馬の目 1-2
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アリスに従い、近衛兵のひとりとして皇国からセントラム城へ送り届ける義務を有する若い兵士は、なんとか街道へ戻ってきた馬に飛び乗り、一路ひとりでセントラム城へ向けて持てるかぎりの速度で急いだ。
晴れ渡った空に高々とひづめの足音を響かせ、その律動が徐々に速まれば、馬上でも身体を前のめり、重たい鎧はすでに脱ぎ捨てている。
「ま、まずいなあ、これはまずいよなあ――急いで城へ戻らないと。ああでも、ぼくひとり戻って、ロベルト隊長に怒られなきゃいいけど」
ぶつぶつと独りごちるのも、あまりに揺れが大きく、舌を噛んではいかんとその後は無口にひた走る若い兵士、その脳内には重要な指令を携えている。
まっすぐ続く街道を走り、途中緩やかに左へゆがんでいるところではあえて草むらを突っ切って近道、驚いて虫が羽ばたき、小動物が跳ね回るのもかまわない。
空に雲はなく、時間が経っても変化はないが、太陽だけが徐々に天頂へ昇り、そのまま西の空へ傾いてゆく。
途中、大河から分岐する小川のほとりで馬を止めた若い兵士は、馬に新鮮で冷たい水を与え、足を休ませてやりながら、自らも汗をぬぐい、息をつく。
両手を杯に、澄明な水を汲んで顔を洗えば、ようやく落ち着いたふう、兵士は傍らの石にどかりと座って空を仰いだ。
「なんとかここまで飛ばしてきたけど……まずいよなあ。一応近衛兵だもんな――女王を誘拐されました、なんて報告して、無事に済むかな。最悪、打ち首かもなあ……うう、考えたくもないけど」
兵士は身を震わせ、ちらととなりの馬を見れば、ちょうど水から顔を上げたところ、鼻先を濡らしたのが、不思議そうに兵士を見ている。
その黒い目は、感情があるようなないような。
「おまえも、もうちょっとがんばってくれよ。セントラム城まではまだまだ遠いけど、馬なしではとてもたどり着けない場所なんだから」
休むこと数十分、兵士は再び鞍へ飛び乗り、伝達のためにセントラム城を目指す。
二十名あまりの人質は、騎馬隊のしんがり近く、いくつかの荷台に分けられて草原のなかをどことも知らぬ場所へ導かれる。
やはり彼らは騎馬民族らしく、全員が馬に乗り、ゆるやかな隊列を組んで小高い草もかまわず跳ね除け、草原のなかを疾駆していた。
縛り上げられ、荷台でがたがたと揺られる正行が見るかぎり、彼らの総勢は二百あまり、老若男女入り混じり、やはり同じ民族なのか、全員に似通った身体的特徴がある。
馬たちもまた力強く、多少の障害なら軽々と飛び越えるが、決して暴走せず、進む歩幅も手綱の指示に従う。
その馬術は思わず正行が感心するほどで、グレアム王国もまた騎馬には伝統的な優位があるが、それをはるかに上回る人馬一体であった。
「彼らは、草原に暮らす騎馬民族なのかもしれません」
正行と同じ荷台、肩を寄せ合うように座らされているアリスがぽつりと言った。
さすがにアリスは縄で縛られることもないが、たったひとり自由なだけでなにができるわけでもなく、おとなしくその場に座って様子を見ていることしかできないようで。
「騎馬民族? さっき、ビザンヌ帝国って言ったけど、それも聞いたことないな」
正行はちらと空を眺めて、
「ベンノのじいさんなら、それも知ってるのかもな」
といえば、アリスが眉をひそめ、悲しげな目つき、正行は慌てて首を振り、
「悪い、そういうつもりじゃなかったんだ。口を突いて出てきただけで。もうじいさんはいないんだから、そんなこと言っても仕方ないよな」
自ら励ますように言う正行、あたりを見回し、ちょうど荷台の近くを赤毛の馬が進むのを見て、
「おーい、ちょっときてくれ」
と気軽に声をかける。
振り返る馬上の女、わずかに顔をしかめるものの、馬を横へ歩かせて荷台へ近づき、
「一捕虜が、気軽に話しかけるな。なんだ、なにか言いたいことでもあるのか」
「いや、聞きたいことがあるんだ。抵抗するつもりはないから安心してくれ」
「ふん、そもそも縛り上げられてどうやって抵抗するつもりだ。おかしなやつめ」
女は正行をしげしげと眺めたあと、となりのアリスを一瞥し、軽蔑的に鼻を鳴らす。
あえてそれを知らぬふり、正行は馬上を見上げて、
「さっき、ビザンヌ帝国って言ってただろ。そんな国がこのあたりにあるとは知らなかったけど、大きな国なのか」
「なんだ、ビザンヌ帝国についてなにも知らないのか。じゃあ、教えてやる。ビザンヌ帝国はかつてこのあたりにあった大国の名だ」
「かつて?」
「いまは、すでに形を失っている」
ぷいとそっぽを向く女の、すこしそばかすが浮かんだ顔は、正行が思うよりもずっと若く幼い。
顔そのものも、よく見れば輪郭はまだ丸く、無垢な様子もあるが、振る舞いにはそうした気配がなく、成熟し、好戦的な女のそれである。
「かつてこのあたりにあった国か――」
「形を失っているだけで、いまもビザンヌ帝国は失われていない」
女はむきになったように首を振る。
「その証拠が、末裔のあたしたちだ。あたしたちがいまのビザンヌ帝国なんだ」
「その、ビザンヌ帝国があったっていうのは、どのくらい前のことなんだ」
「あの忌々しい皇国ができたころ――いまから千年以上前のことだ」
「せ、千年? はあ、そいつはまた、ずいぶん古い歴史だなあ……」
正行が感嘆すれば、女は勝ち誇った顔、
「ビザンヌ帝国はもっとも古く、もっとも気高い国であり、民族なんだ。おまえたちのような、できたばかりの小国とはちがう」
「むっ、できたばかりの小国とな」
「なんだ、ちがうのか? あたしにはいくつかの戦争で勝って粋がっているだけの子どもにしか見えなかったよ」
女は流し目、正行に向かってふふんと口元を吊り上げるのに、正行がむむと眉をひそめたとき、後ろから律動を乱すひづめの音で、風巻きながら現れたのは身目麗しい白馬、切ったばかりの赤茶けた髪が流れ、若い男が割って入る。
「どうした、揉め事か?」
若い男、すばやく左右を、すなわち女と正行を見やる。
女はちょっと首をすくめて、
「なんでもないよ」
「ふん……どうも、うちの妹が失礼をしたらしい」
と男、正行に言って、
「すまなかったな、きみ。妹も反省していると思うが、許してやってくれ」
「兄上、どうして謝るんだ。こいつらは捕虜だぞ」
「捕虜というのは、奴隷とはちがう。ちゃんと礼儀をもって接しなければならない相手だ。わかっているだろう、ミーチェ」
勝ち気な妹に対し、落ち着いて思慮深い兄らしい、正行がにたりとすれば、女はむっと顔をしかめて馬上で身を乗り出すが、
「ミーチェ」
とすかさず制されて、馬群へ戻る足取りも渋々という雰囲気。
男はため息をついたあと、改めて正行に向き直り、
「妹が無礼を。申し訳ない」
「いや、とくになんとも思っていないよ」
と振る手も縛られている正行、首を左右に振り振りと。
「あの子は、きみの妹か」
「ミーチェという。馬術と戦闘は人一倍達者だが、どうも男勝りでいけないと思っている。おれはアレク、この集団を率いている」
「へえ、きみは――」
見たところ、正行とさほど変わらぬ年頃である。
情熱的な若者らしい爛々と輝く目に、太い腕で手綱を握れば、なるほど指導者らしい風格を漂わせるが、顔立ちは穏やかで、静かに話ができる相手らしかった。
正行は縛られたまま、荷台の隅に身体を寄せて、
「そもそも、おれがあの子の癇癪を刺激したらしい。こちらこそ申し訳なかった。ビザンヌ帝国について聞いていたんだけど」
「ああ――」
男、アレクは遠い目つきで、
「ミーチャはほかのだれよりもビザンヌ帝国を愛しているし、誇りに思っているからな」
「きみたちはその末裔だって言ってたけど」
「本当の末裔かどうかは、もうわからないさ」
ひづめの足音と、荷台の車輪が悪い路面に跳ねて軋む音、正行も何度か荷台から落ちそうなほど飛び上がり、打ち付ける尻に顔をしかめている。
「なにしろ、ビザンヌ帝国が滅んで、もう何百年になるかしれない。ただ顔つきだけでそれを判別するのもむずかしくなってきてる」
「ふうん――つまり、きみたちはビザンヌ帝国の生き残り、その意識を守る民族なのか」
「いまでは山賊のようなものさ」
アレクはにやりとして、
「きみは、ビザンヌ帝国を知っているか」
「いや――名前も、はじめて聞いた」
「大陸に暮らしていてもほとんどがそうだろう。その名前を日常的に使うのは、もうおれたちくらいのものだ。そもそもの成り立ちは、おれたちにもわからない。ただまだ皇国がなかったころ、いくつかの国で戦争ばかりしていた時代、ビザンヌ帝国はその後皇国を作った英雄とともに戦って、大きな犠牲を出しながら皇国の建国にもっとも貢献したんだ。ビザンヌ帝国自身は文字を持たなかったから、それを記すものは伝承しかないが、ほかの国へ行けば、とくに皇国へ行けばその活躍はわかる」
「へえ。じゃあ、皇国側の立派な国だったわけだ」
「そのころは、そうさ。ただ、そのあと、戦争もなくなって平和になれば、ビザンヌ帝国のような好戦的な騎馬民族は皇国にとって必要なくなる。皇国はその繁栄とともに周辺の国を飲み込んで巨大化していった。ビザンヌ帝国も、そのときに飲み込まれた国のひとつだ。いってみれば、ビザンヌ帝国は皇国化したわけだ」
「皇国化――」
「その文化に入り、その文化に従って、ビザンヌ帝国の一員であるよりも先に、皇国のひととなる。馬にも乗らず、皇国で暮らすひとがほとんどになれば、ビザンヌ帝国なんて名前はあってないようなもの、歴史にも残らないうちに自然消滅してしまったのさ」
アレクはぽつりぽつりと歌うように衰亡を語り、うたかたの歴史が正行の目前に現れたかと思えば消えて、あとにはなんともいえぬ物悲しい風だけが残った。
「おれたちは、その途中に国を離れた少数派なんだ」
それが、まるで自嘲するような口調で。
「皇国に埋まらず、皇国に染まらず、あくまで民族のなかで生きるというのが、おれたちの先祖の主張だったらしい。馬に乗り、野を駆けて、安住しない生活だ。そんな連中の末裔だけがこうしていままで生き残って、皇国に取り入ったひとびとはすっかり皇国のなかに消えてしまったのは皮肉かもしれないな」
「きみたちの先祖は、民族としての誇りを守ろうとしたわけだ」
正行はぽつりと言って、
「理屈はわかるよ。ただ、並大抵のことじゃないだろうな」
「いまだって並大抵じゃないさ。おれたちは家を持たない。常に天幕暮らしで、動物を狩って生きている。狩れない日があれば、食うものもないってわけだ」
「それで、人攫い家業を?」
「そういうことかな」
アレクは楽しげに笑ったあと、正行の顔をじっと見下ろして、
「若いが、グレアム王国の重鎮か。ただの兵士じゃあるまい」
「おかげさまで、参謀めいたことをやってる」
「そういえば、聞いたことがあるな」
とアレク、指先をひげもないあごに当て、
「グレアム王国に、優秀で若い軍師がいるらしい、と。それがきみだな」
「どうかな、優秀とは限らないぜ」
「名前は?」
「雲井正行」
「やはり知っている」
アレクはにやりとして、
「奇襲で捕らえてよかったよ。そうでなければ、うまく捕らえられたかどうか」
「そうやって畏怖してもらうために、わざとおれが優秀だってうわさを流してるのさ」
「それはそれで、よく頭が回るものだ。しかしいまとなってはきみがいてくれたほうがいい。女王と兵士に比べ、あの雲井正行が人質となったら、より高い身代金を引き出せるだろうからな」
「身代金か――」
ちらと前方を窺って、二百名あまりの騎馬隊が草を割って進んでいくのをぼんやり眺める。
「たしかにこれだけの人数を支えるのは大変だろうが、狩りで生きていけるんじゃないのか」
「食うだけならそれでも充分だが、武器を調達するにも金がいる。悪いが、きみたちの身代金をそれに当てさせてもらうよ」
「むう、こっちの財政に余裕があるってわけでもないんだけどな」
ぽつりと言う正行、脳裏にため息をつくアントンの姿が浮かんで、どうしようもないというように首を振った。
自分はともかく、兵士やアリスの命、金で解決できるならそれ以上のことはないのだ。
そういう意味では、グレアム王国に敵意を持つものに捕らわれるよりは、ただ金を要求するだけの彼らに捕まっているほうが安全ともいえる。
まさか大事な人質を、交渉前に殺すということもあるまいに。
交渉役の兵士はすでにセントラム城へ向かっているだろうし、アントンやコジモなら、思いがけぬ出費を嘆きつつも出し渋るようなことはしないはず、それならアリスや兵士たちの安全は確保されたも同然で、あとはこちらが妙な行動をとらないように気をつければよい。
それくらいなら充分にできるはずと、正行はおとなしく縛り上げられている兵士たちをちらり、彼らもそのことはわかっているから、無理に暴れることはない。
「本当は、おれはこうした収入には反対なんだけどな」
アレクはぽつり、馬上で仰向いて。
「でもまあ、なりふり構っていられないのも事実だ。なんとかやるしかない」
「なりふり構っていられない?」
正行が聞き返したとき、前方でなにやら怒号、アレクはすでに馬の腹を蹴りながら、人質たちを振り返る。
「きみたちはそこでおとなしくしていてくれ。そうすれば危険はない」
見れば、ほかの騎馬隊も馬上に立ち上がり、腰に帯びた剣をすらりと抜き払っていた。
荷台を運ぶ馬はその場に停止し、背の高い草がちらほらと生えているだけの、広々とした視界が確保された野原、正行とアリスは自然と目を合わせ、互いに首をかしげている。
「なにが起こったんだろうな。ここにいれば危険はないってことは、なにかしら危険なことが起こるってことだけど」
兵士を乗せた荷台が三台、野原にぽつんと放置され、運ぶ馬も頭を下げて野草をむしゃり。
ほかの騎馬隊はぐんぐんと速度を上げて遠ざかり、目を細めてようやく見えるという遠い位置、ときおりぎらりと白刃きらめき、風に乗って怒号や剣戟、そして無数の馬の足音が響いてくる。
どうやら、彼らは何者かと戦っているらしい。




