人魚の島 3-1
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アリスの決定からわずか三日後、巨大帆船アリス号は堂々とその名を船体に刻み、雪の積もった陸地から冷たい波が打ち寄せる海へとゆっくりその巨体を移動させた。
重たい船体が着水すれば、ざっと波が桟橋を洗い、進水式に集まった人々の拍手喝采、しかし今日は式典ばかりではなく初出港を控えている日でもあるから、その陰では幾多の水夫たちが荷物を運び込み、帆に取り付いて最後の船体精査をしている。
晴天にも恵まれた朝のことである。
吹く朔風は多少強く、また嵐の気配を感じさせる冷たさを持つものの、波は比較的穏やかで、海鳥たちが上空を旋回し、さっそくマストの頂点にわが物顔で止まるものもあれば、桟橋の杭にすっと背筋を伸ばして立つものもある。
地上では除雪された港に人々が殺到し、目を瞠るばかりの立派な帆船に嘆息してはマストを見上げ、堂々と突き出された船首の鋭さに造形としての美しさを見いだしている。
詰めかけているのは主に城下町の人々で、祭り好きな気風があるのか、さっそく城下町の大通りには屋台が出て、子どもたちも雪のなかを走り回っては母親に叱られ、あちこちでざわめき、静かなはずの冬の港にはかつてない活気が満ちていた。
人々の目的は、無論大陸中を探してもそうはなかろうという立派な帆船もあるが、もうふたつ理由があって、ひとつは進水式で自らの名を冠した船を見送るアリス女王の姿を一目見んとするため、もうひとつは、ここ数日町中を虜にしている人魚を一瞬でも垣間見ようとするためである。
すでにこの度の竣工、ならびに出航は、人魚をその故郷に送り返すためのものと知れ渡っている。
必ず船の周囲には人魚が姿を見せるはずという野次馬根性、男どもは興味津々で、やはり女どもも伝説でしか聞いたことのない人魚は一見の価値ありとするらしく。
のちの記録によると、このとき、実に城下町の八割近く、一万人以上が港へ詰めかけていたらしいのである。
そこへ、どこからの情報か、
「アリス女王が現れた!」
とか、
「人魚が姿を見せたぞ!」
とか声が飛び交い、人混みの後方では前の人間の背中と後頭部以外なにも見えぬものだから、もはやどれが真実でどれが雑談なのかわかったものではなく、殺到する人々と発生する混乱で怪我人が出ないよう、多数の兵士がかり出されるほどであった。
アリスは城から兵士に守られつつ、港へ向かって、途中殺到する人混みに囲まれながらもなんとか船まで辿り着いて、美しいドレスの裾と黒髪を海風になびかせ、堂々たる笑顔と態度でもって船体に酒瓶を投げつけた。
パリンと景気のよい音で、破片が流星群のようにきらめき舞いながら海中へ沈めば、出港間近、高らかに笛がなって、装飾としてつけられていた色とりどりの布や紙が解かれる。
乗船予定の面々が続々と乗り込むのに、観客の視線もぐっと集中したところ、車輪をつけた浴槽がからからとやってきて、そこで手を振る人魚、フローディアである。
兵士ふたりに押されながら、浴槽にすっぽりと収まったフローディアが手を振りつつ群衆の正面を横切るさまの、なんと滑稽なこと。
あまりのことに詰めかけた野次馬もそれが人魚だと一瞬気づかなかったふうで、からからと車輪が音を立てて船のなかに消えたころ、ようやく自分たちが人魚を目撃したのだと理解し、船へどっと押しかけた。
それを兵士が必死に押え、アリスも安全のためにぐるりを兵士に守られるが、騒ぎを後目に正行、いまから自分が乗り込む巨大帆船アリス号を見上げて、となりに立つクレアがくすくす笑うのに、
「お口、開いてますよ、正行さま」
「ん、おお……」
と正行は自然と開いていた口を閉じ、しかしはるか頭上のマストを見上げているうちにまた口が開いて。
「それにしても、でかい船だなあ。おれも見たことねえや、こんな船」
「ほんと、立派な船ですね」
クレアは背筋を伸ばし、太ももあたりで手を重ね、いかにも侍女という雰囲気、太陽に目を細めて、薄い唇には笑みが浮かぶ。
「船出にはちょうどいいお天気ですね」
「ほんと、さい先はいいってことだな。おまけに船もこれだけ立派だし、なんたって名前がアリス号だから、沈むわけないよな」
「もちろんです。これだけの船ですから、きっと大嵐にも負けません」
「うん、おれもそう思う」
正行は長旅に備えた荷物を持ち、船のほうへ歩き出す。
クレアは女中らしい距離を保ってそれを見送り、そのまま数ヶ月の別れになるはずだったが、途中、正行がくると振り返ったものだから、クレアはびくりと驚いて、
「ど、どうかされました? なにか忘れ物でも」
とあたりを見回すが、正行は首を振って、
「いや、ちょっと言い忘れてたと思ってさ。おれが城を開けてるあいだ、アリスのこと、よろしく頼むぞ。まあ、二、三ヶ月で帰ってこられると思うから――そのころには、もう春か」
正行が目を細めるのに、クレアはむしろ正行がいなくなり、より一層冷たく静まり返ったセントラム城を思い浮かべ、泣くように顔をしかめた。
「おっ」
と正行、クレアの顔ににやりと笑い、
「泣くのか、泣き虫め」
「な、泣きませんっ」
クレアはさっと顔を赤らめて、
「早く行ってください、乗り遅れちゃいますよ!」
「へいへい――じゃあ、またな。行ってきます」
「い、行ってらっしゃいませ。正行さま」
「他人行儀だなあ」
正行は苦笑いしながら、ほかの荷物とともに船へ乗り込み、クレアはくるりと踵を返し、ふわりと広がったスカートの裾で溢れた涙を覆い隠した。
いくつもの木箱が積み込まれ、食料やアルコールに混ざっていくつかの宝も積み込まれるのは、現地での交流をやりやすくするためで。
すべての荷が積み終わると、いよいよ出航のとき、船内から甲高く笛が鳴れば、岸にずらりと並んだ楽器隊が一斉に音楽を鳴らす。
晴れた空に管弦様々響き渡り、アリス号は三本のマストに白い帆をぱっと広げ、鮮烈な輝きでもって滑るように離岸した。
緩やかな波に立ち向かう船の背に、人々の拍手と歓声、何本もの白い腕が振られ、音楽隊の音もかき消されるほど高らかに歌われるのは、未だに人々のあいだで歌い継がれている古きクロイツェル王国の国歌である。
やがて音楽隊も独自に送るのを諦め、ちらと目くばせ、口元に笑みを浮かべ、人々が歌うクロイツェル国歌に寄り添って伴奏を奏ではじめた。
その共演に海鳥の鳴き声、そして波音まで加わって、壮大でありながら身近な、処女航海を見送るにはふさわしい暖かな音楽で送られたアリス号は、順風満帆、一路人魚の故郷へ向かうのであった。
船体の下部、凪いだ水面のほぼ真横に、急ごしらえの扉がひとつ、用意されている。
そこは旅路のなかでフローディアの部屋となり、いまのところは真新しい木の香りが漂う清々しい部屋で、それに不釣り合いな車輪つき浴槽がひとつ、ぽつんと置いてあった。
船の上部へは直接階段が繋がっていて、そこを降りてきた正行に、浴槽のフローディアはぱしゃりと水を跳ね上げて、
「どうですか、もう充分岸からは離れましたか?」
「ああ、もう見えなくなったよ。帆船っていっても、結構早いもんなんだな」
「じゃあ、もう海に出ても大丈夫ですよね?」
と浴槽に縁に手をかけ、ひょいと顔を出すフローディア、外出を待ち望む子どものようで、正行は苦笑いしながらうなずく。
「いまは海も凪いでるから、船長さんが出ても大丈夫だって。あと、方向を指示してほしいってさ」
「じゃあ、あの、扉まで運んでくださいますか、正行さま」
「さまはいらないって」
正行は厳重に施錠された扉を開け、すぐ足下で波打つ水面を見て、あやうく船の揺れに落下しかける。
慌てて扉に掴まって事なきを得たものの、ぱっと後ろを振り返れば、
「か、隠さなきゃだめだって!」
「まだ隠さなきゃだめなんですか?」
フローディアがさっそく上半身に巻いていた布を解いているものだから、やはり慌てて視線を逸らす。
どうにも身体を布で覆うということが苦痛らしいフローディア、渋々布を身体に巻き直し、正行を待つ。
「水のなかでは、解いてもいいですよね?」
「まあ、濡れたらなにかと具合が悪いだろうし。でも、水から上がったときはちゃんと巻くように」
「うう、面倒です……」
「だめです、ちゃんと隠しなさい」
「うっ……わかりました。じゃあ、お願いします」
とフローディア、正行に向かって両腕を広げる。
正行がフローディアを抱き寄せるように身体を近づけると、フローディアは正行の首にきゅっと細い腕を回して、淡い海に香りがふわりと立ちのぼって、美しい金髪が正行の頬を撫でる。
薄い布一枚の下は、若々しい女の身体、しかし動揺してはだめだと正行は自分に言い聞かせ、浴槽のなかに溜まった湯に手を入れて、尾びれのあたりを抱いた。
そのままざばっと持ち上げれば、フローディアの身体からこぼれ落ちる水滴も美しく、落ちぬようにきゅっと正行に抱きつく仕草もいじらしい。
上半身を支える右腕には、しっとりと濡れた人間の柔肌、下半身を支える左腕には硬く滑らかな鱗の感触で。
「重たくありませんか?」
と耳元の囁き、正行は背筋がぞくりとして、
「だ、大丈夫、こう見えても鍛えてるから。ま、兵士にはぜんぜん及ばないんだけど」
「あ、ちょっと待ってください」
フローディアは片腕を解き、それでさっと身体に巻いた布を取り去った。
「ちょ、ちょっと!」
と慌てる正行、しかし両腕でフローディアの身体を抱き上げているから、隠すこともできず、きゅっと目を閉じるのが精いっぱいで。
白い布がさっと薄暗い部屋に舞い、真新しい床に落ちれば、正行はよたよたと扉に近づいて、床に跪くようにしてフローディアの身体を海に浸した。
とたん、腕からさっと重さが抜けて、目を開ければ、船も相当な速さで進んでいるはずだが、自由になったフローディアはそれ以上の速度で海中を泳ぎ、水面にぱっと顔を出す。
狭い浴槽から解放されたうれしさか、微笑む姿が愛らしい。
頭を振れば、しっとりと濡れた髪から水滴が散って、フローディアの周囲がきらきらと輝いた。
青く澄んだ水のなか、フローディアは目を細め、尾びれを緩やかに動かしながら、滑るように水中をゆく。
鳥が空を舞うように、あるいは文字どおり魚が海中をゆくように自由なフローディアに、正行は自分もうれしくなって微笑むが、水面に顔を出したフローディアがぶんぶんと手を振るのは諸事情で直視できぬらしい、さっと床に目をやりながらぎこちなく手を振り返している。
「方角は、これで合ってるか」
波の音に負けぬよう叫べば、フローディアも口に手を当てて、
「たぶん、もうすこし北西です。潮の流れがすこしちがいますから」
「ん、わかった。船長に伝えてくる。なんかあったら叫べよ、だれかは気づくはずだから」
「はい、大丈夫です!」
フローディアは再び海中へ、帆以外に動力を持たぬアリス号のまわりを、じゃれるように泳ぐ。
それを見ていると、やはり人魚なのだといまさらのように実感されて、正行はこの幻想が現実なのだと理解するまでにすこし時間を要した。
それからフローディアの導きを船長に伝えるため、梯子に手をかけ、船最上部の操舵室へと向かった。




