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八重鏡  作者: 藤崎悠貴
心の行方
72/122

心の行方 5-1

  5


 皇国からしばらく南へ馬を走らせたところ、小高い丘が立ち並ぶ一帯に、丘の影にひっそりと隠れるようにちいさな城が存在している。

 アドニス城というその城は代々アドニス男爵家が管理する城であり、現在もその末裔が住み、古い時代の赴きを多分に残した穏やかで静かな城である。

 周囲には城壁もなく、代わりに民家が点在し、それが城下町となっているが、それでも人工は五百人を超えず、さらに南方から皇国を目指すひとびとの中継地として古くから重宝されていた。

 今年も皇国で開かれる祭りに合わせ、観光客が徐々に増えはじめたころ、アドニス男爵自身もそろそろ皇国へ向けて出かけるための準備をはじめようかというそのときに凶報はやってきた。

 いまや大陸南部をほぼ完全に牛耳っている大国、ハルシャが何十万という大軍を引き連れてこちらへやってくるという、悪夢のような報せである。

 十三代目アドニス男爵は濃いひげ面の四十男、代々の男爵と同じように特別な政策はなく、ただ皇国から預かっているこの地を守り、次の世代へ受け継ぐことだけを考えてこれまで領地を守ってきたが、ここへきてひとつの決断を強いられることとなる。

 皇国の敵たるハルシャと一戦交えるか、あるいは降伏するかのどちらかを選ばなければならないのだ。

 アドニス男爵は夜を徹して悩み抜き、それもそのはず、戦うにしても千に見たぬアドニス城の兵力では抵抗さえできず、数十万というハルシャの大軍に飲まれてしまうだろうし、降伏したところで待っているのは略奪と陵辱、緑の美しい丘陵地帯は見るも無惨に破壊されるにちがいない。

 どちらを選ぶにしても死が待ち受けていることは明らかで、アドニス男爵が気にするのは、自らの死ではなく城下町に暮らすひとびとの命であった。

 彼らが助けるには、どうすればよいか。

 無論、逃げるしかないのだ。

 アドニス男爵は刻一刻とハルシャの大軍が迫るなか、城下町のひとびとに持てるかぎりの家財を馬車に積み、できるだけ遠くまで逃げるようにと命を出した。


「男爵さまは、いかがなさるのです?」


 臣下のひとりが問えば、アドニス男爵は内気そうな笑みをひげの下に浮かべ、


「わしはこの城に残るよ。皇帝陛下からお預かりしているこの土地を無人にするわけにもいくまい。あとのことはおまえたちに任せるぞ。無事に民を率い、どこか安全な場所を見つけ、そこで平和に暮らせ」


 その覚悟に臣下も落涙を禁じ得ず、堰きあえぬ嗚咽が漏れるなか、城下町ではそれどころではない大騒ぎ、右を左に家をひっくり返し、ともかく詰めるものを精いっぱい馬車に詰め込んでいるところ。

 奇しくもよく晴れた、ぽかぽかと暖かい恐ろしくよい陽気の昼下がりであった。

 城下町はかつてないほどの喧騒に包まれ、そのなかを見かけない馬が何頭か、まるで町を見て回るようにゆっくりと歩いている。

 普段ならまた客がきたのかと思うところ、今日ばかりはそんな余裕もなく、だれにも注意されることなくアドニス城の城門前に降り立ったのは五人の男たちで。

 どれも黒い外套を羽織り、見るからに妖しげな風体、門番に告げる名はといえば、


「ハルシャからの使者である。アドニス男爵に面会したい」


 アドニス城のひとびとは、その使者を礼儀どおりの歓迎でもって迎えた。

 いましもこの美しい田舎町を破壊しようとする軍勢の使者といっても、決して手出ししないのが決まり、アドニス男爵も慇懃に出迎え、多数の臣下、兵士たちが見守るなか、話し合いが持たれることとなった。

 ハルシャの使者は身辺警護の兵を四人連れていて、それらが使者をぐるりと取り囲むなか、アドニス男爵は切り出した。


「あなた方の軍勢の強力さは、無論のこと承知しております。われわれに抵抗の意思はなく、町もごらんになられたでしょうが、彼らはいまからできるかぎり遠くへ逃げ去ります。とはいえせいぜい五百人の民、襲って家財を奪ったところでどうなりましょう。どうか彼らは無事に逃がしていただきたい」


 アドニス男爵は丁寧すぎるほどの口調で懇願し、自ら使者に向かって頭さえ下げた。

 使者は黒い外套の裾をさっと払い、一歩アドニス男爵に近づいて、その足下に跪く。


「さすが由緒ある男爵家の末裔、態度も意見も立派なり。ハルシャの皇帝、ロマンも深く感服することであろう」

「ならば――」

「しかし、そのほうの要求は聞けんな」


 黒い外套の下、にやりと奇妙な笑みが走ったかと思えば、外套がばっと広がり、白刃が走った。

 周囲の臣下と兵士が一歩も動けぬうち、アドニス男爵の身体がどっと倒れ、床にどろりと血が流れた。

 同時に使者とともにやってきた兵士四人も剣を抜き払い、最初の一撃では殺しきれずに呻き声を立てていたのを、四人揃って追い打ちしたあと、あたりをじろりと睨みつける。


「い、いったいなにを、なぜ――」


 目の前で行われた凶行が信じられぬという顔、臣下が問うなかで、使者はさっと外套を脱ぎ去った。

 なかから現れたのは、特徴のない中肉中背の男、幼いような老成したような顔つきで、白刃をさっと払えば、剣先から血の雫が飛び散った。

 男は集結したアドニスの兵と臣下をぐるりと見回し、その異様に激しい目つきで周囲を圧倒すると、すかさずよく通る大声で、


「われはハルシャの皇帝、ロマンである。見てのとおり、誠実なるアドニス男爵は死んだ。おれが殺したのだ。そこで、おまえたちにはふたつの選択肢が与えられている」


 ロマンは剣を鞘にしまうと、踵をこつこつと鳴らして部屋のなかを歩きまわった。

 兵士が飛びかかろうと思うなら容易に叶うような至近距離、しかし魔法で封じ込められたように、その場にいる全員が指一本すら動かせない。

 ロマンは全身から奇妙なほどの威圧感を発し、それがすべての人間を捉え、ロマンから視線を逸らせぬようになっているのだ。


「まずひとつ目は――」


 と白い指を突き立て、ロマンはくるりと踵を返す。


「このまま、ハルシャの進軍に飲まれるか。諸君らに届いている報告では、まだ大軍の到着まで数日かかるとされているだろうが、あれは偽りである。おれが命令し、そのような偽りの報告を流させた。四十万を越えるハルシャ軍はすでにアドニスの町を包囲し、おれの命令ひとつで略奪をはじめることになっている」

「なぜ――このような、人口が五百人にも見たぬちいさな町を、襲うのですか」


 震える喉で問えば、ロマンはこんなときばかりは笑いもせず、


「ただの暇つぶしである」


 と言ってのけた。


「まあ、有り体にいえば邪魔なのだ。皇国へまっすぐ進む進路上にあるのが悪い。諸君らにはいままで長らく逃げる機会が与えられていたのだぞ」


 さほど広くない部屋を何往復もしながらロマンは講釈する。


「まずわれらがハルシャと皇国の直線上にこの町があることは、地図さえ見れば子どもでもわかる。そこへきてハルシャの軍が侵攻を開始したといううわさは聞き及んでおったはずだ。なぜそこですぐに逃げる準備をしなかった? そのときに町ぐるみで逃げておけば、だれひとり被害もなく、われわれは空になった町を通過するだけに済んだであろうに。しかしいまではもう遅い。諸君らに与えられたひとつ目の選択肢はあくまでハルシャ軍に対抗すること、そしてもうひとつは、ハルシャ軍に投降し、今後ハルシャ皇国のために戦うと誓うことである」

「そ、そのようなことができるか! われわれはアドニスの人間、目の前で主を殺され、なおかつ移り身せよとは――」

「ふん、なかなか気骨のある台詞よ。貴様、名前は?」


 抗議した臣下はぐっと喉の奥で唸って、


「ラングレーだが」

「ではラングレーくん、残念だが、きみはわが国民には向いておらんようだな」


 ロマンが目くばせした瞬間、兵士のひとりがすばやく動き、一呼吸のあいだに抗議したラングレーという名の臣下を打ち倒し、その首を剣先で穿っている。

 ほかの臣下と兵士が揃ってどよめき、怯えた表情を見せるなかで、ロマンは命じた。


「さて、ほかの諸君。ラングレーくんはこの城に暮らしているのか。家族は? 財産はどれほどあったのか、正直に教えてくれたまえ。それらすべてはすでにハルシャのものである。そして正直に申告したものには、それをそのままそっくり与えよう。あるいは、こう言ってもいい――となりにいる人間をいま殺せば、そいつの持つ財産をすべて与えよう。ここで力と忠誠を示すなら、その働きに従って報酬を取らせる。もし拒むなら、まず財産を奪い、家族を奪い、その果てに殺してやろう。どちらがよいか、すぐに選べ」


 ロマンはまた踵を返し、一同に背を向けた。

 そのまますたすたと気楽な様子で城の外へ向けて歩いていったかと思えば、立ち止まって、


「選択は迅速が命なり。おれが町の外へ出てハルシャ軍に合図をする前に決めておけよ。軍が町に突入したとき、隣人の首をひとつでもぶら下げていない者はハルシャの敵と見なす。首を持っているものは、仲間として歓迎しよう。この先にもいくつか町や城がある。略奪の機会は、まだまだあるというわけだ。そしてすくなくとも、諸君らの英断によって諸君らの家族が救われる。それとも、隣人の手にかかり、妻を奪われ、子を奪われるのを空から見るのが望みか?」


 ちらと振り返ったロマンの口元に、にやりと薄い笑み、それだけを薄闇に残し、ロマンは城を出ていった。

 付き従う兵士が剣を鞘に収め、あとを追う背中にも、臣下や兵士たちは呆然とした視線を送るのみ、やがて彼らだけが残され、顔を見合わせた。

 文字どおり、何十年と同じ城で暮らしてきた「隣人」同士の見慣れた顔、それがいまや恐怖に引きつり、青ざめて、唇は小刻みに震え、額には冷や汗が粒となって。


「あ、あれは本当に、ハルシャの皇帝だったのか。それとも質の悪いいたずらか?」

「いたずらでひとが死ぬか。あれは本物だ」


 上擦ったような、低く沈むような、神経質で震えた声が囁き合うなかで、薄暗い室内にきんと金属の擦れ合う音が響いた。


「おい、だれだ。まさか――」

「お、おれには若い娘がいるんだ。おれには――」


 最初の一太刀はだれがはじめたものであろうか。

 古くからの礼儀と思いやりを残すアドニス城は、たちまち阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。

 昨日まで笑い合っていた友を斬り殺し、苦心してその首を落とす後ろからぎらりと閃光、死体が折り重なり、どちらのものともつかぬ血が流れ、とくに剣の扱いに未熟な文官が多く狙われた。

 十分足らずにして軍を用いずアドニス城を攻め落としたロマンは、騒がしい町中をゆっくり歩きながら小高い丘を隔てた場所へ戻り、そこにずらりと集結した三十万のハルシャ兵に命令を下した。


「奪えるものはすべて奪え。ここで奪ったものは、ひとでもものでも、そのまま諸君の取り分となる。数はすくないぞ、早い者勝ちだ。しかし同じハルシャ兵同士で争っているものを見つけたときは、両者を処分することとなる。それだけは注意しておけ。――では、かかれ」


 三十万の雄叫び、兵士は黒く渦を巻き、大きく波打って丘を越え、脱出準備を進める町に襲いかかった。

 大きな荷物を抱えた市民に抵抗の手立てはなく、また、城のなかでは腰に仲間の首をぶら下げた狂気の「ハルシャ兵」が動きまわり、ハルシャはアドニス城を落とすのに、兵を欠くどころか何十人かの仲間を増やし、アドニスのすべてを奪い尽くした。

 のどかなアドニスの町は一時間もしないうちに瓦礫と死体の町と化し、それでも満足できぬ欲深き兵たちは、また別の町を探して北上を続ける。

 果てのない暴虐、尽きぬ陵辱をやり過ごすには、ハルシャの国民になるほかないのだ。

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