心の行方 2-2
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「そろそろ、皇国の祭りが行われる時期だな」
暮れゆく空、茜色と深い青色、それに白っぽい霞みが加わって、ひとつ虹のような色合いが広がり、空は妙に騒がしい。
ちいさな影となって飛ぶ鳥も落ち着かぬふう、見ている前を上昇したり急降下したり、くるりと旋回して飛び去るかと思えば、なにかに怯えたように方向を変え、結局セントラムの立つ窓のそばにちいさな羽ばたきひとつを残して降り立った。
灰色の、決して美しくはない鳥であった。
尾は短く、それでいて羽根と嘴は大きい、乾いてひび割れたような嘴が薄く開き、それで毛繕いをはじめれば、ちいさな黒点のような目が落ち着きなく動く。
セントラムはそれを見つめながら、ふと背後を、隠居生活をするちいさな屋敷にまでやってきた客を気にする素振り。
「アリス女王とその取り巻きはすでに皇国へ向けて出立したそうですな」
客はちいさな椅子を与えられ、そのなかでひょろりと長い身体を持て余すよう、両足を伸ばし、奇妙な具合に身体を折り曲げて、ようやく収まっている。
「あなたは出席されないのですか、セントラム王」
「おれはもう王ではない」
セントラムは疲れたようなため息をつき、自らの椅子に戻った。
木製の椅子の脚が石造りの床に擦れ、ぎぎと耳障りな音を立てても、客の男は奇妙な笑みを浮かべたまま、身じろぎひとつせず。
セントラムはじろりと客を見つめ、
「コンドラートといったか」
「はい」
「いまは手勢もなく、領主とは名ばかりの隠居生活、学もない農民からの施しで生きているようなおれに、まだなにかすることがあるというのか」
「農民からの施しとは、ご冗談を。領主として当然の権利でございましょう」
「しかしおれは領主として彼らに返すものがなにもない。土地はそもそも、おれのものでもグレアム王国のものでもない、代々そこを耕し、ひとびとを豊かにしてきた農民のものよ。おれはそこに寄生しているひとりの人間にすぎん」
「ふむ――ずいぶんと変わられましたな、セントラムさま」
「以前のおれを知っているのか?」
「あなたが王であったころ、何度か。無論、私のようなものは多くおりますから、いちいち記憶はなさっておられないでしょうが」
男は不遜な態度で足を組み替え、やけに長い指で頬を撫でた。
「以前はもっと自信に満ちあふれておいででした」
「それを虚栄というのだ」
セントラムは低く笑い、
「おれの本質とは、こんなものよ。これがおれという人間なのだ。――して、そんな話をするためにわざわざ?」
「ご相談があってきたのです」
男はすこし身を乗り出して、よく動く目でじっとセントラムを見つめた。
「ある国の機密事項に関わること、決して他言なさらぬようにお願いしたいのですが」
「他言する相手がどこにいるかね」
セントラムは自虐するように背もたれへ身体を預け、両腕を広げた。
彼が封じられたのは北東の果て、農作はできるが、その数もすくなく、召使いとして雇っていた人間も早々に解雇して、いまやセントラムは文字どおりひとりきりで生きていた。
住んでいるのは二階建ての屋敷、セントラムの城下町にも見られないような敷地の広い建物だが、それを使う人間がいないとなっては宝の持ち腐れ、二階には廊下にさえ埃が積もっている。
男は果てぬ自嘲にすこし鼻白んだ様子、ぐいと身を引いて、
「ともかく、この話が外部へ漏れることだけは避けたいのです。ご了承いただけますかな」
「話を聞こう」
「では。私は、現在ノウム王国の使者をしております」
「ほう、ノウムの。いまや、失われた王国だと記憶しているが」
セントラムがにやりと笑って当てこすれば、男は首を振って、
「アルフォンヌさまがいらっしゃいます。跡取りがいるかぎり、王国は決して絶えませぬ。しかし現状、ノウム王国にとって決してよい情勢でないのはご存じのとおり」
「いや、それ以上は言うな」
セントラムは手をひらひら、疲れが袖から舞い落ちる。
男は奇妙な顔でぐっと口を噤み、いぶかしげにセントラムを見やるなか、セントラムは綿を抜いた服の襟をさっと寄せて、
「きみの言いたいことは、つまりノウムが近々起こす反乱に手を貸せ、ということだな。直接的な協力ではないにしろ、こちらでも反乱を起こしてグレアム軍を分散させ、時間を稼ぐというわけだ。おれの前にはセントラム王国の復古とセントラム城の奪還をぶら下げ、兵も貸すというにちがいないが――残念ながらおれは反乱など起こすつもりはない。いかなる形でも、ノウム王国の協力はせんだろう」
「なぜです。あなたほどの知力を持ちながら、このような片田舎に封じ込められて、悔しくはないのですか。セントラム城は本来あなたのもの、それをグレアムの連中が好き放題に蹂躙し、わが物顔で巣くっておるのですよ。民もあなたの復活を待ち望んでいる。だれもグレアム王国の暴挙を許してはおらんのです。ここであなたが立たぬのは、むしろ罪ですらあると私は考えます」
男が振るう熱弁に、目は苛烈に輝き、長い指は肘掛けを握りしめ、身を乗り出せば熱狂的な雰囲気さえ帯びるが、対するセントラムは家々を崩す強風にも揺らす葉を持たぬ老木、情熱にも焼かれることはなく、ただじっと客の男を見つめている。
普段なら彼から発信して周囲を飲み込む熱狂が、いまはセントラムの冷たい瞳に押されて、むしろ男は目を見開いたまま椅子にがくりと腰掛け、最後には目も伏せて。
「存外に若いな、きみは」
とセントラムはむしろ感心するように呟く。
「その年で、情熱を失わぬのはすばらしいことだ。きみは、きみよりも若い連中はもちろん、より上の年代まで巻き込んでひとつの渦を作るつもりなのだろうが、なんでも思うようになると考えてはいかん。なかにはおれのような者もいる。きみの情熱をかき消すほど冷めきった者も」
「あなたにはもはや立つ意思もないのですね。かつてその両足でセントラム城を占領し、その両腕で財宝を抱いていたあなたは、いまではもうなんの意思もない老人だ。私の期待外れだったようです」
「おれは三十年ほどセントラムで王をやっていたが、あのころのことはなにも思い出せん。泡沫の、夢のようだ」
セントラムはすっと目を細めたあと、ちらと背後の窓を振り返り、もう灰色の鳥はそこになく。
「しかしここへきてからのことはよく覚えておる。昨日の天気はどうだったか、三日前に見かけた鳥はどんな姿だったか、それよりも前にやってきた農民はどんな顔だったか。おれにはどうやら、ここが合っているらしいと思うのだ。もともと、おれには野心らしい野心はなかった」
「クロイツェル王国での反乱は、いまでも語りぐさでしょう」
その力を期待していたらしい男は吐き出すように言う。
セントラムは鼻で笑って、
「あれこそ、おれの間違いの発端よ。たしかにあのころのクロイツェルは、それはひどいものだった。民は恐ればかり抱き、兵もまた同様、商人も近寄らぬ地獄の国だったが、おれはそのなかでもよい地位にあった。王の機嫌をとることにも苦労はなかったし、よもや反乱を起こそうなどちらとも思ったことはなかったよ。しかしグレアムとベンノが、それぞれ理由は異なるだろうが、反乱の意思を固めて旧友のおれを誘った。本来であれば断りたかったが、ふたりに意気地のないやつと見られるのがいやだったのだ。それでおれは仕方なく反乱を起こし、できるだけふたりを前面に押して戦わせ、そのあいだにセントラム城を占領するという幸運にも恵まれた。おれが欲を出したといえば、その一瞬だけよ。おかげでそれから三十年、毎日のように王という肩書きに苦しめられることとなったがな」
「もう王はこりごりだと?」
「それ以上に、おれはここの生活が気に入っている。悪いが、ノウムの囮になるつもりはない。反乱を起こしてグレアムからノウム城を取り返すというなら、勝手にやるがいい。おれは邪魔もしないが、協力もしない」
男は椅子を蹴って立ち上がり、ばっと踵を返す途中、思い出したように頭を下げた。
激しい足音が廊下を去っていくのを、セントラムは椅子のなかで目を閉じて聞いている。
そこにきいきいと甲高い鳴き声、窓の外を見れば、毎日窓辺まで寄ってきてはわびしい室内を覗いていく尾の赤い鳥が、今日もちいさな足でしかと止まっている。
セントラムが立ち上がり、窓辺へ寄っても逃げる素振りのない鳥、しかし室内へ入り込むわけでもなく、餌をほしがるわけでもなく。
「なかなかよい暮らしではないか。なあ?」
とセントラムが問えば、鳥は不思議がるように首をかしげた。
日が暮れたあと、アルフォンヌは蝋燭の明かりを頼りに読書をしていた。
まだ幼い、丸い指が紙面を滑り、字を追いかけて、揺らめく炎がまだぽっちゃりと肉付いた横顔を照らしている。
実際、アルフォンヌはある種の天才と呼ばれるにふさわしい少年であった。
町に暮らす同じ年頃の少年でも、アルフォンヌのように本を読むこともできなければ、帝王学を学んでもそれを巧みに実践するには至らないだろう。
そこへきてアルフォンヌはノウム城での教育もあり、そのころはあまり熱心ではなかったが、父と兄を失ってからは退屈な勉学にも勤しんで、いまやよその青年と変わりない知識を身につけていた。
身体はまだどうしようもなく幼いが、やがては成長に従って男らしいものになろうし、そのための鍛錬も欠かさない。
まだ遊びたい年ごろだろうと、取り巻きの臣下たちがたまには息抜きをと進めても頑として拒否する心を支えるのは、父と兄への憧れ、そしてそうしたものをすべて奪ったグレアム王国への憎しみであった。
太陽のようにめらめらと燃えたぎる憎しみは、ときに臣下たちがぞっとするほどの冷酷さを見せることもあり、アルフォンヌは順調に成長しながらも、どこかいびつな少年になりつつあるのだ。
ひとり、蝋燭を手元に寄せて読書していたアルフォンヌは、ふと屋外で馬がいななくのを聞き、城を入ってくる足音を聞いて、立ち上がった。
部屋から顔を出せば、ちょうどコンドラートが戻ってきたところらしい、広間で黒い外套をぱっと払えば、まるで闇があたりに散乱するようで。
「コンドラート、どこへ行っていたのだ」
アルフォンヌが声をかければ、ようやくその痩せ細った男は気づいたようで、驚いた顔で振り返ったあと、わずかに笑顔を作り、
「となりの集落へ。なにか新たな情報はないものかと思いまして」
「それで、なにかあったか」
「グレアム王国の女王アリスが、重臣である雲井正行と近衛兵を引き連れて皇国へ出立したと。ちょうどいまからでは皇国の祭りに間に合います。報告も兼ね、出向いていくのでしょう」
「ふん、のんきなものだ」
アルフォンヌは露骨に眉をひそめ、荒々しく吐き捨てる、父親がかつてそうしていたなと思い出しながら。
「セントラム城に残っているのは、ベンノとアントン、それに武官ではロベルトか」
「ほかに、もともとセントラム王国で大臣をしていたコジモという学者がおります。――いかがです、アルフォンヌさま」
「いかがとは?」
とアルフォンヌが首をかしげるのに、コンドラートは痩せた身体で松明を背負い、アルフォンヌにぬっと覆い被さる。
「いまこそ、ご決断なされては」
「なにを決断するのだ」
アルフォンヌは反射的に後ずさり、しかしそこには壁が控え、冷たい質感が背中からじわりと浸透してくる。
コンドラートは慇懃に頭を下げて、
「ノウム城の奪還と、ノウム王国の復古でございます」
「もちろん、それは、ぼくの――いや、わしの念願だが」
「その念願を、いまこそ果たしてはいかがでしょうか。セントラム城から、女王とその腹心がいなくなっているのです。いまこそ攻め込むには好機と存じまする」
「し、しかし、わが方に兵力もなく、ノウム城には千人ほどの兵士が詰めていると聞く。いかにしてノウム城を奪い返す?」
「ご心配には及びませぬ。すでにいくつか手を打っておりまするゆえ」
「手とは」
「まず、兵ですが、これには三千ほどすでに調達が済んでおります」
アルフォンヌには寝耳に水で。
「ど、どこからそれほどの兵を調達した?」
「大陸南端のハルシャという国。いまは評判も悪い国ですが、この際そのような評判は気にしていられますまい。ハルシャの兵を三千借り受け、それでもってノウム城を奪還するのです。相手方もまさか、いまそのような大軍でもってノウム城を攻められるとは思っておらぬはず、失敗の懸念は一欠片もございませぬ」
「ハルシャが、わが方に兵を……」
アルフォンヌは呆然とした表情の裏で、その早熟な頭を必死に動かしているが、それを遮るようなのが、ほかでもないコンドラートのいやに細長い身体なのである。
壁に映る細い胴、長い手足、ひらひらと蠢く影はさながら悪魔じみていて、アルフォンヌの白い頬を光から遮っている。
「ご決断を、アルフォンヌさま」
コンドラートは無理に詰め寄らず、あくまで臣下として頭を下げる。
その裏には無論、ほかの重臣を通してでは慎重論も出るだろうと踏まえて、直接アルフォンヌに指揮を願い出るという打算も含まれている。
聡明なアルフォンヌならそれにも気づきかねないと、コンドラートは思考するひまを与えず、ぐいと顔を上げて、
「アルフォンヌさまの一声で、三千の兵がノウム城へ向けて動き出します。本格的な夏がくるまでには間違いなくノウム城を奪還し、ノウム王国の復古を宣言できるでしょう。それどころか、女王と智将として知られる雲井正行が不在の隙を突けば、セントラム城を攻め落とすことすら可能と存じます」
「セントラム城すら? しかし、セントラムには五千の兵、加えて知に聞こえるベンノや武に長けたロベルトがいるぞ。それを打ち破ること容易ではあるまい」
「ベンノはすでに年老いて精彩を欠いております。加えてロベルトは武人としては優秀でありながら策には向かぬ性格、アントンは実務家で戦争には関与せず、コジモはグレアム王国に加わったばかりで兵を率いるほどの権限がない。奇襲による電撃的攻撃において、われわれが敗北する可能性はまったくありませぬ」
「セントラム城すら落とせるか――しかし、まずはノウム城だ」
アルフォンヌは唇をぐっと噛む、それにコンドラートはほくそ笑んだ。
「ご決断なさいましたか」
「うむ――夜明けを待ち、兵を率いて、ノウム城へ向かう。全員を叩き起こせ!」
アルフォンヌの幼い声が古城に反響し、夜が不吉に鳴いた。
晴れ渡っていた五月の夜空が、いましも薄い灰色の雲に覆われ、希望に満ちた星の瞬きを、涙するような三日月を覆い隠しはじめている。




