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八重鏡  作者: 藤崎悠貴
流星落ちるはかの国に
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流星落ちるはかの国に 3-1

  3


 グレアム王国から早馬で二日ほど、さして遠くはない野原の果てにノウム王国は存在している。

 広々した野原、土壌に恵まれ、国では農耕が盛ん、食料は他国へ売るほど獲れ、隣国で農耕に適さぬグレアム王国はいちばんの得意先だが、一月ほど前からそれもぴたりと絶えている。

 曇天の下、ぬっと突き出す尖塔からあたりを見回せば、緑の野に畑が整然、北からは太い川が大蛇のようにうねって流れ、すらりと高い城壁の内側にはぎっしりと家々、屋根と屋根はほとんどすき間なく、道沿いには数えきれぬ民家が櫛比と並んで、しかし人通りはまばら、どうやら活気というほどもないよう。

 それもそのはず、本来城下町に溢れなければならぬ男たちは、みな兵士として遠征しているのだ。

 残された女、子ども、年寄りは、自分の身内が無事帰ってくるかもわからぬ、はるか高みから見下ろせば、不安顔ばかり目につく、それもすべて王たる者の下知があったせいである。

 尖塔の窓、憂い顔で見下ろす彼は、王ではない、いまだ王子の身分。

 どちらかといえば小男で、身体は針金のように細く、薄く色づいた唇や長いまつげなど、さながら女のよう。

 若く見えるが、今年で十七になり、長子たる彼がこの国を継ぐことはすでに決定している。

 王子としては民の人気もあるが、王とするならちと不安、臆病風に吹かれなければよいが、とは城下町の評判。

 事実、ハンス王子は尖塔から自らの国を見下ろすに、ちらつく暗い影払いきれず、その一々に心を痛めて、顔を不安げに歪めているのである。

 心優しいが、戦争には向かぬ質、それよりも草花と戯れるのを好むことはだれにも明らかでありながら、変わりになる人材もなく、否応ない世襲でハンスはこの国を継ぐのだ。


「どうにか、戦争は避けたいのだが」


 ハンスは城下町からふと視線を室内へ、追うように風が吹き、輝くような金髪がさらと揺れる。


「もう一度、父上にご相談してみようか。どう思う、エリカ」


 控えるのは黒いワンピースに白いヘッドドレス、女中然とした若い女で、ハンスの視線につと頭を下げながら、


「はばかりながら申し上げますに、国王さまはすでにグレアム王国を奇襲するつもり、いまさら兵をお引き上げになるとは考えられませぬ」

「でも、戦争がいったいなんの得になるというんだ」


 ハンスは潔癖なる白い頬に血を上らせ、熱っぽく言いつのるのも、相手は女中、ほかにだれが聞くわけでもない。


「いままでだって隣国同士、争いもなくやってきたじゃないか。それに、血の繋がりもある。お祖母さまの生まれた国を攻撃するなんて、父上はどうかしている」


 若い力がなせる業か、話せばその分だけ興奮を高め、ハンスは狭い部屋のなか、ぐるぐると歩きながら煩悶して、


「国力を考えても、戦争なんてすべきじゃない。働き手となる若い男たちが傷つき、女子どもは不安がって仕事も手につかず、年寄りは子の死を先に見なければならぬ。そんなことで国がよりよくなるとは、ぼくには思われぬ。エリカ、父上はどう考えていらっしゃるんだろう」

「国王さまの考えるところ、国王さまのほかに知る者もありますまい」


 若い女中は冷静で、窘めもしなければ同意もせず、ただ影のように従うのみ。


「よし」


 とハンスが決意して部屋を出て、石造りの床、かつかつと踵を鳴らして歩いても、後ろからするるるとついてゆくエリカの足音は微塵も聞こえず、裳裾さえ揺れぬ。

 尖塔の中央を貫く螺旋状の階段、足音を鳴らして駆け下り、絨毯敷きの廊下へ出たところでハンスは不安げに振り返る、エリカは常にそこで控えているのである。


「父上は、ぼくの進言など聞いてくださるだろうか」


 瞳が不安げに揺れれば、エリカはしとやかに目を伏せ、


「国王さまは決して唯我独尊ではございませぬゆえ、的確な進言であれば聞き入れてくださるでしょう」

「そうか、そうだな。ぼくは、王子なんだ。やがてこの国を継ぐんだ。父上も間違いを犯す、それを正すのがぼくの役目なんだ」


 ハンスは再び情熱を取り戻し、頬を赤らめながら深紅の絨毯、ほとんど駆けるように進む。

 広大な城の、入り組んだ廊下、部屋をいくつか貫いてゆけば、国王が詰める部屋にぐいと近づく、しかし途中で、


「兄上、兄上!」


 とハンスを呼ぶ幼い声、立ち止まれば、女中ふたりに連れられた年少の少年がこちらへ駆けてくるところ。


「アルフォンヌ、どうした」

「兄上っ」


 王位継承第二位たるアルフォンヌ王子は、そのままぴょんと跳ね飛んで、ハンスの身体にすがりつく。

 自分の半分もないちいさな身体、ハンスはひょいと抱きかかえ、


「ちゃんと勉強はしているか。父上の言いつけを守って、しっかりしなきゃいけないぞ。おまえもこの国の王子なんだから」

「やってるよ、ちゃんと」


 とアルフォンヌがぷっくりと膨れた唇を尖らせるのに、ハンスは眉をひそめて、


「アルフォンヌ」


 窘められた幼い王子、しゅんとうつむいて、


「申し訳ございません、兄上。ちゃんとやっております」

「そうだ、それでいい。兄弟とはいえ、尊敬を持って接しなければならないよ。幼いおまえには、まだむずかしいかもしれないが」

「大丈夫です、兄上。ぼく、兄上や父上みたいな立派な男になります。勉強もがんばります。さっきも、庭で植物の勉強をしていたんです」


 ハンスとよく似た、くるくるとよく動く潤んだ瞳、好奇心と新鮮なよろこびにきらきらと輝いて、赤らんだ頬も子どもらしい起伏に富む。

 年は離れているが、よく似るふたりである。

 アルフォンヌは輝くばかりの美しい金髪、後頭部できゅっと束ねて、肉付きのよい丸い顔や大きな目にはハンスと同じ心優しき色、それでいて眉は力強く真横へ伸び、父親譲りの頑固な意思を思わせる。

 ハンスはアルフォンヌの身体を床へ降ろし、頭を撫でた。

 アルフォンヌは嫌がるような、よろこぶような。


「兄上、どちらへ?」

「父上にお会いする。これからの国のこと、ご相談したいと思うんだ」


 きらとハンスの目に王子らしい光輝けば、アルフォンヌはまだ好奇心しか宿さぬらしい、


「戦争のこと?」


 と飛び上がらんばかりによろこんで、ハンスを困らせる。


「ぼくも、戦争のご相談をしたい。兄上、ぼくも連れて行ってください」

「おまえはだめだよ、まだ幼い」


 慈しんでハンスが見下ろすのも、アルフォンヌには伝わらぬ様子、むうと幼い顔をしかめて、


「兄上と父上ばかり、ずるいです。ぼくだってこの国の王子なんだ。邪魔はしないから、お話を聞くだけ、いいでしょ?」

「だめだよ。第一、おまえは戦争がなんたるかを知らないだろう」


 ハンスは腕組みし、困ったようにちらとエリカを振り返るが、斜め後ろで音もなく従うエリカ、ここでは手助けもしてくれぬ。


「戦争のことなら、勉強しました」


 アルフォンヌは腕を伸ばし、兄の手を握って、


「兄上、戦争というのは、ほかの国を滅ぼすことなんでしょう?」

「それもひとつの戦争だろうが、そればかりではないんだよ」


 ハンスは弟の手をゆっくり解き、


「おまえは早熟だよ、アルフォンヌ。やがて優秀で、気のいい男になるだろう。焦ることはない。おまえがぼくほどの年になれば、ぼくよりもずっと立派な王子になっているだろう」

「だめだよ、そんなの、ごまかされないから」


 今度はアルフォンヌ、ハンスの裳裾を握って離さない。


「ぼくが兄上の年になったら、兄上はもうこの国の王になっているでしょう。ぼくは、兄上を越えることはできないもの」

「もしぼくになにかあれば、この国を背負って立つのはおまえなんだよ。いまはしっかり勉強して、そのために備えておかなければ。わかるね、アルフォンヌ。あまりわがままを言ってはだめだよ」

「はい、兄上」


 とようやくアルフォンヌも裳裾を離して諦め顔だが、切り替えが早いのも子どもの特性、すぐに顔を上げれば、表情はもう明るい。


「兄上、戦争の話はもうしないから、父上とお話したあと、遊んでくれる?」

「じゃあ、それまでに勉強を終わらせておかないとね」

「大丈夫、あとはあのじいさんに教えてもらうだけだから」

「こら、学者さまをじいさんなんて呼んじゃいけない」


 いたずらっぽい顔に、舌をちろりと出して、アルフォンヌは軽い足取り、女中のもとへ戻ってゆく。

 女中ふたりがハンスに頭を下げるあいだも、早く行こうとアルフォンヌが手を引くから、やがて苦笑い、女中ふたりはアルフォンヌに引っ張られて去ってゆく。

 ハンスは腰に手を当て、困ったように息をつくが、


「アルフォンヌが優秀だというのは間違いないんだけど、まだまだ幼いな。ぼくも幼いころはあんなふうだったのか――思慮に欠けて、見ているこちらが不安になる」


 ちまたでは頼りないとうわさされるハンスでも、アルフォンヌの前では立派な兄の顔、眉尻下げてさっと身を翻せば、また王のもとへと急ぐ。

 贅を尽くした城内の小部屋、四方の壁を反射率の高い鏡で覆っていれば、虹色に光る螺鈿の装飾眩しい部屋、一面緑の壁紙と装飾、過ぎれば金をあしらった絵巻を壁に施した部屋、侍女の詰め所でさえ天井画に天女、きらびやかな王族の衣装を纏い、ハンスがゆくのに、先々も華々しく待ち受けている。

 いまは亡き奥方の趣味か、典麗で豪奢な装飾の部屋、抜けてゆけばいつしか簡素な部屋が多くなり、八畳程度に椅子がひとつといういとも寂しげな小部屋の先が会議室となっている。

 ハンスは扉の前で立ち止まり、身だしなみを整えて、エリカをちらと振り返れば、まるですがるような視線。


「どうかな、おかしくないか?」

「ご立派でございます」


 というエリカの太鼓判、ハンスはうなずき、扉を叩く。


「父上、ハンスにございます。ご相談があって参りました。入ってもよろしいでしょうか」

「入れ」


 低く打ち響くような声である。

 わが父の声にハンスは襟を正し、ふうと一息ついて心を整えてから扉を開ける。

 さほどの広さもない部屋、中央にどんと大きな机が鎮座して、様々な書類が散らばっている。

 ひときわ目を惹くのが、このあたり一帯の地図、遊びで使う駒を兵に見立て、敵味方、さまざまに陣形をとるのが、思案の痕跡らしい。

 幸い、王はひとりであった。

 肘掛け椅子の上、どかりと座った太った男、黒々とした髭を伸ばし、眉は濃くいびつにゆがみ、ぐいと見開いた目には他を圧倒するような凄みがあって、分厚い唇はいつも血色が悪く、いまははだけた胸元、体毛がちらと覗いている。

 繊細で金髪、心優しいハンスとは正反対に思われるこの男こそ実の父親にしてノウム王国の王だが、親子とて親しく接するわけではない、ハンスは王にじろりとにらまれ、そのまま部屋を逃げ出したい衝動を押し殺すために服の袖をぎゅうと握りしめた、それもまるで女のようないじらしさで。

 肘掛け椅子にぐったりと身体を預け、見る目も疲労が隠せぬ様子、目蓋が重いようで、ハンスを見るうちからゆっくりとした瞬きを繰り返す。


「どうした、ハンス」


 と扉を閉めたまま動けぬハンスに、王は獣のうなり声めいた声色、ハンスは反射的に後ろを振り返るも、エリカは扉の向こう、会議室には入ってこない。


「ち、父上に、ご相談がございます」


 やっとのことで言えば、すこし冷静になったハンスの目、父の疲労を捉えて、


「お疲れのところ申し訳ございませぬ。またときを改めてもよいのですが」

「かまわん」


 と王はわずらわしそうに首を振る。


「アルフォンヌのことか」

「はっ、アルフォンヌになにか?」

「おまえがおれに相談するなど、アルフォンヌのこと以外にはあるまい。戦争も国政も興味を持たぬおまえのこと、よもやそんな相談でもなかろうが」


 嘲笑うような色が混ざるのに、ハンスはややうつむいて、


「それが、そのようなご相談なのでございます。父上、ぼくも足りぬ頭ながら考えることがございます。はばかりながら、父上のお考えがぼくにはわからぬのです」

「なにがわからんというのだ」


 太い指を組み合わせ、王は首をかしげる方向をぐいと変える。


「言ってみろ、ハンス。おれの考えの、なにがわからんというのだ」

「グレアム王国を攻める、という兵法でございます。あるいは国政でございます。なぜ、いまかの国を攻め落とす必要があるのですか。かの国は、わが国にとって大切な商売相手、武器の輸出に関してはわが国も優遇を受け、なおかつ亡きお祖母さまはグレアム王国のひとではありませぬか。それをゆえなきに攻め落とすこと、ぼくにはわからぬのです」


 自らの言葉に励まされたよう、ハンスは徐々に顔を上げ、興奮に紅潮した少年らしい顔で期待を込めるが、王の表情動かず、冷たく澱んだ目、ちらとも動かない。

 倦んだような顔で王が見るに、ハンスの情熱も萎んで、またすこしずつ頭が垂れ下がっていくのを、


「ゆえなきに攻め落とすというなら、なるほど、わが方非道であろうが」


 と王が言うのにまた顔を上げる若者、老獪で厳しい視線に射すくめられ、指先ひとつ動かせぬよう。


「今回の遠征、なにもゆえなき戯れではない。まさか、そんなはずがあろうか。おまえは、おれの決定をそう思っていたのか」

「いえ、父上、ぼくは」

「花や動物、畜生のことはわかっても、やはりおまえに国はわからんらしいな」


 ふいと王が視線を逸らせば、それが絶望の証、ハンスは両腕をだらりと下げ、汗ばんだ首筋に羞恥の朱が差す。


「しかし、そんなおまえでも、跡継ぎだ。こい、説明をしてやる」


 王は立ち上がり、机の上、ざっと腕で掃いて、いらぬ書類を床へ落とす。

 容赦なく書類を踏みつけ、王はぐいとハンスの腕を引いて、あたり一帯の地図に顔を近づけた。


「見ろ、ここがわが城だ。わかるな」


 太い指先、乱暴に地図を叩き、それがつつと動いて山手へ、別の城を指さしては、


「これがグレアム王国の本丸、ここさえ落とせば国はなくなる。そしていま兵を敷いておるのがここだ」


 おもちゃの駒をとんと鳴らして叩きつければ、ハンスは怒鳴られたように身体をびくと震わせる。


「わが兵、およそ三千。小国にあって、投入できるだけの戦力すべてを投じておる。なにゆえと、おまえは思うのだ」

「それは、父上、グレアム王国を滅ぼすためと存じます」

「愚かな!」


 王は叫んで、兵の駒、ぐいと壁に投げつける。

 それはハンスが幼きころに遊んだ覚えのある人形、壁に打ち当たって真っ二つになるのに、ハンスの目はしとどに濡れて、口元が引きつる。

 気づかぬ王、指先で激しく地図を叩きながら、南へぐいと移動させる。


「わが国よりはるか南、大陸の南端に、ハルシャという国がある。知っているか、ハンスよ」

「名前だけは、父上」

「このハルシャという国が、どうやら造反の気運、われらの父にして母、絶対なる皇帝たる陛下に反旗を翻すという。すでに国境を隣するいくつかの国が攻め落とされ、ハルシャは大国へ成ろうとしておるのだ。やがて大陸の中央、貴き皇国にもやつらの牙がかかるかもしれぬ。これにつけて大陸中が騒擾しよう。よいか、ハンス、戦うということは自らを守ることと心得よ。大国に関われば、われらのような小国は一捻り、抵抗さえも許されぬ。そのためにまずは攻め入り、他国を落として取り込むのだ。それにはグレアム王国がもっとも有効である。彼らは大した兵を持たず、鉄を多く産出する山を有する。戦渦が激しくなればなるだけ、鉄は高く売れるのだ。時勢読み違えれば、彼らは儲けた金で兵を増やし、あるいは農耕盛んなわが国を取り込もうと画策するやもしれぬ。そうなれば、ハンス、どうするのだ。武器の扱いはだれよりも心得る兵数千と、農耕が基本のわが兵三千、どう戦い、いかに勝つというのだ」


 鼻頭が押し合うほどの至近距離、低い声の音圧と熱っぽい視線に気圧されて、ハンスは額に汗を浮かべて徐々に後ずさる。

 それを逃がさぬように王、ハンスの肩を握りつぶすように強く持って、


「国を考えるのなら、一手先、二手先を考えなければならぬ。他国が動いてからでは遅いのだ。これでゆえあっての進軍と理解したか」

「父上、ぼくは――ぼくは」


 ハンスは心の芯まで恐怖しながら、それでも首を縦には振らぬ。

 美しい金髪、さらと流れて光が散ったと思えば、それはいやいやをするように横へ振った証左。

 王はかっと目を見開き、怒りに赤く血走らせるが、ぐいと血色の悪い唇を噛みしめて堪えた様子、ハンスの肩を離して背を向ける。


「まだ、おまえに国は早い。しばらくはおれに任せておけ。おまえは遊んでいればよい。それで国が保つように、おれが強い国を作ってやる」

「父上、ぼくは」


 ハンスは王の、父の背に手を伸ばしかけたが、


「用とはそれだけか。父は忙しいのだ。部屋に戻っておとなしくしていろ」


 と叱られ、すごすごと手を引っ込めて、こちらを見てもいない父に頭を下げる。


「失礼いたします」


 扉を開けて外へ出れば、もののすくない小部屋がむしろ清々しい。

 エリカは座りもせず待っていて、がっくりと肩を落としてうなだれるハンス、見るからに意気消沈という顔色にも、気遣うような気配はない。

 言葉もなく、歩き出せばそれでも王子、憂鬱な顔を見せるわけにはいかず、ハンスはぐいと顔を上げる、そのすっと通った鼻筋の気高さよ。

 外はようやく陽も落ちて夕暮れ、立ちこめる雲が怪しく光るのに目をやる人間もすくなく、女どもは兵隊として出かけた男どもの帰りを案じ、子は不安に泣き、年寄りは憂えて嘆息するばかり。

 明るい兆しひとつとしてなく、晴れていれば薄暮の空に見えるであろう星々も、分厚い雲の向こうに隔てられて光の一欠片も地上へ落としてはくれない。

 風吹けば異様な熱気を孕み、凪げばしいんと耳が痛む、酒場でだれかが空元気、大声張り上げて歌い出せば空々しく、あとを追って歌い出すものもなし。

 そのくせ警備に残った衛兵だけは目をぎらぎらと剣呑に輝かせ、武器の柄を握る手も汗ばみ、幾度も服で拭っては握り直して気を張っている様子、不用意に近づけば怒鳴り散らされて逃げ出すのも、怪我や病で兵にはとられなかった男たち、劣等感で酒が進んで前後不覚に陥る。

 乳欲しさか漠然たる不安を感じ取ったものか、子どもが泣きわめけば、患った年寄りが黙れと怒鳴り、それでまた火がついたようで手に負えぬ。

 城のなかにしてもそのような光景と大差ない。

 残った兵士は久しくなかった戦争の雰囲気に呑まれ、誰彼問わずにらみつけては小競り合いを起こし、文官は肩を寄せ合ってああでもないこうでもないと益体のない議論、武官連中に蔑まれたとケチをつけては一向に有益な意見も出てこぬよう。

 それを仔細見ているハンスは、やはりこの国の行く末、不安に思えて仕方がないらしい。

 部屋に戻ってしばらくじっと机に向かっていたところで、がたんと椅子を蹴って立ち上がれば、熱に浮かされたような顔、部屋のなかを足早に歩きまわって、


「父上は、本当にこれで国がよくなるとお思いなのか。このような擾乱はすべて勝利によって収まるとお考えなのか。どうして、手を取り合うということをお考えにならないのだ。たしかにグレアム王国は将来わが国の脅威にもなり得ようが、現時点でわが国が有利なのも事実、こちらから協力を持ちかければ、向こうとて断れぬはず。乱世というなら、荒波にあっても砕けぬ強固な関係を築けばよいのだ。互いに助け合い、きたるべき時化に備えれば、越えてゆけぬものでもなし、父上ともあろうお方が、なぜそれに気づかれぬのか」


 独りごちるうち、再び隆々たる活気を取り戻すかと思いきや、足取りや徐々に弱まって、やがて倒れた椅子を抱き起こせば、そこにすとんと収まって頭を抱える。


「ぼくは王子としての素質に欠ける。父上の方針には従えぬが、まさか父上に仇なすわけにはいかぬ。裏で手を出そうにも、もはや時期が遅すぎる。父上に進言する勇気もない。ああ、ぼくは――」


 懊悩するに、興奮が涙を催すらしい、ぽろぽろと白い頬を伝って涙が落ち、なんのために泣くのか自らわからぬ態で、あごの先から落ちた雫を指先で拭い、呆然と眺める。

 王子たるものの苦悩を、だれが理解し得ようか。

 力がないわけではないが、なにひとつ自由にはならぬ。

 国を思っても王ではなく、また若い年ごろも相まって、なにをなすべきなのかわからぬ王子は、机に向かって静かに落涙するのみ。

 薄暗い室内、火も入れず、徐々に闇が姿を覆い隠して、嗚咽もない、冷めたような瞳だけがきらり。

 涙も止まれば、祈るように手を組み合わせ、ハンスは唇をちいさく動かす。

 祈りにも聞こえれば、呪詛にも似る。

 やがて、こん、と扉が鳴って顔を上げれば、


「ハンスさま、アルフォンヌさまがいらっしゃいました」

「ああ、すぐに行くよ」


 暗い室内を隠すよう、薄く開けた扉のすき間からするりと抜け出せば、いつものように表情を消したエリカの傍ら、ただでさえふっくらと丸い頬をさらにふくらませ、そっぽを向きながらエリカの裳裾を掴むアルフォンヌの姿。

 ハンスは苦笑いで、


「またずいぶんご機嫌斜めだな、アルフォンヌ王子」

「遊んでくれるって言ったのに、兄上ったら、忘れていたでしょう」


 アルフォンヌが愛らしく怨ずるのに、ハンスは笑って頭を撫でてやりながら、


「ごめん、ごめん。それじゃあ、夕食まで遊ぼうか」

「よろしいのですか、ハンスさま」


 と珍しくエリカが口を挟むのは、おそらくハンスの煩悶を察してのこと、ハンスは流し目でうなずいて、


「ぼくも気分転換がしたかったんだ。さて、アルフォンヌ、なにをして遊ぶ?」

「戦争ごっこ!」

「そうか、仕方ないな――じゃあ、おもちゃをとっておいで」

「うんっ」


 アルフォンヌが振り返りもせず駆け出すのに、ちいさなその背中、廊下の向こうへ消えたところで、ハンスはエリカに向き直った。


「火を頼むよ、エリカ」

「ただいま」


 言葉少なのエリカだが、ハンスとは古くから兄妹のように育った仲、妙な気遣いも無用である。

 そうしてエリカも姿を消し、ハンスひとり、暗い部屋の扉を開け放って、なにを思うか、ぽつりと呟いた言葉は、


「この戦争さえ終われば、すべてが好転するだろう。それまで辛抱するだけ、むずかしいことでもないさ」

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