おまえ」

「それが戦士というものだ」

「ちがうと思うけどなあ――ほんと、アレクが苦労するのもわかる」

「な、なんでおまえが兄上の苦労を理解できるんだ。気に食わん、納得いかん」

「わがままな猛獣は、どの世界でも手懐けるのがむずかしい」

「だ、だれがわがままな猛獣だ!」


 正行はちらとミーチェを見下ろして、


「珍獣、かな?」

「ええいこいつ、いますぐ斬ってやるっ」

「わっ、ばか、剣を抜くなって!」


 わあわあぎゃあぎゃあとうるさいふたり、遠巻きに見ている人間たちも、あれが本当に使者の護衛なのかと首をかしげる気配。

 正行はなんとか剣を収めさせ、肩で息をつきながら、


「ほんと、気性が荒いんだから」

「がるるる……」

「でもよくアレクの意見に従ったな。おれはてっきり、ミーチェならそのままアレクと分かれることになってでも戦いをやりそうだと思ったけど」

「ふん、おまえにあたしのことが理解できるはずないだろ」


 こんなときばかり、ミーチェも自慢げに鼻を鳴らして、


「あたしはおまえなんかが理解できるほど簡単な人間じゃないんだ」

「猛獣だもんな」

「まだ言うかっ」

「冗談だ。意外だったってのはほんとだけど」

「別に、戦いをやめてもいいとは思っていない」


 ミーチェは腕組みで、ちらと正行を見上げるのも横目で。


「もし言い出したのがおまえだったら、その場で斬り殺していただろうけどな」

「怖ぇなあ」

「兄上が言うなら、きっとそれが正しいんだ。いままで兄上が言ったことで間違っていたことはないから」

「ふうん――」


 正行はミーチェを見下ろし、不意にその頭、片手でがしがしと撫でる。


「や、やめろっ、かき回すなっ」


 両手をわたわたと動かすミーチェを無視して正行、


「あんないい兄貴、なかなかいないぜ。ちゃんと大事にしてやれよ」

「お、おまえに言われなくてもそうする!」

「そりゃすまんな」

「どうせ、たったひとりの兄上だ――母上も父上も、もういない。あたしには兄上しかいないから、兄上のことは大事だ」

「そうか――それと同じくらい、自分のことも大事にしなきゃな」

「自分のこと?」

「そのほうがアレクもよろこぶ」


 ミーチェは赤い顔でぐっと押し黙ったあと、


「なんだ、知ったふうなこと言うな」


 とぽつり、正行はミーチェの頭に手を置いて、


「おれも兄貴だからな、一応。アレクほど大した兄貴じゃなかったけど」

「当たり前だろ、おまえが兄上みたいになれるか」

「ううむ、散々だな。もうちょっと年上を敬ってほしいもんだが」

「敬うべきは敬う」

「ん、気のせいかな、まるでおれが敬うべきじゃない大人みたいに聞こえた」

「唯一聴覚だけはいいらしいな」

「おまえなあ」


 と呆れたように言うところ、天幕がさっと開き、ふたりの足元に鋭く光が落ちる。

 振り返れば、すこし頬が赤くなったアレクが立っていて、ふたりを見つけると、にっと笑った。

 その笑顔でふたりは講和の交渉がうまくいったのだと知る。


「これで、戦いは終わりだ」


 アレクは深く息を吐き出すように言って、あとを続けた。


「さあ、みんなところへ帰ろうか。みんな、交渉がどうなったのか待っているだろう」


 正行はこくりとうなずき、ミーチェはどことなく複雑そうな顔、ともかく三人は、未だに遠巻きに囲まれた野営のなかを進んだ。



 クラウトを中心とする抗戦派のもとに、相手方から使者がきていると伝わったのはすでに両代表による話し合いがはじまったあとであった。

 というのも、彼らはすでに集団のなかで主な会派ではなくなり、集団からすこし離れた場所に独自の野営を張っていたのだ。

 そこで鬱々と、あるいは拗ねたように酒を呷る面々に、ようやく差し込んだ一条の光というのが使者の知らせで。

 クラウトはすぐに席を立ち、腰に剣を帯びて準備するのに、仲間が追いすがって理由を聞けば、クラウトは凄みのある笑みを浮かべ、


「あの若造に、教えてやるのだ。講和など断じてさせん、そんなことは不可能なのだと教えてやるのだ。なに、むずかしいことはない。すぐに済む。おまえたちも共にこい」

「お、おう――ゆくのはよいが、しかし、なにをするのだ、剣など帯びて」

「戦いよ。尽きぬ戦いの先陣を切るのよ。どちらか一方の、あるいは両方の、最後のひとりまで殺し合うという戦いの火蓋を斬って落とすのよ」


 それがなにを意味するか定かではないものの、ともかくクラウトに続いて準備をはじめた仲間たちに、クラウトは黒い布を投げてよこした。


「それを顔に巻け。目の部分だけ出して、あとは隠すのだ――よし、それでよい。ではいくぞ」


 野営を出れば、わずかに離れた位置、晴れた月夜に浮かぶのは、いくつかの松明でぐるりを囲った野営の様子。

 いまはしいんと静まり返り、草の影が揺れるのも森閑として、空を見上げたところで、あまりに月が明るすぎて星々のまたたきもまばらで。

 一同は堅い地面を踏み鳴らし、野営のそっと近づいて、それぞれ手の指示でさっと散開し、いくつもの方角から野営へ忍び込んだ。

 夕暮れに、ものの影がするすると伸びてゆくように怪しげな影たち、松明の明かりを避けて天幕の裏に隠れて伺えば、ちょうど奥、頭領の天幕がさっと開いて、見慣れぬ男が顔を出す。

 どうやらそれが相手方からの使者らしい。

 布で顔を隠したクラウトは、自らの酒くさい息が充満した下で唇を吊り上げ、ちょうどよいと笑った。

 道中、すでに仲間たちに目的と手段は伝えてある。

 使者は天幕からひとびとの視線を受け、それでもうつむかずにきびきびと野営を横切り、外へ出ていった。

 全員の視線がその背中に集中した瞬間、クラウトとその仲間たちは天幕の影から飛び出し、白刃ひらめかせながら頭領の天幕へと転がるように入っていった。

 ラヴルフは、使者が手土産に持ってきたらしい酒を手酌し、ほどよく酔っている顔、乱入してきた人相不明の男たちに驚いて立ち上がるが、蹣跚たる足元に、その腰には剣もない。


「な、なんだ、おまえたちは――」


 呂律の回らぬ声でラヴルフが言うのに、クラウトはぐいと前に出て、剣を振りかぶった。

 巻いた布の下から、どんよりと淀んだような、それでいて赤々と血走った目だけが光っている。


「まさか――」


 ラヴルフは目を見開いてなにか察したようだったが、言葉にならぬうち、


「成敗してくれる!」


 とクラウトが斬りかかり、一撃目はなんとか横へ転がって逃げたが、返す刀で背中をやられ、その場に倒れ伏す。

 クラウトはためらいなく倒れたラヴルフに追い打ちをかけ、その首を一撃のもとに切り落とせば、獣のような咆哮を上げた。


「見たか、これが臆病者の成れの果てよ! 戦いを拒み、敵と講和など結ぶからこうなるのだ。わが民族の恥さらし、裏切り者めが!」


 クラウトはラヴルフの髪をぐいと掴み、切り落とした首を掲げて、その切断面から血が降り注ぎ、ラヴルフの目蓋はまだ見開かれたまま、天幕に強い血のにおいが立ち込める。

 仲間たちはその成功を見て、すかさず天幕を飛び出した。

 クラウトもラヴルフの首をその場に打ち捨て、闇に紛れて逃げてゆくのに、ようやく天幕の異常に気づいたらしい人間がちらほらと現れ、


「頭領、いかがなさいましたか」


 となかを覗いて、ぐっと喉を鳴らした。

 相手方の使者が立ち去ってから、時間にしてわずか数分の出来事である。

 血まみれになったクラウトは、そのまま闇を走って自らの野営に戻るかと思えば、そうではない、そのまま仲間たちを連れて向かうのは、数分前に野営を出た使者のもと。

 野営の外に待たせていた馬に飛び乗り、月明かりのもとを追ってゆけば、すぐにその背中が見える。

 クラウトはラヴルフの血で濡れた剣を振り回し、喉も裂けよと叫んだ。


「殺せ、殺せ! われらの敵だ、生きて返すな!」


 静寂満ちる夜の草原に、怒号と馬のひづめが高々響く。

 追うほうに忍ぶ気がないせいか、使者のほうでも接近する剣呑な集団に気づいたらしいが、いまさら馬を飛ばしても逃げられはしない、クラウトたちは十人ほどで瞬く間に使者を取り囲んだ。

 追いついてみれば、相手はわずか三人、クラウトはにやりとして、


「殺して首を並べるのだ。その首だけ、あとで送り返してやる」


 顔を隠した男たちがわっと声を上げて飛びかかれば、戦闘は予期していなかった三人組、正行たちも慌てて剣を抜き払う。

 馬同士が激しく身体をぶつけあい、そのあおりを食って正行は落馬し、堅い地面に背中を打ちつけながら転がって逃げる。

 立ち上がり、妙に長細い剣を構えれば、相手は暗闇に正行を見失ったらしく、姿が見えているふたり、アレクとミーチェから着実に始末するつもりらしい。

 アレクには五人、ミーチェには三人の男がまとわりつき、正行はとっさにアレクのほうへ駆け出したが、そこにアレクの声、


「おれのことはいい、ミーチェを頼む!」


 正行の姿は見えていないにちがいない、しかし声は届いて、正行は馬から降りたミーチェに襲いかかる男のひとりに体当たりし、ミーチェの腕を引いた。


「逃げるぞ、急げ!」

「なぜ逃げる?」


 ミーチェは激しい目つきで正行をにらみ、手を振りほどいて自ら敵に躍りかかる。

 その好戦的な性格に、正行は一瞬呆気にとられたが、すぐミーチェを追って、ともかく鞭のようにしなり風を切る剣を振り回して敵を遠ざけた。

 馬から降りてもミーチェの強さはすこしも衰えず、自分の背丈の二倍はありそうな男をふたり斬りつけて、しかしまだ闇のなかで無傷の男が何人か控えている。

 正行は全身土埃にまみれ、頬に切り傷を負いながら、必死にミーチェのちいさな身体を守った。

 ぶんと風の鳴る音、月明かりをきらりと反射する剣に、正行は自らの剣でもって防ぎ、そのあいだにミーチェが懐へ飛び込んで一撃のもとに打ち倒す。


「はあ――はあ――いまのが最後か?」


 正行は目を見開いてぐるりと見回し、闇のなかでまだ騒乱の音が聞こえるのに舌打ちする。

 ミーチェばかりに気を取られ、アレクの手助けまではできなかったのだ。


「ここにいろよ!」


 とミーチェに言いおき、正行は音を頼りに進んで、わざと絶叫しながら踊りかかれば、相手はびくりと驚いて距離をとる。

 肩で息をしながら剣を構える正行、ちらと足元を見れば、青白い光のもとに、アレクの身体が静かに横たわるのを見つける。


「くそ――またこんなことになるなんて」


 正行はぎりぎりと歯を鳴らし、闇のなかでうっすらと見える敵の影に向かった。

 ひゅんと正行の剣が鳴り、防ぐにも奇妙にしなる刀身で。

 根本で受けるはよいが、剣先がぐんと折れ曲がって敵の肩に突き刺さり、低くくぐもった声が上がる。

 正行はすぐ距離をとり、じっと睨む。

 乾いた土がざっと鳴って、何人分かの荒い呼吸が響く。

 やがて、


「退け!」


 と一声、馬ではなく走って逃げるような足音が聞こえて、それが徐々に遠ざかってゆく。

 正行は膝を曲げ、腰を落として油断なくあたりを見回していたが、肌寒いような風が吹いても動く影がなく、ようやくほっとしたように剣を握る手を緩めた。

 気づけば、手のひらは血か汗かわからぬ液体でべっとりと濡れ、頬を伝いものを服の袖でぐいと拭うが、それが血か汗か、血だとすれば自分の怪我か返り血かもわからぬほどで。

 正行は極度の興奮にあり、どこを怪我しているのか、それとも無傷のまま切り抜けたのかも定かではない。

 ともかく、命は無事らしい、とだけはわかる。


「兄上!」


 正行の背後、ざっと土を蹴る音に、ミーチェの声がかぶさって。


「兄上、大丈夫か――」


 正行もその声を頼りに近づき、ミーチェと、その腕に抱かれたアレクを見下ろした。

 見たところ、アレクは五体満足で、どこを怪我しているのかわからない。

 しかし生者ではないような、濃密な死のにおいのようなものをまとっていて、薄暗いながらアレクの暗い未来がはっきりと予見された。

 正行がそばに屈み込めば、まだかすかに息がある。

 顔をしかめ、苦しげにうめいて、額には粒の汗が浮かび、身体はすでに青白く、体温がぐんと下がっていた。


「アレク、大丈夫か――ミーチェは無事だ、心配するな」

「そうか――」


 苦しげなアレクの顔がふと和らいで、口元には薄い笑みさえ浮かべて、正行を見る。


「すまんな、正行――こんな目に遭わせるために連れてきたわけではなかったんだが」

「いや、いい――なにか、伝える言葉はあるか」


 アレクは薄く目蓋を開き、ミーチェをちらと見たが、言葉にならぬうち、また苦しげに顔をしかめて、手足をじたばたと動かして死から逃れるような仕草をした最後には、がっくりと脱力した。

 耳を澄ましても、もうアレクの呼吸は聞こえない。

 ミーチェはゆっくりとアレクの身体を下ろし、すくと立ち上がった。


「こっちへくるなよ」


 と正行に背を向ける声も、抑えきれずに震えている。

 正行はアレクの身体を整えてやり、薄く開いた両の目蓋を閉ざした。

 死の擾乱が去ったあと、夜は不思議なほどに美しく、月は青々と草原を照らして、だれもかれもが死人の形相、風さえも気遣うように吹くのをやめるなか、わずかにしゃくりあげるような泣き声は、しばらくやまずに深々と響いていた。



 肩に傷を負ったクラウトは、布の切れ端でもってきつく傷口を縛り、止血して野営へ駆け戻った。

 野営は、頭領の惨殺にいまだ騒然、声と足音が入り混じり、荒々しいものがあればすすり泣くようなものもあり。

 クラウトは人相を隠していた布を取り、それを捨て去って、ぐんと混乱の中央に進み出た。

 そして何食わぬ顔で、


「どうしたのだ、この騒ぎは。いったいなにが起こった?」

「それが――」


 と不安げな面持ちで説明する男に、クラウトは内心にたりと笑い、表面上は驚いたふりをして、


「なに、頭領が――くそ、あの連中が!」

「あの連中?」

「頭領を殺したのは、相手方の人間にちがいない。使者に見せかけて、堂々と頭領を殺しにきたのだ。なんという卑劣な連中か――頭領も、ひとがよすぎた。同じ民族といえど、相手は正統を偽称する輩、使者などうそに決まっている。はじめから頭領を殺すつもりで使者を寄越したにちがいない」

「な、なんだって? そ、それじゃあ――」

「ああ、あの連中はいまごろ高笑いであろうよ。うまく頭領を殺し、のうのうと帰っていったのだからな」

「それは、あまりに卑怯だ!」

「そうだとも。それが連中の本質なのだ。和平など、講和などとんでもない! あの連中を最後のひとりまで討ち滅ぼさぬかぎり、われわれに平穏などないのだ。――せめておれたちがここにいれば、みすみす罪深き使者どもを見逃したりはしなかったのだが」


 クラウトが言うのを、ほかの人間たちはうつむき加減で聞いている。

 講和を信じ、敵方の使者を信じ、頭領自身の命令といえど、護衛もつけずに会わせたのはほかならぬ彼らなのである。


「ど、どうすればよいのだ、クラウト」


 頭領を自らの過失で失った彼らは、いまや堂々と中央に立つクラウトにすがるしかない。

 クラウトはにたりと笑って、言い放った。


「弔い戦をやるぞ。頭領の敵をとってみせる。今度こそ、必ずやあいつらの首をとってやるのだ。全員武器を持て、夜明けを待ってやつらの野営を奇襲する!」

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