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八重鏡  作者: 藤崎悠貴
心の行方
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心の行方 0

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 不意に蝋燭の炎がぱっと巨大化し、あたりを一瞬だけ赤々と照らせば、そこは石造りのちいさな部屋で。

 なにがあるかといって、とくになにもないような、寒々とした部屋、とはいえ蝋燭一本では光も足りず、薄暗いのがわだかまって、あちこちに暗闇が集っている。

 部屋の中央には木製の机、すらりと長い四本の脚で支えられた天板は華奢で、蝋燭はその上に置かれていた。

 もうひとつ、机の上には巨大な地図、大陸の隅々までを記載した地図だが、まさかひとの営みまで映し出せるはずもなく、その平面の世界にじっと見入って動かぬ男、ハルシャ国王にして自らをもって皇帝と名乗るロマンは、もう何時間そうしているかしれない。

 ロマンは椅子に深く腰掛け、ぐっと腕組み、指先と同じく目線を地図の上に固定して、両目を見開いたまま眠っているようにも思われる。

 ロマンは奇妙な男であった。

 ハルシャの王となりながら、大陸の南端にあるちいさな国で生まれ育ったとはだれも信じていない。

 その名を大陸中に轟かせ、名乗りひとつで敵の大軍を降伏させる彼でありながら、彼がどのような生活をして、どのようなことを考え、そもそもどのような人間なのかはだれも知らない。

 どこからきて、どこへゆくのか。

 ハルシャはもともと、大陸の南端の、漁業だけが取り柄のちいさな国である。

 ロマンはそれを率いて、すでに大陸の半分近くを手中に収めた。

 彼が気軽に呼びかければ、十万以上の兵が動く、それほどでありながら、だれも彼がなにを目的にして大陸を荒らしているのか知らず、その果てがどこにあるのかも知らぬまま、盲目に手を引かれ、どこかへ連れて行かれる。

 ハルシャ国内に蔓延する、なんとも言えぬぎこちない空気、怒りとも悲しみともちがうためらいは、それに起因している。

 ロマンは眠っているのか起きているのか、ともかく目は見開いて、地図をにらんでいる。

 そこへ、いつの間にか影のような男がするりと入り込んでいる。


「ロマンさま」

「おう」


 ロマンは顔を上げぬままで。

 一本の針金のような、枯木というにはいくらか鋭く剣呑で、男は蝋燭のそばに青白い頬をぬっと突き出した。


「ご報告、遅くなりました」

「かまわん――して」

「はっ。こちらの準備はすべて完了し、あとは鬨の声を待つばかり、最後の一突きですべてが動き出しましょう」

「順調だな」

「すぎるほど」

「すぎるのはいかんな」


 ロマンはふと顔を上げ、男の痩せた顔、ちらと見上げたのはほんの一瞬で。


「ともかく、まあ、やれるだけをやれ」


 と言うころには、すでに視線は地図の上。

 男はうなずきひとつ、いま気づいたように、唐突に視線を地図に落として、


「新しい作戦をお考えですか」

「ふん」


 ロマンはちいさく鼻で笑い、


「コンドラート、おまえは、なぜおれが天才と呼ばれるか知っているか」

「はっ――」


 男の目に一瞬の戸惑い、それをすぐに立て直して、


「数々の軍事的作戦、または内政の優れた判断で、そのように評価されておいでなのでは」

「なるほど、ではその軍事的作戦や内政は、どのように考え出されたものか。おれの頭が特別製なのか、それともおまえたちが特別に愚かなのか? おそらくどちらでもないのだ。おれには戦争しかない、つまりはそういうことであろう。おれは常に戦争のことを考えている。おまえたちが、たとえば今日の飯をどうするか、女を抱くか否か、腹の立つあいつをどうしてやるか、明日の天気はどうか――そんなことを考えているあいだにも、おれは戦争のことを考えているのだ。あの国はどうやって攻め落とすか、あの連中をどうやって殺戮するか。人間、優れたものもなければ劣ったものもない。ただ力の使い方に差があるだけだ。おまえたちが人間であるなら、おれは戦争そのものよ」


 ロマンはにたりと笑い、その引きつった口元にある種の凄みを見た男は反射的にぐいと身体をのけぞらせた。

 見れば、中肉中背、決して屈強とは言えぬロマンの体格、顔も青白く覇気に欠け、その短く刈った髪の奥から数々の非道な作戦が生み出されるとは信じがたいものがある。

 それでいながら、ちいさな椅子に腰掛け、地図に向かう姿には言いようのないほの暗さがあって、ある種の天才にありがちな狂気的雰囲気を存分に持ち合わせている。

 天才というよりは悪魔だろうと、男は心中でぽつり、目の前のロマンには頭を下げて。


「われわれのような凡人は、ロマンさまのようにはなれませぬ」

「そうであろうな」


 気のない様子のロマンで。


「おれのようになれるのは、おれだけだ。しかしまあ、おれとて腕が十本あるわけではなし、なにもかもひとりでやるわけにはいかん。おれの腕の届かぬ範囲を、おまえのような者に任せているのだ」

「恐れ多いことでございます。ロマンさまの代わりなど」

「腕一本くらいなら、どうとでもなろう。そちらは頼んだぞ、コンドラート」

「はっ――しかし、ロマンさま。いまあえてこのような作戦に出る利はどこにあるのでしょう。ロマンさまの采配を疑うわけではないのですが」

「利か。利というなら、そうだな、小手調べというところ」

「小手調べ、と申しますと」

「まあ、暇つぶしの遊びだ。どうも大陸の西で手間取っておる分、余所で遊ぼうと思ってな」


 ロマンは地図に目を落とし、意味ありげに指先を動かした。


「さきも言ったように、おれとはつまり戦争なのだ。飯を食う快感、女と戯れる快楽、寝室での安心、すべてが戦争にある。戦争とはある種の怪物、散々暴れまわり、存在するということがすなわち他者にとっての破壊であるようなもの。おれの生活が、ほかの人間にとっては破壊であり殺戮なのだ。おれの息吹は死の風となり、おれの足音は死の足音、おれの腕は死に神の鎌であり、おれの目は運命となる。おれの指先が何百という人間の平穏な生活と命を払い落とせば、おれのつま先は何万という人間の住まいを奪うだろう。しかしおれには快楽もなにもない。それこそが生活なのだ。ときには甘い快感と戯れるのも悪くはなかろう」

「はっ」

「コンドラート、おまえの役割は重要だ。しくじらぬように。まあ、しくじったところでどうということもないが」


 素っ気ないロマンの言いぐさに、男は深々と頭を下げ、薄暗い部屋を出ていった。

 残ったロマンは、ちいさく息をつき、再び腕組み、地図をにらむ。

 地図に寄せた炎の揺らめき、平面の地図に陰影を残し、山々が隆起し、平原には大小様々な草が茂り、ときならぬ風に揺れるさまが想像されて、ロマンの頭のなか、蠢く脳髄が戦争の手順を組み立ててゆく。

 山を利用し、草を利用し、風を利用し、ひとを利用し、最後にはすべてを奪い尽くす。

 ロマンの通ったあとには、地面のかすかな隆起もなく、草の一本も生えず、土塊が散らばり、灰色の地面が露出して、ただ死屍累々、ちいさな頭蓋骨を抱く母親の死体に、筋骨隆々たる男が覆い被さり、それを巨大な馬の死体が押し潰すような世界が広がっている。

 この薄暗い部屋でロマンの目に止まった国、あるいは町は、死を宣告されるに等しい。

 しかしそのロマンの目つき、殺生与奪の権利を行使する圧倒的上位にありながら、下位を見下ろすのによろこびも誇りもなく、感情のない透き通った眼差しがあるだけである。

 ロマンはもはや、この大陸におけるひとつの悪であった。

 感情のない、悪魔というほどのかわいげもない、ただ死を授けるために飛来した悪であった。

 ロマンはいつまでも頭のなかで仮想戦争を繰り返し、その度に勝利し、条件を厳しく設定し直して、再び戦争、また勝利ということを繰り返す。

 それがやがて、現実の戦争へ、死へ繋がっていく。

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