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八重鏡  作者: 藤崎悠貴
心の行方
64/122

心の行方 1-1

  1


 冬のまっただ中、人魚の島へ向けて港を出た巨大帆船アリス号は、それから三月ほどして、ようやくセントラム港にその姿を現していた。

 季節はすでに春に入ろうとしている。

 雪深い北国のこと、まだ極寒のあいだに積もった雪が土にまみれ、薄汚くなって城下町の隅や城壁の外にうずたかく積まれているが、気温はぐんと上がって、風が爽やかな時期になっている。

 セントラム城をぐるりと囲む城塞の外、広い草原には小高い丘がいくつかあり、その尾根に沿うように桜が植わっているのも、そろそろ芽吹いて満開というころ、四、五本ずつの白っぽい桜たちが草原の至るところを飾っている。

 爽やかだが強い南風に乗り、このあたりではあまり見かけないちいさな青い鳥も舞い降りて、ちゅんと鳴いて城塞の上に立てば、見渡す世界も広大で。

 南を見れば、無限に続くような草原地帯、そこを川がうねうねと這うように流れ、草木も春の陽気に息を吹き返したよう、青々と茂るなかに強い生命力を感じさせて、動物や昆虫のたぐいも冬眠から醒めてもそもそと地上を窺う様子。

 空は晴れ渡り、地平線と空が奇妙に入り混じって、春霞に境界線も曖昧に。

 小鳥の視力ではそれが限界、さらに遠くまで見通すなら、麓を霞みに隠した巨大な山々の影がぬっと現れ、文字どおり天を穿つ頂は見えぬせいで、山の中腹だけがぼんやりとして、なにやら異様な威圧感を持っている。

 大陸の北部から中部へかけて広がる草原地帯、いくつもの部族が暮らし、ちいさな国とも町とも判別できぬものが点在している地域があるが、空から見下ろせばそうした気配も感じられず、ただ自然が無限に広がっているように思われた。

 小鳥は長い尾を振り振り、足を入れ替え、振り返って北を眺める。

 ばっと吹く強風に煽られるのを堪えて、短い嘴を上げれば、望むのは大陸で一、二を争うほど豪華で巨大といわれるセントラム城が間近に見えている。

 セントラム城は、ちょうど半円の形、北の海を背に建っていて、入り組んだ城下町に、石造りでありながら軽やかな印象のセントラム城、その尖塔が三つぬっと突き出して、城中央の三角屋根を守護するような位置づけで。

 城下町の人口は数万人、商人の行き来も盛んで、城門は常に開かれ、町は活気に溢れている。

 一方海に目をやれば、季節を問わず波は高く、屈強な船と巧みな航海術をもってしなければ征服できぬという北の海、いまも白波が立ち、あとからあとから波が波を追い、轟々と鳴る風さえなければ波音も聞こえるはずで、あたりの空気にはすこし潮気が混ざっていた。

 城の奥、海岸沿いには、高いマストが三本、そそり立っている。

 このほど帰港した巨大帆船アリス号であり、いくつかの土産と、たくさんの土産話を持って戻ってきた船員たちは、すでに各々の家へ帰り、久しいわが家を堪能しているころである。

 しかし彼らは海がわが家という感覚に近く、やがてまた海へと出ていく男たちなのだ。

 そこへきて、城の文官などはアリス号に乗船しておきながら海の男ではなく、無事に帰港できたことをよろこび、船旅のつらさを久々の揺れぬ大地に噛みしめていた。

 そのなかにはもちろん、雲井正行の姿もある。

 彼らは女王アリスの命令で人魚の島を目指していたから、帰港すればその足で城へ赴き、女王と謁見して報告を行わなければならない。

 セントラム城中央の謁見室で、正行を先頭にした外交班、王座につくアリスの前に跪いて、人魚の島で起こったことを微に入り細を穿って報告する。

 女王アリスは、華奢な身体に似合わぬ王族のローブを纏い、王座に座れば、居心地も悪そうに身体を揺らして、ローブの裾を指先で撫でたり、肘掛けにもたれかかることもせず、借り物のようにちょこなんと座っていた。

 しかし報告を聞く顔つきだけは女王らしく威厳のあるもので、きっと結ばれた口元、頭のまん中で左右に分けた黒髪を背中へ流し、白い首をまっすぐ伸ばして報告を聞き終われば、


「ご苦労さまでした。お疲れでしょうから、ゆっくり休んでください。みなさまの働きに感謝いたします」


 と丁寧に言って、それからひとりひとりにこの度の働きに対する報酬が渡された。

 ほとんど場合それは金銭で支払われ、一部には城での地位を昇格させるという報酬、正行へはといえば、


「正行さまは、すこし残ってくださいますか。お渡ししたいものがありますから」


 アリスは、その場では静かに言って、ほかの臣下たちが謁見室を出ていくと、ようやくふうとため息、表情を和らげて、正行はそれにくすくすと笑う。


「相変わらず慣れないのか、女王さま」

「その呼び方はよしてください」


 とアリスは唇を尖らせて。


「いままでどおり、アリスでお願いします」

「よそでは、ちゃんとアリスさまって呼ぶことにするよ」

「それはそれで悲しい気もしますけど――お久しぶりですね、正行さま」


 アリスは改めて正行の姿を眺めるに、ゆったりと目を細めて、


「ずいぶんと日焼けなさいましたね」


 くすりと笑えば、正行は自分の顔にひたと手を当て、


「向こうでの日焼けっていうより、船での日焼けのほうが多いだろうな、たぶん。向こうを出てからも、途中までは妙に暖かくてさ、こっちのほうに近づくにつれて寒くなったんだけど、船の仕事をするのに、あんまり着込んでもいられないしな」


 かすかに首をかしげ、頭を掻く正行、それにアリスはすこしうらやましげな顔つきで。


「いろいろ体験なさったんですね、正行さまは」

「うん、いろいろやってきた」


 と正行も素直にうなずいている。


「考えることもあったし、なんだろうな――すこしだけ、卑怯になった気がするよ」


 ぽつりと呟く言葉が赤絨毯に散らばれば、アリスは丁寧にそれを拾い集めるよう、視線を足下に落として、


「正行さまがよいと思うなら、それが正解なのでしょうね。わたしも、正行さまがいらっしゃらないあいだにいろいろ考えたんです。ベンノさまにも教えていただきながら、国や自分について考えて――それで、結論を出したんです」

「結論?」

「わたしは、このままでいることにします」


 アリスは堂々と言ってのける。


「無為にして化すというわけではありませんけれど、わたしはきっとお父さまのようにはなれません。あんなふうに、力で他人を引っ張っていくことは。だから、できるだけ美しくあることにしたんです。姿勢を正して、決して汚れずにいれば、きっと何人かのひとはついてきてくださるでしょうから」


 視線を落とす正行の、そのわずかに日焼けした顔を、アリスはじっと見つめていた。

 アリスの決断とはいかほどのものであろうか。

 他人には計り知れぬ苦悩があったにちがいない、正行はそれを目の前の少女が受け止め、また自分のものとして受け入れたことに驚き、すこし悲しく、切なくなるのだった。


「いつまでも汚れずに美しくあることは、大変だぞ」


 きっと顔を上げた正行の伸びた前髪が目にかかる、それを指で払いながら。

 王座のアリスはそれもわかっているとばかりにこくんとうなずいた。


「わたしにできるかどうかはわかりません。もしかしたら、ただ無能な、なにもできない女王になってしまうかもしれません。それでも、きっとお父さまの真似をするよりはよいと思うのです。わたしはわたし、お父さまはお父さま、血を継いでいるといっても、その心まで同じではありませんから」

「うん、そうだな。ひとつの成功例が目の前にあるからって、それにすがる必要はないと思うよ。正解はひとつじゃない、きっといろんな種類があるものだと思うから――じゃあ、アリスはいつまでも笑ってないとな」

「わたし、笑ってません?」

「んー、ときどきな。こうやって」


 と正行は眉間に皺を寄せて、


「むずかしい顔をしてる」

「まあ、ほんとですか」


 アリスは眉のあいだに指を当て、そのあたりをむにむにとほぐしながら、


「自覚、していませんでした」

「笑っていられないことはだれにだってあるけど、覚悟を決めたなら、いつでも笑っていなくちゃな。まあそのへんは、だれを基準にするかってところもあるけど。町のひとたちにそういう姿勢を見せるか、それとも城のなかにもそういう姿勢か」

「城のなかといっても、ほとんどはもとからセントラム城にいらした方がほとんど、グレアム城からいっしょに移ってきたひとたちはわずかですから」

「じゃあ、アリスが笑わずにいられるのは、おれやベンノじいさん、ロベルトやアントンさんの、もともとのグレアム城の人間だけか」

「それも、困りましたわ」


 アリスがふうと息をついて頬を撫でれば、いかにも物悲しく。


「気心の知れているみなさんの前では、自然と安心して笑ってしまいますもの」

「笑うに越したことはないだろ」


 と正行はけらけら声を上げて、


「無理にでも笑えないようなときは、おれが笑わせてやるよ。そのへんは任せろ」


 アリスもくすりとして、


「じゃあ、それは正行さまにお願いしますね」


 と言ったあと、ふと本来の目的を思い出して、


「そういえば、報酬ですけれど、どうしましょう。なにかほしいものはありますか?」

「報酬か、別にいらないんだけどな」

「そうも参りませんわ。ほかの方には報酬を出して、正行さまだけ報酬なしというわけには」

「ううむ、それもそうか」


 腕組みの正行、アリスは王座から身を乗り出し、好奇心に目を輝かせる。


「なにがいいですか。金銭か、それとも宝石のたぐいか」

「そういうもんには興味ないんだよなあ。ここで暮らすには、金もかからないし。宝石なんかもらったって、自分でつけるわけにはいかないしな。じゃあ、おれは経験をもらうことにするよ」

「経験?」


 きょとんとした顔で、アリスは首をかしげる。


「この先、なんかあれば、おれを真っ先に指名してくれ。もちろん、おれがふさわしくないと思うなら、そのときはいいんだけど――だれでもいいけど、だれかにやってもらわないと、と思うやつを、おれにさせてほしいんだ」

「でも、それだとまたお仕事を依頼するだけになってしまいますわ」

「その分、おれはいろいろ経験できる。おれにはそういう経験がいちばんの宝だよ」


 殊勝に正行が言えば、アリスはちいさく笑って、


「わかりました。じゃあ、正行さまにはいつも忙しくしていただきますね」


 と冗談めかす。

 正行はあながち冗談でもないようにうなずいて、


「なんでも仰せを、女王さま」


 片足を引き、腰をぐっと折って礼をするのも芝居がかった仕草で。

 ふたりはちらと視線を合わせ、秘めたる遊びに熱中する子どものように、大人の目を盗んでくすくす笑うのだった。



 セントラム城の一室、海側に位置するすこし肌寒い部屋は、代々この城の図書室、あるいは資料室として使われていた。

 グレアム王国によるセントラム城占領後は、学者ベンノの自室となっている。

 壁際はすべて本棚で埋めつくされ、セントラムの豊富な資金を使って大陸の各地から買い集められた書籍の数々、巨大な本棚にも入りきらず、床にもうずたかく。

 高い天井のぎりぎりまで本棚が重ねられているから、本棚の脇には木製の梯子が用意され、ほかにはちいさな書き物机があるくらい、昔は資料管理にも人員が割かれていたが、いまはベンノがひとりで管理し、日々蔵書を精読し、新たな知識の獲得に務めていた。

 そんなような、勤勉を絵に描いたようなベンノの自室に、いまは若者がふたりと、老人がもうひとり。

 人魚の島からアリス号に乗ってセントラム城へ戻ってきたコジモとその弟子、ファビリオとブルーノである。

 彼らは一見客のようにも見えるが、なんのことはない、かつて長くセントラム城に住み、グレアム王国によるセントラム城占領前にこの資料室を管理していたのはほかならぬコジモなのだ。

 コジモはベンノと並び立ち、壁に備えつけられているように見える本棚の一角に立つと、ファビリオとブルーノが揃って本棚の本をすべて退ける。


「この本棚の本をすべて抜き取り、こうやって手前へ動かせば――」


 とコジモの皺だらけの手が仕切り板を掴み、ぐいと手前に引くと、なんの抵抗もなく本棚の一部がずずと前に動いた。

 ベンノは目を見開いて、


「ほうほう、こんな仕組みになっておりましたか。いや、これは気づきませなんだ」

「気づかぬように隠してあるのですから、無理もありません」


 コジモは薄く笑いながら本棚を手前に引き出して、そのなかに手を入れた。

 本棚の奥、石壁は一部が浅くえぐり取られていて、冷気が指先に触れる。

 引っ張り出された手には一冊の古い書物、赤表紙の分厚いもので、ページは湿気か長年の手垢で黒く変色していた。

 ベンノはそれを恭しく受け取り、まずはしげしげと表紙を眺めて、上目遣いでコジモをちらり、


「これが、例の」


 コジモはこくんとうなずいて、


「セントラムに伝わる、失われた歴史書の一端です。多くの歴史遺産同様、歴史書の大半はすでに失われてしまいましたが、これだけは奇跡的に現存しておるのです」

「はあ――このたぐいの歴史書は、皇国の書庫にも存在しておらんのでしょうな」

「皇国の書庫には、さて、どうでしょうな。あるいはあるかもしれんが、決してわれわれの自由にならぬという点で、ないと断じたほうがよいのかもしれません」

「コジモ殿は、すでになかを読まれたのですか」

「ええ。なかなか興味深いものですよ。問題は、これが真実であると判断する材料がないせいです。伝承などの裏付けにはなっても、それもまやかしであるとすれば、なにをもって真実というのか、この歴史書単体ではわかりませんからな。ほかにも歴史書が残っていれば、それと照らし合わせ、合理的に考えることができるのですが」

「まあ、ないものは仕方ありませんな。古くは、こうした歴史的遺産に対する意識も低く、過去が重要な意味を持っているとは考えられなかったのでしょうなあ」


 ベンノは両手に古びた本を載せ、それを書き物机まで運んだ。

 卓上の蝋燭をぐいと引き寄せ、そこに本を置いてゆっくりと表紙を開けば、いまは使われていない古い大陸文字、ベンノは指で探りながら一字一字読んでいく。


「大陸史、またはある英雄の物語――やはり、英雄ですな。この大陸に根強く残る英雄信仰は、ここにも見られる。むしろ、ここが起源といってもよいのかもしれん」

「この歴史書は、あるいは厳格なる歴史観によって綴られたものではなく、ある種大衆的な読み物として発行されていたものかもしれんとわしらは思っておるのですよ」


 コジモも卓上を覗き込み、老人ふたりが顔を突き合わせてぼそぼそと話し合う後ろ、若い弟子のブルーノがぽつりと、


「なんだか、陰気だなあ」

「静かにしろ、ブルーノ」


 とすかさずファビリオがブルーノの背中を叩く。


「お師匠さまの邪魔をするなよ」

「へいへい、わかってるよ」


 不承不承のブルーノ、ファビリオはため息、それを老人ふたり、ちらとも振り返らずに。


「装丁などは立派で、おそらくは富裕層向けのもの、あるいは学術的なものとして考えられておったのかもしれんが、それにしては内容がやわで読みやすいということもありましてな。そのあたりの判断がどうにもつきかねておるのですが、ベンノ殿はいかが見ますかな」


 コジモの目がきらと輝き、となりのベンノを盗み見る。

 ベンノはちいさくうなり、フードを上げて禿頭を撫でながら、


「たしかに、装丁などを見るかぎりはそれなりに重きものとして扱われることを前提にしているようにも思われますな。内容は精読してみんことにはわかりませんが、まあ正史にせよなんにせよ、これが書かれた状況というものが行間から感じ取れるでしょう」


 ベンノは黒ずんだページをゆっくりとめくり、その手つきがとくに丁寧なことにコジモは薄く笑っている。

 ふたりの老人は実によく似ていた。

 容姿に関して言えば、ベンノは禿頭で、コジモは白髪にせよ頭髪はほぼ残っていたし、あごひげもある、背格好もコジモのほうが上で、鷲鼻のベンノに対してコジモはどちらかというと平坦な顔立ちである。

 しかし学問に対する態度や書物を扱う手つきなど、ふたりは双子のように似ていて、揃って本を覗き込めば、老人とは思えぬ貪欲な好奇心が光る目つきで、学問の話なら何時間でも疲労せずに続けられるという性格なのだ。

 それに一度そうした話になれば、頭が学問向けに切り替わるらしく、弟子がなにを言っても聞こえぬよう、すでにベンノとコジモは毎晩のように話し合い、互いの学問に対する理解を深めている。

 ふたりの弟子、とくにブルーノのほうは、いまもまたそうした議論がはじまる気配、敏感に察知して、さっそくあくびを漏らしている。


「師匠たち、ほんとに飽きないよな」

「おれたちもしっかり聞いておくべきなんだろうけど」


 とまじめなファビリオさえ億劫なほど熱心なふたりで。


「あんなふうには、まだまだなれそうにないな」

「なんだいファビリオ、あんなの目指してるのか?」

「おまえはちがうのかよ、ブルーノ」

「おれはもっとこう、堅苦しくない感じがいいな」

「いまのままじゃないか。これより自由になったら、だれも手に負えないぜ」

「そんなことないだろ、いまでも結構いろいろがまんしてるよ」

「おれはおまえが恐ろしいよ」


 弟子ふたりが後ろでこそこそと話し合うところ、老人ふたりも小声で議論をはじめていて、夕食までに終わればいいがというところ、弟子ふたりが半ば諦めかけたとき、資料室の扉がばっと開いて、見慣れた若者がひとり、気遣いもなく部屋に入ってくる、それで老人ふたりは顔を上げて。


「おお、正行殿、よいところに」


 とベンノ、くいくいと手招きして、


「ちょいと、見てみろ」

「なんだ、また勉強か?」


 正行が露骨に顔をしかめて後ずさるのに、ベンノとコジモは揃って笑い、


「どこの弟子もこうした態度は変わりませんなあ」

「いやはや、まったく。勉強ではないから、まあ、見てみろ」


 それならと近づく正行、ファビリオとブルーノも師匠の背中越しに卓上を覗き込んだ。

 古い本の、冒頭近くの頁である。

 五つの顔が覗き込むそこは挿絵がある頁で、それがどうやら七つのものが描かれているらしい。

 正行はそのとなりに書いてある字に視線を走らせたが、さすがに古い大陸文字までは判別できずで。


「なんて書いてあるんだ、これ」

「大陸に伝わる八つの宝についてだ。かつて大陸統一を成し遂げた英雄が持っていたという、伝説の宝だよ」

「ああ、あれか――」


 と正行、すでにそれらしいものをいくつか所有しているのを思い出しながら挿絵を見ると、たしかにそんなふうにも見える。

 頂点に書いてあるのは、ちいさな貴石がはめ込まれた首飾り、それにははっきりと見覚えがあって、正行はわずかに頬を赤らめて。


「なんで照れたんだ?」


 後ろからブルーノが問えば、ベンノがぽつりと、


「おそらく、アリスさまの胸元でも思い出したのだろう」

「ば、ばか、ばらすなよっ。え、えっと、これはなんだ」


 と正行の白い指が指し示すのは、荒く描かれた丸い装飾品の素描である。


「これは、ほれ、あれであろう。この城にあったという、いまはクレアが持っておる」

「ああ、あの指輪のことか。じゃあ、これがエゼラブルでもらった水晶かな。それから――あっ」


 つつと正行の指が紙面を滑り、別の素描でぴたりと止まる。

 それは一見葡萄の房のようにも思える、いくつもの貴石が組み合わされた奇妙な装飾品であった。

 正行が思い当たったものとはすこし形状が異なるが、それでもおそらく間違いはないとベンノの横顔をちらり、ベンノもこくんとうなずいて、


「おそらく、正行殿の持ち帰った人魚の宝であろう。ここには、人魚の鱗でできた盾と書いてある。形状がちがうのは、時間経過で一部が失われたせいであろう」

「はあ、やっぱりあれも、そうだったのか」

「ってことは、なにかい」


 とブルーノ、正行をちらと見て、


「おまえさん、伝説の宝のうち、もう四つを持ってるってことかい」

「まあ、そういうことになるのかな。おれが持ってるっていうか、国として持ってるってことだけど」

「それってすごいことだろ。いままで実在するのかしないのかもわかんなかった宝を、もう四つ、半分も持ってるんだから」

「でもそれだって確証があるわけでもないしなあ。全部成りゆきで近くにあるだけだし――ほかには、どんな宝があるんだろう」


 紙面には正行が知っている四つの宝のほかに、もう三つ描かれている。

 ひとつはどうやら王冠らしい、あまり豪奢なものではなく、金か銀の細い輪に先頭のような細長い突起が何本か作られているもので。

 ほかには剣と、巨大な貴石が描かれている。

 剣はともかく、その貴石がなにかといえば、ベンノが紙面を読み上げて、


「どうも、馬の目と書いてあるの」

「馬の目?」

「そういう名の貴石、ということであろうが、どうも巨大な天然石らしい。この絵だけでは尺もわからんが、文によると拳よりも大きな貴石と書いてある」

「ははあ、そいつはでかいな。じゃあそれで宝は全部――いや、もうひとつ、足りないのか」


 頁をめくっても、八つ目の宝に関する挿絵は見当たらない。

 ベンノがその場で読んだところによると、


「八つ目の宝は定かではない、とある。八つの宝は伝承にもよく現れるが、八つの詳細な情報は伝わっておらんからの。この本が書かれた時代、七つの宝に関してはある程度正確に伝わっておったらしいが、八つ目の詳細は失われておったのだろう」

「ふうん、そうなのか。まあ、八つ集めたところでどうなるわけでもないんだろ。それとも、このへんの伝承では八つ集めたらどうにかなるのか。なんでも願いが叶うとか」

「さあ、そんな話は聞かんが」

「八つ集めれば大陸に平和が訪れるという話は、どこぞの村で聞いたことがあるのう」


 とコジモ、あごひげを撫でながら。


「ほかにも、英雄の再来という話はあちこちで聞くが。それは伝承というより希望なのだろう。いま、大陸は荒れておるからのう」

「英雄の再来、か」


 正行は物憂げな横顔、古びた書物の角をゆっくり撫でながら、だれにともなくぽつりと呟く。


「華々しい英雄の影で、苦労してる一般人もたくさんいるんだけどな。絶対的な能力はなくても、がんばってもがいてるやつがさ」

「英雄とは、得てしてそういうものよ」


 ベンノも腕組み、どこか厳かに、


「英雄、いや、才能というべきかもしれんな。生まれながらにしてなにかしらの力を有しておるものは、ほかの者に比べて同じだけの努力でより遠くまで進むことができる。周囲からしてみれば、競うこともばかばかしくなるような相手だ。本来、そういうものはよくも悪くも異端視される。時代が時代であれば、英雄ではなく悪魔と罵られるところ、まあどちらにしても同等の努力をする他者を踏みにじることには変わりない。英雄とは、求められてはじめてそうなるものなのだ。時代に、ひとびとに求められん英雄は、いつの時代でも悪魔と化す」

「ふむ――そういうもんか」

「現在のハルシャなど、そのよい例でしょうな」


 コジモが言えば、ベンノもうなずいて、


「あれも、時代が時代であれば充分に英雄と呼ばれる資格はあるのだ」


 正行は首をかしげ、


「ハルシャって、大陸の南端の? ちらっと聞いたことあるけど」

「いま、恐ろしい勢いで国土を拡大させておる国よ。いまや大陸の三分の一、いや、半分近くはハルシャの力が及ぶところとなっておる。なにより、ハルシャの王は自らを皇帝と称しておるのだ。この世界には疎いおまえさんには、すぐには理解できんかもしれんが、この大陸で皇帝といえば、大陸中央の皇国におられる皇帝陛下ひとりきり、それ以外の者は、王を名乗っても決して皇帝は名乗らん。ハルシャの王が皇帝を名乗った時点で、ただの国家間の戦争ではないのだ。やがては皇国へも迫り、皇国派とハルシャの戦争となるだろう。大陸を二分する戦争だ」

「はあ――そのハルシャって国を率いてるやつも、大したやつなんだな。それだけ戦争を重ねて、国土を広げ続けてるってことは」

「大陸統一を成し遂げるかもしれんという意味では、伝承の英雄となんら変わりない。しかし英雄がおった当時は大陸も荒れておってな、もはやだれも手がつけられん状況にあったのを武力と知力で統一したのがくだんの英雄であり、現在まで残る皇国を築いた張本人なのだ。そこへきて、いまはたしかに戦乱の嵐が吹き荒れておるが、あちこちで大規模な戦闘が日常的に繰り返されているわけではない。無理な統一は、単なる侵略と文化の蹂躙よ」

「なるほど――でも、もうあとには退けないところにきてるんじゃないか」


 正行は声をすこし沈め、深刻な顔つきで、


「おれたちだって、ここまでくるのにふたつの国を潰したんだ。自衛といえばそうだけど、侵略と蹂躙だっていえばそんなふうにも見える。いまはひとまずこの地方を治めて、ほかの国とも戦争をしてないけど、もしほかが攻め込んでくれば対抗するしかないだろ。身を守ることと敵を攻撃することが同義になっているなら、ハルシャって国と大差ない気はするよ」

「自戒は必要であろうが、ハルシャに比べれば、グレアム王国の侵略は紳士的だと思うがのう」


 コジモはあごひげをしごき、つと目を伏せる。


「うわさによれば、ハルシャの侵略にはまったく容赦というものがない。戦闘の結果降伏をしても、二度と抵抗できぬようにと家々を焼かれ、畑を荒らされ、生活の手立てすべてを奪うのだ。戦死者は数万を超えるが、そのほとんどは兵士ではない一般市民という話も聞く。その点、時代が求めようと、ハルシャが英雄になるのは不可能であろうな」

「侵略と統一か――おれは、そこまでは頭が回らないな」

「なに、おまえさんは自分のやるべきことに集中しておればよいのだ」


 とベンノ、正行の肩をとんと叩いた。


「若者は前を向いておればよい。後ろを振り返り、あるいは足下を確かめるのは腰の曲がった老人に任せておけ」

「腰の曲がった老人ってわりにには、元気すぎる気がするけどな」


 正行の言葉にブルーノが笑って、場は一瞬和むものの、すぐに正行は真剣な顔に戻って、


「いまのところこのあたりに敵対する国がないっていっても、憂いがないわけじゃ、ないもんな。またいつ戦争になるかわからないことには変わりないよ」

「む――アルフォンヌ王子と、セントラム前王のことか」


 コジモもすでに女王に跪き、新たなグレアム王国に忠誠を誓ったひとりである。

 新参で、古くセントラムに仕えていたということは知れ渡っているから、城のなかでの信頼はこれからというところだが、すでに正行やベンノは個人的なやりとりを通じ、コジモに隠すことはないと感じている。

 ベンノはわずかに顔をしかめ、ローブの裾をさっと払うと机の前を離れて、部屋のなかをうろつきながら、


「アルフォンヌに関しては、すでに去年の冬のうちに自治を与えておる。セントラム前王も正行殿が船旅に出ているあいだに済ませ、危うい緊張状態は緩和されたが、それでも危険なことには変わりない。セントラムはすでにわが方に敵対する意思もないが、アルフォンヌはわれわれを深く恨んでおるからの」

「まあ、無理もないよ」


 正行はため息をつき、


「いまさら、どうすることもできないしな。謝って許されるようなことでもなし――やるべきことを、やるしかないだろう」

「しかしアルフォンヌ王子はまだ年少であろう。将来的にはともかく、いますぐどうにかなることもなかろうと思うが」

「たしかに、アルフォンヌひとりではどうすることもできんだろうが、それをそそのかす大人がおるかもしれんのだ。かといって、数少ない臣下と隔てて生活させることはむずかしい。ノウム城の住民、もとノウム王国の住民はいまでもアルフォンヌに同情的な人間も多いからの」

「それもむずかしいところだなあ――ほんと、ベンノがいてくれて助かったよ。おれひとりじゃどうにもならない」

「それを言うなら逆であろうに」


 とベンノは苦笑いして、


「本来であれば、わしがその台詞を言うところ。なにしろおまえさんのほうが新参なのだから」

「あれ、そうだっけ?」

「こやつ、都合のよいことは簡単に忘れる質らしいの」

「まあ、それも必要な能力にはちがいない」


 とコジモも笑い、


「なにもかも、身体のなかに収めておくことはできんよ。ほどよく忘れ、ほどよく覚えておく、これがいちばんであろう」

「ほどよく、ねえ」


 正行はため息をつき、それからふと、開かれたままの古ぼけた書物に目線を落とした。

 そこに描かれる英雄は、果たしてどのような気持ちで戦い、どのように敵を蹴散らして、この大陸を統一したのだろう。

 数えきれぬ悲しみがあり、涙があり、血が流されたのだろうが、それらはいまや、無味乾燥な文章に集約されている。

 正行はふと、自分もいつかはそうなるのかと考え、ちいさく自嘲した。


「おれが英雄と呼ばれる日なんか、くるわけないか」


 その呟きをだれが聞いたものか、分厚い壁越しに、かすかな波音が響くのみ。

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