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八重鏡  作者: 藤崎悠貴
心の行方
76/122

心の行方 7-1

  7


 深い雄叫び、城塞に跳ね返されて彼ら自身を飲み込んで、もはや自我を持たぬ破壊装置のよう、強固な石造りの城壁に、無謀にも剣を突き立てて、勢いそのままにはじき返されて後方へごろんと寝返りを打つ。

 その後ろから後ろから、激しい足音と土煙、薄もやと混ざり合って視界はほとんどなく、ただ硬い石材に金属がぶつかる甲高い音が絶え間なく響いた。

 切り出された石と石のあいだはさらに細かい砂で固められ、それらがどうやら狙い目と見たらしい、兵士たちは剣先を石のあいだに突き入れて、がりがりと穴を掘るように力を込めた。

 事前に城攻めの準備もない反乱軍、石を崩すのに効果的な槌も斧もなく、無闇に城塞へ飛びかかってははじき返され、それでも飽かず飛びかかり、よじ登ろうと手を掛け仰げば、あまりに峻峭なのに諦めて。

 敵の姿はひとつもなく、また城塞から矢が降るわけでもない、まるで突貫工事、それでも雄叫びが止まず響くのは、ハルシャ兵の好戦的な性格にのみよるものである。

 太い腕をさらにぐんと太らせ、硬い筋肉でもって剣を握り、刃こぼれ厭わず堅牢な石のすき間に突き立てれば、ようやくぼろぼろと砂がこぼれたはじめた。

 数人の兵士がそこを集中的に掘り、ほかも夢中になって硬い石に剣を振るい続けるさまを、すこし離れた位置でコンドラートとアルフォンヌ、以下数名の文官が見守っている。

 アルフォンヌは馬上で前のめり、立ちこめる土煙に顔をしかめて目を凝らしているが、コンドラートはあたりを見回し、不審そうにぶつぶつと唇を振るわせている。


「グレアムの連中は、どこから攻めてくるのだ。頃合いを見て、城塞から飛び出してくるものと思っていたが、まさか本当に城塞突破を待ってから正面衝突するつもりか」


 それもまた悪い策ではないようで。

 なにしろこれだけの巨大城塞、鼠一匹入り込むすき間を作るだけでも一苦労で、人間が通り抜けようと思うなら機材なしには不可能なほど。

 そこを兵士の力で突貫しようと、たとえ叶えど疲労困憊、そこから全力での斬り合いどころではない。

 ただでさえ数では負けている反乱軍、攻め込んでも勝機がないことはわかりきっている。

 しかしあまりに無反応ではいぶかしいと、あたりを見回すコンドラートの後ろ髪が、わずかになにかを感じて動いた。

 細い身体がぐいと馬上で捻れ、振り返った先にはもうグレアム兵五千あまりが詰めかけているところで。

 はじけ飛ぶ土塊、舞い上がる土埃、しまったと一声上げるひまもなく、彼らもろもとも軍勢の進撃に飲み込まれ、それでもまた城壁を破らんとする兵士たちは自らの雄叫びのなかにあり。

 ぎんぎんと激しく鳴らし、城壁に剣を立てていた兵士がはっと振り返れば、すでに最後尾ではグレアム軍との戦闘がはじまっている。

 きたかと勇んで振り返り、刃こぼれ著しく半ばのこぎりになった剣をかざして仲間の横を回り込めば、それを待ち受ける斬撃、敵の顔を見ぬうちに荒れた地面に沈み込む。

 見れば、前方でも左右でも激しい斬り合いがはじまって、無事なのは背後だが、そこには一層巨大に峻峭に、立ちはだかるは貫けなかった城塞で。

 反乱軍三千は、背後に潜んでいたグレアム軍午前にぐるりを取り囲まれて、逃げ道も一切なく雨霰と降り注ぐ白刃、正面を防いでも横からやられ、倒れ込むのを踏み台に別の兵士が出ていくも、二分と持たず倒れ伏し。

 種を明かせば、グレアム軍のとった作戦はこんなようなもの。

 まず大学者ベンノが流していたうわさは、グレアム軍は城塞に取り憑いた反乱軍の背後を強襲するため、丘の影に潜んでいるというもの、どうにかこうにか戦闘開始に間に合った正行は、ただそれを実行したに過ぎなかった。

 そこへ、アルフォンヌ率いる反乱軍、はじめは慎重にあたりを窺い、迂回に迂回を重ねてわれ先にグレアム軍を発見せしめんと進軍してきたが、どうやら策にはまって到着を遅らせてしまったらしいと気づいてからは、一心不乱、脇目もふらずに城塞を目指した次第。

 まさかその裏を読み、真実城塞近くの丘に五千あまりのグレアム軍が潜んでいるとは思いもしないコンドラートである。

 出てくるとしても城塞から、あるいは城塞が崩れ去ったあとで待っているかもしれぬと考え巡らせていたコンドラートだけに、兵士たちは一層不意を打たれ、五千のグレアム兵は唐突に沸いて出たような気さえするほどで。

 敵の裏をかけばよい、と公言する正行らしい奇襲により、反乱軍は瞬く間に数を減らし、制圧され、なかには分断されて四方を敵に囲まれる兵士たちも出てきて、激しく土煙と血潮の吹き上がるなかでも勝負の帰趨は決していた。


「待て、それ以上攻撃するな! われわれは降伏する、武器を捨てて投降する!」


 堪らずといったように声が上がって、がらんと武器を投げ出す音、警戒を解かずにグレアム兵が土煙を覗けば、反乱軍の大半は抵抗を放棄し、両腕を上げていた。

 まるでそれを待っていたように、城塞に沿って吹く北風、ざっと土煙を南の彼方へ飛ばせば、戦闘開始から数十分、すでに戦闘は終了していた。

 軍を直接に指揮するロベルトは兵士たちに戦闘終了を呼びかけ、投降した兵士を攻撃せぬよう厳命してまわる。

 そのあたり、歴戦の勇士たる傭兵が多いグレアム軍も慣れたもの、手早く武器を回収し、兵士たちを数十人ずつの団体に分け、背中合わせて座らせて、縄でひとつに縛り上げる、そうすればどう努力しても動くことは不可能でありながら、縛られる人間も苦しさは感じない。

 その後、倒れ伏した敵味方を確認し、息があるものは治療を尽くして、そうでないものは葬る準備のためにその場から運び出される。

 馬に乗るロベルトのもとには各小隊からの連絡兵が届いて、それによるとグレアム軍でもっとも大きな被害を受けたのは、正面から突撃した第七軍、左右へ展開して包囲を完了した第二軍、三軍はどれも軽微な犠牲で済んで、副官のヤンが数え上げたところによると、五千余りのグレアム軍で被害の総勢は六十八人、敵方の死体はおよそ百とすこしで、どちらも人的被害はほとんど出ないまま集結したと知れる。

 ロベルトは続いて方々に指示を出し、戦場の後始末をしながら、思わずといった様子でぽつりと呟いたのを、ヤンが聞いていた。


「正行殿とやる戦争は、どれも簡単すぎて困っちまうな。こうもうまくできるすぎると、逆に不安だが――」

「でも、目的は完全に達成できました」


 ヤンは自らの武功を誇るがごとき顔色で、まだすこし子どもらしさの残る頬を興奮に赤くしている。


「こちらの被害はほとんどなく、必要以上に相手を苦しめることもなく。やはり正行さまは優れた軍師ですね」

「そりゃあ、優れていることにはちがいないが、戦いしか能がねえおれからしてみりゃ、多少は物足りないところもあるぜ」

「戦わずに済むなら、なによりじゃありませんか」

「まあ、そりゃそうだが――おいヤン、そろそろ正行殿のところへ行って、勝ちを報告してきてくれ。あっちから見えてるだろうが、詳しい犠牲者の数も伝えてやりゃあちょっとは安心するだろう」

「はい、わかりました。では行って参ります」


 敬礼のヤンにロベルトはうなずきひとつ、馬のないヤンは自らの足で背後に控える丘へ登った。

 その丘こそ、突撃までグレアム軍が隠れ潜んでいた秘密の丘であり、いま頂点にはふたつの人影、正行とベンノが並んで立っているところにヤンが息を切らせて走り寄れば、正行は風に前髪を揺らしながら笑って、


「そんなに焦らなくてもいいんだぞ。こっちからもちゃんと見えてるんだから」

「は、はあ、すみません」


 ヤンは恥じらってすこし笑い、それが人懐っこい笑顔なのだが、ふとまじめな顔になって敬礼すれば、正行も改まった表情、グレアム式の敬礼を返し、友人ではない軍規のなかに収まる。


「ご報告いたします。戦闘はすでに終結し、いまのところわが方の被害は、死亡が六十八名、負傷が二十三名となっております。変わって敵側の志望者は判明している分で百四、負傷が多数で、それ以外はすべて捕虜として捕らえております」

「ご苦労さま」


 正行は腕組みに、青白い頬を一層白くさせたような顔色で、


「捕虜は全部で三千近くになるか。いったい反乱軍はどこからこれだけの兵を連れてきたんだろうな。近くの農民から募ったにしては多すぎるし、訓練が行き届きすぎてる」


 と独りごちたあとで、となりのベンノをちらと見て、


「とにかく、おれたちの勝ちだ」

「うむ、見事であったの」


 ベンノはわずかにうなずいて、丘を降りるために歩き出せば、正行も続いて、それにヤンが従って。

 三人で丘を降り、戦闘が行われたあたりに近づけば、互いにほとんど損害のない勝負であったといえど、血なまぐさいことには変わりなく。

 荒れて乾いた土の地面、赤黒い染みが点々の残っているのはまだよいほうで、どろりと血溜まりができているかと思えば、それをだれかが踏み荒らしたあと、黒ずんだ足跡が周囲に擾乱している。

 死体はすでに荷台へ積まれ、それを城塞の奥へがらがらと運ぶ音、二本の轍が残るあいだに、垂れ落ちた血の雫が尽きぬまま。

 いくら被害がすくなかったといっても、ここでたったいま両軍合わせて百以上の命が失われたのだと考えれば、決して手放しでよろこべるようなものではない、それが正行の感覚としてはあるのだが、ここは戦勝を上げた軍の指揮官として、明るい表情で生き残った兵士を労わねばならない。

 死した者を思い表情暗く沈鬱に過ごすのと、生き残った者のために明るく勝ちを祝うのと、どちらが正しいのかといえばそのどちらでもなく、死は死として悼みながら、生き残った幸運をよろこび分かち合わなければならないのだ。

 それゆえに正行は、馬に乗ったロベルトが軽い調子で、


「おう」


 と手をあげるのに、同じ調子で、


「おう」


 と答えた。


「どうだい、大将。うまくやったろ?」


 ロベルトはにたりと笑い、馬から飛び降りる。

 巨体がどんと地上に降り立つのに、ふわりと舞い上がる土埃、正行は迷惑そうに手を払いながら、


「よくやってくれたな、隊長。これ以上望めない結果だよ」

「おれとしては簡単すぎてつまらねえんだがな。もうすこしむずかしい戦でもいいんだぜ」

「むずかしい戦も、いつかはくるかもな。できればきてほしくないけど」

「じいさんも、弟子の活躍を見られてうれしいだろう」


 とロベルトが言えば、ベンノは笑いながら禿頭を撫で、


「そうだの、正行殿が弟子ということもないが、たしかにはじめのころに比べて危なっかしさもなくなったし、心構えもよい軍師になったようだ。もはやわしは必要ないかもしれんの」

「冗談はやめてくれよ。じいさんなしで、どうやって国がやっていけるんだ」


 正行はあながち冗談でもないまじめ顔で、それにベンノもうれしげな目つき、ロベルトはうなずいて、


「戦争は正行殿に任せりゃ不安もないが、戦争だけが国でもねえからな。じいさんもまだまだ隠居はできそうにないぜ」

「そうだの……まあ、それもよいことか」


 ベンノは禿頭を撫でながらそっと視線を空に流し、その視界の端できらと光るものを捕らえた。

 なにか美しい、黄金の花びらが散るような一瞬であった。

 三人のそばにいた兵士がわずかに上げた声、静寂に戻った戦場に空しく響き、正行が振り返った先に、憎悪に歪む幼い少年の顔。

 目がぐっと飛び出し、大口を開いて、頬には涙の伝ったあと、輝くばかりの金髪がなびき、手元できらりと輝くのはちいさな懐刀で、正行は反射的に身を躱そうとして、足下が不意にやわらかな羽毛に変わったよう、まるで身動きがとれない。


「正行殿!」


 ロベルトが叫び、剣を抜き去った瞬間、正行の視界を黒い裳裾が遮った。

 美しい金髪が黒いローブに隠れたのは一瞬で、ずるりとローブが崩れれば、刀身が赤く濡れた剣がぬっと現れる。


「こいつ――」


 ロベルトがすかさず剣を振り下ろし、血に濡れた懐刀を払い落とせば、アルフォンヌは素手で正行に掴みかかった。


「おまえたちが悪いんだ、おまえたちが父上と兄上を殺したんだ! どうしてぼくに殺されない、どうしておまえたちが生きているんだ。おまえたちのような悪は滅びるべきなんだ、ノウム王国は決して崩れない!」


 正行はアルフォンヌに揺さぶられながら、なにも考えられず、ただ呆然とアルフォンヌの顔と、地面に落ちたローブを、倒れ伏したベンノを見下ろしていた。

 魂を奪われたような正行に、ロベルトは力尽くでアルフォンヌを引き剥がし、兵にぐいと押しつけて、ベンノの身体を軽々抱えた。


「じいさん、おい、しっかりしろよ。ガキに刺されたくらいで死ぬんじゃねえぞ」


 ベンノを励ます声、それで兵たちもなにがあったか気づいて、医療の心得がある者がただちに呼びつけられたが、脂汗を浮かべて血の気の失せたベンノの顔を見、ローブの下の傷口を見るに、表情が冴えることはない。


「これは――内臓を傷つけているかもしれません。そうなればたとえ手を尽くしたとしても助かることは――」

「そんなことはどうでもいいんだよ、とにかく助けろ! わかっているのか、これはただのじいさんじゃねえんだ、大学者ベンノだぞ」


 ロベルトが吠え、千人以上の兵士たちが取り囲み、また何十人という医者が治療に励んでも、風が吹くのを止められぬように、去りゆく命だけは捕らえようがない。

 ベンノは青白い顔いっぱいに苦痛を浮かべ、唸っていたが、それがすこしずつ穏やかに、ちいさくなってゆくのを、だれも希望の兆候とは見ない。

 励ます声も気遣わしく、医者たちの手がベンノの血で染まってゆけば、そこから命の欠片がぽろぽろと転がり落ちるよう。

 ベンノは薄く目を開け、空を見た。

 それが美しい青空であったことが、見守る兵士たちにとってなによりの救いであった。

 大学者ベンノはこの青空の下、遺す言葉もなく、最後には苦痛の表情もないままに、身体から解放されて自由の身となった。



 アルフォンヌは決して愚昧な子どもではなかった。

 むしろ聡明の一言に尽き、あらゆることを理解できる素養があったが、心のやわらかさは子どものそれであり、決して大人と同じ強靭さは持ち合わせていなかった。

 最初に、その心に闇を落としたのは、グレアム軍によるノウム城の包囲、それに伴う兄と父の死である。

 清澄な心にできた一点の黒い染みは、その後の軟禁生活で徐々に巨大化し、その後反乱を起こしてノウム城で数夜を過ごしたあとには、心のすべてを覆い隠すほどになっていた。

 幼い心がただすがったのは、コンドラートという腹心であった。

 枯木のように細いその身体に寄りかかり、あるいはじゃれついて、ようやく保たれていた心は、反乱軍とグレアム軍の衝突のさなか、激しい混乱のなかでコンドラートの姿を見失い、グレアム軍に捕らえられて状況が落ち着いたあと、何度捕虜を見回してもその長身痩躯が見当たらぬとわかったときに、音を立てて崩れ落ちた。

 アルフォンヌは、コンドラートが土壇場になって裏切ったのだと鋭く察したのだ。

 最後に残っていたわずかな光を失い、心のすべてを暗闇が支配したアルフォンヌは、ただ憎悪の指示するままに行動し、ベンノを刺し殺して、その場に組み伏された。

 止めどなく溢れる涙が、せめて大地を潤せばよいが、あまりにもちいさな両目では、そのあたり一帯に染み込んだ血液のほんの一滴さえも拭えぬ。

 それでもアルフォンヌは満足していた。

 グレアム王国の重臣をひとり、そのちいさな両手で消し去ったのだ。

 名もない兵士ひとりを殺すよりもはるかに巨大な打撃をグレアム王国に与え、そしてアルフォンヌは反逆者として死刑を宣告される。

 死刑執行は、アルフォンヌがそれを伝えられた翌日の早朝に行われた。

 アルフォンヌのほかに、謀反に深く関わったとする文官が何人か、セントラム城の城塞の内側で一列に並べられ、ひとつの合図で首が落とされた。

 アルフォンヌは最後の瞬間までベンノを殺したことに満足し、これでたとえいつか兄や父と再会しても下位向けできるはずと信じ、絶命した。

 ノウム王国の第二王子、ノウム・アルフォンヌは、ときに十二歳の少年であった。



 正行はアルフォンヌの最後を、城塞の一室から眺めていた。

 ベンノの死からすでに数日が経っている。

 その身体はいまだ埋葬されず、腐らぬように保管されて、その功績に応じた墓の完成を待っている。

 墓はセントラム城の外、海辺に作られる予定で、ベンノの性格を思い、あまり豪華にはせず、碑文は「大陸一の智者にして永遠の忠臣」と決まった。

 それらの指示をしたのは正行だが、アルフォンヌの死を見つめる彼は、いまだ白昼夢のなかにあるようで、事実正行はベンノの死の直後から二日ほどの記憶を失っている。

 目を失い、耳を失い、親を失ったに等しい正行だが、悲しんでいる余裕は与えられぬまま、むしろ自らに過剰な役割を課すように、正行はアルフォンヌの死を見守るとすぐに皇国へ戻ると言い張った。

 ロベルトはすこし休まなければ身体が危ういと忠告し、親しいとはいえぬアントンでさえセントラム城から城塞まで出てきて気遣ったほどだが、正行は最後まで自分の意見を変えず、たったひとりきり、馬に飛び乗り、皇国へ向けて走り去っていった。

 ロベルトとアントンはその背中を見送るしかなく、馬の軽やかな足音が丘の向こうへ消え去ると、どちらともなくうなだれて、足下に群生する名もない草をつま先で突く。


「まあ、正行殿の心は、正行殿にしかわからねえからな――本人が、そうして動いているほうが楽というなら、そうするのがいちばんいいんだろうが」

「しかし、アルフォンヌの死刑を決めたのは、正行殿なのだろう」


 アントンが言うのに、ロベルトはうなずいて、


「まあ、だれが決めるにしても、アルフォンヌは死刑にするしかなかった。反乱の先導者はアルフォンヌだ。しかし正行殿はじいさんを殺された復讐として死刑を決めたわけじゃねえぜ。むしろ、そうしたかったのはおれだ」

「む――そうか。貴殿も、たしかベンノ殿とは親交が深かったのだな」

「じいさんに憧れてた男のひとりさ。そういうやつは、この大陸には大勢いるだろうがな」


 ロベルトは太い指をぐっと折り曲げ、拳を握れば、城塞を力任せに叩く。


「できることなら、おれがこの手で殺してやりたかった。じいさんを殺したあいつを。子どもだからって容赦できるか――実際、おれはあいつを殺しかけたんだ。じいさんが死んだあと、すぐにな。それを正行殿に止められて、思いとどまった」

「正行殿も悔しくはあっただろうが」

「そりゃそうだ。この一年、ほとんど親子みたいなもんだったからな。それにアルフォンヌにはもう親もいねえ。殺したところで、泣く人間もいねえのさ。でも、正行殿はそうしなかった。だれも見ていなくても、グレアム王国って組織が不正をやるわけにはいかないってな。アリスさまのために殺すなというんだ。そう言われちゃ、おれもそれ以上はできねえよ」

「うむ――」


 アントンはつと空を見上げて、


「意見の対立はあったが、ベンノ殿がいたおかげで国が動いていたのも事実、この先、どのようにやっていけばよいか……」


 皇国へ向け、馬を走らせる正行、たった一騎の騎馬が猛烈な勢いで草原を駆けている。

 待ち受ける丘も、遠くにちらと見える集落の煙も構わず、正行はただ馬を飛ばし、その背にしがみついていた。

 皇国まではまだしばらくかかる。

 いくつか夜を越え、あるいは昼間の強い日差しを走り、途中の集落では物を請い、あるいは川の水を啜っていれば、その身体のなかにわだかまるなにかが薄れるものと信じていた。

 悲しみとも憎しみとも、またアルフォンヌに対する憤怒とも自分自身に対する嫌悪ともつかぬもの、なにかの拍子に炸裂して取り返しのつかぬことをしでかしそうな危ういものが、皇国にたどり着くころには消えると信じた。

 もし消えなければ、それが自分の最後だろうと確信し、正行はただひたすらに馬を飛ばして、皇国を――そこで待つはずのアリスを目指したのだ。

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