流星落ちるはかの国に 3-2
*
地下へ下りてゆく道すがら、ベンノはそれとなくアリスを気遣ったが、アリスのほうではむしろ年寄りを案ずる仕草、ドレスを指先でちょんと掴み、裾を上げて、薄暗いなかに細い足首がちらとひらめく。
ベンノが先に立ち、扉を開けて牢へ入れば、なかの兵士が軽い敬礼をやりかけるのに、後ろから続くアリスに気づいて、一瞬の呆然、すぐさま踵を鳴らして最上級の敬礼。
背筋をぴんと伸ばして兵士に、アリスはちいさくうなずいて、しかし視線は早鉄格子のなかへ向かうよう。
ベンノが鉄格子にするすると近寄り、アリスにはわからぬ異国の言葉、なかへかければ、薄闇のなかでごそと人影が動く。
奥のほうは闇がわだかまり、輪郭も定かではないが、松明のある鉄格子の近く、ぬっといずるは年若い青年、アリスはまあというように口を覆い、目を見開く。
「もうすこしお年を召した方かと」
「なに、ほんの子どもですよ」
とベンノが知ったようなことを言えば、鉄格子の向こうで青年もアリスに気づき、このような薄暗く湿気た牢獄にはふさわしくない白いドレス、美しい身なりと見目形に驚いた顔。
ひげもない、どちからといえば繊細な顔立ち、薄い唇がなにか言えば、アリスは首をかしげる仕草も美しく、
「なんとおっしゃったのですか」
「あなたさまはだれだ、と。お任せくださいませ」
ベンノは、またもやアリスには皆目理解できぬ言葉を巧みに操り、青年になにかを説明する。
ふむとうなずき聞く青年は、片時もアリスから目を離さぬが、それがいやな視線ではないのである。
このあたりの人間と同じく黒い髪に黒い瞳、痩せていて、珍しい服装、女か子どものような幼い顔立ちに見え、目は油断なく動いて、それがふとアリスの胸元、吸い寄せられるように止まる。
アリスははっと気づいて、胸元を飾る緑色の貴石を握りしめた。
慌てたように青年はなにか言って、ベンノはにたり、皺だらけの顔をゆがめれば、
「この男、どうやら姫さまの美しさに参っているようですな」
アリスはぽっと頬を赤らめるが、それこそベンノのような老人や、絶対服従を誓う兵士でさえうっとりと見とれるような美しさと愛らしさ、うつむいた首筋も清潔で、鬱々たる牢獄がたちまち華々しい社交の場にでもなったよう。
ふわりと垂れ下がった目元に照れの色を残しながら、アリスは顔を上げて、鉄格子のなか、青年に向かって直接しゃべりかける。
「あなたはどこからいらっしゃったのです。お国はどちらに?」
鈴を転がすような声で囁かれるのが、ベンノのしわがれ声でしか理解できぬ青年も不運だが、ともかく意味だけは通じたらしく、青年は鉄格子の向こう、腕組みしてなにか答えた。
ローブの裾を揺らして振り返るベンノが言うのに、
「こことはまったく異なる世界の、にほん、という国だとか」
「にほん」
響きだけは伝わって、青年はこくんとうなずく、それに釣られるようにアリスもうなずいて、
「ここはグレアム王国です。このようなときでなければ、歓迎もできるのですが」
ベンノが伝えて、青年は鉄格子をきゅっと握り、おぼつかない口調、
「ぐれあむ」
と呟く。
アリスも一歩近寄って、その淡く色づく唇、自ら指し示し、
「グレアム、そうです。覚えていただけましたか」
にっこりと笑えば、青年はじいと見とれて、照れたように目を逸らす。
「まったく、牢に入れられておるというのにのんきなもの」
とベンノは呟くが、仕方あるまいとも思うので、青年の発音をできるだけ正してやり、自分たちの名前も伝えた。
「ベンノ」
青年はベンノをちらり、アリスに目をやって、
「アリス」
「これ、呼び捨てとは何事」
思わずベンノが言えば、
「よいのです、ベンノさま」
とアリス自身は朗らかそのもの、青年に、
「気軽にアリスとお呼びください」
「い、いけませぬ、姫さま。なにゆえよそ者が呼び捨てなど」
「よそ者であるからこそ、わたしはただの女、姫でもないのですから。さあ、ベンノさま、お伝えくださいまし」
「し、しかしですなあ」
皺の深い顔に苦渋を貼りつければ、しかし姫の命令、ベンノは仕方なく伝えて、青年はアリスに向かって何度も、
「アリス、アリス」
と呟いている。
その度にベンノの表情がぴくりと動き、アリスはといえば、
「はい、そうですよ」
とうれしげなのだ。
やってられん、とベンノが嘆息するのに、アリスはふと思いついた顔、天真爛漫に手を叩き、
「わたしたちの名前はきちんと伝わったようですから、今度はあなたのお名前をお聞かせください。なんとおっしゃるのですか」
ベンノが聞くに、青年はゆっくり、
「まさゆき。くもい、まさゆき」
と答える。
アリスも発音を確かめるよう、唇を震わせて、
「正行、正行さま」
「むう。姫さまが敬称を使うのに、かような旅人が呼び捨てとは支離滅裂。未だかつてこのようなことはなかったが」
「ところで、ベンノさま」
アリスは話題をころりと変えて、
「正行さまが捕らわれているのは、ゆえあってのことなのですか」
「いや、なに、この緊張時に不審なものがおるというので、兵士が捕らえたのですよ。ゆえというならそれがゆえ」
「では、もう解放してもかまわないのでしょうね。いつまでもこのような薄暗い牢へ入れているのは、人道にもとります」
「さようですか。まあ、たしかに危険はないようですがの。ではひとつ、ちょいとおまえさん、こいつを出してやってくれ」
とベンノが言えば、兵士はこくりとうなずき、腰につけた鍵束、じゃらじゃらと揺らして鉄格子を開ける。
青年はそれでも、しばらく開いた鉄格子を見て外に出てよいか迷うようだったが、ベンノが伝えて、ようやく出てくる。
牢も廊下もさほど変わらぬ態ながら、やはり気楽なものらしい、伸びをする顔も緩んで、アリスと同じ年頃の青年らしい表情を見せる。
「いま、城下町はとても観光どころではないでしょうから、城内をご案内いたしましょう」
アリスは白いドレスの裾も名残惜しく、優雅な様子で狭い階段を上がっていく。
ベンノと青年があとから続くのを、兵士ひとりだけが見送って、ようやく光の差す場所へ。
しばらく地下へ潜っただけで、早目が暗闇に慣れたよう、薄暗い廊下にさえ眩しく、アリスは手を庇にかざして目を細めた。
ベンノはあたりはばからず顔をしかめ、続く青年、正行は薄く目を細めるも外に出られたことがうれしいよう、口元にやわい笑みを浮かべて。
「さあ、こちらへ」
とアリスが上品に導くのを、ベンノはううむと困り顔、正行は事情も知らぬから、ごく当たり前のように続いてゆく。
広々とした玄関ホールは、ちょうど夕暮れ近くなり、火を入れはじめようというころ、シャンデリアが降ろされてひとつひとつに明かりが灯る。
作業のためか、激しくひとが出入りし、開け放たれた城門、向こうにはもくもくと曇り空に、透かしたように燃ゆる夕陽鮮やかで、朱色から紫まで、妖しく光るようでもあり、美しく輝くようでもあり。
三人連れで歩きながら、すれ違う城の人々、どれも色を失って右往左往するのに、なかにはアリスとすれ違ったことさえ気づかず無言のうちに脇をすり抜けていくものもあるくらい、事情を熟知する前ふたりはともかく、なにもわからぬ正行は不思議そうな顔をしたまま動かない。
アリスはちらとベンノを振り返って、
「できるだけ、正行さまにご説明いただけますか」
「まあ、じき国民にも知れること、いまさら機密する必要もありませぬな」
ベンノがつらつらと正行へ説明しているのを、婀娜な流し目、アリスは聞き流しながら、城のなかを歩きまわる。
衣装室あり、食堂あり、なかには城に暮らしてもアリスが立ち入るべからざるような衛兵の詰め所あり、それぞれの部屋は簡素だが、ぐるりと回るには時間がかかる城内である。
普段なら落ち着き、そこかしこから静かな笑い声さえ聞こえてくる城内、さすがに擾乱の気配ありて、すれちがうものみなどこか緊張があって、アリス自身それを肌で感じるが、表には決して出さぬ覚悟を貫いている。
王とは国の最高権力者であると同時に、象徴でもある、それをアリスは理解し、自らをもって象徴たらんと、こんなときでも決して足取り急がず、優雅な身振り手振りを変えない。
ベンノはアリスの後ろ姿に並々ならぬ覚悟を見て、どうやら世代がまたひとつ移り変わるようだと、いくつもの世代を見てきた老人らしく感慨深く思うのだった。
日が暮れゆけば、廊下にもずらりと松明、洋燈を下げた女中が行き交うなかに、そろそろ食事の準備という頃合い。
アリスは案内がてら、ひょいと女中だらけの台所を覗いて、
「あ、アリスさま、どうしてこのようなところへ」
と驚かせて回れば、自然と行く先々に笑みがこぼれる。
「いま、今日いらっしゃったお客さまを案内しているところなの。お邪魔かしら」
アリスは、ここばかりはいつもの騒がしさ、蜂の巣を突いたように人間が入り乱れる台所に踏み入れて、小柄なベンノなど恰幅のよい女中に紛れてどこに行ったことやら。
「邪魔ということもありませんけれど」
と台所を仕切る女中頭、ぽってりした頬に手を当てるのに、ちらと背後の正行を見て、アリスに耳打ち、
「もしかして、うわさの異邦人という?」
「ええ、そうなの。ベンノさまがいらっしゃるから言葉はなんとか通じるのだけれど、まだこのあたりの文化には詳しくないでしょうから、城内を案内しながらご説明を」
「なるほど」
とうなずいて、女中頭、しげしげと正行を窺う。
正行のほうは視線に気づかず、上を下への大騒動、これでまともな料理ができるのかと疑うような眼差しでもってあたりをぐるりと見回している。
「お若いのですね」
女中頭の、すこし意味ありげな囁き耳朶を打てば、アリスはちょっと頬を赤らめて、
「わたしと同じ年ごろかしら。このあたりでは、すくないものね」
「しかし、なにもこんなときにやってこなくてもねえ」
ひっつめの髪の、あらわになったたくましい首、女中頭が何気なく撫でれば、アリスの横を年若い女中、すり抜けようとして、ドレスの袖に足先を引っかける。
「あっ――」
という声も喧騒に消え、アリスはようやく気づいたが、すでに女中は倒れかかるところ、間に合わぬと思った矢先、どこからかすっと腕が伸びて抱きとめれば、それが正行なのである。
まだ少女らしい、ふっくらと丸い顔立ちの女中、正行の腕に抱かれて、しばらくなにがなんやらわからぬ顔色、ぼんやりとしていたが、
「は、わわっ、ごめんなさいっ」
と飛び上がり、身体をくの字に折り曲げる。
「あ、あの、なんとお礼してよいやら、その」
「ちょっと、クレア、それよりも姫さまに謝るのが先でしょうに」
女中頭はそそっかしいのに困り顔、見れば、白いドレスの裾が黒く汚れている。
クレアはさっと色を失って、そのまま地面にひれ伏さんばかりの勢い、ともかく頭を下げる。
「あ、ああ、アリスさま、も、申し訳ございません。あ、あたしったら、なんてことを――」
かしこんで、面も上げられぬ少女、どうやらクレアというらしいが、アリスは見覚えもなく、新入りなのだろう、渋い小豆色の女中服も着こなすには至らぬ様子。
アリスは、腕まくりをしてすっかりその衣装にも慣れた女中頭に目くばせし、いたずらっぽい笑み、クレアの頭にそっと触れれば、
「ひゃあっ」
と驚いて飛び上がる。
髪を結い上げて晒した首筋、ひたと押さえたのは、まさか首を刎ねられると思ったわけでもあるまいが。
「ドレスくらい、どうということもないわ。あなたこそ、怪我がなくてよかったわね。もしここで怪我でもしていたら、怖い女中頭さんに怒られてしまうものね」
「そうだよ、あんた、ただでさえそそっかしいんだから」
と女中頭がたくましく腕組みするのに、クレアはびくりと背中を震わせて怯える。
「ご、ごめんなさい、気をつけます……」
「まあ、まだ慣れないうちは仕方ないわ」
アリスはクレアの手をやさしく掴んで、励ますように撫でる。
「ひ、姫さま――」
とクレアは感じ入って目を潤ませるが、泣けばまた女中頭に叱られるから、ぐっと堪えて頭を下げる。
「あ、ありごとうございます、がんばりますっ」
「ほら、ちゃんと助けてくれたひとにも礼を言いな」
女中頭があごでしゃくるほう、女ばかりの台所で手持ちぶさたの正行がぼんやりしている。
クレアはゆるゆると近づいて、ぽっと頬を染めながら頭を下げるのに、言葉は理解できぬながらだいたいのことは伝わったらしい正行、なんでもないよというように手を振る。
「どうやら、わたしたちはそろそろ出ていったほうがよいみたい」
アリスは、どうしても邪魔になるドレスの裾を気にしながらぽつりと呟いた。
ぐるりと見渡すのに、ベンノはどこへ行ったものか、黒いローブの陰も見えぬ。
困った顔のアリスは、恥じらいながら正行の腕あたり、ちょっと指先で掴んで、
「外へ出ましょう、外へ――伝わっているのかしら?」
しかし指さす方向はわかるよう、正行はこくんとうなずいて、忙しく動きまわる女中のあいだ、縫うように進んで、ふたりは台所の外へ抜け出す。
広々とした食堂の隅、金銀をあしらった飾り皿が並ぶ一角でドレスの裾を広げれば、クレアが蹴躓いた跡、黒く残って白の美しい裳裾を汚している。
アリスは別段気にする様子もないが、あえてドレスの裾を広げて見ているのは、言葉の通じぬ相手とふたりきり、どうにも気詰まりで仕方ないせい。
正行のほうもどうしたものかという顔で、後ろ手にぼんやり立って待つが、真実どうしたものか、ベンノがなかなか出てこない。
自分よりも体格のいい女中に、奥のほうまで押しやられたのかもしれぬ、だとすればあまりに情けないが。
「ベンノさまったら、どうなさったのかしら」
と呟くアリスも手持ちぶさた、ドレスの裾を掴んだり離したり、さらさらと揺らしてみたり、眉尻も下がってどうにも困り顔。
そこに、正行が不意に腰をかがめ、アリスのドレスの裾をちょいと掴む。
アリスが驚いて身を引こうとすれば、どうやら仔細あってのことらしい、正行はじっとアリスを見つめて、通じぬ言葉、早口で言ううち、服の裾でもってドレスの汚れた跡、くいくいと拭う。
指にも滑らかな材質だから、服の袖でやさしく二、三度拭っただけ、ずいぶんと黒い汚れが落ちて、ただ歩く分には目立たぬようになった。
立ち上がった正行は、いまさらのように照れた顔、それにアリスも礼をもごもご、らしくない曖昧さで言うなかに、ようやく台所の扉から黒いローブがぽんと飛び出して、
「いや、まったく、ひどい目に遭ったわ。あの女中ども、わしを毬かなにかだと勘違いしておるのでは――おや、姫さま、どうなされた。頬がすこし赤いようですが」
「なんでもございませんわ」
とアリスは首を振り振り、長い黒髪がやわらかに舞って鮮やか。
「ベンノさまこそ、ローブが乱れておいでです」
「こりゃ失礼」
ベンノはフードをぐいと上げ、その白い禿頭、髪を撫でつけるように整えるのに、正行がなにか言ってちいさく笑った。
「むう、なにを言うか」
とベンノも反論するらしいが、アリスには見当もつかぬ会話、しかし正行が笑っていてベンノが顔をしかめているのを見るかぎり、その禿頭についてからかわれているふうである。
「まったく、近ごろの若者は礼儀がなっとらんの」
ベンノはぶつぶつと言いつつ、頭をつるりとなで上げてフードをかぶり直した。
さて次はどこへゆこうと玄関ホールへ彷徨い出れば、先ほどまで下りていたシャンデリアが天井高く掲げられ、きらびやかな光を放っている。
揺らめく炎が美しく乱反射するのに、広い玄関ホールは充分に明るく満たされ、対する城門の外はもうすっかり暗い。
それでもまだ城門を出入りする人間おびただしく、慌てて駆け込む者やら鎧をがちゃがちゃ鳴らして出てゆく者、暮れ空を背景に入れ替わり、城門の外、階段を降りた先の広場ではまだ兵士が演習をしているようで、その声が城内まで響いている。
鼓舞するロベルトの声がひときわ大きい。
いかにも男性的で深みのある声だが、アリスはそれがどこか恐ろしく感じられ、ただならぬ気配を隠すように正行を城の奥へ導こうとするが、正行は逆らって立ち止まる。
ちょうどずらりと並んだ魔法隊が玄関ホールを横切るところ、フードを被った妖しげな出で立ちだが、その三十人あまり、立派な国の戦力である。
正行がベンノになにか言うのに、
「なんとおっしゃっているのですか」
とアリスが聞けば、ベンノはちらと魔法隊の背中を見て、
「あれはなんだ、と。どうやら彼の祖国には魔法なるものがないようですな」
「まあ、そうなのですか。では、人々はみな剣や槍で戦っているのですか」
ベンノが通訳すれば、
「この世界にはない武器があるそうで。じゅう、というものだそうでございまするが」
「じゅう?」
薄い唇をつんと尖らせ、言う口も愛らしいが、その正体はなぞのまま、正行にしても詳しく説明はできぬそう。
アリスが口のなかで「じゅう」と呟いているあいだ、ベンノと正行が話して、
「姫さま、正行殿はどうやら魔法を見たいらしいのですが、いかがなされますかな。ちょうどいまから演習をやるところ、端で見ている分にはかまわんと存じまするが」
「ごらんになりたいと?」
正行を見るアリスの目は、すこし悲しげ、ベンノにだけ言うに、
「できればこの国の、明るい面だけを見ていただきたいのですけれど、仕方ありません」
三人は、一度は奥へ入りかけたのを、玄関ホールを横切って外へ出た。
まだ空にはほんのかすかな光残って、雲の形が異様に強調されて不気味に目立つ。
下りればその分だけ幅広くなる階段、頂点に立てば、城下町が一望できる。
下の広間では鎧の兵士たちが魔法隊に場を譲り、ベンノと同じ黒いローブ、三十余名が一列に並んでいる。
さすがにこの時間になって、城下町の活気も弱まり、しかし路地という路地に明かりが灯って出入りする人間もまだ多い。
家々を透かして見れば、普段は開け放ってある巨大なる城門、ぴたりと閉じて、アリスは言いようのない圧迫感に喘いだ。
空を見れば自由だが、高い城壁は強固に守る盾にもなれば、窮屈な籠にも思われる、果たして逃げ込んだのか閉じ込められたのか。
夕暮れ過ぎて風も出て、向かい風、白いドレスの裾がなびいて、アリスは耳の後ろで髪を押さえた。
そこに、城下町の住民がアリスに気づいた気配、路地へ出て手を振っているのに、やわらかな笑みで手を振り返せば喝采が上がる。
正行がぽつりとなにか呟いたようである。
アリスはベンノの通訳を待つが、ベンノが言わぬうち、魔法隊に動きがある。
整列したなかに、号令ひとつ、一斉に両腕を掲げれば、その上にそれぞれ人間大の火珠がどんといずる。
いまもめらめらと燃ゆる火球、巨大な炎が揺れ動き、まるで蛇かなにかが絡みつくよう、どこからそのような力が湧いてくるものか、すさまじい熱量でもってあたりを昼間のように照らし出す。
正行が目を瞠るなか、その熱気が三人のもとまで届いてそれぞれに眉をひそめるが、もっとも近い位置の魔法隊は平気な顔、掲げた腕をさらに突き出せば、火球は恐ろしい勢いで天へ沖する。
轟々と燃えさかる球状のもの、はるか上空で雲を突き破るかというとき、放物線に変わって緩やかに下降し、城門の向こう、どんという音だけが響いて、あとには闇だけが静かに戻る。
アリスはちらと正行の顔を盗み見て、興奮より先に呆然、立ち尽くすのにちいさく笑う。
城下町の住人も、魔法隊の一斉掃射などなかなか見られるものではない、窓という窓からひとが身を乗り出して見学していたが、終われば拍手喝采、演習の魔法隊は、その恐ろしい力に似合わず恥ずかしげな色。
「いかがですか、はじめてごらんになる魔法は?」
アリスが言って、ベンノが窺えば、
「どうやら言葉もない様子」
正行は口をあんぐり、とても言葉を告げぬ顔。
手を引くように城内へ戻れば、ようやく衝撃も取れたようで、興奮した早口、ベンノにまくし立てれば、ベンノはいちいち反応するのもわずらわしそうな顔、しかしどこかに魔法隊に対する誇りもあるらしく、そういやな顔色ばかりでもない。
アリスも同じく、わが国のこと、どこを褒められてもうれしいものと、にこにこしている。
実際、魔法隊並びに通常の兵士も、グレアム王国のものは優秀で知られているのである。
もともと鉄の産出と武器の製造が主な資金源、それを使う兵士も腕が磨かれるというもので、一対一なら負け知らずのものばかり、しかしそれがときには十倍にもなろうかという戦力差をひっくり返せるほどかどうか、だれにも確証はないのだ。
「うーむ、どう説明したものかの」
と正行にせっつかれているベンノ、腕組みし、
「特定の人間にしか魔法は発露せぬといえば、どうもちがうのだが――」
翻訳に頭を悩ませるベンノのとなり、アリスは楽しげに城の奥へ導いて、正行を尖塔の頂点へ案内してこのあたりいちばんの景色を見せてやろうと計画する。
そうと決まれば足取り軽く、アリスの白い靴も舞うように進むが、道中、尖塔へ行くには通らなければならぬ細い廊下で、ひとが慌ただしく出入りする部屋を通りすがった。
武官文官揃っているところを見れば、どうやら今日の一声で設置が決まった会議室、さほど広くはない部屋をちらと覗けば地図や他国の情報が書かれた書類が山積している。
とくに見るともなし、出入りの慌ただしさにかまけて開け放たれた扉から覗けば、正面の壁に大きな地図が張り出され、この城を意味する赤い丸の周囲、敵軍勢を意味する黄色い点がぐるりと取り囲んでいる。
戦況は、国の行く末を決する重要なものだが、アリスは強いてそれから目を逸らした。
その横顔には諦観がつきまとい、視線を足下へ落とせば儚げで、いかにも滅び行く国の王女という風情。
アリス自身は立ち止まらず、部屋の前をするすると過ぎるのに、後ろから続く影がない。
ふと振り返れば、正行とベンノは部屋を覗き込み、なにやら話をしている。
「男はみんな戦争が好きなもの、それはどの世界でも変わらないのかしら」
呆れたようにアリスが引き返せば、正行とベンノの会話はぼそぼそとあたりをはばかるよう。
正行の細い指が地図を指さし、ベンノの老いたる指があとを追えば、ベンノは強く眉根を寄せて言葉を失う。
「どうさなったのですか、ベンノさま」
「いや、それが――」
と歯切れも悪く、正行をちらと後目、
「どうも、正行殿がおかしなことを言うものですから、考えておったのです」
「おかしなこと?」
ベンノは腕組みし、深く考え込む顔つき、ぽつりぽつりとしゃがれ声。
「籠城戦はしてはならぬと――それよりも、勝てる可能性が高い戦略があるのに、と」