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八重鏡  作者: 藤崎悠貴
人魚の島
57/122

人魚の島 5-2

  *


 人魚の里に行きたい、と志願する水夫、並びに船員は多かったが、人魚の里がどのような場所かもわからぬし、大勢で詰めかけて妙な威圧感や嫌悪感を与えてはなんだろうということで、正行のほかに二名だけ選ばれ、アリス号ではなくちいさな船でカルミア村の港を出たのは、アリス号がカルミア島に到着した翌日の、すこし曇った朝だった。

 じりじりと焼けつくような直射日光がない分、湿気がすこしあって、体感的な暑さにはあまり変化がない。

 櫂を漕ぐ水夫のふたりはたくましい上半身を晒して、時折海水で冷やすほど、さほど大きくはない島でもぐるりと回り込むのに一時間はかかった。

 今日も海は凪ぎ、ゆりかごのように小舟を揺らす。

 船のすぐ下は濃紺で、水平線に目をやれば、青い小山がいくつも隆起しては蠢いていた。


「人魚の里とは、どんなところだろうな」


 水夫は力強く櫂を漕ぎながら言った。


「そりゃおまえ」


 ともうひとりの水夫が答えるに、


「美人の人魚がたくさんいるところだろうよ」

「そりゃ違いない」

「美人だけじゃなくて、男もいると思うけどな」


 正行が言えば、水夫は眉をひそめて、


「さすが軍師殿、見る目も現実的ですなあ。おれたちは夢を見ていたいんだよ。あくまで美しい夢を」

「そうそう。美人の人魚ばっかりの里、すばらしいじゃないか」

「それが夢かよ」


 と正行が笑っているうち、船は切り立った崖を回り込んで、島の裏側へ出た。

 カルミア村の背後に控えている大きな山も、いま望むのはその裏側、たしかに陸路は不可能だと思うような深い森が裾野に広がっている。

 つまるところ、ひとつの山でもって人魚の集落と人間の集落は完全に隔離されているのだ。


「どうしてここの村人は人魚がきらいなのかな。あれほど美人なのにな」

「いっしょに暮らせば、いろいろあるんじゃねえか」

「村人が人魚を嫌っているように、人魚のおれたち人間のことを嫌っているかもしれないぞ」


 にたりと笑って脅す正行に、水夫ふたりは首をぶんぶん、


「人魚の里に入ったとたん、簀巻きにされて海に放り出されるのはごめんだぜ」

「でも、フローディアは人間にもやさしかっただろ」

「それはフローディアが特別だっただけかもしれない。村にもひとり、人魚のことをきらいじゃないって女の子がいたよ。まあなんにせよ、そのへんのことはお互いにとって触れたくない部分かもしれないから、人魚がいるところでは口にしないようにしないとな。下手なことを言えば、それこそ簀巻きへ海の藻屑だ。おれなら泳げないんだから、ふたりの何倍も困る」

「まだ泳げねえのかい」

「泳ぐ練習もしてないんだから、泳げるわけないだろ。人間は水中には適合してないんだよ」

「大陸育ちでも、泳ぐくらいだれにでもできるけどな」

「まあ、正行殿は運動神経がないってので有名だからな」

「うそつけ、だれだそんな話流したのは」

「おれはロベルトさまから聞いたぜ」

「おれも」

「くっ、帰ったらとっちめてやる、ロベルトのやつめ……」


 ちゃぷちゃぷと波音、船は島のすぐそばを進む。

 斜めから見ていた山が完全に右手へ、そこからさらに進むと、カルミア村の前にある湾と同じような形状の、しかしこちらはいくらか陸地に食い込むような形で湾が構成されていて、どうやらそこが人魚の里らしかった。

 湾の入り口は、カルミア村の湾に比べればずっと広く、また水深もあるらしい、海は深い紺色のまま、指を浸すとひやりと冷たい。

 ゆっくり船で入っていくと、湾の入り口部分だけはずいぶん浅くなっていて、どうやら海のなかに岩が突き出しているらしい。

 そこを越えればまた深く、しかし外海ほどではないようで、海の色はにわかに淡くなり、水温もぐんと増した。

 湾のなかを見回せば、左右は崖になっていて、正面に町があるのだが、その町というのがまた異様で。

 石造りの、遺跡めいた古い家々が立ち並んでいるのだが、それが陸地ではなく、半分以上海に沈んだ場所なのである。

 水面から見えているのは建物の屋根くらい、ほかはすべて海に沈み、それよりも陸地といえばすぐに森が控えている。

 正行はとっさに、昨日コジモに案内された、樹木に浸食された古い水路を思い出した。

 こちらは海だが、やはり自然に浸食された古い町なのである。

 湾のなかは波もまったくなく、湖のように静かで、ただ船首が立てる波が左右へゆっくりと広がっていく。

 正行は鏡のような水面を覗き見て、底のほうできらとなにかが光るのを見た。

 それに引き込まれるようにぐっと覗き込めば、黒い影がさっと現れ、


「わっ!」


 と水面から人間の顔が飛び出す。


「うわああっ」


 正行は驚いた反動で船の端まで飛び退き、それで船が揺れて、あやうく転覆というところ、必死に縁へしがみつく正行に、水面から現れたフローディアは濡れた金髪をかき上げながらくすくす笑った。


「びっくりしました?」

「び、びっくりどころじゃない! 心臓が止まるかと思ったぞ、まったく……」

「よくきてくださいました、みなさん」


 フローディアは再び水面へ潜り、半ば沈んだ町のなかにぽつんと浮かび上がった。

 それを合図のように、湾のなかのあちこちに波紋が現れ、老若男女様々な人魚が顔を出す。

 顔に皺が目立つ老人もいれば、フローディアより若い子どもの人魚、たくましい体格の男の人魚からフローディアに負けず劣らずの魅力的な身体を持つ妙齢の人魚まで、人間の集落と同じように様々な顔がある。

 人魚たちは正行たち人間の乗る小舟を取り囲むように水面を漂い、手を振ったり、さっそく船の縁に掴まって興味津々になかを覗き込んだり、どうやら心配していた人間に対する敵意はないらしい。

 にわかに騒がしくなった湾のなかで、フローディアは自慢げに笑い、


「この集落に人間が尋ねてくるなんて、何年ぶりでしょうか。大したおもてなしもできませんが、どうぞごゆっくりしていってくださいね。みなさまはわたしの命の恩人なのですから」

「ようこそ、人魚の里へ」

「ようこそ、久しい客人たち」


 人魚たちは口々に船を歓迎し、その笑顔にどうやら裏はなさそうで、正行はようやくほっと息をついた。


 人魚は水中でなければ生きてはいけないが、同時に酸素なしでも生きてはいけぬ。

 半分海に沈んだ町は、どうやらそんな特殊な性質を持つ人魚にはちょうどよいらしかった。

 軽い小舟を、かろうじて水面に出ている石造りの建物の屋根に上げるや否や、水夫たちは待ちきれぬ様子で美しい海に飛び込んでいく。

 人魚のひれが水面にさっと現れ、海中へ消えると、それを追う人間のたくましい手足だが、やはりどうにも追いつけぬらしい、降参顔で水夫が海面に顔を出せば、子どもたちが明るく笑いながら取り囲む。

 正行はそれをうらやましいと思う反面、泳げぬ身で海に飛び込む勇気もないから、屋根の端に座り、膝から下を水に入れて、なんの気なしにばしゃばしゃと水を跳ね上げながら人魚の町を観察していた。

 もとは、相当大きな町だったにちがいない。

 その名残はいまもあちこちに散見され、たとえばいま正行が腰掛けている石造りの屋根など、透き通った海のなかを覗き込めば宮殿めいた巨大な建物で。

 本来であれば地上数十メートルという位置に海面があって、そこに正行は腰掛けているから、水面から現れている建物の屋根や柱は相当巨大なものらしいのだ。

 海底、すなわち本来の地面はどうやら大理石かなにかで舗装され、海中に沈むいまも太陽の光を浴びてきらきらと輝いている。

 そこを、美しい人魚がひとり、長い髪を水になびかせ、くるくると回転しながら泳いでいく。

 正行が覗き込んでいることに気づけば、にこりと笑って手を振り振り、円周が三メートル以上あるような太い柱のまわりをくるくると回った。

 町の規模だけでいえば、セントラム城に匹敵するかもしれぬ。

 海面に現れるのはそのごく一部、おそらく幅と奥行きが数百メートルはある湾の底には、数々の家が沈んでいるのだろう。

 これだけの町が、どうしてこうも呆気なく海に沈んでしまったのか。

 正行は足先で水と遊びながら、ふと遠い目をする。

 そこに、背後でばっと水しぶき、振り返ればフローディアが屋根の上に上がってきたところで。

 無論、ここは人魚の里であり、彼らに身体を隠すという文化はない。

 さっと視線を足下に落とした正行のとなり、フローディアは尾びれを海中に入れたままするすると寄ってきて、


「どうですか、正行さん。人魚の町は?」


 と正行の顔を覗き込む。


「町としても興味深いし、ほかの人魚もみんないいひとそうでよかったよ」


 あえてフローディアのほうを見ない正行で。


「でも、思ってた町とはずいぶんちがっててさ。なんかこう、もっと岩場とかに住んでるもんだと」

「本当なら、そういうところでもいいんですけどね」


 フローディアは尾びれで水を跳ね上げ、石造りの屋根にひたと両手をついて空を仰ぎ見ながら、


「この湾のなかなら波もないし、子どもも安全でしょう? それに海と町がいっしょになってて、わたしたちにはとても住みやすいんです」

「どうしてこの町は海に沈んでるんだろう。まさか、はじめから人魚が住むために、海のなかに町を作ったわけじゃないんだろ?」

「さあ、わたしが生まれたときにはもうこんなふうでしたけど――ほかのお年寄りなら、なにか知ってるかもしれません。今度聞いてみますね」

「ああ、頼むよ。それにしても立派な町だな……その代わり、魚なんかはあんまりとれそうにないけど」

「そうなんですよねえ」


 とフローディア、白い頬に手を当てて困り顔で、


「住みやすくはあるんですけど、魚は湾の外へ獲りにいかなきゃいけなくて」

「湾の入り口が急激に浅くなってたから、あそこで魚も反転しちゃうんだろうなあ」


 正行は視界の端でフローディアの金髪を捕え、ふと、昔は人間と人魚がいっしょに住んでいたというコジモの話を思い出す。

 よくそれで成立していたものだ、としみじみ思ううち、フローディアが再び正行の顔を覗き込むから、反対に正行は空を見上げた。


「正行さん、あの約束、覚えてます?」

「ん?」

「ほら、いっしょに泳ぐって約束したじゃないですか」

「したっけなあ、そんなの」

「もう、ひどいですよ」


 フローディアはふくれ面、正行は苦笑いで、


「覚えてるよ、ちゃんと。でも、おれまだ泳げないから、約束はもうちょっと先だな」

「じゃあ、いまから泳ぐ練習しません?」

「は?」

「だって練習しなきゃ、いつまでも泳げるようにならないでしょ?」

「いや、でも、だって、泳げないのにこんな深い海に入ったら、溺れるだろ。おれ、死んじゃうぞ。まずは足のつく浅瀬でだな……」


 とぐちぐち言うあいだ、となりのフローディアは水しぶきを上げて海へ飛び込んだ。

 正行がとっさに目を細めれば、フローディアは水滴を浴びてきらきらと輝き、両腕を広げて正行を待っている。


「わたしがいっしょに泳ぎますから、溺れても大丈夫です。ね、練習しましょ?」

「う、うーむ」

「ほら」

「あ、こら、引っ張るなって! あ、わっ――」


 ばしゃんと大きな水しぶき、正行は慌てて屋根の縁にしがみつき、ふわふわと不安定な足で地面を探すが、海底ははるか下方である。


「や、やばいって、これ、し、死ぬ!」

「大丈夫ですって。泳ぐのなんて、むずかしくないんですから」

「に、人魚だからそう思うんだよっ。人間の身体はそもそも水のなかには適応してないし、適応してないってことは入るべきじゃないってことで」

「身体の力を抜いてください。緊張してたら、余計に身体が沈んじゃいます」


 フローディアは正行の背中からゆったりと抱きしめ、そのまま屋根にしがみつく正行の腕を放させた。

 正行は慌てふためいて腕を振り回すが、そうすると身体はみるみる沈み、口元に塩辛い海水を感じていよいよ焦りを濃くする。

 仕方なくフローディアが正行の身体を抱え、抱くようにして水面を漂えば、ようやく落ち着いたらしい、ふたりはぷかぷかと水面を漂った。


「ね、簡単でしょ?」


 背景の曇り空が惜しまれるような、フローディアの眩しい笑顔である。

 正行はそれをぼんやりと見上げ、ぷかりと浮き上がった自分の身体を見て、それからようやくフローディアの胸元に抱かれているのだと理解し、やはり手足をばたつかせる。


「も、もう大丈夫だから! ひとりでなんとかなるっ」

「ほんとですか? じゃあ」


 とフローディアがちょっと離れれば、たちまち、


「あっ、わっ、うっ――」

「ああっ、ほら、まだだめじゃないですか!」


 沈みゆくのを慌てて抱き上げられて、結局正行は赤い顔、フローディアに抱かれながら水面を漂う。

 ともかくいろいろ思うところはあるものの、ほんのわずかな波に身体が揺れ、重力から解き放たれたように自由な感覚は心地よく、見上げる曇天もなにやら晴れてくる気配、さっと一条の光が差し込んで。

 正行はぽつりと、


「本格的に、泳ぐ練習するかなあ」

「それがいいです、きっと気持ちいいですよ」


 フローディアはうれしげに言って、正行はついに人生ではじめての水泳に挑む決意を固めた。

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