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八重鏡  作者: 藤崎悠貴
人魚の島
51/122

人魚の島 2-2

  *


 現在封鎖されているセントラム港の奥には、船の製造や修繕を請け負う造船所がある。

 夏ともなれば港を利用する大小様々な船が陸へ揚げられ、何人もの職人がそれに取り付いて船の汚れや船底に張りついた貝を落としたり、細かな異常箇所を直したり、場合によっては一から船を造り直すこともあり、朝から晩まで木槌の音が絶えぬ一帯である。

 しかし港が封鎖される冬は、さすがに職人たちもつかの間の休日を楽しんでいるかと思いきや、港が封鎖されてからも木槌の音は一向に止まぬ。

 なぜといって、造船所の前、白波を立てて荒れる海とのあいだに、だれも見たことがないような巨大帆船が作られているのである。

 全長百十メートル、巨大な三本のマストが青空に向かってぬっと突き出し、蜘蛛の巣のように張り巡らされた縄の威容、船を支える土台も相まって、すぐそばにあるセントラム城と並んでも決して劣らぬ巨大帆船なのだ。

 胴体部には整然と窓が並び、いまはすべての鎧戸が開かれ、真新しい木材の匂いがあたりに漂っている。

 そこへ取り付く船大工たち、それに食事を運んできた城下町の飯屋の小娘は、ぼかんと口を開けて巨大な船を見上げていた。


「すごい、おっきな船ですね――これ、名前はなんて言うんですか?」


 頬にそばかすを散らした娘が言うに、丸太のような腕を持つ船大工は自慢げに腕組みをして、


「はじめは、ガイラルディアって名前だったんだが、いまは別の名前で呼ばれてるよ。ま、正式な名前はまだついてねえんだが」

「なんて呼ばれてるんですか?」

「アリス号さ」

「はあ、女王さまの……」

「冬の荒波を越えていく船を造れって命令は、前の王さまから降りてきたんだがな。例の戦争のあと、アリスさまが視察にきてくださって、立派な船だと褒めてくれたのさ。それでまあ、前の王への義理もあるが、新しい女王へ捧げる船として作っちまおうと思ってな。これならどんな波にでも耐えられる、決して沈まねえ船さ」

「へえ……たしかに、ほんと、立派ですもんね」


 娘が見上げる先、ちょうど太陽が先頭マストの頂点にかかり、目を細める。


「これ、もう完成しているんですか?」

「ほとんど完成してる。あとは帆を入れて、進水式をやるだけだ」

「春まで待たないんですね」

「冬の嵐にも耐えうる船だぜ。わざわざ春を待つ必要もねえ。それにな、ここにずっと置いとくと雪が積もっていけねえ。冬の嵐を越えるために冬を海へ落とす機構はあるんだが、できれば晴れているうちに進水式をやっておきたいからな」

「そうですねえ、たしかに。これだけ大きな船の進水式なら、きっとお祭りのようになるんでしょうね」

「もちろんさ。いまのところ、大陸でいちばん立派な船じゃねえかな。時間をかけて作ったかいがあったってもんよ」


 船大工は冬の寒さに鼻をすすりながら、それでも誇りが色濃く見えて、娘もくすくすと笑う。

 その立派な船の様子はセントラム城内からも望むことができ、城の人間もいよいよ完成かとその偉容を見て驚いては、自らのことのようによろこんでいる。

 それはグレアム王国の女王アリスにしても同じことで、窓の向こうにそそり立つ気高き第一マストを眺め、薄く微笑めば、話の途中だったことを思い出して室内に向き直り、


「それでは、どうしても故郷の島へ帰りたいとおっしゃるのですね」


 人魚はこくんとうなずいて、アリスの顔をまっすぐ見るが、それがいまだに浴槽のなかなので、どうにも深刻さに欠ける。

 陸上で歩くことができぬ人魚は、移動のためにわざわざ改造された浴槽を城の女中に押してもらい、いまも豪華絢爛の謁見室へきているのだが、なにかにつけてちゃぷちゃぷと波打つのが妙に和んでしまって、アリスも終始笑顔のまま、世にも珍しい客をもてなしている。

 客のほうでは、やはり女王との対面とあって緊張している様子で、クレアに巻かれた布を終始気にしつつ、絢爛にして広大な謁見室に気もそぞろ。


「あ、あの、これだけよくしていただいて、申し訳ないのですけど……」

「そんなことは構わないのですけれど、せっかくの珍しいお客さまだから、もっといろいろなことをお話したかったと思ってしまいます」


 アリスはあえて王座には座らず、窓辺に立ってゆったりと外を眺めている。


「春を待たず、お帰りになられるのでしょうか?」


 と聞けば、得も言われぬ寂しげな瞳、人魚にも効果はあるものと見えて、浴槽のなかでばしゃと水が跳ね、


「そ、その、不愉快とか、そういうことじゃないんですっ。ただその、突然いなくなったりして、心配しているひともいるだろうし、いつまでもここでお世話になるわけにもいかないし」

「わたしたちのことは気にしなくてもよいのですけど、たしかに、心配している方はいらっしゃるかもしれませんものね」

「はあ……それで、あの」


 白い指が、よほど鬱陶しいのか、また身体に巻いた布を解こうとしているのを見て、すかさずクレアがだめですと耳打ち、人魚ははっと気づいて手を放し。


「わたしひとりで帰れないこともないと思うのですけど、その、海へ入ってしまえば潮の流れとか、だいたいの雰囲気で島の方角もわかるし、でも、あの、一日で泳ぎ着ければいいんですけど、そうじゃなかったら、夜のあいだはその、どこか安全な場所が必要で」

「たしかに、そうでしょうね。夜の海は危険ですものね」

「はい、それで、あの、こんなことを言うのも、おこがましいんですけれど」


 遠慮がちに人魚、アリスを上目遣いで、というのも浴槽に入った状態の人魚と、立っているアリスとでは自然にそうなるので。


「あの、ちいさな舟でも結構ですから、なにかその、いただくというか、お貸しいただければと……」

「舟を?」


 とアリス、首をかしげるのに、人魚は慌てて首を振る。


「あ、あの、だめならいいんです、わたしなんとかしますから!」

「でも、お困りなのでしょう?」


 アリスは指先をあごに当て、考え込むような仕草、それがまた、一国の女王という重責でありながらどこか幼く、輝くばかりに美しい。


「ちいさな舟なら、冬の荒い波に呑まれてしまうかもしれませんわ。それでは危険ですものね。なにかいい方法はないかしら」

「あの、ほんと、お気遣いなく」


 集中するアリスには、人魚の声も聞こえぬよう、アリスはゆっくりとあたりを見回し、窓の外をちらり、はっと手を打って、


「そうだわ、そうしましょう!」

「は、はい?」

「ちょうど、冬の荒波にも、嵐にも耐えられる立派な船ができたところなんです。それであなたの故郷まで送り届けさせてくださいな。処女航海にはぴったりだわ。ねえ、クレア」

「ぴ、ぴったりでしょうか」

「ぴったりよ。これがいいわ。あの船なら、きっとあなたも安全に故郷まで帰れるはずだもの」

「あ、あの?」


 と戸惑う人魚、そのうちにアリスのなかでは話が進んでいくらしく、


「そうなったら、だれかに同乗してもらったほうが安全かしら。ベンノさまはアントンさまと内政のお仕事があるし、ロベルトさまもお忙しいし――となると」


 きらとアリスの目がいたずらっぽい輝きに充ち満ちれば、ただちに呼び出されるのは国の便利屋ならぬ雲井正行、女中に連れられて謁見室までやってくれば、なぜ呼び出されたのかわからぬ顔、浴槽に入った人魚に軽く挨拶なんぞしながらアリスに向き直れば、


「新しいお仕事をお願いしても?」


 と切り出される。

 無論、女王の言うこと、一臣下たる正行が断れるはずもなく、


「そりゃ、いいけど。なんか問題でも起こったのか」

「いえ、問題というわけではないのですけど」


 アリスはいたずらっぽく人魚に目線を送り、人魚はわけもわからず正行を見上げて、正行もやはり首をかしげながらで。


「大切なお客さまを無事故郷へ送り届けるために、正行さまにも同行していただけないかしらと思って」

「大切なお客さま?」


 ここ最近で客といえばひとりしかいない。

 正行はちらと浴槽のなかの人魚に視線を落とし、まったく偶然だろうが、人魚はちょうど胸元で布を弄んでいるところ、ぱっと結び目が解けて花が散れば、思わず正行はまじまじと見入って、よっぽど経ったころ、思い出したようにそっぽを向いた。


「だ、だめですったら、外しちゃ!」


 とクレアが慌てて巻き直すのに、人魚は我知らずらしく、


「ご、ごめんない、つい邪魔になってしまって」

「とくに、男性がいるところではだめです。正行さまも、見ちゃいけませんからねっ」


 怨ずるようにクレア、正行は首を振って、


「み、見てないよ、ほんとに。いろいろ陰になって見えなかったから」

「むう、怪しいです……」

「怪しくないって。そ、それで、つまりおれはこの人魚さんをちゃんと故郷の島まで送り届ければいいわけだな」

「あの」


 と人魚、正行を見上げ、


「フローディアです、わたし」

「じゃあ、フローディアさんを故郷の島まで送り届けるのが仕事か。例の船で行くのか?」

「はい。処女航海も兼ねて、お願いしようかと」

「いまは晴れてるけど、話だとまた何日か以内に吹雪がくるらしいぞ。せめて春まで待てばいいのに――って、事故で流れ着いたんだもんな。そういうわけにもいかないか」


 人魚、フローディアはちらと目を伏せて、


「すみません、無理を言って」

「いや、まあ、大丈夫さ」


 と正行、頭を掻きながら、


「あの船は冬の嵐も乗り越えられるって話だし」

「もしかしたら危険な旅になるかもしれませんけど、大丈夫ですか?」


 アリスの目にもかすかに不安の色が浮かんで、窓辺に残した指先が切なく。

 正行のほうは別段不安もない顔、ただ宙に目をやって、


「何日かかるかわからないけど、一月やそこらでは帰ってこられないだろうな。そのあいだ、城のほうは大丈夫か?」

「ベンノさまやアントンさまもいらっしゃいますし、いまのところ火急の問題もありませんから」

「そうか――考えてみりゃ、戦争がなきゃおれは仕事もないわけだしな」

「そんなことありませんわ。今回も、正行さまにしかできないお仕事ですもの。無事にお客さまを送り届けて、もし可能であれば、そちらの方々と交流を結んでほしいのです。規模の如何はありますが、おそらく大陸のどの国も接したことがない人々ですから、新しい交易先としてはわが国が独占できるはずです。それには平和的な交流が前提になりますから、正行さまが適任ですわ」


 正行はふむんとうなずいて、


「そういうことなら、おれが引き受けよう。出発はいつに?」

「嵐がくるまでに進水式と出航を終えておきたいのですけど」

「じゃあ、船大工のほうにもおれから伝えとくよ。それから航海士やらなんやらの準備もあるし。忙しくなりそうだな」

「あ、あの」


 とフローディアは胸の前できゅっと両手を重ね、正行を不安げに見るのに、


「なんだか大事になってしまってごめんなさい。もとはといえば、勝手に流れ着いたわたしが悪いのに」

「こういう問題に、いいも悪いもないだろ」


 正行は腕組みして、


「それに、グレアム王国は客にやさしい国として有名なんだ。なにがあっても無事に故郷まで送り届けるから、心配するなって」

「はあ……」

「単なる慈善事業というわけでもありませんし」


 とアリスも正行のとなりに立って、にこりと微笑む。


「交易や処女航海、新しい海路の開発も兼ねてのことですから、お気遣いなく」

「そうですか、それじゃあ――」


 フローディア、浴槽のなかからアリスと正行を見比べて、こくんと首をかしげれば、


「あの、おふたりは恋人なのでしょうか?」

「は?」


 とふたり、思わず顔を見合わせて。

 それでなにか気まずいかといえば、そんなこともなく、明るく打ち笑って、


「恋人じゃないよ。こっちが女王で、おれはただの臣下だから。ま、なんかいろいろあって、多少上下関係が複雑なんだけど」

「でも、そんなふうに間違われるのははじめてですね?」


 アリスはどこかそれをよろこぶような顔色で、一方で正行は困り顔、


「なんだか申し訳ないな、おれみたいなのと間違われるのも。まあ、城のなかでアリスと同年代の男っていったらおれしかいないしな」

「申し訳ないなんてこともありませんけれど」


 と笑い合うふたりを見れば、やはりそれが恋人ふうでもあって、フローディアはいよいよ首をかしげ、その後ろ、クレアはなんとなく照れたように顔を背けていた。

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