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八重鏡  作者: 藤崎悠貴
人魚の島
60/122

人魚の島 7-1

  7


 正行たちの小舟は、湾の外でもとくに陸地に近い場所をゆっくりと進み、なんとか怪物の影をやり過ごすことができた。

 一見、なにもない凪いだ海だが、その底の見えぬ、そして果てのない海をこれほど不気味に思ったことはなかった。

 できるだけの速度でカルミア村まで引き返せば、アリス号は無事にあって、ほっと息をつく。

 船に戻り、甲板でごろんと寝そべって昼寝をしていたアキレウス船長に怪物や人魚たちのことを報告すれば、アキレウス船長はばっと身体を起こし、船の縁から凪いだ海を見つめて、


「そんな怪物がいるってうわさは聞いたことがあるが、単なる伝説、噂だと思っていた。しかし、実在したのか」


 それからくるりと正行に向き直り、腕組みするに、


「それで、人魚たちを助けたいと言うのだな。その桁違いに巨大な怪物をどうにかしたいと」

「はい。人魚たちを放っておくことはできません」


 普段から自身の威圧だけで荒くれ者を束ねているアキレウス船長は、その強い眼差しでもって正行をじっと見つめる。

 日に焼けた肌、ぎらつく瞳に、赤茶けた髪、風が緩やかに吹いて舞い上がれば、憤怒の表情にも見える。

 それでも正行は目を逸らさず、じっとアキレウス船長を見返した。

 船内ではあれほど恐ろしいと思っていたその顔が、いまでは不思議と、そうは思えないのだ。

 背中をだれかに支えられているように、正行は堂々とアキレウス船長の視線を受け、やがて船長のほうからすっと目を逸らせば、


「たしかに、人魚たちといえど無関係とは言えねえな。ここまでいっしょに旅をしてきた仲間でもある。しかしなにか策はあるのか。真正面から当たってどうにかなるような相手でもあるまいが」

「策といえるほどのものじゃありませんけど、なんとかなるくらいの策は――ただ、それにはカルミア村のひとたちにも協力してもらわないと」

「ほう、カルミア村の?」


 船長の瞳がきらと光って、


「しかしここの村人は人魚のことを嫌っているという話だが。人魚を助けるために、協力するか?」

「なんとか説得できればいいんですが」


 これには正行も自信なさげで。


「未だにどうしてこの村のひとたちが人魚を嫌っているのかわからなくて。人魚のほうでは人懐っこいし、別になんとも思っていないふうなんですけど」

「ふん、しかし理由なくして仲違いすることもねえはずだが。とにかく、村へ行ってみるがいい。ついでにアリス号を安全な湾内へ入れられるかの交渉も頼む」

「はい――ああでも、湾内より、すこし沖へ移動させたほうが安全かもしれませんよ。カルミア村の協力が得られそうなら、詳しい説明をしますが」

「船の安全はおれが預かるが、おまえは頭脳だ。存分に考え、自分がよいと思うことをしろ。責任はおれがとる」

「ありがとうございます」


 正行は心からの感謝を礼に込め、慌ただしく船を下り、小舟でカルミア村へ向かった。

 アキレウス船長は甲板の縁に寄りかかり、狭い湾の入り口を通って入っていく正行を見ながらぽつり、


「若ぇのが、何十人もの命を背負う重圧にすっかり慣れちまって――城の大人はなにをやってるんだか」


 頭をがりがりと掻き、それから船に残った船員に指示を出して、アリス号を沖合へ移動させはじめるのだった。

 一方、小舟をもやうひまも惜しんで桟橋へ飛び移った正行は、そのまま村を駆け抜けた。

 途中、すっかり仲良くなった子どもたちが正行を見つけて寄ってくるのも、いまは遊んでいられないのだと振り切って、不満げな子どもの声を背中に聞きながら村長の家へ急ぐ。

 白く静かで美しい港町を抜け、山の麓、村長の家の前で、ちょうど家から出てきたところの村長とかち合った。

 村長は親しげな様子で寄ってきて、


「昨日は姿を見かけませんでしたが、どうですか、この村はお気に召しましたか?」

「それは、もちろん」


 と正行はうなずいたあとで、


「ところで、ひとつ相談があるのですが」


 と切り出した。

 村長は怪訝な顔、そばでカルミアの花が孤独に揺れている。



 すべての村人が港に集められたが、無論ちいさな子どもは省かれて、アイラもくる必要はないと言われたが、妙な胸騒ぎに突き動かされて、親が出かけたあとでこっそり家を抜け出し、酒屋の壁に隠れながらその集まりを見ていた。

 桟橋の近く、カルミア村の住人たちは村を背にずらりと二百余り。

 対するのは、アイラも知っている大陸人、やってきた船員のなかでもっとも若いと思われる正行と、数人の水夫だけで。

 普段はのんびりと暮らしている村人の表情が一様に緊張しているのを見て、アイラはなにか起こっているのだと知る。

 しかし正行の表情が、いつか桟橋で見たときと大差ない様子なのが、アイラには不思議だった。


「――そんな怪物が、この海にいるのか」


 静寂だったなかにぽつりとだれかが呟いて、その波紋がゆっくりと村人たちのあいだに広がっていく。


「漁はどうなるんだ。そんな怪物がいるとなれば、外海には出られないぞ」

「漁に出られなければ、おれたちは食っていけない」

「――だからこそ、手を貸してほしいのです」


 ぼそぼそと呟く村人に対して、正行の声は不思議によく通る。


「これは人魚だけの問題ではありません。いまは人魚がいちばんの危険にさらされていますが、やがてこの島全体が危険になるかもしれない。人間と人魚が協力すれば、そんな怪物にも立ち向かえるはずです」


 正行が村人を見回せば、しいんと静まり返り、ただ海だけがいつものように寄せては返しのかすかな波音で。

 アイラは、正行から人魚という言葉が聞こえたことにどきりとして、さっと顔を赤らめ、壁の奥へ隠れた。

 それで話し合いの一部を聞き逃したらしく、再びひとの声が聞こえて顔を出すと、村人数人が口々になにか言っている。


「人魚はどうか知らないが、村にはすこし蓄えがあるし、何日か様子を見ていればそんな怪物もどこかへ行っているかもしれないだろう」

「それに、そんな怪物と戦うなんて、無理さ。人間が敵うような相手じゃないんだ」

「そもそもおれたちは兵士でもなんでもない。戦うなんて、したことがない。ましてや人魚と共闘するなんて」


 そうだ、そんなことは不可能だ、と同調する声がいくつか、それに反対する声はないが、アイラは卑屈そうに顔を伏せる大人がいることにも気づいている。

 面と向かって反抗を受けた正行がどうするか、アイラは不安げに瞳を揺らして見守った。

 正行は、すくなくとも表情は変えずに、


「戦うといっても、剣や槍を持てというわけじゃありません。そんなものはあの怪物には効果もない。戦うというのは、気持ちの上でのことだ。ここで安全を勝ち取るか、それとも見えぬ恐怖に怯えながら生きるか。戦うという言葉に抵抗があるなら、普段みなさんがしていることを、大勢で協力してやってもらいたいだけなんです。特別なことはひとつもない。それとも、戦うのはいやなのではなく、人魚と協力することがいやなのですか」


 これには村人も黙るしかない。

 うつむいた若者がぽつりと、


「よそ者のおまえさんには関係ないだろ」


 と拒絶を呟くも、正行はめげずに、


「いったい人間と人魚のあいだになにがあったのです。どうして人魚を嫌うのか、おれには理解できない。どうしても人魚と協力するのがいやだというなら、その理由だけでも教えてください」

「だから、よそ者には関係ないと言っただろう。これは島の問題だ。大陸人だかなんだか知らないが、島のことにまで口を出されちゃたまらない。悪いが、あんたたちはもう大陸へ帰ってくれ。そのほうがあんたたちのためだ。この海域を離れれば、化け物もいないだろう」

「おれは、おれたちは仲間のために戦いたいと思ってるんです。人魚に反感を持つあなたたちには言っていませんでしたが、おれたちは大陸へ流れ着いた人魚を故郷へ帰すためにここまで旅をしてきたんです。一月以上同じ船に乗り、協力してここまできた仲間を見捨てて大陸へ戻ることはできません。これはもうおれたちの問題でもあるんだ。どうしてそれほど人魚を拒絶するんです?」


 正行が砂浜を鳴らし、村人に近寄るのに、村人たちは揃って顔を伏せ、言葉もないままで。

 アイラは、普段溌剌と漁をして、いたずらする子どもを叱り、大人の顔で生きている村人たちが、まるで叱られた子どものようにうなだれて正行と目を合わせられないのを複雑な気持ちで盗み見ていた。

 この村で生まれ育ったアイラも、なぜほかの村人が人魚を毛嫌いするのか、その理由までは知らない。

 幼いころから人魚と仲良くしてはいけないと言い聞かせられて育っただけ、理由を聞いても、子どもは知らなくていいこととはぐらかされてきたから、そこまで頑なに人魚を拒む村人の気持ちは、アイラにもわからない。

 集まりはまたしばらく無言で、頭上の太陽がじりじりと焼きつけるのもわからぬよう、アイラは首筋にじっとりと汗をかき、緊迫した集まりの様子を眺める。


「こうまでなっては、仕方ない。わしらがなぜ人魚を嫌うのか、話しましょう」


 と口を開いたのは村長であった。

 そのしわがれ声は、この間にいくつもの苦痛を越えてきたように憔悴して、疲れきっているようにも聞こえる。


「いままで頑なに口を閉ざしておったのは、これがわれわれの過ちに関わることであるせいなのです」

「過ち?」

「古い古い過ち――まだこの島に大陸からの船が多くやってきていたころのことです。ここに暮らす人間はもちろん、わしもまだ生まれていないころ、この島では人間と人魚がともに暮らしておりました」

「人間と人魚が、いっしょに……」


 ぽつりと呟くアイラの声は、幸い村人には聞こえなかったらしい、村長は続ける。


「この島の裏側に人魚が暮らす巨大な湾があるのをご存じですかな。昔は人間もそこに住み、人魚と暮らしておったのです。もともと大陸との行き来もほとんどなかったこの村が、にわかに騒がしくなったのはいまから百五十年ほど前のこと。とある船が大陸からやってきて、世にも珍しい人魚という生き物を発見し、それを大陸に広めたのです。それからというもの、ここは人魚の島と呼ばれ、人魚を求めて数えきれぬ船が海を渡ってやってきました。

 はじめは村人もそれをよろこび、大陸人を歓迎し、また人魚たちは人懐っこいものですから、なかには大陸へ戻る船へついていくものもおったそうです。そのころは平和だったのでしょうが、やがて村人は、さらに甘い汁を求めるようになりました。大陸からの船でも、たとえば島で産出されぬ石材や黄金、宝石のたぐいを手土産として持参する者が現れました。そうなれば、村人もそちらを優先するようになり、やがては質素だった家を豪華に建て替え、様々な宝飾品を身に纏い、それでいながら人魚の無邪気さを利用し、彼らにはすこしも財宝を渡さなかったのです。

 島の木で造られていた家々は軒並み石造りとなり、まるで宮殿のように巨大なものを建て、わずかな村人に対して金で雇った使用人のほうが多かったほどです。それでも人魚たちは恐ろしいほどの無邪気さで人間に懐き、責めることもしなければ抗議することもしません。村人にも罪悪感はあったのでしょうが、それもすこし前からでは想像もつかぬ絢爛豪華な暮らしのなかで弱まっていったのでしょう。彼らは決してやってはいけないことをしてしまいました」


 村長が苦しげに口を閉ざせば、正行は気遣わしげに、


「人魚を、大陸の人間に売ったのですか」


 決して強くはない、生温い風が村人のあいだを抜け、裳裾を揺らした。

 村長がうなずいたかどうか、アイラの位置からははっきりとは見えない。


「それがわれわれの罪なのです。大陸で暮らすあなた方は、もう百年も前のこと、とお笑いになるかもしれませんが、このように変化がすくない島にあっては、百年前は決して忘れられた過去ではないのです。われわれの父親、あるいは祖母がやったこと、その繁栄の恩恵を受けて育った自分のこと。昔は、この島にはもっと大勢の人魚が住んでいました。それが二百近くまで減少したのは、わしらのせいなのです。どうしてそんな過去を抱えて人魚と仲良くできましょう。人魚は、まるで心が澄みきっているように優しく、思いやりがある生き物です。きっとわれわれのことを寛大に許してくれるかもしれん。ただ、その無邪気な瞳に反射する醜い自分の顔を見たくない。われわれは人魚を嫌っているのではなく、罪を抱えているせいで彼らとともに生きることができんのです。その罪は子どものわれわれへ受け継がれ、やがていまの子どもたちへも受け継がれていくことでしょう。かつて人魚と暮らした罪の町は、ある日突然前触れもなく海に飲まれたといいます。それは罪で肥え太ったわれわれの先祖への罰なのかもしれません」


 正行には、特別驚いた様子は見られなかった。

 ただちいさくうなずいて、


「そういうことだったんですか」


 と呟いたのみ、それから言葉をなくしてしまったように黙り込む。

 アイラは盗み聞いた真実に愕然とする一方で、それを知っていながら人魚に協力せず、ただ自分の罪悪感を軽減しようとしている村人に恨みさえ覚えた。

 汗ばんだ手は、ざらついた石の壁の角をぎゅっと握り、裸足の足は太陽に熱せられた石畳に戸惑う。

 着ている赤いワンピースの裾が揺れて、風がすっと身体に触れるが、芯からじんと熱くなった身体を冷やすには冷たさが足りない。

 しかしアイラには、ここから飛び出して村人を叱咤することはできなかった。

 真実を知らなかったとはいえ、アイラも罪人のひとり、そのとがを背負っているのだ。

 アイラのちいさな身体のなかで、自己嫌悪と憎悪が入り混じり、それがぐるぐるとかき回されて吐き気にも似た感覚になる。

 まるでそれを代弁するように、ぽつりと正行が、


「それなら、いまこそその罪悪感を拭うときではありませんか。人魚を助け、再びともに暮らせばいい。ここで人魚を見捨てれば、また罪がひとつ増えてしまいます」

「そのような罪を背負うわれわれに、また人魚とともに暮らせとおっしゃるか。どうして同じ過ちを繰り返さぬと言えるのです」

「百年も罪に苦しんでいたのなら、決してそんなことは繰り返さないはずです。それに、大陸人として、金で人魚を買うような真似は絶対にさせない。おれが――おれで不足なら、グレアム王国のアリス女王が、それを約束します。あなた方にとって、これは最後の機会かもしれません。このまま人魚に罪悪感を抱いたまま生きていくか、再び人魚とともに生きる道を探すか。おれは、所詮よそ者だ。でも人魚のことを助けたいと思う。どうか、協力してください」


 正行は熱い砂場に膝を突き、そのまま額を地面に砂浜に押し当てた。

 村人はざわつき、言葉にならぬ声が上がるが、そこに重ねるようにして、


「協力をお願いします」


 と数人の水夫も跪いて頭を下げるのである。

 これには正行も驚いたような顔で振り返って、一瞬の笑みで気高い水夫たちに応えてから、再び自らも頭を下げた。

 顔を見合わせ、困り顔の村人たち、アイラは耐えきれず、その場を飛び出した。


「わたしは、協力する!」

「あ、アイラ、家にいなさいと――」

「みんなが協力しないって言っても、わたしはひとりでも協力するから」


 どちらかといえば引っ込み思案で、村に親しい友だちもいないアイラは、人生でいちばんの勇気を振り絞り、驚愕に振り返る村人をにらみつけた。


「わたしは、人魚のこと、好きだもん。あのひとは、わたしにやさしくしてくれたもん。一度は、びっくりして逃げちゃったけど――でも、今度はわたしがあのひとを助ける。罪があったって、そんなの知らない」

「アイラ……」


 村長は困ったように呟いて、それから正行たちに向き直り、


「どうか、頭を上げてください。どうやらわれわれは、新たな過ちを犯そうとしているらしい」

「村長!」

「いや、よいのだ。罪があるなら、許しを請うてみよう。たとえ許されなかったとしても、あるいは許しに罪が耐えきれなかったとしても、いま人魚を助けず見捨てるよりははるかによいのだろう。わしは、彼らに協力しようと思う。お主らはどうする?」


 正行たちに頭を下げられ、アイラににらみつけられたあげく、村長に尋ねられた村人たちは、周囲の出方を窺うようにしばらく黙ったまま足踏みしていたが、ひとりが協力を申し出ると、最後にはその場にいた全員が協力させてくれと言い出した。

 そうして人間と人魚が協力し、怪物に立ち向かうという算段が実行に移されることとなるのである。

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