心の行方 2-1
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アリス号がセントラム港に帰港したのは春のはじめ、それからゆっくりと雪が溶け、草花が解けて春の真っ盛り、青々とした草花が南からの強風に揺れ動き、楽しげに歌っていたのもつかの間で、あっという間に春は過ぎ去り、初夏である。
春から夏へかけてのあいだ、セントラム城を拠点とするグレアム王国は、表面上争いもなく平和な日々を送っていた。
懸念されていたような、アルフォンヌやセントラムの反乱もなく、ノウム城に送った守備兵もよくやっている様子、ノウム城の管理を担っている文官を通じ、多数のグレアム国民がセントラム城への移徙を要求しているという意見も届いたが、広いセントラムにはそれを受け入れるだけの余裕があり、集団移住は速やかに、そして完璧に行われた。
こうしてノウム城はもとのノウム国民がほとんどを占める城となり、そこをグレアム兵ではない、セントラムからの傭兵が守護することによって、グレアムとノウムのあいだにわだかまる悪感情もすこしずつ弱まりつつあった。
ノウム城はグレアム王国の緩やかな支配下にあり、このまま数年が経てばグレアム王国の一部と自ら名乗ることさえできるようになるだろうというような兆しさえが見えている。
セントラム前王は、アルフォンヌ王子よりもいくらか広範囲の、それでも以前に比べれば雀の涙ほどの領地を与えられ、そこで静かに暮らしていると、セントラム城にも報告が上がっていた。
不安要素はいくつかあっても、これといった問題のない、いかにも初夏らしい穏やかな日々だったのだ。
そこへ、ふとグレアム王国領地の、広々とした草原に目をやれば、うねうねと這い回る川のほとり、豪奢な馬車がひとつ、がらがらと音を立てて南へ向かっている。
その周囲には荷を満載した馬が二十頭ほど、歩くよりもすこし早い程度の速度で王家の馬車に付き従っている。
馬車のなかには、つばの広い純白の帽子を被ったアリスと、いかにも侍女らしい紺色のエプロンドレスを着たクレアが並んで座っている。
その後方、荷のない身軽な馬の上で暖かい陽気にあくびを噛み殺すのが、ほかでもない雲井正行で。
正行はいつものように兵士とはちがう格好、ズボンにシャツという、周囲に比べれば気楽すぎるような格好で、腰には妙に細長い剣を帯び、馬上で背筋を伸ばしてぱかぱかと進む。
あたりには同じように馬蹄が硬く踏み固められた地面を蹴り上げる音が響き、騒がしいふうでもありながら、草の葉を揺らして吹き抜ける風や、海のように波打って揺れる草木を乱さぬ程度には静寂であった。
正行は目に浮かんだ涙を指先で拭い、その瞬間にまたあくびして、周囲をちらり、
「皇国まで、どれくらいかかるかな?」
「一月とすこしくらいです」
と若い兵士、かつて新兵としてロベルトのもとに配属され、いまはそこからアリスの近衛兵、並びに正行の手兵となっているヤンが答えた。
正行はちいさくうなずいて、
「なかなかに遠いなあ、それも。おれ、皇国って行ったことないよ。ヤンは?」
「ぼくは何度か。父が商人でしたから、それについてほかの町に行ったりとか」
ヤンは、正行よりも年少で、はじめてふたりが会ったころはヤンのほうが小柄で子どもらしい顔つきだったが、冬を越えるあいだにヤンはすっかり正行よりも長身となり、体つきもぐっと男らしくなっている。
しかしひとのよさそうな、疑うことを知らぬような丸い目はそのままに、それが不思議な魅力となって、ヤンはセントラムの城下町の女たちには知れた名となっている。
正行はそんなヤンをじっと見つめ、ヤンは居心地が悪そうに身体を揺すり、
「な、なんですか?」
「いや、別になんでもないけどさ」
と正行、それでもじっとりと責めるような目つきで。
「なんかこう、おれにもその人気の一部、くれないかな。城下町に行ったら女のひとが寄ってくる、みたいなさ」
「正行殿が城下町に降りても、寄ってくるのは子どもと兵士くらいのもんですからな」
別の兵士が低く笑えば、二十人あまりの兵士に笑いが伝播していく。
正行は眉をひそめて、
「あと、猫も寄ってくるよ。最近餌づけしてるから」
それにまた兵士が笑えば、ヤンはおどおどと馬の上で視線を彷徨わせて、
「あ、あの、ぼくは正行さまを尊敬しています!」
「兵士にはそうやって言われることもあるんだけどな、おれは女のひとにモテたい。男と子どもと猫にモテても仕方ない」
「い、いつかその子どもが大きくなって、正行さまのことを慕うようになるかも」
「気の長い話だなあ」
「なんのお話ですか?」
と兵士の笑い声に釣られて馬車から顔を出すアリス、がらがらと車輪を鳴らして進む馬車の背後を振り返り、正行を見つつこくんと首をかしげれば、ときならぬ風のいたずら、ふわりと白い帽子が浮き上がり、宙を舞う。
「あっ――」
ひらと可憐な一片の花びら、白いリボンの裾がなびいて、アリスは髪を押さえながら行方を見守った。
正行は手綱をくいと引き、馬を右へ寄らせて、ひょいと腰を上げれば帽子にも届く距離、指先でくるりと回すように受け取って、そのまま馬を進ませ馬車に寄る。
「ほら、落とさないようにしないとな」
「すみません、ありがとうございます」
アリスはちょこんと頭を差し出し、正行はそこに軽く帽子をかぶせてやって、また隊列に戻る。
一部始終を見ていた兵士たち、だれからともなくぽつりと、
「いまでも充分だと思うけどな」
「なにが?」
「いや、なんでも」
と一行、あくまで馬車の速度に合わせ、ゆっくりと野原を行く。
無論、いくら気候がよいといって、これだけの兵士を引き連れて散歩をしているわけではない。
ことの発端は、数日前に遡る。
「皇国の祭り?」
ある昼下がり、謁見室に呼び出された正行は、わずかに首をかしげる。
赤絨毯の上、本来なら王座に向かって跪くところ、正行は毛足の長いのを両足でふにふにと踏みしめ、両腕もだらりで。
王座につく女王アリスもそれをとがめることなく、むしろ当然のように受け入れながら、髪をさっと背中へ流し、
「毎年、この時期に行われているんです。去年は、お父さまの病気もありましたから皇国へは使者だけを送りましたけど、今年は例年どおり国の代表者、つまりわたしが皇国まで行こうかと思って。ほかにも周辺諸国の王やその代理が集まって、町は当然お祭り騒ぎですし、宮殿へ招かれて皇帝陛下と謁見できるのも年に一度、このときだけですから」
「へえ、そうなのか。じゃあ、アリスも行かなきゃまずいな。代も変わったし、大陸の北の話とはいっても去年からいろいろとやってたし」
「そうなんです。だから、よろしければ正行さまもごいっしょにどうかと思って」
「おれも?」
「先日、おっしゃっていたでしょ?」
とアリスは薄い笑み、
「なにか仕事があれば真っ先に、って。このところ、ほかのことでもお忙しいみたいですけど」
「ああ、あれはまあ、もういいんだ。新しい武器の開発をロベルトとしてたんだけど、おれが協力できることはもう終わったから。そうか、皇国か」
正行はすこし遠い目で。
「行ってみたい気持ちはあるな、たしかに。このセントラム城よりもでっかいんだろ?」
「それはもちろん。城下町の規模も、城――あちらは宮殿ですけれど――の規模も、ここよりもずっと大きいですよ。セントラム城には、城下町に数万というところですけれど、皇国には二十万ものひとが暮らしていますし」
「はあ、二十万!」
「城下町だけでもその数ですから、周辺の地域や国を合わせれば、全体で百万は下りません。宮殿も豪華で、一見の価値はあると思います」
誘うアリスの頭には、いたずらっぽい触覚が見え隠れ、白いドレスを纏った小悪魔のように。
「それに」
とさらに言いつのれば、今度はすこし恥じらうような顔つきで、
「長旅にごいっしょしていただくのは、去年の秋以来ですものね。久しぶりですわ」
「ううむ、たしかに。おれはそのあいだに船旅があったけど」
正行は腕組みし、悩む素振りだけ見せながら、その実女王アリスの要求に逆らえるはずなどないとお互いわかっていること、相談するというのはあくまで素振りだけで。
アリスも断られるとは思っていないし、正行も断ろうとは思っていないのである。
「じゃ、行くか」
と正行の一言、アリスはこくんとうなずいて、
「ここから皇国まですこし長い旅になりますけれど、道中よろしくお願いいたします」
女王らしくない深々の礼に、正行はちいさく笑ってその場に跪き、
「仰せのままに、女王さま」
「まあ」
アリスはぱっと顔を赤らめ、ぷいとそっぽを向いて羽織りの裾を払った。
「正行さまに女王さまと呼ばれるのは、なんだか素直に受け取れません」
「おれだって素直には言ってないんだから、当然だよ」
正行はけらけらと笑いながら、
「でもまあ、向こうに着いたらそういうわけにもいかないだろ。ほかの国、ほかのひとたちの目があるなかで、まさかアリスって呼び捨てにするわけにもいかない」
「そうでしょうか」
「そりゃそうさ。一介の臣下に呼び捨てにされてる女王なんて、端から見たら奇妙な光景って以上に威厳に関わる。そこは女王さまって呼ばせてもらうさ」
「じゃあ、向こうにいるあいだはわたしもがまんしますから」
アリスはちらと流し目、すがるように。
「それまでは、いままでどおりお願いしますね。もちろん、向こうから帰ってきてからも」
「ああ、おれもそのほうが気楽だよ」
明るい顔でこくんとうなずく正行、その日のうちに近衛兵を中心とした護衛隊が編制され、国内のことをベンノやアントンといった文官へ引き継ぎ、そして数日のうちに彼らは皇国へ向けて旅立ったのだった。
セントラム城を立って、早十数日、途中には雨もあり、いまはほとんど廃墟のようになっているグレアム城の前を通るという出来事もあり、それでも足を止めずに一行は進む。
皇国はまだはるか地平線の向こう、街道をまっすぐに進めばやがては行き着くだろうが、果たしてそこでなにが起こるか、まだなにも知らぬ正行は、ただ皇国に期待だけを抱き、うわさに聞く美しさを夢想しながら背筋を伸ばして馬を駆る。




