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八重鏡  作者: 藤崎悠貴
心の行方
77/122

心の行方 7-2

  *


 自身の体長の何倍もある芋虫に群がる蟻のごとく、荒れた野原にぐんと隆起する皇国の周囲、すっかり取り囲み、じりじりと距離を詰めるようなのが三十万を越すハルシャの大群で。

 皇国のひとびとは堅牢強固な城壁からちらと外を盗み見て、目の当たりにする黒山の人だかり、それらがすべて自分たちに敵意を持っているものの集団と知れば、おのずと他人事のようだった「襲撃」が現実的な脅威となって襲い掛かってくるのである。

 皇国は何十万という市民を擁する巨大な都市であり、また城砦だが、そのぐるりを囲い込んでまだ余裕があるようなハルシャの大群、数えることも億劫な、城壁から隙見するなら黒い波がざわめいているようにしか見えぬという軍勢。

 まさか本当に、この偉大なる皇国へ攻め込んでくるつもりかと市民らは怯え、祭りのため宮殿に滞在している王侯貴族たちも自らの国に帰るに帰れず、文字どおりすり鉢状の皇国に閉じこもり、様子を見ているしかない。

 当の皇帝ですらそんな様子、小動物のように斥候ばかりを出して、兵をどのように配置するのかもわからぬようで。

 臣下たちもまた、皇国に大軍が攻めてくるなどかつてないこと、どのように振る舞うべきか意見が分かれて喧々囂々、言葉ばかり盛んで実がない。

 表向き、市民には侵略の危機はなしと発表し、仮にハルシャ軍が総攻撃を仕掛けてこようとも皇国はびくともしないと言ってはいるが、それを信じることもむずかしいほどハルシャ軍の威圧感は強大で、夜をまたいでも撤退するような気配はなく、いつくるかいつくるかと夜も眠れぬようななか、不気味なのは皇国を取り巻くハルシャの大軍に動きが見られぬこと。

 皇国を何重にも取り巻いて、そこでそのまま野営すら張っているが、昼間にも黒い海がさざめくのみで、攻めてくる気配がないのはよいが、退く気配もまたないままに、何日かが費やされた。


「はて、どうするべきか――」


 皇帝の悩みは深く、大勢の臣下を集めての御前会議、深く息をつくのも疲れの色が濃く、ここ数日に心労が嵩んでいるのが見てとれる。


「やはりこのまま、やり過ごすしかないか」


 という意見にも無理はなく、なにしろ皇国にいるのはわずかに一万ばかりの兵、それですでに完全包囲を済ませている三十数万の相手にどう立ち向かうというのか。

 皇帝はちらと武官を見やれば、胸元から帽子から、数えきれぬ勲章をつけた老兵は机の上で両手を組み合わせ、深く皺の刻まれた顔に苦渋を浮かべている。


「ハルシャとの交渉は、どうなっておるのか」


 皇帝が問うのに、老兵はうなずいて、


「使者は何人も出しておりますが、依然門前払い、相手の目的もわからぬままでございます」

「このまま兵糧攻めでもするつもりか」

「しかしあれだけの軍勢を持ちながら、兵糧攻めというのもいささか消極的すぎる選択でございますな。とくに大将のロマンという男、これは兵糧攻めのような手段を好むやつには思えませぬ」

「ではなんの目的でああして留まっておるのか」


 この不可解に皇帝も、その他の臣下も答えがなくうつむけば、そこに飛び込んでくるひとりの兵士、顔色を失っているのにだれもがどきりとして、ハルシャの総攻撃がはじまったのかと座を蹴るが、兵士の報告はそれどころではない。


「た、たったいま、クラリスさまが兵を率いて城壁の外へ!」

「な、なに?」


 皇帝は真っ青になって立ち上がったあと、ふらりと頭に血が上ったよう、蹣跚に椅子へすがれば、周囲が慌てて身体を支える。


「なぜ、クラリスが兵を動かせるのだ。城壁の外へ出ていったいなにをするつもりなのか――」

「どうやら陛下のご命令と称して兵を動かしたよう、まさかクラリスさまの言動を疑う兵もおりますまいに、そのまま自ら先頭をきって城壁の外へ出てゆかれたようで」


 いままでも数々跳ねっ返りの逸話を残してきた第一皇女クラリスだが、この度の奇行は度を越している。

 皇帝はぐったりと椅子に腰掛け、すぐにクラリスを呼び返せと命じたあと、力を使い果たしたように寝室へと引き下がっていった。

 一方、一万あまりの兵のうち、五、六千を連れて安全な城壁から飛び出したクラリスはといえば、兵の先頭で苛烈ほどの赤いドレスをひらめかせ、まばゆい銀髪の上に華奢な作りの冠を戴いて、馬上で背筋を伸ばせば、細腕で剣さえ振り回す。


「われらの皇国に仇なすものに滅びあれ、われらのもとに光あれ!」


 と勇猛果敢、兵士たちを鼓舞してハルシャ軍へ向けて進むクラリスの姿は、敵味方双方に大きな印象を与えた。

 市民は自らの身を呈して皇国を守るというクラリスの姿勢に感激し、敵兵にもその世にも美しい皇女の姿は、鮮烈にして輝くばかりの力強さを与え、彼女の進む先、暴虐を極めるハルシャ軍さえ場所を譲って後ずさるほどであった。

 ハルシャ軍を率いるロマンも、当然そのクラリスの姿を見て、ほうと感心の一声、そのあとで例のようににやりとして、


「皇国の事情には疎かったが、どうやらおもしろいやつがおるようだな。皇帝といえば、ただその地位にあぐらをかいているだけのものと思っていたが――しかしこれでおもしろくなる」


 ロマンは遠目にクラリスを望み、その赤い裳裾がハルシャ軍が埋め尽くす死した土地を蘇らせてゆくのを見ているのに、ふと踵を返すと、鋭い声で命じた。


「全軍撤退! ハルシャへ戻るぞ」


 その一声で、暴力的でありながら規律の厳しいハルシャ軍は一斉に方向を変え、一箇所に終結して、大陸の南方へとぞろぞろ列をなして去ってゆくのだった。

 それを見ていたクラリスは、白い頬をわずかに紅潮させて兵とともに城壁のなかへ引き返し、勇敢の名もほしいままに、ただわずかに未練が残るのは、この場に正行の姿がないことで。


「まあ、焦る必要もないか――なにをするにも、準備を充分に整えたほうがよい。他国を手中に収めるのも、他人を手中に収めるのも同じこと」


 古い冠を戴いたクラリスは、近い将来にそれが皇帝の冠に変わることを露とも疑っていない。

 すべては自らの望む未来へ向けての布石であり、その美しい顔の下で虎視眈々、その日を作ろうとしている。



 全軍撤退を命じたあと、ロマンはそのしんがりに馬を並べ、先行する大軍を眺めながらゆっくりと南下を続けていた。

 ロマン自身、特別上機嫌というわけではないが、不機嫌というふうでもない、馬の上で身体を揺らし、右に左におどけるよう、晴れ渡った空を見上げ、そこに鳥でも見つけようものなら、いつまでも飽かずに見上げている。


「ロマンさま、よろしいのですか」


 と臣下のひとり、恐る恐る切り出せば、ロマンは特徴のない顔をそちらにちらと向け、


「おまえが心配していることはわかっている。皇国を包囲しておきながら、なにもせずにみすみす撤退してよいのか、ということだな」

「はあ――皇国の兵はわずかに一万程度という話、ならばあのまま攻めても決して負けぬ戦になりましょう」

「だからこそ、おれは戦をしなかったのだ」


 ロマンは馬上でぐいと背筋を伸ばし、前方を見つめる。


「決して負けぬ戦をして、なにがおもしろい? 兵を率いて皇国を包囲したのは、そこで見ているであろう皇帝を、あるいはそこに集まっている王侯貴族を怯えさせるためだ。これで連中は、ハルシャの脅威が大陸の南端のみに止まらぬと知った。皇国と、彼らの国も同様に侵略の危機にあると思えば、必ず兵を増やし、われらに対抗する手立てを整えるであろう。おれはそれを待っているのだ」

「あえて敵を強くする、ということでございますか」

「勝つか負けるかわからぬ戦というのをしてみたい。そのために、皇国にはさらに強くなってもらわねばならん。日和見の皇帝ではなく、戦勝によって国を導く強き皇帝になってもらわねば困る。そして諸国が手を組み、ハルシャという巨大で絶対的な悪に立ち向かう必要がある。いままでのすべては、そのためにやってきたことよ。おれはな、勘が鋭いのだ。この先の皇国はあの女――クラリスという皇女を中心に回るであろう。そしてクラリス率いる皇国を中心とした大陸北部の巨大同盟が成立すれば、その生命線はグレアムにいる雲井正行という男になる。そのふたりは必ずおれの前に立ちふさがり、おれを打倒せんとするはずだ。果たしておれがそれに打ち勝つかどうか――」


 ロマンが笑みを潜めて遠くを眺めるその横顔が、笑顔よりむしろ大きなよろこびを秘めているような。

 そこへ、しんがりのロマンのさらに後方で馬の足音、振り返れば、単騎がよってくるところ。

 敵勢かと身構える兵士たちに、ロマンが軽く手を上げて制すれば、追いついてきたのはやけに細長い男で。

 男は馬をロマンに寄せ、馬上で深々と頭を下げる。


「お久しぶりでございます、ロマンさま」

「よく戻ったな、コンドラート――して、どうだった」

「はっ。アルフォンヌによる反乱は、その処刑も済み、予定どおり鎮圧されました。投降した兵のほとんどはそのままグレアム王国の兵士に身代わりをしたそうにございます」

「そうか、ご苦労だった。これでグレアム王国はまたひとつ憂いをなくし、国を強くできるわけだ」

「しかし、ひとつ誤算が」


 とコンドラートは眉をひそめて、


「アルフォンヌが捕虜となった際、どうやらベンノを刺し殺したようで」

「ほう」


 わずかに目を見開いたロマン、そのあとでちいさく笑い、


「老兵は去ったか。それもまた一興。こうして否応なく雲井正行の役割が増し、より積極的に行動せねばなるまい。アルフォンヌは自らの死を含めてよく働いてくれたな」


 ロマンが見上げた空の先、にわかに雲行き怪しく、待ち受けるは薄闇か、あるいは華々しい陽光か。

 グレアム、皇国、ハルシャ、そして正行、クラリス、ロマンの思惑が入り混じる大陸の行く先は、いまや天井人さえ知りえぬが――。


「天下分け目の大戦も近い。さて、だれが生き残り、だれが勝つか」


 にたりと笑うロマンの剣呑を、だれが止めうるか。

 大陸にはただ風が吹いている。



 歴史書にはただ一文、


「グレアム王国で旧ノウム王国の王子たるアルフォンヌが反乱、一時はノウム城を奪還するが、その後セントラム城塞にて鎮圧、アルフォンヌは斬首される」


 とだけ記される出来事である。


   了

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