流星落ちるはかの国に 4-1
4
雲のせいで月明かりも射さぬせいか、広い野面に獣の気配もない。
ただしいんと静謐、時折風が吹いては草が頭を揺らしさらさらと囁くのも、この真に暗き夜を満たすにはおよそ足りぬよう。
雲晴れる様子はなく、深く頭上に立ちこめては曇天、あらゆる明かりを遮って地上を闇へ突き落とす。
もっとも背の高い草でも、暗闇にぬっと立つ男の膝程度、それが揺れ動いたところで男には感じられぬそよ風らしく、果てをにらむ目も厳しくまんじりともしない。
長身の男である。
まさに筋骨隆々、容貌魁偉にして浅黒い肌、この闇では一層深く、身じろぎひとつせぬなら灌木の影のよう、そり上げた頭には風に揺れる髪もなく、ただ額から頬にかけて、くっきりと肉のひきつれがまるで地割れのように残る。
むき出しの腕など岩のよう、暗闇をにらむ目はちいさいが、射貫く鋭さと冷静に見極める冷たさが同居していた。
そんな男が太い両足でぬっと立って動きもしないのだ、この鼻先も見えぬ闇のなか。
いつから、そしていつまでそうしているのか、どうやら日が暮れてずいぶん経ち、そろそろ夜半というところ、すでに一度風向きが変わって、南から吹いていたものがいまは南へ吹いている。
さわさわと揺れる草の葉に、雲もゆったりと巨体をねじり、深い闇、男の瞳は一カ所をじいと見つめるまま瞬きすらほとんどしない。
吹き抜ける風は、はるか北からきたものか、おそらくはじめは持っていたであろう潮の匂いも消え失せて、港町の華やかさ、農村の穏やかさ、荒れ狂う自然、名もなき動物の声や匂い、ふわりと遊んだ花の一輪さえここには届かず、手のひらをするりと抜けてゆけば捕まえる法もない。
そしてまた、南へゆく風、その行方を知ることもなく、いくつの国を超え、山を越え辿り着いたものか、大陸南端で起こっているという波乱さえその目に焼きつけるか、あるいはその前に断ち消えるか。
音のなかった野面に、甲高い馬のいななき、男はようやく目を薄く閉じ、後ろを振り返った。
揺れる角灯、徐々に近づき、傷を持つ男の顔を照らす。
「小隊長殿、ここにいらっしゃいましたか」
と若い兵士がひとり、すでに鎧も脱いで楽な格好、行方不明の隊長を見つけてほっと息をつけば、存外に若い顔なのだ。
「おう、ずっとここにいたよ」
男も気前よく返答し、またちらり、先ほどと同じ方向へ視線を送る。
追うように若い兵士もそちらを見るが、なにが見えるわけでもないと首をかしげて、
「なにをしてらっしゃったのです、小隊長殿」
「なにをといって、見ていたのだ」
「ですから、いったいなにを。ここから見えるものでもありますか」
「では逆に、いったいなにが見えぬというのか?」
からかうように男は笑い、兵士は戸惑う顔、
「見ようと思えば、たとえ暗闇が邪魔をしようと、どれだけの距離を隔てようと、望むものが見えてくるものだ」
「はあ、そういうものでありますか」
「若いころ――といっても、おまえはいまも若いが、よくやったろう、女の着替えを覗こうとしたり、なに理由をつけて意味もなく風呂場のまわりをうろついたり」
黄色がかった角灯の光、若い兵士の赤い横顔をさっと照らして揺れている。
「おれもよくやったのだ。それでまあ、熟練したわけだな」
「み、見えたのですか」
「見えたさ。見えたと思った。おれが、おれは見たのだと思ったのだから、それは見えたのだろう。いい女だった。まあ、いまではおれの女房だがな」
結局は自慢話かと兵士は嘆息し、暗闇をちらり、
「それで、また、異国の女でも覗き見ていたのですか」
「いや、見ていたのはグレアム王の心さ」
なんとはなしに男が言うのに、馬がうるさくいなないて前足を立てている。
振り返って、男は馬の鼻面や目元を撫でて落ち着かせてやりながら、
「夕方の斥候では、どうやら向こうはこちらの出方に気づいたらしいな。果たしてグレアム王がなにを思うか、見ていたのだ」
「無論、抗戦でしょう」
訳知り顔で兵士が言うのに、男はいかつい顔をゆがませ、どうやらそれが喜色満面。
「おれも、そう思う。城下町から民衆が逃げたという話は露聞かぬ。グレアム王の性格からして、それらの民を見捨て、自らひとり逃げるはずがない。本心はどうであれ、抗戦せざるを得ぬのだ」
「すべてこちらの計画どおりというわけですね。食料を断って久しく、籠城しようにもそれだけの食料は確保できぬはず、いくらなんでも鉄を食うわけにもいかぬでしょうから、冬までには城を明け渡すしかない」
「なるほど、たしかに帰趨はそうなろうが、おれはそれほど簡単な話ではないと思っている」
馬を引き、角灯の明かりだけを頼りに道を戻れば、ちいさいながら野営の様相、三千余りの兵士がここへ詰めて早数日になる。
急造の馬小屋に繋ぎ直し、餌をやれば馬も静かになるが、一方でやかましさが止まぬのは野営のなか、まるで酒場のように調子外れの歌まで聞こえてくる。
「これが奇襲だというのだから、なんとのんきなものよ」
男はぽつりと呟き、野営へ入ってゆけば、鎧を脱いだ兵士が至るところで酒を飲んでいる。
松明が掲げられて明るい下には必ず三、四人の兵士が集まり、酒を片手に猥談がほとんど、男は所々で誘われながらも断って、奥へ奥へと進んでゆく。
見えてくるのはひときわ大きな天幕で、黄色い光が満ちるなか、なぜか女の声がする。
三千余りの兵士はすべて男、はて気のせいかと指揮官の天幕にちょいと顔を突っ込めば、勘違いでもない、たしかに三、四人の女がいるのである。
天幕のなかはむっとするような熱気がこもり、男は無意識のうちに顔をしかめているが、それをとがめる声が奥から飛んで、
「マキロイ、マキロイ小隊長、なにをいやな顔をしておる。いったいいままでどこにおったのだ。勝手に野営を離れ、よいと思うておるのか」
もっともらしいことを言うかと思えば、天幕の奥で女を侍らせ、酒の器さえ自分では持たず女に傾けさせているのが声の主なのである。
「ルーベン隊長、いったい、この女たちは?」
「なに、旅の商人だという」
三千余りの兵を率いる指揮官は、痩せぎすに似合わぬ旺盛な男で、若い女の方をぐいと寄せれば女も婀娜に鳴き、商人というが売り物を持っているのか定かではない。
マキロイは、無駄だと知りつつ、部下としてルーベンを窘めるのに、
「われわれは奇襲にきておるのです、ルーベン隊長。素性のわからぬ旅の商人など、ことが済むまで捕らえておくのが上乗、ましてや天幕に引き入れるなどもってのほかでございます」
「おまえは堅物だの、マキロイ小隊長」
ルーベンは興ざめという顔、しかし女は離さず、酒の器をひょいと投げ捨てれば、まだ残っていたものがマキロイの靴先をしとどに濡らす。
マキロイは、もはや怒りもせぬが、ただ足下をじっと見下ろすうち、その黒い瞳がじわりと濡れてくる。
「なんだ、おまえ、泣いておるのか」
ルーベンは鼻で笑い、にたりと唇歪ませれば、女たちも心得たもの、くすくすと笑い出すに、マキロイはきっと顔を上げて、
「わが身が悔しくて泣いているのではございませぬ。悔しいというなら、なぜ愛する祖国にあなたのような男がいるのか、それが悔しくて涙するのです」
「ふん、なにを、若造が。女を招き入れたことがそれほどの悪か?」
ルーベンはようやく女を離せば、気配を察するだけは得意な女ども、慌てて天幕から逃げてゆき、ルーベンの痩せた面長と、マキロイの角張った強面が対峙する。
「おまえは、身体に似合わず、気がちいさいの、マキロイ小隊長」
ルーベンは手酌で酒を注ぎ、ぐいと飲み干せば、あっという間に頬が赤らみ、目が澱む。
「女がなんだ、酒がなんだというのだ」
と呂律も怪しく叫べば、立ち上がろうと身体を起こすも足がおぼつかず。
「おれは、こんな戦争は何度も経験しておるのだ。おまえなど、マキロイ小隊長、生まれる前からおれは戦っておるのだぞ。それを、まるで国を侵す毒虫のような言いぐさ、上官に失礼ではないか」
「失礼というなら謝罪もいたしましょうが」
マキロイも巨体の頭頂をほとんど天幕にこすらせながら、はらはらと落涙する。
「これぞ、国の一大事にござりましょう。なにゆえかような振る舞いをなされるのです。明日、明後日にも国の天命決しようというとき、果たしてわたしがおかしいのか、それとも女を抱き酒に溺れるあなたたちがおかしいのか」
「堅物なのだ、おまえは」
酒といくつかの悪感情にどろりと澱んだ目、座のなかからマキロイを見返して、
「戦争が、この争いというやつが神の事業とでも心得るか。なにを、こんなもの、ただの殺し合いよ、ただの生活よ。酒も飲めば、女も抱く、ときには戦う、それが人生というやつであろうに。そうはできぬおまえの弱さが悪いのだ。マキロイ小隊長よ、おれに言わせれば笑止千万はおまえのほう、なに酒の味も楽しめず、女を抱く余裕もなく、だれに打ち勝てるというのか。見ろ、剣を握る手も震えておろう。それでだれが斬り殺せるというのだ」
「国に仇なすものであれば、だれであれ」
澄明な瞳見下ろせば、ルーベンは鼻白むよう、ぐいと杯を呷って、
「おまえのようなものが生まれたことが、あるいは国のゆがみの象徴よ」
「王国にまで毒づくか」
とマキロイは色をなすのに、ルーベンはにたりと笑みなど浮かべ、唇の端から透明な酒がぬらぬらとこぼれ落ちる。
「国は、なるほど、たしかに大事、なによりわが家同然であろうが、家がなければ生きていけぬわけでもなし、雨漏るといって家とともに朽ちんとするなど笑い話よ。国などな、この大陸にはいくらでもあるのだ。そこから住み心地のよい国を探し、居着くだけ、忠誠心なるものの根は小汚い野心と心得よ」
「では、忠誠心なく戦うというのですか。なんのゆえあり、戦うというのです」
「仕事よ」
とルーベンは放言して、
「酒を飲むのも女を買うのも金がいる。ましてや、屋根のある家を買うにもな」
嘲笑めいた笑みがひらり、酔いの回った目元を横切って、
「おれは兵士よ、マキロイ小隊長。ただの兵士、神意を授ける司祭ではない。いくらの金を払うから戦えといわれ、納得すれば戦うし、そうでなければ国を去るまで、それこそ正しい人間の生き方であろう」
「酒と女と金の先になにがあるというのだ。幸福などあろうはずもないが」
マキロイが言えば、ルーベンは鼻で笑って、
「どんな物事であれ、先に待つのは同じもの、死だけよ。毒虫のごとき人生であれ、天使のごとき人生であれ、総じて死ねばただの肉塊、土へと還りまた生まれ出でんとするだけ。もしや、おまえは、それ以上のことを望んでおるのではあるまいな。清廉に暮らせば死の影を振り払えると、あるいは死の向こうにあるなにかへたどり着けるとでも思っておるのではあるまいな。やめておけ、やめておけ。生きるあいだに堅忍不抜を貫き、死してなお落胆したいのであれば勝手にするがよい。死の向こうにはなにもない、生の向こうにもなにもない。そう思えば、このような人生、楽しまなければ損というもの。酒も女も殺し合いも、したいときにすればよいのだ」
「死の果てになにかあるなど、おれも思ってはいない。だからこそ、生き方の問題だ。死の間際にちらと後悔がよぎるような生き方をしたくないだけ、罪悪感など覚えるなら酒も女も耐えるに限る」
「それが、堅物だというのだ。やりたいようにやって、なぜ後悔など起ころうか。それよりも、おまえのような生き方にこそ後悔は宿るもの、苦しみ喘いで死ぬ瞬間、ああなぜもっと楽しんでおかなかったのだろうとおのれを恨むことになるぞ」
じりじりとにらみ合ううち、マキロイはふとなにかを悟ったらしい、目元を親指でぐいと拭い、明ければ兵士の顔、上官に最上級の敬礼で、
「今後の行動、作戦についてお伺いしたいのですが」
「うむ、かまわぬ」
ルーベンは変わらず杯を置かぬ。
外では依然兵士の乱痴気騒ぎが続いて、楽器もないが高低様々な声入り乱れ、地を揺するような大合唱、それでは近づく獣もなかろうに、野草だけが細波、どうやら分厚い雲がほんのすこし途切れて、一時青白い月明かりが野営に降る。
拍手喝采、呵々大笑。
どこか理性をなくしたような騒ぎのなかで、もっとも大きい隊長の天幕だけがしいんと静まり返る。
「これから、いかがなされるおつもりで」
天幕の外、そのばか騒ぎをちらと気にする素振りを見せながらマキロイが問えば、ルーベンはちいさくうなずいて、
「すでにわれわれ、先を取っておる。それで勝敗は決したも同然、連中も手の出しようがなかろう」
「では、このまま包囲して、籠城戦を」
「無論、そのつもりである。わが国が食料のやりとりを禁じて数週間、どれだけ籠城に備え蓄え込んでも、兵糧尽きて餓死者が出るまでは半年もかからぬ。わが兵にひとりの死者もない、完全勝利よ」
「しかしやつらも死にものぐるい、抵抗を見せましょうが」
「食料もろくにないやせ細った連中の抵抗など、羽虫ほども感じぬわ」
ルーベンは勝利を確信して止まぬ態、マキロイが厚い唇を開いて反論しようとするのをわずらわしそうに制して、
「また堅物の小言であろう、聞くまでもない。よいか、マキロイ小隊長。戦争というのは、なるほど、天命に似たるところもある。要は時勢なのだ。流れ悪ければ、なにをしても勝ちはない。流れよければ自然と勝利が寄ってくるもの。今回、われわれは先を取ることで時勢をたぐり寄せたのだ。この先、なにがあっても戦況が覆ることはあるまいよ。経験の薄いおまえにはわからぬことかもしれぬが、おれにはわかるのだ」
酔いが回り、呂律も怪しいが、なるほど、ひとつの哲学に貫かれた人物ではあるらしい。
マキロイは、この上官に愛情を持つことはなかったが、敬意を戻して頭を下げた。
「どうか、勝利へ導いてくださるよう」
「それは天にでも祈れ。おれのような俗物ではだめだが、おまえのような堅物の願いなら天も聞き届けてくれるやもしれぬ」
冗談を背に受け、マキロイは天幕を出たが、そのときにはもう月明かりもなく、曇天立ちこめ松明なければ足下も見えぬ。
兵士たちの騒ぎ、最高潮へ達したようで、そこに女の甲高い嬌声、姿も見せぬ化け物の断末魔めいて響く。
事実、魔に憑かれたような騒ぎであった。
マキロイは馴染むともなし、野営を彷徨い出るにもいかぬから、ともかく入り口で張っている衛兵に近づき、
「ここはおれが代わる。おまえたちは、奥で楽しんでこい」
と、野営の入り口、どんと腰を下ろして騒ぎに背を向ける。
若い衛兵、これ幸いと武器を投げ出し、自ら脱いだ鎧にまろびつしながら奥へ消えて、さて、しいんと静寂が戻ってくる。
無論、背中の騒ぎは消えようもない、しかし聞かぬを欲するなら自然と音をより分け、聞こえぬようになってくる、マキロイの耳には、馬小屋のかすかないななきは聞こえても、兵士たちのいななきは聞こえぬ様子。
まっ暗の闇に向かって足を組めば、自然意識も澄明になり、頬を撫でるかすかな風の動きから草木擦れる音、仔細逃さず感ぜられ、マキロイは眠るとも起きるともつかぬ境地、なにものにも捕らわれず浮遊するがごとき。
闇のなか、巨体の一端も見せぬ雲はぐるぐるとうごめき、波打ちよじれて途切れず続く。
松明がぱちと爆ぜて火の粉が飛ぶのに、どこか困ったような顔の若い兵士、するするとマキロイの背後に迫り、マキロイはちらと振り返った。
「どうした、騒ぎはまだ続いているようだが」
「どうも、ぼくはああいうものが苦手で。ご一緒しても」
「ああ、よいとも」
同志を見つけ、マキロイはにこと笑って座を譲り、若い兵士は恐縮の態、長い槍の柄を地面に突き刺し、支えのようにして腰を下ろす。
「戦場ははじめてか」
とマキロイが問えば、緊張にうなずき、
「このところ、大規模な戦争などなかったものですから」
「未熟な兵士が多いというのは、国が平和ということ。しかしそれが過ぎれば戦乱で生き残ってはゆけぬ」
「小隊長殿は、怖くはないのですか」
「怖いような、うれしいような。まあ、不安ではある」
「ルーベン隊長殿は、勝利は確実とおっしゃりましたが」
「隊長殿の言にけちをつけるわけではないが、絶対などというものはない。とくに戦争というものには。いつどこでなにが起こってもおかしくはないのだ。いくら帰趨が明らかとはいえ、詰めを誤ればとたんに形勢が変わる」
呟くのに、マキロイは若い兵士を不安にしたのだと気づいて、取り繕うように笑った。
「あまり案ずるな。ルーベン隊長殿の言いぐさではないが、なるようになる」
「はあ、そうですが――」
ともかく、闇のなか、マキロイの見つめるほうにグレアム王国が潜んでいるのである。
闇を透かし、距離を無にして見ようにも、まさかこの日、異邦人なる存在が空から落ちてこようとは思いもしない。
まさかそれで時流が変化し、追い風が向かい風、流れに沿って下るのが上らねばならぬようになるとは。