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八重鏡  作者: 藤崎悠貴
人魚の島
61/122

人魚の島 7-2

  *


 その夜は怪物の様子を窺うという意味もあり、カルミア村も人魚の里もひっそりと静まり返ったまま朝を迎えた。

 夜明け間近、まだ太陽が東の空にあるうちに小舟を出し、人魚の里の様子を見にゆけば、湾の外にはどんな岩よりも巨大な黒い影がうずくまり、頑として退く気配がない。

 船の側面を崖にこすりながら、そっと湾に入り、作戦の内容を人魚たちに伝え、カルミア村の協力も取りつけられたと報告した正行は、そのまま小舟に人魚数人を載せてカルミア村へ取って返した。

 まず作戦は人魚をできるだけ多くカルミア村へ運び出すことからはじまる。

 小舟が海中の怪物を刺激しないよう、慎重に何度も往復し、そのあいだに村ではありったけの網を繋ぎ合わせ、決して切れぬように補強する作業が進んでいた。

 湾のすぐ外に停泊していたアリス号は水平線の彼方に黒点がちらと見える程度まで遠ざかり、腕力に自信がある水夫たちはみなカルミア村で作業の手伝いを行う。

 そのあいだ、カルミア村へ運ばれた人魚と村の住人は久方ぶりの対面を果たすが、人魚が無邪気によろこぶ一方で、やはり住人のほうにはわだかまりがあるらしく、親しく談笑するとまではいかないようで。

 小舟や村のなかで方々へ指示するのに忙しい正行は、炎天下で動きまわるのに限界を感じ、村の指示をコジモたち三人に依頼して、自分は小舟に乗り込み、人魚たちを運び出す作業を手伝った。

 作戦に参加する人魚は総勢で百人とすこし、それ以外は安全な湾のなかに残り、作戦の成功を祈る。

 一方カルミア村でも実際に重要な役割を果たすのは精悍な若者たちだが、網の修繕や繋ぎ合わせる作業は女子どもも総出になって、文字どおり島が一丸となっての大騒動であった。


「――そろそろか」


 正行は必要な数の人魚がカルミア村へ移動し、その浅瀬にずらりと揃っているのを見て、ぽつりと呟く。

 戦いの舞台となる海は、今日もなにも知らぬ顔、ゆりかごのようにやさしく揺れて、風もない。

 ほとんど無人と化した村のなかでは、赤いハイビスカスとカルミアが温い風に吹かれていた。

 太陽はほぼ天球の頂上、地上の温度も三十度を優に越えて、湾のなかの浅瀬はほとんど湯のような温さで。


「軍師殿」


 小舟から桟橋に下りた正行に、水夫のひとりがわざとらしい口調で声をかけて、


「網の整備、完了いたしました」


 としゃちほこばった仕草、敬礼をしてみせるが、最後にぷっと噴き出すから、どうにもさまにはならず。


「ご苦労」


 正行も合わせてわざと厳めしい顔つき、そのあとで笑って、


「人魚もだいたいはこっちへ移せたから、準備は万端だな。あとは実行するだけだ」

「うまくいきそうかい」

「いかないと困るよ。ここまで団結できたんだ、結果が失敗じゃ締まらない。よし、それじゃあフローディアを呼んで――」


 と湾のなかを見回した正行の背中、とんと軽いものがぶつかって振り返れば、今日は黄色のワンピース、アイラが背中にきゅっとしがみついている。


「どうしたんだ、アイラ。もうそろそろ危なくなるから、村の奥のほうへ行かないと」


 そもそも他人にしがみつくほど近い距離感ではないアイラだから、どうしたのかとあたりを見てみれば、湾の中程に探していたフローディアがいて、ちょうどこちらへ寄ってくるところ。


「あ、正行さん――」


 とフローディアは温い海水を尾びれできらきらと跳ね上げながら寄ってきて、その背中から黄色い裳裾がちらと覗くのに気づくと、ぴたりとその場で動きを止めた。


「ん、どうした?」

「あ、あの――」


 フローディアが戸惑うように言えば、背中のアイラも正行の背中に隠れたまま、服の裾をきゅっと握りしめている。

 それで正行、ある程度のことを察して、


「なに恥ずかしがってるんだよ。ちょうどいい機会だろ」

「あっ――」


 背中のアイラをぐいと前に突き出せば、アイラは幼い顔で打ち怨ずるように正行を見上げた。

 正行は知らん顔、アイラはやがてもじもじとフローディアを見て、フローディアも濡れた金髪を両手で弄びながらぎこちない笑顔で。


「あ、あの……」


 フローディアが口を開ければ、アイラはびくんと身体を震わせて逃げようとするが、正行がしっかり肩を押えて逃がさない。

 ただ黄色い裳裾が向日葵のように揺れ動き、フローディアは水面をするすると近づいて、


「あのときは、ごめんね――ずっとわたしが人魚だって秘密にしてて。その、謝っても許してもらえないかもしれないけど」

「ち、ちがうの、その、わたしも、びっくりして逃げちゃったけど……」


 もじもじとそこまで言えば、アイラは正行をじっと見上げるが、まだだめというように首を振り振り、


「ここまで言ったんだから、最後まで言ったほうがいいだろ」

「う、うう……あ、あの、ごめんなさいっ」


 アイラはばっと頭を下げ、それから褐色の肌に照れを浮かべて、


「ほ、ほんとは、いまでも大切な友だちだって思ってるから――」

「わ、わたしも! いままでみたいに、仲良くしてくれる?」


 アイラはこくんとうなずき、正行の手が緩んだのを感じて脱兎のごとく、村の奥へと逃げていく。

 フローディアはその黄色いワンピースが見えなくなるまで見送って、それからほっと安堵したような笑み、正行に向かって。


「正行さん、本当にありがとうございます――きっとこれも、正行さんのおかげです」

「ちがうちがう。おれはなんにもしてないよ」


 と正行があらぬほうを向くのは、フローディアの姿に照れるせいばかりではあるまい。

 それから冗談を取り繕うように正行は咳払いして、


「それより、いいのか、フローディア。いちばん危険な役目も、別に無理してやらなくてもいいんだぞ。船でも代わりはできると思うし」

「いいんです、わたしがやりたいんです。それに、船よりわたしのほうが速く泳げますから」

「まあ、そりゃそうなんだけど――」

「正行殿」


 ためらうような正行に、後ろからコジモが近づいて、


「こちらの準備はすべて終了したぞ。あとは網を沈めるだけだ。人魚の運び出しも、どうやら無事に済んだようだの」

「はい。これから実行に移そうかと」

「うむ――しかしよくもまあ、こんな案を考えつくものだ。たしかに、海を自在に行き来する怪物を捕えるにはこれしかないだろうが、しかし綱渡りも綱渡り、失敗すればこの湾も被害を受ける」

「そのあたりはカルミア村の全員が協力してくれたから、なんとかなったんです。あとは成功を祈るだけ――おれもできるだけの手伝いはしますけど、なんせこの腕ですから」


 日焼けはしているが、水夫や普段から漁で鍛えている村人に比べると明らかに細い腕を見せると、コジモはからからと笑って、


「ひとには得意不得意があるもの、おまえさんはやはり考えることに向いておるのだろう。わしも老体ながら協力させてもらう」

「こちらの指示はお願いします。おれは船で出ますから」

「うむ。おまえさんも気をつけてな」

「はい――よし、じゃあ、フローディア。そろそろ行こうか」


 改まったところで、フローディアも表情を引き締め、こくんとうなずいた。

 正行は水夫数人を伴い、小舟を三艇率いて湾を出た。

 その後ろからはフローディアが続き、水際まで集まった村人や水夫たちが声のかぎりに励まし、彼らを見送る。

 船とフローディアが湾を出ていくと、コジモの指示のもと、湾の入り口あたりに繋ぎ合わせた巨大な網を沈め、湾内の船をすべて陸へ揚げた。


「師匠、無事に網を沈めました」

「お師匠さま、船の移動も完了しています」

「うむ」


 とコジモはうなずき、それからほとんど波のない、薄い緑色の美しい湾を眺めて、ぽつりと一言。


「この美しさ、どれだけ保てるかの」



 一方、船で外海へ出た正行たちは、人魚の里の近くまで寄ったところで船を止め、最後の手順確認を済ませる。

 フローディアも船の縁に掴まってしっかり話を聞き、最後の確認にもうなずいて、ひとり船から離れた位置、さらに人魚の里に近い位置で待機する。

 それを見て、正行は作戦開始の号令を加えた。


「できるだけ派手にやってくれ、激しく水しぶきが立つように!」


 おうと応える水夫たち、一斉に櫂を空にかかげ、なにをするのかといえば、それで水面を激しく叩きはじめた。

 濛々たる水しぶき、水面近くの水がかき回され、周囲が波立って震動が伝わっていく。

 小舟は激しく揺れ動き、正行は縁に掴まってなんとか落ちぬようにするくらい、そのなかで水夫たちは直立し、櫂で水面を叩き続ける。

 ばしゃばしゃと、あまりに広い海の端で騒ぐこと数分、先にいるフローディアがさっと腕を上げた。


「よし、きたぞ。全速で逃げろ!」


 と正行の指示、水夫たちは櫂を構え直して、今度は水中を漕ぎ、軽い小舟は湾へカルミア村へ向かってぐいぐい戻っていく。

 正行は髪を風に揺らしながら振り返り、はるか後方、フローディアの待機する近くに、巨大な黒い影がぬっと現れるのを見た。


「なんとか無事に逃げてくれよ、フローディア」


 祈る思いの正行、フローディアはさっと水中へ潜り、すでに姿は見えなくなっている。

 フローディアは澄んだ水のなか、巨大な灰色の怪物が、その島を飲み込むような口を開けて迫っているのにぞくりと震え、尾びれで水を蹴った。

 巨体に対してあまりにちいさな目はフローディアの姿をしっかり捕え、着実に追ってくる、それがフローディアの逃げる速度とほとんど変わらず、むしろすこし追いつかれそうになるほどで。

 水中をぐんぐん加速し、フローディアはカルミア村の湾を目指す。

 海上からでは、フローディアの姿は見えないが、そのあとを追う怪物の黒い影、百メートル近いずんぐりした身体ははっきりと浮かぶ。

 海上にはいくつもの気泡が浮かび上がり、巨体がすばやく移動するのに波が生まれて、灰色がかった怪物の背中が水面にぬっと出れば周囲の海水が激しく攪拌される。

 フローディアは尾びれを力の限りに動かし、船よりも断然に早い速度で湾へ向かうが、先に湾のなかへ飛び込んだのは正行たちで、そのまま船を砂浜へ上げ、海から遠ざかる。

 待ち受ける村人や水夫たちは一様に緊張の面持ち、いつフローディアが飛び込んでくるか、手に持った太い縄をぎゅっと握りしめたり、汗ばんだ手のひらを服で拭ったり。

 じりじりと熱い太陽に汗も噴き出すが、それを拭う余裕はだれにもなく、白い砂浜にあごを伝った汗の雫がぽつりと落ちた。

 やがて、湾の入り口でかすかな水しぶき、正行が叫ぶ。


「きたぞ、網の用意! 人魚たちは魔法の用意を!」


 村人と水夫は揃って腕に力を込め、縄を強く握る。

 湾から上げられ、砂浜の隅に水を溜めたちいさな即席の池に一塊になった人魚たちも表情を引き締め、そのときを待った。

 ぱしゃりと水しぶきが湾の中央で起こり、その直後、湾の外にまるで壁のような黒い塊が現れ、それが生み出す激しい波が浜に押し寄せた。


「な、なんだ、あれは――」


 縄を持つ人間たちははじめて目の当たりにする巨大さに愕然として、一瞬緩んだところ、すかさず正行が、


「あれが湾のなかに入った瞬間に引っ張るんだ、人魚と呼吸を合わせろ、くるぞ!」


 フローディアを追う海の怪物は、そのまま速度を落とさずに湾の入り口へ差しかかる。

 しかしその頭は湾の入り口よりも大きく、勢いもそのままに怪物は湾の入り口を狭めている岩に衝突した。

 ずんと地面が揺れ、岩が砕け散って海へ落下し、高々と白いしぶき、それでも怪物の動きは止まらず、湾のなかへと入ってきた。

 正行はぐいと身を乗り出し、ようやく砂浜までたどり着いたフローディアを抱き上げ、ほかの人魚たちが待つ池へと運びながら怪物の様子を窺う。

 頭が湾のなかに入っても、なかなか身体がすべてが入ってしまわない、それほど巨大な身体なのである。

 左右の岩は大きくえぐれ、そこからさらにばらばらと巨岩が落下するのも厭わず、怪物は湾の奥へと入り込む。

 怪物の黒い影が湾のなかにすっぽり入った瞬間、正行は号令を出した。


「縄を引け、網を上げろ! 人魚たちは魔法をはじめて!」


 村人と水夫は一斉に縄を引き、湾の入り口、海底に沈められていた網がずるりと動いて怪物の背後に迫る。

 同時に人魚たちは魔法をはじめている。

 波打ち際の海水が不自然に宙へと持ち上がり、周囲の砂を内部へ孕みながら何トンという量の海水と白い砂が頭上はるかまで浮き上がった。

 美しかった砂浜は、まるで隕石でも落ちたかのようにごっそりと水が失われ、自然と摂理として湾の水は大きな穴へ向かって激しく流れ込む。

 怪物の巨体もそこへ向かっていたのが、途中で罠に気づいたように動きを止め、反転する気配、すでにその身体を覆っていた網がぐんと引かれて、村人と水夫が網と繋がった縄に引きずり回される。


「引け、引け! ここが正念場だぞ」


 正行自身も縄を引いているが、百メートル近い巨体の重さに敵うはずはなく、縄ごと海へ引きずり込まれそうになっている。

 人魚たちは精いっぱいの力を振り絞り、持ち上げた大量の海水を怪物の背後に落とし、強い波を起こした。

 それがどっと砂の抜けた海岸に流れ込んで、怪物の巨体がぐらりと海岸に近づく。

 人間の力がどれほど影響しているのか、怪物はあるいは網の存在にすら気づいていないのかもしれぬ、それでもその身体は徐々に海岸へ近づき、浅瀬へ入って、怪物の胴体が水面へ現れはじめた。

 そうなると怪物の動きも鈍り、人魚の魔法で海水がぐっと持ち上げられると、すっかり怪物の全景が現れた。

 灰色がかかった巨体は、人間たちにとっては山のよう、網でぐいと引いても動く気配はないが、人間たちは必死に縄を引き、喉のかぎりに叫んだ。

 村人たちはそれが贖罪になると信じきっているのだ。

 怪物は長い身体をくねらせて抵抗し、その度に縄を持つ人間が砂浜を転がることになるが、人魚たちは水でもって巻き上げた砂を怪物の背後に積み上げ、海水が流れ込まぬように湾の一部を堰き止めた。

 怪物は濡れた身体の表面に砂を貼りつけ、大口を開けて暴れまわる。

 長い尾がばっと砂を弾き飛ばし、巨体がごろんと転がって、胸のひれが地面を打つ、その度に島全体が地震のように揺れて、背後の森で鳥たちが驚いて飛び立つ。

 しかし強固に固められた砂の壁は怪物の抵抗にも負けず、一部が崩れればすかさず魔法で補強され、怪物は陸に揚げられて数分間もがいたが、やがて地上のすべてを焼き尽くすような陽光に敗北し、ぐったりと動くのをやめた。

 人間たちは縄を離し、おそらくまだ息絶えてはいないだろうから、近づくことはないが、警戒の眼差しで怪物を見つめる。


「やったのか?」

「なんてでかさだ――」

「まだ死んでいないはずだ、気を抜くな」


 と互いに鼓舞し合うなか、正行も砂と水しぶきにまみれ、泥だらけになりながらも怪物の様子にじっと見入っていた。

 波音もなく、怪物も静まり返って、十分、二十分とすぎる。

 そのあいだに怪物が一度も動かないのを見て、ようやく人間と人魚たちは喝采を上げた。

 美しかった砂浜は醜く蹂躙され、湾の形は変わり、町は巻き上げられた砂を被って白く霞んでいるが、それでも勝利したのである。

 喜び合う男たちに、人魚も肩を抱き合い、やがてそれがひとつになって、人間と人魚の垣根がなくなる。

 村の奥からは喝采を聞いた女子どもや老人が出てきて、怪物の巨体に驚き、またそれに打ち勝ったという事実に声を上げる。

 正行は、その輪には入らず、ひとり砂浜に腰を下ろしてふうと息をついていた。

 陸に揚げられ、無力になった怪物の巨体を見上げれば、つくづくこんなものがよく浜に上がったものだという気になる。

 よろこびというよりは、うまく済んだという安堵で、正行は全身の力を抜けるのを感じた。

 そこへ、


「正行殿」


 とコジモが近づいてきて、となりにすとんと腰を下ろした。


「よくもまあ、やってのけたものだの。こうまでうまくいくとは」

「人魚たちが、おれが思ってるよりもずっとがんばってくれたおかげです。それがなきゃ、この怪物は陸に上がらなかった」

「うむ――たしかに人魚たちの働きは大きいだろうが、しかしわしのようなひねくれ者は、こうも思うのだよ。この作戦、人魚だけでも可能だったのではないか、と」


 コジモは横目で正行をちらり、


「おまえさんは、村人にも協力してもらわねば、と言っておったな。あれは、この湾を貸してくれという意味ではなかったのか。これだけの巨体、百や二百の人間が引いて、どうにかなるものではない。おまえさんもそれくらいはわかっておるであろうし、ではなぜわざとこのようにしたのかといえば――」


 今度は互いによろこび、たたえ合う人魚と人間を見やって、


「この結果を生むためではないのか?」


 正行は口元に笑みを浮かべ、首を振り振り、


「深読みのしすぎですよ。おれは、これだけの怪物相手でも大の男が二百人も集まればなんとかなると思ってただけです。もしそれに効果がなかったとすれば、おれの考えが甘かっただけだ」

「効果はあったとも。人間が場所を提供し、人魚が戦うだけでは、この結果は――これほどのよろこびは生まれんかった」

「まあ、なんにしても」


 と正行は砂浜にどっと寝転がって、


「これでようやく、大陸へ帰れる。おれは気分よくアリス号に乗れることが、なによりもうれしいですよ」

「うむ、そうだの」


 コジモも深く納得した顔でうなずき、晴れ渡った空を見上げた。

 ふたりはしばらく心地よい疲労に浸っていたが、やがて陽気な水夫たちがやってきて、無理やりによろこびの輪へ引きずり込まれれば、そのまま終わりのない宴会である。

 女たちは酒や食べ物を浜まで運び、怪物の巨体を眺めながらの大宴会、人魚も混じって飲めや歌えの大騒ぎで。

 そのあいだにも人魚の一部は作戦成功を伝えるために湾を出ていって、入れ替わり立ち替わりの宴会は続く。

 正行もそのなかを引っ張り回され、酒を飲んだり新鮮な魚に舌鼓を打ったり、ようやく気分も解れれば、空も美しい夕焼けである。

 村長は毎日のように見ているその夕暮れに涙し、人魚たちと杯を交わす。

 すべての人間、人魚が陽気に満ちて楽しんでいるところ、正行も浜辺でのんびりと酒を飲んでいたが、やがてそこにコジモの弟子、ファビリオが血相を変えてやってきて、


「正行、うちの師匠を知らないか?」

「コジモさんか? いや――なにかあったのか」

「きみでもいい、いっしょにきてくれ」


 とファビリオ、正行の腕を引き、浜を横切って、例の古い石畳の道へ導く。

 木々のあいだからは紅の光が差し、森は静謐でありながら内側に興奮を秘めたような気配、しかしそれよりも気にかかるのが、ざあざあと流れる水音である。

 正行はファビリオに連れられるまま、石で固められた道を逸れて森に入り、驚愕に目を見開いた。

 無理もない――あの古い石造りの水路に、浪々と水が流れているのである。

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