表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
八重鏡  作者: 藤崎悠貴
人魚の島
62/122

人魚の島 8

  8


 正行はふらふらとおぼつかぬ足取り、水路に近づく。

 流れる水は、すこし湧き出したという雰囲気ではなく、大きな水路いっぱいに流れていて、青く澄んでいるところに夕陽が当たってきらきらと輝いている。

 指を浸せばひやりと冷たく、その指を舐めれば、どうやら真水ではなく塩辛い。


「なんでこんな森のなかで、これだけの量の海水が?」

「それがわからないんだよ」


 とファビリオも腕組みして、


「おれもさっき、妙な音に気づいて見つけたところなんだ。いったいどうなってるんだか――師匠ならなにかわかるかもしれないと思ったんだけど」

「コジモさんも村のどこかで飲んでるはずだけど、とにかく上流へ行ってみよう。どこから水が出ているのか、確かめるんだ」


 正行はすっかり酔いも醒めた顔、薄暮の森を足早に進む。

 右手の森にある水路の様子もちらと窺いつつだが、やはり水の量は変わらず、一部水路が崩れているところは森に向かって水が溢れている。


「この水は、どこへ流れ出してるんだ」

「さあ、森のどこかへ流れているはずだけど」

「でも、わき水なんかじゃないんだもんな――どういうことだ、こんなところで海水なんて」


 ふたりは鳥たちが囁き合う森を抜けて、やがて例の大穴にたどり着いたが、それが先日見た大穴と同じものかどうか、ふたりには確信がなかった。

 つい数日前に見たときは獣の口めいた黒い穴がぽっかり開いているだけだったのが、いまはその巨大な穴いっぱいに水が溜まり、湖のようになっているのだ。

 さらには下から下から水が湧き出し、そこから溢れたものがどうやら水路へ流れ込むらしい、穴の縁を通って見てみれば、きちんと石材で補強され、ほかに溢れるのではなく、水路を流れるようになっている。

 水路へ流れ出す量と穴の下から溢れ出す量が等しいのか、水面はほとんど動かず、すこし濁った水が夕陽に佇んでいた。


「これもやっぱり、海水か」


 普段は冷静なファビリオも驚きを隠せず、大穴を覗き込む。


「なんで森のなかに開いた穴から海水が溢れ出すんだ。この島は、いったいどうなってるんだよ」

「さあ――でも、きっとなにか起こったんだ」


 正行は腕組みし、じっと水面をにらみつけた。

 しかしなにも思い浮かばぬうち、背後で石畳を駆けてくる音が聞こえて、なにかと振り返ればブルーノ、額に汗を光らせて冷静さを欠いた顔。

 正行とファビリオを見つけると、ブルーノは急いで駆け寄って、大穴を見て飛び上がるほど驚いたが、


「そ、それどころじゃないんだ、ふたりとも早く村へ戻ってくれ!」

「あちこちで騒がしいな、どうしたんだよ」

「里へ報告しに戻った人魚が、こっちへ帰ってきたんだ。向こうが大変なことになってるらしい」


 顔を見合わせる正行とファビリオ、こちらの謎も気になるものの、とにかくブルーノに手を引かれ、村まで駆け戻った。

 先ほどまであちこちで宴の声が上がり、笑い声が絶えなかったのが、いまはしいんと森閑、砂浜に横たわる巨大な怪物の脇を抜けて現れた人魚が言うのに、


「里が、里の水が大変なことになっているんです。とにかくきてください」


 とせっつくばかり。

 そこで一度浜に上げていた小舟を湾に降ろして、正行と水夫がふたり、人魚とともに外海へ出た。

 ちいさく揺れる船の上、水平線を見れば、赤々と燃える太陽が沈まんとするところで。

 その美しさには目を瞠るばかり、しかしいまはそれをゆっくりと見ている余裕もなく、夕暮れに凪いだ海を割って、島をぐるりと回り込んだ。

 人魚の里がある湾のそばまでくると、正行にはわからなかったが、水夫は感ずるところがあるらしく、


「妙に流れが速い。気をつけないと、このまま流されるぜ」

「いままでこんなことはなかったのにな」


 と慎重に船を進め、湾の入り口、その奥に広がる半分海に沈んだ町と美しい人魚たちの里を想像して覗き込めば、あまりの落差に水夫が思わず櫂を手放したほどであった。

 当然正行も目を見開いて、信じられぬ気持ち、しかし現にそう現れている以上、信じざるを得ないことも知っている。

 人魚の里はあらゆる意味で一変していた。

 まず、水がない。

 広大な湾のなか、見渡すかぎりは干上がって、かつては海に沈んでいた古い町が、いまだ表面に水滴をつけたまま、しかし陸地として夕陽に輝いているのである。

 白い石材、荘厳な建物、太い柱に家々、かつて栄花のかぎりを極めた町がそのままの姿で蘇る。

 海から流れ込んだ海水は、そのまま湾を満たすのではなく、滝のように流れ落ち、その真下と周囲の狭い範囲だけが海になっている。

 それ以外、湾のほとんどは干上がって町となり、垂直に落下する海水が霧のように広がって、淡い虹がかかっていた。


「どうしてこれだけ水が減ったんだ。いったいなにが――」


 正行は呆然と呟き、ふと脳裏にひらめいて、


「そうか、だから、向こう側に海水が溢れてるんだ。海に沈んだ町ってのは、そういうことだったのか」

「どういうことなのです」


 と人魚は船の縁に掴まり、正行をじっと見上げる。


「わたしたちの故郷は、どうなってしまったのですか」

「たぶん、これがこの町の本来の姿なんだ。昔、まだ人間と人魚が同居していたころは――そのあと、そうか、火山だ。まだ火山の運動があったころ、それに起因する地震があったにちがいない」

「地震ですって? いったいどういうことです」

「この島には、洞窟があるんじゃないかな。カルミア村の近くに、たぶん海面より低い位置なんだろうけど、大きな穴があるんだ。洞窟はここの下とそこを繋げていて、こっちから流れた海水が洞窟を通って向こう側に溢れ出す――その分、こっちの水が大きく引いたんだろう。引いた水の量を考えれば、あの場所以外にも通じている穴があるのかもしれない。とにかく、昔はこれが当たり前だったんだ。人魚といっしょに暮らしていた町はある突然海に沈んだっていうのも――地震で洞窟が崩れて塞がって、海水が抜けなくなったから、外海から徐々に海水が流れ込んで湾全体が海に沈んだにちがいない」

「じゃあ、なかにいた人魚たちはどうなったんだ」


 と水夫、不安げに顔を歪めて、


「この滝はとてもじゃないが飛び込めねえぜ」

「その代わり、山の麓の大穴から海水で満たされた洞窟を通ってこっちへ抜けられるはずだ。戻ってみよう」


 船は人魚を連れてカルミア村へ戻り、一同、陸を歩けぬ人魚は水夫に背負われて森のなか、例の大穴へ向かった。

 いまやそこは海水で満たされた湖と化して、際限なく溢れ出している。

 水路はほんの緩やかな傾斜で水を村の近くまで運んでいて、人魚はすこし濁った水にも臆せず、とぽんと飛び込んだ。


「なかの洞窟は一部が崩れているかもしれないし、どう入り組んでいるのかわからない。とにかく壁伝いに進んで、複雑そうな一度戻ってきたほうがいい。人魚の心肺能力なら酸素の不安はないと思うけど」

「大丈夫です。行ってみます」


 人魚はこくんとうなずき、くるりと身体の上下を反転させ、尾びれの先を水面に跳ね上げて底へと潜っていった。

 水夫と正行は、波紋が広がる水面を心配げに見つめる。

 大穴の中央から広がった波紋がゆっくりと水面を走り、縁に到着するころ、正行はぽつりと、


「ようやく、この島の原風景が見えてきた気がするよ――この村のひとたちは人魚に罪悪感があると言っていたけど、それはもしかしたら的外れなものだったのかもしれないな」

「的外れ?」


 と水夫、首をかしげ、


「人魚の里は、湾の入り口が滝のようになっているから、向こうから外海へ出ることはできない。この洞窟を伝って島のこちら側に出てきても、ここは海抜が海よりも低いから、ここから流れ出した水はきっと海まで到達しないで、どこかに池みたいなものがあるんだと思う。つまり、人魚たちは独力で外海へ出ることができない、食料を確保することができないんだ。きっと昔は、人間が漁をして、人魚たちに食料を分け与えていたんだろう。わざわざ石造りの水路まで造って、村の近くまで人魚がこられるようにして。そうやって考えれば、お互いに助け合って生きていたようにしか思えない」

「じゃあ、罪悪感ってのはどこから生まれたんだ?」

「たぶん地震があって、あれほど贅を尽くした町が沈んだとき――天罰のように感じたのかもしれない。そんなものは、この世界にだってないんだけどな」


 ふたりがぽつりぽつりと言うあいだ、洞窟のなかに潜り込んだ人魚は、わずかな視界を便りに大穴の奥にさらなる洞窟があるのを発見していた。

 正行の言うとおり、壁に手をつき、そこから離れぬように洞窟の奥へと進む。

 洞窟の奥からは激しい水の流れ、人魚の強靭な尾びれをもってしなければ進めぬような水流で。

 それでも人魚は筋肉質な尾びれをぐいと動かし、すこしずつ洞窟を進んだ。

 はじめは大穴から差し込む光で薄ぼんやりと明るかったが、すこし進むと暗くなり、この先はさらに暗いはずと人魚は覚悟するものの、予想に反して洞窟の天井にはあちこち穴が空いていて、それが自然の採光窓となり、白い光が幾筋も透明な水面に煌めいていた。

 美しい風景に勇気づけられた人魚は洞窟をまっすぐ進み、分かれ道や崩れた場所もないまま、終点へ行き着く。

 洞窟の内部よりもすこし狭い出口、意を決してぱっと出れば、頭上の水面に歪む陽光で。

 そのまま水面へ浮上すると、すぐ奥、一段高くなっているところによく知っている、しかし直接太陽の光を受けて輝いているのははじめて見る古い町。

 あたりには、人魚の里に残っていた、怪物との戦闘に参加しなかった人魚たちが不安げな顔で集まっていた。

 洞窟は正行の言うとおり、人魚の里へ繋がり、自由に行き来することが可能だったのである。



 その後、正行とコジモが調査したところ、水路の終点は町の東、湾を形作る突き出した地面の先あたりで、そこには大きな池があり、すでに清い水が湛えられていた。

 周囲はすっかり深い森に浸食され、地面は腐葉土で覆われていたが、正行とコジモは古い町の跡らしい石造りの建物をいくつか発見した。

 ある建物はすっかり苔に覆われて、ひとつの別種の植物めいているし、ある建物は崩れた天井から太い幹がぬっと突き出して森の一部と化している。

 かつてはこのあたりに集落があったのだろうが、いまは人間の気配を拒むような静謐さで、木洩れ日が揺れ、そこに美しい人魚が泳ぐさまは、いつまでも眺めていたいような気高く幻想的な光景であった。



 それから、丸一日以上経ったあと、完全に息絶えたことを確認された怪物は、その場で切り出され、食料として振る舞われた。

 とても村ひとつと人魚たちでは食べきれぬ食料、塩漬けにするにも限界があるから、一部はアリス号にも分けられて、帰りの船旅の貴重な食料となったが、それでもまだ身体のほとんどの部分が余っている。

 かといってこのまま陸に揚げていてはいつか腐り出すだろうし、またいつまでも怪物の死体が湾のなかにどんと置かれているのも邪魔だから、人魚と人間たちは協力してその死体を外海へと動かした。

 深い海に沈めておけば、様々な生物の食料ともなろうし、それが人間、人魚の食料にも繋がるのである。

 そうして怪物が去った砂浜は再び手入れされ、美しさを取り戻しつつある。

 無論、水夫たちもそれに協力する姿勢はあったが、彼らにも別の大切な使命があり、いつまでもカルミア村に、この美しい人魚の島に居座るわけにはいかない。


「なんなら、ここに住んでくださってもよいのですが」


 と村長はアリス号へ引き上げる水夫たち、そして正行に、冗談めかして言った。

 新しくかけられた桟橋の上、正行も笑顔で、すっかりその顔は日に焼けている。


「しかし本当に、あなた方はわれわれの恩人です。また、必ずいらしてください。人魚たちともども歓迎いたします」

「おれたちもすっかりここの美しさに魅了されましたから、きっとまたきます。そのときはよろしくお願いします」

 正行はぺこりと一礼、小舟に乗り込み、水夫に指示してゆっくりと湾のなかを泳ぎ出る。


 それを、村人が砂浜に勢揃いして見送った。

 相手が手を振るあいだは正行もずっと手を振って、湾の外へ出たところ、ちいさく息をつけば、水夫がけらけらと笑って、


「まだアリス号に乗り込んでもいないのに寂しいのかい」

「別に寂しいってわけじゃないけどさ」


 と正行、唇を尖らせるが、その横顔にははっきりと名残惜しい気持ちが浮かんでいる。

 水夫たちもそれは同様で、先にアリス号へ乗り込んだ面々もできることならいつまでもいたいという顔、それをアキレウス船長に叱咤されて慌てて積み荷とともに逃げ込むというふうで。

 正行たちの船は、その名残惜しさを表すように、ゆっくりと外海を進んだ。

 今日は晴天、海も凪いでいて、船出にはちょうどよい。

 この美しい南国も見納めかと思うと、いよいよ後ろ髪を引かれるが、そこへ、


「正行さん!」


 と明るい声で。

 見ると、ひとりの人魚が水面をするすると近づいてくる。


「フローディア」


 正行が言うと、気を効かせた水夫は櫂を止め、船を漂うに任せた。

 フローディアはすぐ船に追いつき、水面からぱっと顔を出して、明るい瞳で正行を見上げた。


「よかった、間に合って。向こうの町からいろいろと取り寄せていたから、遅くなっちゃって――あと、ひとりじゃ外海へ出られないから、アイラにも手伝ってもらって」


 と笑ったあと、フローディアはすこしまじめな顔、


「あの、今回は本当にありがとうございました。こうして島まで連れ帰っていただいたこと、そのあとにあったこと――全部、みなさまのおかげです。とくに正行さんにはいつもやさしくしていただきました」

「そうかな、そんなつもりもないけど」


 後頭部を掻く正行、水夫が後ろでくすくすと笑う。


「だから、みんなでなにかお礼ができないかって考えてたんです」

「お礼なんて、いいよ、別に」

「でもわたしたちの気持ちだから――大したものじゃないんですけど、受け取っていただけますか?」


 フローディアがまっ白な指を添えて差し出したのは、透き通るような緑色の貴石であった。

 大きさは両手でやっと持てるほど、ひとつの貴石ではなく、いくつかの貴石がずらりと並べられたいびつな四角形で、色はこの海によく似る。


「これは?」

「人魚の鱗というそうです。海の深くに沈んでいた、いまのわたしたちの町から見つかったんですけど、よかったら受け取ってください」

「でも、大切なものなんだろ。人魚たちの宝かも」

「だから、さし上げたいんです」


 フローディアはにっこりと笑って、


「これをお渡ししておけば、いつまでもわたしたちのことを忘れずにいてくれますよね。そしたら、また会いにきてくれるかもしれません。そのために、渡しておきたいんです」


 正行は陽光を浴びてきらきらと輝く宝を見下ろし、こくんとうなずいた。


「じゃあ、もらっておくよ。そしたらきっとまた会いにくるから」

「はいっ。いつまでも、ここで待ってます」


 正行はちらと水夫を振り返って、


「行こう、みんなが待ってる」


 小舟はゆっくり進みはじめ、フローディアはその場で手を振り、彼らを見送った。

 正行は清々しい気持ちと寂しい気持ちが入り混じったような、複雑な心地だったが、温かい風に吹かれてこうして海に浮かんでいるのは、決して悪いものではないと感じた。

 小舟をアリス号に横付けし、荷物を運び込んで甲板へ上がれば、それで全員が乗船したことになる。

 アキレウス船長はいつものように厳しい目つきで甲板に集まった船員を見回して、


「楽しい休暇は終わりだ。これからまた嵐を越えて帰らねばならん。気合いを入れろよ、帆を張れ!」


 号令で水夫たちは一斉に動きはじめ、アリス号の高いマストに白い帆が張られて、わずかな風を受け、水面を滑るように進みはじめた。

 そうして彼らは南の島を離れ、再び一月ほどの厳しい航海に耐えたあと、冬も終わりに近づいたセントラムの港へ着岸し、城下町の人々の大歓迎を受けるのだった。



 歴史書には、短くこうある。

 ――グレアム王国、南国のカルミア島と交易を結ぶ。カルミア島は、現在では人魚の島と呼ばれ、人間と人魚がともに暮らす地上の楽園と呼ばれる島である。


  了

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ