心の行方 6-1
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セントラム城に常駐する兵士は、正行とベンノの指示で、日ごろから城塞に暮らすことになっている。
反乱軍の接近に従い、作戦会議室もまたセントラム城内から城塞へと移動して、正行はそこでベンノやアントン、ロベルトといった面々の出迎えを受けた。
「いや、遅くなって悪い」
と正行は馬から飛び降り、すっかり呼吸が上がってへとへとに弱り切っている馬の首を撫でてやり、迎えにきた兵士に、
「うまい飯を食わせてやってくれ。丸一日、よく走ってくれたから、好きなだけ食わせて、休ませてやらなきゃな」
「はっ、了解しました」
「おまえさんこそ、大丈夫か」
ベンノは正行を気遣うような顔色で、
「馬は一日でも、おまえさんはそれどころではあるまい。すこし休んだほうがよいのではないか」
「いや、おれは大丈夫だよ。ちょっと寝不足なだけだ」
と意地を張る正行、顔色は青白く、やはり健康体ではなさそうな。
しかし思考は冴えているらしく、正行はそのまま会議室へと自らの足で向かって、地図をじっと見下ろしながら、ベンノにちらと流し目を。
「途中の農家で、こっちの軍勢は隠れて反乱軍を強襲するつもりらしいってうわさを聞いたけど、あれ、じいさんの作戦だろ?」
「むっ、おまえさんには気づかれたか」
「やっぱり」
正行はすこし笑って、
「そうだろうと思ったんだ。時間稼ぎのために、わざとそうやってうわさを流してるんだろうって。もし本当に強襲するつもりなら、そんなうわさ、流れるはずがない。おかげでおれも間に合ったし、兵士も集まってる。さすがじいさんだって感心してたんだよ」
「しかしその反乱軍も、いまや一日二日の距離まで迫っておる。なにか作戦はあるか。われわれのほうでは、正面から戦っても決して負けはせんと踏んでおるが」
その言葉、アントンやロベルトがうなずくのに、正行は一瞬視線をやりながら、最後にはベンノに戻って、
「じいさんも、それがいちばん得策だと思うか」
と訊けば、ベンノはゆるゆると首を振って、
「それでも勝ちはあると思うが、得策とは思わん。双方に犠牲が出すぎる。まったく圧倒できるほどの兵力差があるならよいが、ノウム城へ派遣していた兵士千を欠いて、こちらもいまや五千、向こうは三千あまり、それほど圧倒的とはいえんしの」
正行はうれしそうに笑って、
「おれもそう思う。正面衝突でも勝てるけど、それじゃあまりに不格好すぎる。どうせならもっと身軽に戦おう」
「身軽に?」
「おれたちの後ろには、この城塞がある。兵士がいなくたってこの城塞が守ってくれるだろ。だったら兵士は別のところへ配置しよう。うまくすれば、ほとんど犠牲を出さずに勝てる。兵への細かい指示も必要ないから、作戦としても単純だ」
正行はその場で地図に指を這わせ、作戦の説明をはじめた。
ベンノとコジモは黙って聞き入り、時折疑問を投げかけ、正行はそれに答えて、アントンとロベルトはむしろ畏れに近いような眼差し、作戦の説明が終われば、ロベルトは正行の背中をばんと叩いて、
「よくもまあ、そんなことを考えつくもんだ。いったいどういう脳みそをしてるんだ」
「別に変なことでもないだろ」
と正行はロベルトの豪腕で叩かれた背中を押さえながら、
「結局、敵の裏をかけばいいんだ。そのことだけを考えてやれば、それほどむずかしいことでもない。それにおれは、馬でここへ戻ってくる途中に考える時間が山ほどあったからな」
「しかしこの作戦なら、被害はあまり出さずに勝利できそうだ」
とベンノもうなずき、それからふと正行を見て、
「両軍の衝突までまだ一日はあるだろうから、おまえさんはそれまでゆっくり休め。肝心の指揮官が倒れては、せっかくの作戦も無意味だからの」
「いや、おれは大丈夫だよ。まだ兵士たちに説明しなきゃいけないし、直接の指揮もとらなきゃいけない。もう一日か二日しかないんだ、寝てるひまはないよ」
「しかし――」
「大丈夫だって」
と正行は笑って、
「じいさんとちがって、おれは若いからな。まだ多少の無理は利く」
「おお、言われちまったなあ」
ロベルトが笑えば、ベンノもむうとむずかしい顔、正行も笑っていたが、さすがに疲れたように息をついて、椅子に腰を下ろした。
本人はそんなつもりもなかったのだろうが、ぐったりと椅子にもたれかかる姿は痛々しく、緩く目を閉じれば周囲が気を遣って静かに会議室をあとにする。
正行はそのまま、自覚のない眠りに落ちた。
必要に駆られて馬を休ませるとき以外、まったく立ち止まらずに皇国からセントラムまでの道のりを超えてきた正行なのだ。
いくら若いといえど疲労困憊、意識を失うように眠るのも無理はなかろうというところ、しかし本人は疲れの自覚も薄く、はっと目を覚ましたのは、わずかに十分あまり眠ったあとで。
蝋燭も一本限り、机の上には地図がそのまま置かれて、あたりはしいんと静寂、目を覚ました正行は緩やかに首を振ったあと、ほとんど無意識に壁を見回したあと、ぽつりと、
「時計なんてないんだっけ――もうこっちへきて一年くらい経つのに、まだ習慣が抜けてないな」
立ち上がれば、足下がふらり、蹣跚に慌てて椅子の背を掴み、もう一度改めて首を振ったあと、まだ覚醒しきらない意識を叩き起こすように頬をぱちんと叩いた。
会議室を出て、壁に穿たれた窓から城塞の内側を見れば、すでに兵士が集結している。
正行はそのまま城塞を出ようと階段を降りる途中、反対に上がってくるベンノと出くわして、
「いま起こしに行こうと思っておったところだ。体調は大丈夫か?」
「問題ないよ。なんならすぐに起こしてくれてもよかったのに」
「できればもっと寝かせてやりたかったが、そろそろ兵の指揮を頼まねばならん」
ふたりは並び、階段をこつこつ、ベンノは正行の横顔をちらと見て、
「すまんの」
と一言で。
正行は首をかしげて、
「なにが?」
「いや、いろいろだ。おまえさんがこう忙しくしておるのも、もとはといえばわしのせいと言えぬこともない」
「ああ、そのことか」
と正行は温かな笑みで、
「それなら、おれのほうが感謝しなきゃな。ベンノのじいさんに出合ってなかったら、いまごろこの大陸のどっかでのたれ死んでたかもしれないんだから。こうやってまともに生きていられるのも、じいさんとアリスのおかげだ」
「おまえさんはそういう性格だから、大したことでもない恩義に縛られていやしないかと、わしは不安なのだよ。もし疲れたら、そう言ってもよいのだぞ」
「わかってる。おれは、じいさんが思うよりみんなを信頼してるよ。だからこそおれもがんばらなきゃと思うんだ」
正行はぽつりと言って、すこしためらうように頭を掻く。
ふたりの足はすこし鈍って、まだ城塞の外に出るのをためらうふうで。
「なんていうか、向こうでは――おれが昔いた世界では、こういうことってなかなかないんだよ。家族とか友だちとか、そういう大切なひとたちはいるんだけど、おれが自分の力でそのひとたちを守れることなんて、ほとんどない。でもここはおれが努力した分だけみんなが幸せになってくれる気がする。自分のしたことが他人に強く影響する気がするんだ」
「まあ、そうかもしれんの。おまえさんがいなければ、グレアム王国は去年の夏に滅亡しておったであろう。その後もいろいろなことがあった――どれもおまえさんの働きがなければ、こうはなっておらん」
「だから、がんばれるんだよ。たぶん、アリスとかロゼッタにはわからないことだと思うんだ。あいつらは結構だれでも好きになれるし、敵味方関係なく愛せるような人間だから。おれはそうじゃない。好きになるにも大変で、だから好きになれそうなひとは大切だと思う。そのひとたちを守るために、ほかの者を傷つけても構わない――すくなくとも、仕方がないって自分に言い聞かせたらなんとかなる。アリスやロゼッタは絶対にそんなことができない性格だろ」
「そうかもしれんの……」
「おれはそれができるから、自分の手が血で汚れても、だれかの手を血で汚しても、そうするんだ――じいさんのせいでもないし、アリスたちのせいでもない。強いていうなら、おれはこういう性格なんだよ。聖人君子なんかほど遠い、自分勝手で凶暴な人間なんだ」
正行は城塞の外へ、五千あまりの兵士たちが待つその場所へ足を向けながら、城塞のなかに残ったベンノを振り返り、笑った。
「じいさんにだけは本当のことを教えとくよ。おれはな、たぶんこうやって戦争をして他人を圧倒するのが好きなんだよ。最近そう気づいたんだ。だから、感謝してる」
そのまま歩き去る正行は足取りも荒々しく、すでに兵を率いる指揮官の背中、まばゆい光のなかに消えてゆく。
ベンノは薄暗い城塞のなかからそれを見守り、不安げに眉をひそめて、独りごちた。
「自分にそう言い聞かせなければ、この場に立ってもいられんのか――やがてそれが彼の身を滅ぼさなければよいが」
あたりにはセントラム地方独特の、潮の匂いを含んだ強い北風が吹いていた。
ハルシャの大軍三十万、まっすぐ皇国を目指して北上中という報せは皇国にも届いていたが、祭りに浮かれているということもあり、また市民は皇国の強さを信じきっているという事情もあって、騒ぎらしい騒ぎにはなっていなかった。
皇国に集結している王侯貴族も、自らの国に関係がなければ、というような姿勢で、口の端に上ることはあっても、差し迫った深刻な問題としては扱われていなかった。
皇帝自身、反逆者たるハルシャのロマンに対して抗議するような姿勢はあるものの、根っからの平和主義がそうさせるのか、あえて皇国に兵を集めることもなく、手持ちの兵一万あまりに指示を出すこともない、ただ余計な行動はせず、皇国内にじっと身を潜めておけというばかり。
そして皇国全体がまだ祭りの熱狂のなかにあり、敵襲どころではない浮かれようなのである。
何十万という人間が暮らす皇国のなかで、昼も夜も真剣な顔で眉根を寄せているのは、せいぜい第一皇女のクラリスとグレアム王国の女王アリスのうら若きふたりくらいのものであった。
しかしそれぞれ、不安げな顔はしていても、考えていることはちがうらしい、アリスはアルフォンヌの反乱と聞いて自国の様子を思っているし、クラリスは皇国の行方を心配している。
ふたりは宮殿内で顔を合わせても、とくに言葉を交わすこともなく、アリスは礼儀正しくクラリスに頭を下げ、クラリスは当然のこととしてそれを受け入れるのみで。
それが、アリスが宮殿に滞在してしばらく経ったころ、昼食後のちょっとした社交で、クラリスのほうからアリスに近寄っていくということがあった。
アリスは驚きながらもクラリスに挨拶し、丁寧に頭を下げて、クラリスはただ一度うなずいたきり、すぐに話題を切り出して、
「あの日以降、そなたの国の情勢は届いておらんが、どうなっておるのか」
と率直に聞いた。
アリスは緩やかに笑って、
「ご心配、恐懼の至りにございます。わたしのところにも新たな情報はございませんが、最初の報告では反乱軍は総勢でも三千というところ、こちらには六千の兵がありますゆえ、じきに制圧できることと存じます」
「そのような建前はよいのだ」
むしろ苛立たしげなのはクラリスのほうで。
アリスは首をかしげて、
「なにをお聞きになりたいのでしょう、クラリスさま」
「雲井正行は無事に間に合っておるだろうか。皇国から、そなたの国までは遠いからの。もしや戦場に間に合っておらんのではないかと思うのだが――いかに名の通る智将の雲井正行といえど、戦場に間に合わねばどうすることもできまい」
「たしかに、時間的にはむずかしいところもございますが、わたしは彼が間に合うことに不安はありません」
アリスは堂々と言ってのける。
「正行さまは必ず戦場に間に合い、わが方に勝利を授けてくださいます。これまでもそうであったように、これからも」
「ふむ――」
ようやく満足げにうなずくクラリス、銀髪がちいさく揺れて、アリスもついそこに見とれる。
ふたりは一瞬無言で見つめ合い、先にはっとわれに返って目を逸らしたのはアリスで。
クラリスはふんと鼻で笑うと、まるでアリスを嘲笑するよう、くるりと踵を返し、
「そなたは、敵がだれなのかまだわかっておらんようだ。現状ではたやすいことよ」
「敵とおっしゃいますと」
「雲井正行は、まさか首輪でグレアム王国に繋がれておるわけではあるまい? そなたには言っておくが――」
クラリスはちらと振り返って、
「私は必ず雲井正行を手に入れる。そのときそなたが障害になるか、あるいは別のなにか、だれかが障害になるか知れぬが、どんな困難であっても私の意思を曲げるには至らぬ」
「正行さまを――」
驚きに目を見開くアリスに、クラリスは厳しい足取りで去ってゆく。
アリスは孤独な宮殿で、遠く離れた国を思い、そして正行を思った。




