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八重鏡  作者: 藤崎悠貴
人魚の島
53/122

人魚の島 3-2

  *


 巨大帆船アリス号は順風満帆のうちにセントラム港を出港し、冬の冷たい風を帆に受け、海中で潮の流れや方角を的確に知ることができるフローディアを指針とし、丸一月以上に及ぶ長い航海を続けていた。

 海が凪いでいるあいだは、フローディアの指示する方向へ船を向けるだけ、操舵というほどのこともないが、嵐ともなれば話はちがう。

 船に乗って五十年、大陸中を探してもこれ以上の経験者はなかなか見つからぬというアキレウス船長の指示のもと、アリス号に乗り込んだ水夫たちは荒れ狂う風と雨、そして波に立ち向かった。

 日焼けした顔の下、落ち着きを讃えながらも鋭く光るアキレウス船長の目が、いまだ晴れ渡っている空の、雲の動きに嵐の気配を察知すれば、たちまち水夫たちがどこからともなく這い出して、するすると猿のようにマストを上がり、白い帆を畳んで縄を伝って降りてくるころには、強い波が船体へ打ちつけられはじめている。


「舵を取れ、波に対して船首を向けろ!」


 船長の指示が飛び、兵士にも劣らぬ屈強な男たちが重たい舵を必死に回し、ようやく巨大な帆船の向きが変わったころ、もうあたりは嵐の雰囲気で。

 轟々と吹きつけてくる風は複雑にかけられた縄を揺らし、ひとつ波を越えるごとに際限なく高まるような大波で、巨大なアリス号の船体は跳ね回るように上下し、積み荷が倉庫のなかを動きまわり、刻一刻と変化していく風向きや雲の様子に水夫たちは目を凝らす。

 凍りつくような冷たい強風、甲板では震えるひまもなく、船長の指示が水夫たちのあいだを駆け回る。

 風だけを動力に進む帆船では、嵐のあいだはどれだけ船体が巨大であっても水面に浮かぶ木の葉のようなもの、高波に翻弄され、水しぶきは甲板にまで入り込み、日に焼けた水夫たちは恐ろしく冷え切った水で全身を濡らしながら船を守った。

 空一面の闇、蛇の胴体めいた雲がぐるぐると渦巻き、怪しげに蠢いては風が襲う。

 雷鳴轟き、稲光絶えず、船は波間に弄ばれ、水面からはるか高いはずの甲板も、船がぐっと沈み込めば波の目前、そこへ十数メートルの高波が打ち寄せ、白いしぶきが炸裂して甲板を激しく海水が洗う。

 風籟尽きず、あちこちで爆発したような音、それが波の打ち寄せる音で。

 巨大な船体は幾度も傾き、あるいはそのまま転覆かと思われるほど片面を海中へ沈めた。

 その度に水夫たちは縄に掴まり、海中から伸びる悪魔の手にさらわれぬよう太い腕に力を込めて、危ういところで船も持ち直す。

 しかしすぐ、暴風豪雨のなかで、


「右側から大波、全員掴まれ!」


 とだれかの絶叫で、ぱっと水しぶきを散らして振り返れば、アリス号の甲板よりもはるかに巨大な大波が目前まで迫っている。

 それは避けようのない大波であり、乗り越えることも不可能で、アリス号は側面から波に飲み込まれ、ひととき海上からアリス号の姿が消えた。

 しかし優秀な船大工の総力を結集して作られた巨大帆船、ざばっと波のなかから顔を出し、全身くまなく濡れながら、船首は以前堂々と屹立し、船体の美しい曲線も失われていない。

 ロープに身体を巻きつけてあやうく難を逃れた水夫たち、足下の水を跳ね上げながら起き上がり、なんとかやり過ごしたと息をつきながらぱっと海を見れば、果たせるかな、先ほどのような大波が荒れた海にはいくつも控えているのである。

 アリス号は幾度となく波を受け、大きく傾き、儚い木の葉のように弄ばれた。

 空に白々と雷の竜が踊り、風は悪魔の笑い声、波はその指先となってアリス号を、無力なる人間を無窮なる闇のなかへ引きずり込もうとせん地獄の風景で、時間にして一時間程度、水夫たちにとっては長く苛烈な戦いもようやく小康を見る。

 雲は薄く、太陽の光も差し込んで、波は高いが、甲板を越えてくるようなものはなくなって、風も緩やかになっている。

 幾度も波を被ってはその度に超えてきたアリス号、水夫たちはぐったりした顔で甲板のあちこちにしがみついているが、屈強なるアキレウス船長は決してたゆまず、


「すぐに帆を広げろ、ずいぶんと方向がずれたはずだ」


 船長命令とあれば水夫たちも従わぬわけにはいかない、再びマストへ上り、前後左右見渡すかぎりの水平線、新たな夜明けのような、嵐のあとの静けさに堰きあえぬ感動を覚えながら、白い帆を踊らせた。

 それから海はまたしばらく静かで、フローディアも踊ることができ、そのたびに細かく方向を修正して、経験豊富なアキレウス船長でも通ったことのない航路で人魚の住む島へ向かっていた。

 一月以上の航海のなかで、そのような嵐が計三度あった。

 二度目までは奇跡的に無傷で済んだが、三度目の嵐のなか、打ちつける波に船体が耐えられず、あちこちで浸水が起こった。

 それが海中へ沈む範囲であれば致命的だが、幸い嵐でもなければ水には触れぬ位置で、応急処置を重ねて乗り越え、満身創痍ながら、アリス号は三度目の夜明けを見て、あれほど厳しかった風に、幾度も水夫を打ちのめした風に帆をなびかせて、音もなく水面を進んだ。

 しかし厳しいばかりの航海ではない。

 晴れ渡った青空の下をするすると滑って進み、肌寒いような風を全身で受けるのは爽快であり、また凪ぎのあいだは水夫たちも釣りを楽しんだり、持ち込んだアルコールに酔って思いのまま猥談や自慢話を楽しんだり。

 正行も、嵐のあいだは水夫たちの邪魔にならぬよう船内でおとなしくしているが、そうでないときは水夫に混じって釣りをし、笑い合い、多少日にも焼けた様子。

 夜になれば数えきれぬ星が瞬き、東の水平線から西の水平線まで、文字どおり遮るもののない満天の星空なのである。

 荒れ狂う自然に苦しめられることもあれば、静謐に佇む星に勇気づけられ、船は決して波や風に逆らわず、その表面を撫でるように進んでいく。

 それが丸一月以上だから、当然水夫たちとも仲良くなれば、フローディアと話す時間もたくさんあった正行は、おそらくベンノも知らぬであろう人魚の秘密をフローディアからたくさん学んでいた。

 たとえば、


「人魚には性別ってあんまりないんです」


 という一言にも正行は驚いて、


「じゃあ、女とか男とか、そういうものはないのか」

「まったくないわけじゃないんですけど」


 フローディアはすっかり自らの住処と化した車輪つき浴槽で、ちゃぷちゃぷと尾びれを揺らしながら、


「子どものころは、男でも女でもないんです。ある程度成長したところで、どちらの性を選ぶか自分で決められるんですよ。だから男女の感覚があまりなくて」

「へえ、自分で性別を選ぶねえ……おれには想像できないな、そういうの」


 たしかに、と正行は言葉の裏でうなずいて、それなら羞恥もなくあけすけなのも理解できるな。


「それじゃあフローディアは自分で女を選んだわけだ」

「はい。その、なんとなくですけど」


 とフローディアはまだ幼さの残る顔をあどけなくほころばせる。

 それからふと思い出したよう、


「あと、人魚は子どものころ、人間と同じ姿なんですよ。ご存じですか?」

「人間と同じ?」

「足もちゃんとあって、陸地で生きられるんです。ただ、途中で足が変化するわけじゃなくて、本当は生まれたときからこういう、お魚さんと同じ足なんですけど、しばらくのあいだは人間に化けられるんですよ」

「ほう、人間に化けられるとな。なんか妖怪みたいだな」

「よ、妖怪じゃないですよ、人魚ですっ」


 頬をふくらませるフローディア、正行はけらけらと笑いながら、


「成長の過程で、それができなくなるってことか」

「はい――わたしも、最近まではできたんですけど」


 とそれがどうやら悲しみの記憶に繋がるよう、フローディアは目を伏せて、言葉からも覇気が消える。

 正行もそれを察し、すばやく話題を変えて、


「結構人魚と人間って生態がちがうんだな。見た目は似てるのに、これだけちがうってのもおもしろい。帰ったらじいさんに教えてやろっと。ただ、行きだけでこれだけ大変だからな」


 と正行、天井をちらと見上げて、そこに透けて見える苦労にため息で。


「行きはまあ、フローディアの導きもあったし、なんとかなりそうだけど、帰りは帰りで大変だろうなあ」

「大丈夫ですよ、きっと」


 フローディアが元気づけるように言ったとき、上の階がにわかに騒がしくなった。

 足音が入り乱れ、ひとの声がいくつか聞こえるが、言葉まではわからず、正行とフローディア、揃って首をかしげる。


「なんかあったのかな。ちょっと見てくるよ」


 正行は浴槽のそばから離れ、梯子を伝って上階に顔を出せば、ちょうど水夫と目が合って、


「おお、正行殿、きてみろよ、すごいぜ」

「なんかあったのか?」

「甲板に出てみりゃわかる」


 秘密めかした笑みに、やはり小首をかしげ、ともかく言われたとおり甲板へ出てみる正行である。

 甲板へは狭い廊下から扉一枚、ぱっと開けると、普段なら背筋にぞくりとくるような冷風が吹き込んでくるところだが、それがいまはふわりと頬を撫でる生暖かい風で。

 正行が驚いて甲板へ出ると、閑暇を得ていたらしい水夫たちも甲板へ出てきて、このところ感じたことのない暖かな風に手をかざしたり、日焼けした腕を向けたり、どれも寒さから解放されて至福の表情を浮かべている。

 海の様子は相変わらずだが、気温は急激に上昇して、いまや長袖を着ているのが暑いくらい、とても真冬の気候とは思えぬ。

 空も晴れ、太陽はじりじりと照りつけて、水面は七色に輝き、どこからともなく甘い匂いさえ香ってくるような南国の気配、正行が慌てて操舵室へ飛び込むと、アキレウス船長も日に焼けた腕を窓から突き出して風を感じながら、


「奇妙なこともあるもんだな。さっきまでは凍えるような寒さだったんだが」

「波はどうなんですか」


 と正行が問えば、アキレウス船長は身を乗り出して水面を眺め、


「どうも冬の海ではないな。夏の、それも温かく穏やかな地方の海に似ている。とにかく凪いでいて、海の色が薄いんだ」

「人魚の島に近づいたってことですかね」

「そうかもしれん。しかしなにが起こるかわからんからな」


 アキレウス船長、窓からぐいと顔を出し、甲板をにらんで、


「おいてめえら、いつまで浮かれてるんだ。さっさと持ち場へ戻れ!」


 その一喝で水夫たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、船内へと戻っていった。

 無関係の正行も思わずびくりと姿勢を正すほどの低い声で、そうでなければ荒波など越えてゆけぬのだろうが、ついつい苦手意識を持ってしまう正行なのだ。

 そこへアキレウス船長がぐるりと振り返り、


「おい、このまま潮の流れに乗っていけばいいのか、人魚に聞いてきてくれねえか」

「は、はあ、わかりました」


 と正行、急いで操舵室を飛び出し、船内の下層にあるフローディアの部屋へ戻って報告すれば、フローディアはぱっと表情を輝かせ、


「きっと島の近くまできたんだと思います。島は年間を通してほとんど気候が変わらなくて、海が荒れることもありませんから」

「じゃあ、このままの流れで行けばいいんだな」

「はい、そうです。あの、わたし、ちょっと外へ出てもいいですか?」


 フローディアは浴槽のなかからちらり、金髪の毛先を指に絡ませ、正行を見上げる。


「そりゃ、いいけど」


 正行はぎこちない仕草でうなずくと、施錠されている扉を開けた。

 すぐ足下の海は、たしかにいままでに比べると色が薄く、空と同じような薄い青色で、指を浸してみれば、水温もぐっと高い。

 波も穏やかで、かすかに水面が動くのはアリス号が水を切って進むせいと思われるほど凪いだ海、見上げれば青空で、まっ白で甘い味がしそうな雲がいくつか浮かんでいる。

 正行が振り返れば、フローディアは身体に巻いていた布をすでに解いていて、何度やっても慣れぬらしい、正行はぽっと顔を赤らめながら視線を逸らし、フローディアを抱き上げた。


「すみません、いつも」

「いや、抱き上げるのはいいんだけど、できれば布はしていてほしいなあ」

「だって、邪魔なんですもん」


 唇を尖らせるフローディアも、眩しい太陽の光と温暖な海を見ればころりと機嫌をよくして、正行の腕から海へと放たれると、水中でくるくると回って見せた。

 長い金髪が水中で渦巻き、ぱっと水面に顔を出したフローディアの頬や額にぴたりと張りついて、向日葵のように明るい笑顔を彩っている。


「この海です、温かくて気持ちよくて」

「そうか、よかったな。あんまり船から離れないようにしろよ」

「はいっ」


 フローディアは再び海中へ、自由自在に波と遊ぶのを、甲板からも水夫が見ているらしい、野次のような喝采のような、野太い声が上がっている。

 実際、水中を舞い踊るフローディアは美しく、この上なく自由で、見ていてうらやましいような輝きに満ちているのはたしかであった。

 淡い水面を割って顔を出すところなど、人々が想像する世にも美しい人魚そのもので、それが恥じらいもなく笑いかけるのだから、見ているほうが妙に照れて、正行はさっと視線を外した。

 フローディアは船に寄り添って自由に泳ぎ回ったあと、正行の近くへ寄ってきて並走しながら、


「正行さんも、泳げばいいのに。温かくて気持ちいいですよ?」

「いやまあ、おれはいいよ」


 と正行、水中で見え隠れするフローディアの身体を見ぬようにしながら、


「そもそもおれ、泳げないし」

「えっ、そうなんですか」

「ま、本気出したら泳げるけどな」

「じゃあいま、本気出してみてください」

「いまは無理だよ。本気出すときじゃない」

「えー、じゃあ、島に着いたら、本気出してくれます?」

「どうかな。考えとくよ」

「正行さんといっしょに泳いでみたいんです、わたし。だから、きっと、約束ですよ」

「む……約束するのか」

「はい、約束です」


 フローディアは微笑み、ぱっと水中に消える。

 正行は腕組みして、ぽつり、


「船のなかで泳ぐ練習ってできるかなあ……」


 そして船はにわかに南国と化した海を渡り、フローディアの導きにより、やがて大洋にぽつりと浮かぶちいさな島を発見するのである。

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