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八重鏡  作者: 藤崎悠貴
心の行方
68/122

心の行方 3-1

  3


 一月とすこしの旅の末、たどり着いた皇国は、外見からして異様な雰囲気を醸し出している。

 グレアム王国領内は比較的草花が茂り、喬木はすくないが、皇国周辺ともなればあたりの地面は赤茶けて露出し、所々にぽつりぽつりと喬木が生えて、川沿いの一部だけに緑が繁るという様子、なかば荒廃しているようは雰囲気さえあるなかで、唐突に見えてくるのが、峻峭にして孤独な山の陰である。

 連なるものがひとつもなく、単独でぬっと天へ向かって伸びるそれ、遠目では黒々とした山の陰にしか見えぬが、近づいてみればそうでないと知れる。

 それがつまり、皇国を囲繞する城壁なのだ。

 正行は思わず馬を馬車の前へ進め、上りはじめた太陽にかかった城壁の上部を見上げて、声にならぬ感嘆を漏らす。


「なんてでかさだ。セントラム城のまわりにある城塞もでかいけど、これもすごいな」


 いったいどれほどの労力でもって造られたものか、あるいは巨人の手を借りたとしか思われぬ巨大にして強固な石造りの城壁、石積の目は細かく、気が遠くなるような作業の末にできたことが容易に想像できて、見上げるかぎり果てのないような途方もない城壁に正行はただただ喉を晒して息をつく。

 止めた正行の馬のそば、馬車ががらがらとゆけば、なかから笑い声が洩れてきて、それがアリスだけではないらしい、クレアも窓からちょっと顔を覗かせ、


「正行さんは、本当に一度も見たことがないんですね。だったら驚くのも無理はありませんけど」

「クレアもきたことあるんだっけ」


 と正行は視線を上げたままで。


「昔、お父さんに連れられて。たぶん大陸のひとは、みんな一度くらいはきたことがあると思います」

「はあ――そういうもんなのか。この大陸の、精神的支柱なのかな」


 正行はゆっくりと馬を進ませる。

 さらに皇国へ接近すれば、その異様な高さが城壁のみによって演出されたものでないことがわかった。

 皇国全体が小高い丘の上に立っていて、その丘を縁取るように城壁を造っているものだから、実際城壁の高さは十五メートルほど、その下に三十メートルほどの丘とも山ともつかぬ台地があり、合わせれば見上げても視線が届かぬほどの頂になっている。

 街道は皇国へ繋がり、すこし前からグレアム王室一行のほかにもいくつも馬車が走り、あるいは街道沿いに歩くひとびとの姿があり、どれも皇国で行われる祭りに間に合うよう急ぐひとびとであった。

 その波に乗り、皇国の麓へたどり着けば、いよいよ立ちはだかる台地と城壁、皇国という偉大な中心を支えるものの大きさを垣間見る正行である。

 街道はそのまま台地の這うように伸びていて、しばらくの山道の果てに皇国への入り口が待っている。

 うねうねと曲がりくねったつづら折り、わずかに蠢いて見えるのは、そこにずらりと並ぶ「参拝者」の列のせい。

 正行も自然とその列に加わるため、馬を下り、手綱を引いてとことこと歩いていくが、その後ろから、


「正行さま、どちらへ行かれるのです?」


 とヤンが呼び止める声、振り返れば、一行はだれひとり馬から下りず、街道を逸れて別の方角へ進もうとしている。


「どこって、あそこが入り口なんだろ?」


 正行は城壁の麓を指させば、馬車のなかでまたくすくすと笑い声、兵士たちもにたりとして、


「この列に並んだら、一日じゃ入れませんよ。まさか一国の女王にそのような仕打ちをさせると?」

「だって、しょうがないだろ、順番なんだから」

「王侯貴族は、別に入り口があるんですよ。こちらへ」


 とヤンが導く先についてゆけば、人々が大勢並んでいる街道から離れ、台地をすこし回ったところ、別にもうひとつちいさな道がついていて、その道沿いにはずらりと絢爛豪華な馬車列ができていた。

 皇国の外観もさることながら、それらの馬車たちの美しさ、また競うような絢爛さも目を瞠るばかりで、グレアム王家の馬車も決して負けず劣らずの典麗を誇っているが、まるで実用的でない、たとえば屋根に二、三メートルはありそうな彫刻を取りつけ、それを金で覆ったり、四頭立てにしてより巨大な轅でもって引いていたり。

 それらも礼儀正しく列に並んでいるかと思えば、実際はちがうよう、馬車はどれも空で、乗っている人間はすでに皇国へ入っているらしい。


「馬車はここに置いて、そのあいだの管理は皇国の方にお願いすることになっているんです」


 アリスも馬車を列の末尾に止め、さっとクレアがスカートをひらめかせて降りたあと、添えられた手をそっと掴みながら馬車を降りた。

 そこにすかさず寄ってくるのが、どうやら皇国の兵士たちらしい、しかし裾の広い白のドレスを纏ったアリスの美しさに一瞬手を止め、それからはっとわれに返ったよう、羞恥に顔を赤らめて、兵士から馬を預かる。

 正行もここまで運んでくれた馬の首をぽんと叩いて兵士に預け、それからアリスの後ろをヤンたち兵士に混じって進む。

 左手には台地と城壁、ははあと見上げつつゆけば、坂道がずっと続いていて、重たいドレスを着たアリスを支えながら上りきった先は城門になっていた。

 城壁のわりにちいさな城門を、ほとんど立ち止まることもなく通りすぎれば、そこはもう皇国のなかである。

 とはいえ、すぐ宮殿があるわけではなく、しばらくは城下町の風景、それならどこも同じだろうと高をくくっていた正行は、門をくぐり、アリスの後ろからひょいと町を覗き見た瞬間、度肝を抜かれることになる。


「うわあ――な、なんだ、これ」


 目の前に広がっていたのは、見慣れたちいさな家々ではない、遮るもののない異常なほどに広い空間であった。

 どうやら城壁のなかは、台地がすり鉢状になっているらしい、中央へ行くに従ってぐんと町が下がり、その底には巨大な丸屋根の建物、どうやらそれが宮殿らしい。

 その周囲をぐるりと取り囲む斜面には、数えきれぬ家、家。

 ちいさなものから大きなものまで、すり鉢状の斜面にびっしりと張りつき、広さはといえば真向かいの城壁がぼんやりと霞むほど、巨大なすり鉢の底もぼんやりと靄がかかって、いくつもの段差を造って築かれた町の姿は大陸中を探してもここにしかないものである。

 すり鉢状の性質上、城壁を入った地点が町でもっとも高い場所になり、そこから緩やかに宮殿へ向けて落ち込んでいくから、視界を遮るものは一切ないことも圧倒的壮観の一因である。

 そしてそれ以上に、背景めいて見える家のひとつひとつに生活があり、ひとびとが生きているのだと想像すれば、これ以上に大規模な営みもないのだ。

 茫然自失の正行、宮殿を見下ろせば、その高低差にぐらりと足下が揺らぐほど、ヤンが慌てて腕を押さえ、


「落ちたら怪我じゃ済みませんよ!」


 と正行を叱咤する。

 一行が立っているのは城壁の麓で、そこから階段とゆるやかだが距離は長い坂道の両方が伸びていて、ドレスのせいで足下がおぼつかないアリスはすでに坂道をゆっくりと下りはじめていた。

 王侯貴族だけが使えるその通路は、ほとんど町のなかを通らず、まっすぐに宮殿まで到達できるようになっている。

 皇国内にいるあいだの宿は当然宮殿内となっているから、本来であればごみごみした城下町へ出る必要はないのだが、爛々と輝く正行の目つきを見ていれば、だれにでも次の言葉は想像できる。

 クレアに伴われたアリスはちいさく笑って、


「わたしたちは先に宮殿へ行っていますから、正行さまは城下町をごらんになってもかまいませんよ。この町では、とにかく下を目指せば宮殿へたどり着けるようになっていますから、道に迷うこともありませんし」

「そ、そうかな? 見に行ってもいい?」


 と護衛隊の隊長に聞けば、もはや止めても無駄だと思っているふう、老齢の隊長はため息ひとつで。


「できるだけ早く宮殿へくるようにしてくださいよ。正行殿が迷子になっているといって、われわれで探しにいくのは大変ですから。ここはとにかく細い路地も多くて入り組んでいるし、なによりセントラム城とちがって広いですからな」

「りょ、了解、迷子にならないように気をつける」


 と言いながらすでに階段を駆け下りている正行の背中にアリスが、


「それから、宮殿へ着いたら衛兵にその剣を見せてくださいね。それにはグレアムの印が彫ってありますから、グレアム王国の兵士だという証明になります」

「ん、わかった」


 すでに振り返りもしない正行である。

 背中に兵士たちの笑い声を聞きながら階段を降りてゆけば、途中何度か折れ曲がりながら宮殿へ続く道と、脇へ逸れて城下町へ入る道とに分かれている。

 当然、正行は城下町側を選び、複雑な下町のなかへ入り込んでいった。



 皇国は宮殿を中央とした円形に広がる町となっている。

 宮殿の周囲には当然別の鉄柵があり、一般人が入り込めぬようになっているが、それ以外町はどこへ立ち入るにも自由である。

 しかし町を見てゆけば、宮殿に近いほう、すなわちすり鉢状の土地の底に近ければ近いだけひとつひとつの家が大きく、また豪華であり、宮殿から遠い円の外側、巨大な城壁に近い家はどれもちいさく貧しいことが窺える。

 皇国の不文律として、金持ちは宮殿の近く、そうでない一般人はより遠くというふうになっているらしいのだ。

 当然、正行が最初に入り込んだのは城壁すぐそばの町で、路地は幅が三メートル程度、天井の低い二階建ての家が多く、そのほとんどすべてが煉瓦造りで赤茶けた印象であった。

 通り沿いには花も枯れ、土も乾ききった植木鉢がそのまま放置されていたり、路地の左右に縄が張られ、そこに白いシャツやシーツがはためいたり、路地で遊ぶ子どもたちはやはり元気で、それを疲れた顔の母親が玄関先に座り込んで見守っている。

 鼠の巣のように狭苦しい通りだが、正行は存外にそのごみごみとした人間らしい生活のある雰囲気が気に入って、ひくひくと鼻を動かせば、セントラムとはちがう潮気のない異国の匂いで。

 路地はそのままぐるりと台地に沿って円形に続いているらしく、所々にもう一段下へ降りる階段がついていて、正行はあたりをきょろきょろと見回しながらひとまず下へ下へと降りていった。

 しばらくは何本か同じような路地が続き、静かで退屈に倦んだような日常生活があったが、やがてそれまでに比べて大きな路地に行き着くと、まるでそこは別世界。

 十メートルほどの大通り、しかし閑散としていたいままでの路地とはちがい、溢れんばかりにひとが往来し、左右には数えきれぬ土産物屋が並んで、一気に祭りの雰囲気が高まっている。

 正行はしばらくそれを眺めていたが、意を決して雑踏に飛び込めば、赤毛や金髪や黒髪、若い男女に老夫婦、母親に手を引かれた子どもと目が合えば、どこかで迷子らしい泣き声が聞こえる。

 行き交う声も様々あるが、どれも調和するように混ざり合い、ひとつの雑音となってしまって聞き取れなかった。

 正行はひとり、目が合った子どもに手なんぞ振りながら雑踏を歩き、愛想のいい太鼓腹の主人がやっている雑貨屋の露天を覗いたり、みすぼらしい格好の画家がその場で仕上げていく道行くひとびとの絵を眺めたり。

 祭りに出向くひとびとは往々にして陽気で、肩や背がぶつかっても怒鳴り合うようなことはなく、むしろそこから意気投合して連れ立ってどこかへ歩いていくという光景をよく見かけるほどであった。

 正行は、これぞ都市的な平和の光景と深く感動し、セントラムも活気溢れるよい町だが、それにしてもこの皇国には及ぶまいと責任ある立場の人間として気を引き締めた。

 しかし、なんといっても祭りである。

 まじめな顔をして往来に立ちすくめば、名も知らぬだれかに背中を叩かれ、


「陰気な顔してたら、幸せに笑われちまうぜ」


 と励ましているのかなんなのか、ともかく暗い顔をしているのがばからしくなるのは事実であった。

 正行も、できるだけこの空気を楽しもうと気分を入れ替え、明るい雑踏のなかに紛れた。

 どれだけ大通りを歩いても、尽きることのないひとの波と露店街、ふわりと甘い匂いが香ったと思えば、花屋の露天があって、店先には正行よりもいくらか年上の、美しい金髪をなびかせた女が立っている。

 ふらふらと吸い寄せられるように近づけば、女のほうでもやわらかく笑い、ハイビスカスのような赤い花を一輪掴み、それを正行の胸元にすっと差し入れた。


「ああでも、おれ金も持ってないから」


 と正行が言えば、女は嫣然たる笑みで、


「素敵な男にはサービスしてるの。またお金があるときに、素敵な女の子への贈り物として買ってね」

「まいったなあ……」


 まんざらでもないように後頭部を掻く正行、それを飲み込む雑踏に、女は白い手をひらひらと振る。

 そのまま人波に流されていくのもよさそうだったが、まだ町の大部分を見ていないし、ほかにもおもしろいものがあるかもしれないと、正行は大通りからさらに下へと続く階段を降りていった。

 そうするとまたしばらくは居住区とも言うべき生活のための町があり、先ほどと同じような家々が並んでいて、そこから階段を降りてゆけば再び別の大通りにたどり着く。

 どうやら細い通りと大通りが一定の間隔で繰り返されるらしく、大通りは観光客のため、細い通りは皇国に暮らす市民のための通りらしかった。

 それを理解した正行は、大通りで観光客向けの催しを眺めるのもいいが、それよりもここの生活を見てみたいと、あえて細い路地を歩き、下へ降りてゆくにつれてすこしずつ生活水準が上がっていくのを目の当たりにした。

 家々の大小はさほど変わらないが、下へ行くに連れて家の前をきれいに花で飾る家が増え、路地に向かって洗濯物を干すこともなくなり、町ゆくひとびとからはある種の上流階級的な礼儀が感じられるようになるのだ。

 すり鉢状の町を半分ほど下ったころ、正行はふと思い立ち、細い路地に面した市民のための酒場を覗いてみることにした。

 看板もとくになく、ただ屋根近くにちいさく酒場と書かれているだけの店構えだが、ぎいと扉を軋ませてなかへ入れば、さすがに祭りとあってなかなか賑わっている。

 おそらく集まっているのはこのあたりの住民ばかりなのだろうが、カウンターや丸いテーブルを囲み、だれも彼もが親しげに肩を寄せて談笑していた。

 よそ者たる正行がカウンターに近づいても、それを拒むような気配はなく、むしろカウンターの奥で店主は親しげに笑って、


「見かけない顔だな、あんた。なんか飲むかい」

「いや、悪いけど、金を持ってないから――ちょっと話でも聞けたらと思って」


 と正行が言えば、となりに座っていた中年の男がげらげらと笑って、


「金なんざいらねえさ。飲みたいだけ飲む、これが祭りの過ごし方よ。酒なら全部店主のおごりだぜ」

「他人事だと思って、好き放題言ってら」


 言い条、店主は笑顔もそのままに、


「まあ、祭りのあいだは仕方ねえ。なんか飲みなよ」

「そうか、悪いな。じゃあ、軽いやつを」

「あんた、この国の人間じゃねえな」


 となりの男がぐいと正行に寄れば、赤らんだ顔といいぷんと漂うアルコールの匂いといい、昼前にしてすっかりできあがっているらしい。

 男はにいと口元を釣り上げて笑い、


「この国じゃな、弱いやつっていやあ、いちばん強い酒の名前なんだぜ」

「お待ち」


 とんと軽い音、カウンターに置かれたのは透明に澄んだ液体で、正行はいぶかしげに思いながら一口、その強いアルコールに眉をひそめつつ、ごくりと飲み干す。


「この国の祭りっていうのは、単に観光客がたくさんくるってだけじゃないのか」

「ちがうちがう。そりゃ外の連中からしてみりゃ、皇国の記念日ってのはひとつの祭りだろうが、おれたちからしてみりゃ毎日が祭りみたいなもんよ。そのなかでも今日はいちばん盛り上がる祭りさ」

「毎日がお祭りねえ」

「今日の夜には陛下のご挨拶もあるしな」

「へえ――それは観光客も見られるのか」

「もちろんよ。そのときは宮殿のなかに入れるんだ。それで皇室ご一家が現れてな、手を振ったり、挨拶したり、年に一度の触れ合いってわけよ」

「ははあ、なるほど」

「一般人はそこでしか触れ合う機会もねえが、よその王さまや貴族はその夜の晩餐会でも陛下には会える。おれたちはおれたちで、そのころは酒盛りだ。一年に一度の無礼講、女も子どもも酒を飲んでいいって決まりだからな」

「自由祭といってなあ」


 と呂律が怪しくなりはじめた客に代わり、カウンター奥の店主が言う。


「昔から続く行事なんだが、その夜ばかりはあらゆる束縛から解放されて自由に振る舞うことを許されるのさ。ま、いまでは単なる無礼講になってるがな」

「昔はよかったんだぜ。自由祭の夜なら、夫婦の関係からも解放されてよその嫁さんと抱き合うことだってできたんだから」

「なんだ、下品な祭りだな」


 と正行が笑えば、客と店主も笑って、


「だからいまではそこまで自由じゃねえのさ。もとはといえば、皇国が築かれたときからある行事だからな。そのころは皇室でさえ市民と変わりなく町へ出て、いっしょに酒を飲み、歌い、踊っていたっていうんだから、いまと比べりゃ自由な時代だったんだよ」

「ふうん――その名残で、いまも市民と会う機会を作ってるのか。なかなかよくできてるな」

「ところで、おまえさん、その胸に挿してる花はなんだい」

「さっき花屋のお姉さんにもらったんだ」

「おうおう、やるじゃねえか。お礼に尻のひとつでも触ってやったか?」

「できるか、そんなこと」

「なんでえ、意気地のないやつめ」


 猥談で盛り上がるあいだ、正行も一杯を飲み干して、すこし頬が赤らみはじめたころ、ようやく酒場を出れば、もう正午に近くなっている。

 そろそろ宮殿へ出向かなければまずいかと正行、すこしふらつく頭で階段へ、すり鉢の底に潜む巨大で豪奢な宮殿へ向かって降りてゆく。

 途中、大通りをいくつか横切り、ふと見上げれば底に近いあたりまで降りていて、町が反り返るような皇国特有の風景が眩しい光に照らされていた。

 それに改めて感動を覚えながら石造りのよく磨かれた階段を下っていけば、宮殿を囲う鉄柵が見えてきて、その奥に控えている宮殿の様子もしっかりと観察できるようになる。

 正行は宮殿の側面に降り立ち、そこにはただ細かく石積された壁があるだけだが、見上げれば頂点を引っ張り上げたような、金色の丸い屋根が初夏の陽光に炯々と輝いていた。

 セントラム城の付近ではあまり見かけないその建築様式を眺めながら鉄柵に沿ってぐるりと回れば、ようやく正面入り口らしい、衛兵が五人ほどで鉄扉を守衛している。

 半ば酔ったような顔の正行がふらりと近寄れば、衛兵は油断なくさっと武器を構え、


「ここは皇帝陛下の宮殿の入り口である。一般参賀まではまだ時間があるゆえ、お引き取り願おう」

「ああいや、ちがうんだ」


 と正行が剣をかざそうと腰に手をやれば、それが武器を抜き払う仕草に似ていたらしい、ただでさえ大勢の人手で万が一があってはならぬと気張っていた衛兵たちは色を失って帯びていた剣を抜き払った。

 ざっと金属の擦れ合う音を響かせれば、差し込む光に刀身がぎらり、正行は慌てて両手を挙げて、


「そ、そういうつもりじゃなかったんだ! その、ここに証があるから、それを見せようと思って。なんならこれは外してそこに置くから、それで確認してくれ」

「剣には手を触れるなよ。ここへきて、鉄柵を両手で握れ!」


 厳しく命じられれば、従わぬわけにもいかない。

 正行は言われたとおり衛兵たちに背を向け、掲げた両手は鉄柵を掴んで、後ろから衛兵たちが油断なく囲み、まずは腰の剣を取り上げた。

 それをしげしげと眺めれば、たしかにグレアムの記章、衛兵は剣に落とした視線を正行に向けて、


「本当にグレアム王国の兵士なのか?」


 といぶかしむのも無理はない、なにしろ正行はいつもどおりの格好だから、とても女王に付き従い、守護するためにやってきた兵士とは思えぬので。


「い、一応、そういうことになってる」


 正行がうそにならぬようにと答えれば、いよいよ衛兵たちは不審を深めて、正行に聞こえるか聞こえぬかのひそひそ話。


「まさか、グレアム兵を襲って、記章入りの武器だけ奪ったのではあるまいな」

「ううむ、体格を見るかぎり、そんなことができそうな男にも見えぬが」

「しかし怪しげな人物を宮殿に入れるわけにはいくまい」


 という意見で一致を見れば、正行も強引に入れてもらうわけにはいかないから、


「ともかく、雲井正行ってやつが宮殿の前まできてるってアリスに――女王さまに伝えてくれよ。そしたら確認してくれると思うから」

「――なにをしておるのだ?」


 不意に、この場に不似合いなほど芯のあるよく通る声で。

 衛兵は振り向きざま、声の主を予想してすでに頭を下げている。


「も、申し訳ございません、騒がしくしまして――」


 衛兵は慌てて言いつのり、そこには単なる恐れ以上のなにかがある様子、なにも知らぬ正行は鉄柵に張りつくような格好のまま、声の方向を、美しい金細工で飾られた宮殿入り口の上、二階のテラスらしい部分を見上げた。

 二階テラスの手すりに、まっ白な輝くような指先がきゅっといじらしくかかっている。

 はじめに見えたのはそれだけで、女らしいということは声とその指先から察したものの、相手がぐいと身を乗り出して下を覗き込むまで顔は見えなかった。

 光を発するなにかだ、と正行はとっさに感じている、そう見えるほどに美しい銀髪で。

 下を覗き込む体勢に合わせ、毛先が胸のあたりに垂れ下がって揺れ、それが緩やかに波打ちながら顔の輪郭を覆い隠し、葡萄酒のような赤い目がきらと輝けば、不思議と思い出されるのは夜空で孤独に光る満月、煌々と輝く切なさ。

 それまで正行が見たこともないような、美しいという次元を越えた不思議な女なのである。

 銀髪に赤い瞳、というだけでも充分に異様で、肌は早朝の光を閉じ込めたような白、眉は不思議に黒く、真横にすっと伸びて柳眉、目は大きく、鼻はちいさく、唇はわずかに厚く。

 正行が呆然と見上げる先で、女も正行に気づいたらしい、無造作に見下ろせば、無条件に他人を圧倒するような、生まれながらの王者の風格を備えているのがすぐにわかる。


「そなたは、どこかの兵士か」


 女はどんな雑踏でもまっすぐと響くような声で聞いた。

 ほとんど無意識のうち、正行はうなずいている。


「グレアム王国の、人間だけど――」


 年のころは正行とほとんど変わらぬ若年、それでいながら自然と他人を見下ろすような、それが嫌みではなく当然のことと周囲に思わせるような風格は異常に思えるほどで。

 女はテラスから身を乗り出したまま、にやりと笑った、その笑顔の好戦的でただただ美しいこと。


「これは失礼をした。誇り高きグレアムの兵を足止めするとは、兵の教育がなっていなかったようだ」

「し、しかし皇女さま、この男がまだグレアムの兵だとは確認が」

「本人がそう言っておるのだ、ならばそうなのだろう。それに、ちらと聞こえた雲井正行という名は知っておる」


 女は口元に薄い笑み、軽い風が吹き抜けるように一瞬だけ浮かべたかと思えば、次の瞬間には堂々と胸を張り、血のような赤いドレスの裾を払った。


「私は第一皇女、クラリスという。よくぞ皇国へ。歓迎するぞ、グレアムの兵、雲井正行よ」


 二階のテラスから見下ろす皇女の姿は、正行の目にいつまでも焼きつき、その後生涯にわたって忘れ得ぬものとなるのだった。

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