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八重鏡  作者: 藤崎悠貴
人魚の島
54/122

人魚の島 4-1

  4


 カルミア村は、島唯一の人間が暮らす集落である。

 そもそも島自体をカルミアと呼び、カルミアと呼べばつまり村のことで、南の大洋にぽつりと浮かぶちいさな孤島ゆえ、自らの島や村を名前で呼ぶこともほとんどないから、前村長の提案により、村のあちこちに自分たちの村、そして島の名前を忘れぬよう、カルミアという植物が植えられている。

 灌木でありながら、枝には白や赤の細かな花がびっしりとつき、カルミアが植えられた道には斑点のついた花びらが無数に散って、暖かな風に舞っている。

 カルミア村はカルミア島の南東にあり、港とは名ばかりの波止場を擁したちいさな村である。

 後方に控える山に向かってぐっと村全体がそそり立ち、海に光を流し込んだような紺碧の港から眺めるに、家々の壁紙は白やクリーム色、鎧戸は青や赤と色とりどりで、勾配のきつい坂道は細かな石畳、その左右をカルミアの木が覆って、絵に描いたようなのどかな南国の村でありながら、独特の色合いを含んでいる。

 実際、カルミア村はごくごく静かな村であった。

 住民は二百人ほど、争いのようなものはここ百年起こったことがなく、村人はみな漁をし、衣類を作り、家を建て、ひとつの共同体としての意識を持ちながら生きている。

 村に聞こえる声といえば、ほとんどが海猫の鳴き声か、本物の猫の鳴き声で、人間はそれらの邪魔をしないよう、質素で清潔な生活をしているふうですらあった。

 そんな村に激震が走ったのは、ある夏の――といってもカルミア島は常夏だが――昼下がり、ちょうど人々が昼寝でもしようかとあくびをしているころである。

 朝の漁を終え、いくつかちいさな舟が繋がれた港で仕掛け網の手入れをしていた漁師の青年が、はるか水平線にぽつんといずる黒い影を認めたのである。

 はじめは正体もわからぬ黒点であったのが、ゆったりと波打つに合わせて近づき、どうやらそれが巨大な帆船であると、そしてそれが島に直進していると確信した青年は、その場に網を投げ出し、急ぐことなどひとつもない村のなかを駆け抜けた。

 昼下がりにまどろんでいた村人たちは驚いて青年の背中を見送り、それが村長の家の扉を激しく叩けば、肘掛け椅子で居眠りをしていた村長もびくりと飛び起き、


「ど、どうした、なにがあったのだ」

「村長、村長、大変です。大きな船が、この島へ向かってきています」

「なに、船?」


 と村長、寝ぼけ眼をくわと見開き、家を出た。

 頭上には燦々たる太陽、狭い路地の傍らにはぶち猫がうずくまり、そのそばを駆け抜ければ、何事かとぶち猫も顔を上げる。

 カルミアとハイビスカスが並んで咲く路地を抜け、白く光る砂浜を横切って港へ出れば、先ほどよりも船の影は大きくなり、黒いマストの影がさっと伸びて、想像を絶する巨大な帆船だとわかる。

 村長は目を細め、じっと海の彼方を見つめて、


「ううむ、たしかに見たこともない船だ。島へまっすぐ向かっているようだが、大陸の船かのう」

「どうしますか、村長」

「どうするもこうするもあるまい。大陸からの船など何年ぶりであろうか。ともかく、敵意があるとも思えんが、村人に家から出ぬように伝えて回れ。船への対応はわしがする」

「はい、わかりました」


 青年は日焼けした精悍な横顔にいくらか緊張を滲ませて、村のなかへ戻ってゆく。

 一方港へ残った村長は、ほとんど音もなく打ち寄せる紺碧の海に目をやって、着実に近づいてくる船からなにか情報が読み取れぬかと目を凝らすが、船名がわかるほどに近づくまではもうしばらくかかるよう、ふうと息づいて、古くなった桟橋に腰を下ろせば、板がぎしと軋む。

 カルミア村の前は、左右からぐっと陸地がせり出して湾のようになっている。

 そのなかは水深も浅く、海の色はほとんど緑で、湾から出ると急激に深くなっているのだが、それが海の色のちがいではっきりとわかる。

 あれだけの巨大帆船、近づけるとしても湾の外までだろうと村長は考え、日中の強すぎる日差しを恨めしげに見上げた。


「それにしても、大陸の船が前にやってきたのは、もう何年前のことかのう。まだわしが子どものころだったから、五十年近くになるか」


 独りごちれば、泡沫に浮かび上がる記憶の気泡、いまではすっかり色褪せているものの、五十年近く前のその日も、おそらくは今日のように晴天で、頭上には透き通るような青空、海は紺碧に揺れていたにちがいない。

 そのころまでは、大陸から時折船がやってきては大陸の情報が伝わったり、物資が送られたりということがあったが、カルミア村から返せるものがほとんどないせいか、いつのころからかまばらになり、やがてぷつりとこなくなった。

 この変化に乏しい村で、大陸からの船は唯一の刺激であり、村人も待ち望んでいたが、いまの子どもたちはかつて大陸と行き来があったことすら覚えていないのだ。

 村長自身、子どものころ、大陸からやってくる大きな船に乗って、いつかは自分も大陸へ渡って世界を見てみるのだと夢見ていたひとりである。

 しかし当時は幼すぎて叶えられないまま、やがて船も絶え、村は倦み疲れたように静まり返って、早五十年であった。

 時折潮の流れによって大陸のものが流れ着いたり、つい最近も珍しいものが近くの浜に流れてきたばかりだが、それに続いて大陸からの巨大な帆船とは。


「いったい、なんの目的かのう。五十年前に使っていた航路を思い出し、旅でもしておるのか、はたまたどこか傷ついて船を修繕できる島を探しておるのか」


 島には相変わらず産業らしいものはなく、漁業といっても村人の生活を支えるのみ、後方の山にもありふれた南国の植物が生え、珍しい動物のひとつふたつは住んでいるだろうが、そのために大帆船を持ってくるとは思えぬ。

 村長の脳裏によぎるのは、当然、人魚のことである。

 きゅっと顔をしかめ、腕組みし、村長は近づいてくる帆船を眺めながら、


「人魚を捜しにここまでたどり着いたのなら立派なものだが……わしらになにをしろというのかのう」


 そう呟いているあいだにも大陸からやってきたと思しき帆船は、長く鋭い船首をまっすぐ島に向け、穏やかな海を邁進している。



 村からすこし離れた、ちいさな崖の上である。

 年のころ十二、三という少女がひとり、吹きすさぶ温暖な風に黒髪を揺らしながら立っていた。

 ちいさいといっても切り立った崖のこと、縁に立てば、真下にぐいと引き込まれるような魅力を放ち、その縁でいつからそうしているのか、赤いハイビスカスの大きな花びらが揺れているのも、すっかり乾いてしまっている。

 少女は崖の縁に座り、膝を抱え、見るともなしに背中から吹く風の行方に目をやっていた。

 少女のちいさな背中を押し、おかっぱにした黒髪を揺らした風は、そのまま暖かな空へ舞い上がって、どこへ消えてしまったのか、その先まではとんと見えぬ。

 あるいは海から吹きつけ、崖に沿って上昇する風とぶつかり、打ち消されたのかもしれない。

 そう思えば、際限なく吹く風もまた切なく、膝を抱える少女の表情が冴えぬのにも合点がいくというもの。


「もう、二ヶ月くらいか」


 幼いままの声がぽつりと、それもやはり風に巻かれて消え去れば、少女の視線は海に注がれる。

 どんな日も変わりなく寄せては返す波に、普遍を見たとしても、日常が、あるいは世の中がいつまでも同じようにいられるわけでもなし。

 つい最近、この少女の日常にも変化が訪れたよう、海をにらむような目にうっすらと涙が浮かぶ。

 しかしそれがこぼれ落ちる前、少女の視界に、海を走る船の影が映り込んだ。

 このあたりではまず見かけない巨大な船で、いつの間にか島のすぐそばまで近づいて、鋭い船体が海を割き、そこから白い波が生まれて左右にどこまでも広がっていく様子が崖の上から見てとれる。

 少女は興味を惹かれ、ようやく抱いていた膝を解いて、手を地面につき、船の様子をじっと観察した。

 船が帆船であることは、三本の巨大なマストで知れる。

 しかし無限に広い海にあって、船の大きさは正確にはわからず、とにかく普段漁で見かけるふたり乗りのちいさな船とは比べものにならぬ巨大さだということはわかった。

 はじめ、船は三本のマストすべてに帆を張り、風をしっかりと受けて前進していたが、少女の見ている前で帆を畳み、どうやら島のすこし手前で前進をやめたよう、甲板で何人か動いて、船の脇から子どものようなちいさな船がいくつか出てくるのもはっきりと見えた。

 それでようやく、巨大な船の大きさを知った少女は驚きのあまり声を漏らし、本格的な上陸に向けて櫂でもってちいさな船がいくつも島に近づくのを、巨大な昆虫にちいさな昆虫が取り付くような雰囲気だと感じている。

 おそらくその船たちは港へ入るだろうから、そちらへ行ってみようかと腰を浮かせた矢先、巨大な船から、ほんのちいさなものがぽんと海へはじき出されるのを見た。

 どうやらそれは人間大で、単独で深い海をすいすいと泳ぎ、優雅に船から離れて島を迂回していく。


「あっ――」


 少女はその影に思い当たって、驚くやらなんやら、その場に立ちすくんでいるうち、ようやく引っかかりが取れたらしく、乾いたハイビスカスの花びらが宙に舞って、風にうまく乗れば、海の果てまで踊るように飛んでいった。

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