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八重鏡  作者: 藤崎悠貴
人魚の島
50/122

人魚の島 2-1

  2


 人魚の生態については、大陸にもいくつか文献が残っている。

 どれも古い時代のもの、まだ大陸周辺の海域にも人魚が住んでいたとされる時代のもので、精密さに欠けるところはあっても、ないよりはいくらか役に立つ。

 その名も人魚についてという手垢まみれの古く分厚い本、めくる頁も茶色く変色して、かさりと乾いた音に古書の匂いが付随する。

 言葉は話せても、未だに読み書きは不便な正行、ベンノが読むところによれば、人魚の生態とは以下のようなものらしく。

 曰く、人魚とは呪われた人間のことである。

 はるか昔、まだ神がこの空に住み、幼い人間たちを見守っていたころ、ある町にひとりの男がいた。

 その男は仕事もせず、町のために働くこともなく、ただ放蕩にふけって再三の注意にも耳を貸さなかったため、神は罰として男の下半身を魚に変えてしまった。

 それ以降、男は半身を海に沈め、もう半身を海上に出したまま生活しなければならなくなり、人魚とはすなわちその男の子孫であり、現在は南の海の一部に――、


「そういうのはいいんだって」


 と横から正行、読み上げるベンノに嘴を挟んで、


「伝説的な話はいいから、もっとちゃんとした、参考になるやつだよ」

「わかっておる。まあ、そう焦るな」


 ベンノはぺらぺらと頁をめくって、指を這わせながら薄く滲んだような文字に目を凝らす。

 ――人魚はどうやら、常に半身を海に浸けていなければならぬ、というわけではないらしい。

 陸上で暮らすこともできるが、いかんせん足が尾びれに変質しているので、歩くことままならず、椅子に座ることすらできぬ身体、仕方なく海に暮らすのらしいのだ。

 人魚は人間に比べるとはるかに強靭な心肺機能を持ち、一説によると半日ほどは海中へ潜っていられるというが、いずれ空気が必要になれば海上に浮上せざるを得ず、陸上の暮らしに不適合といえど海中の暮らしに適合しているとも言い難く、いやはや、人魚とは不思議な、矛盾をはらんだ存在である。


「……つまり、よくわかんねえってことか?」

「そうらしいの」


 呆れたような正行に、ベンノもほかに手がかりがないかと頁をめくるが、本のほとんどは人魚伝説に頁を割いていて、実際的な生態はわからぬまま。

 ほかになにか、とベンノの書斎、ふたりして本を探るところに兵士がやってきて、


「例の人魚が目を覚ましたようであります」

「なに、起きたか」


 とふたり、顔を見合わせ、あたふたと部屋を出てゆく。

 ベンノの部屋は書斎を伴うので、地下近くの大きな部屋を割り当てられ、そこから巨大回廊を通って謁見室の扉を素通りし、その脇から細い廊下へ、最短の道のりで普段は王族しか使えぬ浴室へ飛び込めば、白く磨き上げられた浴槽のなか、豊かな金髪を水面に浮かべ、その美しい尾びれをちゃぷちゃぷと揺らす人魚の姿。

 人魚は状況を把握していないような、きょとんと呆然、人間の上半身を隠そうともせず飛び込んだふたりの男を見つめて首をかしげれば、すかさず傍らのクレアがふたりの前に立ちはだかって、


「だ、だめです、入ってきちゃ!」

「す、すまん、慌ててたもんで」


 ふたりはすごすごと引き下がり、浴室の前、脇腹を小突きあいながら、


「入っちゃまずいのは当たり前だろ。かの大学者ベンノが、なにしてんだよ」

「お主こそ、そう思うなら止めればよかろうに」

「でも、大丈夫そうだったな」

「うむ。人魚は身体が丈夫というからの」

「そうなのか? おれは聞いたことないぞ」

「大陸の北ではほとんど言わんが、大陸の南では人魚のように丈夫という言い回しがあるのだ」

「へえ――じゃあ、結構ありふれたもんなのか、人魚って」

「かつては大陸周囲の海域にも住んでいたというが、すくなくとも姿を見たのはわしもはじめてよ。ただの伝説か、でなければ絶滅したものと思っておったが、まさかこんな形で会うとは」

「おれも水死体だと思ったよ」


 小声でぼそぼそと話し合ううち、浴室の扉が開いて、ほんのりと赤い顔のクレアが顔を出す。


「もう入っても結構です」


 ふたりが、今度は遠慮がちに覗き込めば、白い陶器の浴槽に女がいることは変わりないが、その上半身には白い布が巻かれ、あらわにはなっていない。

 ほっと息をつくふたり、当の人魚は変わらずきょとんとした顔で。


「あの、どちらか、わたしを助けてくださった方でしょうか」


 と存外にやさしげな声と言葉に、人魚も言葉もしゃべるのかと当然の驚き、おずおずと正行はうなずいて、


「見つけたのは一応おれだけど、助けたのはそのへんにいた兵士とかだから」

「そうですか。でも、ありがとうございました」


 人魚はゆっくりと頭を下げ、正行の目線はそれよりも浴槽の半分ほどに溜められた湯のなか、たしかに作り物ではなくゆったりと動いている尾びれに向けられる。


「わしはベンノという者だが」


 とベンノはフードをとり、禿頭を撫でながら、


「おまえさんは正真正銘の人魚ということでよいのかね?」

「正真正銘?」


 人魚は小首をかしげ、


「偽物がいるのですか?」

「いや、そういうわけではないが――この大陸では、人魚は長らく目撃されておらんかったのでな」

「大陸――じゃあ、ここは大陸なんですね」


 人魚は落ち着いた表情の下に驚きを広げ、長いまつげがゆったりと瞬きする。


「ここがどこだか知らんということは、やはり大陸を目指して辿り着いたのではないのだな」

「はい、偶然に」

「ううむ、なぜ大陸まで流れ着いたのかはわからんが、ともかく、体調はもう平気なのかね。雪に埋もれておったということは、相当長い時間あの冷たい海に浸かり、雪の下敷きになっておったということになるが」

「はあ、身体はとくに」


 と人魚、細い両腕を上げ、尾びれをゆったりと動かした。

 それからちいさく笑って、


「人魚は身体が丈夫ですから」

「うむ、そうらしいの。人間ならとっくに死んでおるところだが」

「そうですか、ここは大陸なのですか――」


 人魚はふと寂しそうな目、正行は見逃さず、


「きみはどこからきたんだ。遭難でもしたのか」

「遭難といえば、そうかもしれません」


 悲しげに目を伏せれば、整った容姿も相まって、なにやらにわかに悲劇の雰囲気で。

 あまり根掘り葉掘りというのも気が退けるし、なにより病み上がり、とベンノと正行は顔を見合わせ、一度退散するということで同意したが、それを呼び止めるのは当の人魚で、


「あの、ここはお城みたいですけど、なんという国なのですか」

「ここはグレアム王国、セントラム城だよ」


 と正行、すこしぎこちなく答えるのは、ここを占領した記憶が蘇るせいかもしれぬ。


「大陸の北端にある。きみは、大陸じゃないところからきたんだろう」

「はい、生まれ育ったのはちいさな島ですから――ここには、ほかには人魚はいないのですか」

「ここ二百年ほどは、目撃されたという話もないかの」


 とベンノが答えれば、人魚はようやく不安そうに顔をしかめた。


「まあ、ここにおる分には衣食住の心配もない。気を楽にして、身体を休めるとよい。そのあと故郷へ帰るか、ほかの道を選ぶか考えればよいこと」

「故郷へ帰るといっても、わたしの住んでいた島は大陸からずっと遠いところなんです。ひとりで帰るなんて、とても」

「ふむ、そうか。では、こちらの船かなにかで送り届けよう。さすれば問題あるまい」

「そこまでしていただいてもよいのでしょうか」

「客人にはできうる限りのもてなしを。これがグレアム王国の基本よ」

「そうそう」


 と正行も横から割り込んで、


「おれももとはといえば迷子みたいなもんだったけど、ここでよくしてもらったし。帰るにしても留まるにしても、心配はいらないと思うよ」

「そうですか――じゃあ、甘えさせてもらおうかな」


 人魚はようやく顔をほころばせ、しっとりと百合のように笑う。

 それからふと、自分の上半身に巻きつけられたタオルを見下ろし、その胸元にきゅっと指を引っかけながら、


「この布は、ここに巻いていなくちゃいけないんですか?」

「と、取っちゃだめですって!」


 とクレアが慌てて緩んだのを巻き直し、


「大陸では、そういうところは隠さなくちゃいけないんです」

「はあ、そうなんですか。変わってるんですね、大陸の決まりって」

「大陸だけの決まりじゃないと思うけど――」


 正行はぽつり、また似たようなことが起こらぬうちにと、ベンノともども退散する。

 すると浴室の外はいつの間にか文官武官の人だかり、なにかといえば、みな伝説でしか聞いたことがない人魚に興味津々なので。


「ベンノさま、人魚とはどのような形なのですか」

「人間の言葉を解するのですか」

「いったいどうしてこんなところに」


 と言葉がさみだれ、ベンノは鬱陶しそうに手を振って、


「ええい、お主らが心配することではないわ。時期がくれば発表もされよう、それまで人魚のことは気にせず仕事に戻れ」

「ちぇ、自分たちだけ人魚を見て、ずるいよなあ」


 ぶつぶつ、恨み言が廊下に反響し、城の人間たちは後ろ髪を引かれるように去っていく。

 ベンノはため息、正行は苦笑いで、


「まあ、無理もないよ。なんせ人魚だもんな。この世界でも、やっぱり人魚っていったら大変なもんなんだな」

「正行殿の故郷にも、人魚はおるのか?」


 とベンノの目に好奇心がちらり、そういうとき、ベンノの表情は驚くほど無邪気で、老獪さがさっと消え失せる。


「いや、おれの世界には人魚なんていなかったよ。ただ、そういう物語があるんだ。どこだったかな、どっかの国に銅像もあるんだけど」

「ほう、やはり人魚伝説はあるのか。まったく別の世界に似たような伝説があるとは、不思議なものよの」

「そっちは本物の人魚がいての伝説だろ。こっちはたぶん、最初から作り話だからな。でもたしかに、なんか共通してることがあるのかもなあ」


 ふたりは肩を並べてゆっくりと廊下を歩き、それよりも早く、おそらく北の海から吹きつける冷たい風のごとき速さで人魚のうわさは城中を駆け巡り、同時に城下町でも人魚発見の報は鳴らされて、気づけばセントラム城は人魚の話題で持ちきりである。

 城の人間は、一目人魚を見てみようと意味もなく浴室前の廊下をうろついたり、海を眺めたり。

 城下町ではさっそく人魚にちなんだという、魚の塩漬けを半分に切って、そのなかに野菜や米を詰めた料理が振る舞われ、おもしろ半分で食べる人間も続出し、町の飯屋は行列ができるほどの盛況ぶりで。

 その日の夜には人魚の像なるものまで作られて、セントラムはにわかに人魚の町へと姿を変えた。

 冬の、ただ耐え忍ぶだけの季節にそうして彩りが加えられ、城内でも城下町でも、ちらとでも人魚を見たという人間は英雄のような扱い、あちらこちらの酒盛りに引っ張りだこで、そういうときは決まってだれかが奢るものだから、本人もいい気分、自慢げに話すのに、


「人魚ってのはな、いわば絶世の美女よ。おれが見たのは港から城へ運ばれる途中で、目は覚ましていなかったが、それでも美しいのがひしひしと伝わって、いや、正直に言えばおれなんぞびっくりしてその場から動けなくなっちまったくらいで。上半身は普通の女だが、下半身はといえば、見たこともねえような色の鱗でよ。碧く輝いて、そりゃあもう美しかったさ」

「髪の色は?」

「金髪よ。腰あたりまであったかな」

「年は?」

「さて、十八、九ってとこじゃねえかな。いや、もちろん、ほんとの年はわからねえが、人間でいえばそれくらいに見えた」

「言葉はしゃべるのか?」

「人魚といって、魚じゃねえんだ、そりゃ人間の言葉もしゃべれように」


 ひとつの机を囲む観衆、おおとどよめいて、机に座る赤ら顔の中年男は自慢げに杯を傾ける。


「言葉をしゃべるのを聞いたのか」

「どんな声だった?」

「いや、この耳で聞いたわけじゃねえが――」


 と多少鼻白んだように言いよどむのに、周囲の眼差しは期待に爛々、中年男はぐっと喉を鳴らし、豪快に杯を空ければ、気分も大きくなるというもの。


「そうだな、喩えるなら……ずっとずっと遠くからやってきた北風が、最後の力で店先につり下げられた鈴を鳴らしたような声か」

「おお、詩的だ!」

「ともかく、なるほど、と思うような声さ。人魚ってのはみんなあんなもんなのかね、それともあれが特別美しい人魚なのか、まあ、一度くらいは見ねえことには死ぬに死ねねえ美しさだったよ」

「よく言うよ」


 と酒場のカウンターで、女将が皿を磨きながらぽつりと、


「あんた、兵隊さんが人魚を運ぶのをぼんやり見てただけじゃないか。それも、なにを言うのかと思えば、にたにたいやらしく笑ってさ、裸だ裸だって」


 これには客たちも驚愕で、


「人魚は裸だったのか?」

「お、おうよ」


 と男は真実を暴露されて恥ずかしげな顔で。


「服なんぞ着ているものかよ。人間じゃねえんだぜ」

「ど、どんな身体だった?」

「そりゃあもう、一発で魅了されちまうくらい――い、いや、まあ、それはいいじゃねえか」


 カウンター奥からの視線を感じ、男がさっと意見を翻せば、下世話な観衆は不満げだが、男が口を噤むのなら仕方ない、その硬い口をこじ開けようと、さらに酒を追加して。

 そんなような町中に、城内で浴槽に溜められた温い湯で人魚がなにを思うかといえば、これはこれでのんきなもの、せっかくクレアが巻いてやった毛足が長くやわらかな布もはだけて、まったく無防備な姿、浴槽の縁に頭を預け、くうくうと寝息を立てている。

 ひとまず成りゆきで世話係をすることになったクレア、浴槽のすぐそばに腰を下ろし、ひとの気も知らないで眠りこけるのんきな人魚にため息ひとつ。


「でも、これが本物の人魚さんなんだもんなあ」


 独りごちれば、クレアは浴槽の縁に頬杖で、じっと人魚の身体を見下ろす。

 はだけた布は水面を漂い、その身体を覆い隠すものは美しい金髪だけ、女性的な魅力に富んだ裸体を眺めているうち、クレアは同性ながらぽっと顔を赤くする。

 しかし上半身はそのように魅力的でも、下半身は奇妙で、ひとつひとつが手のひらほどの大きさの鱗がびっしりと覆い、炎の照明にきらきらと輝いている。

 人間でいうところの足先、尾びれの先端は、いくつかの硬い骨のあいだに半透明の膜が張られているような形状、それが光の加減で七色に輝き、水を掻いて進むには便利なのだろうが、見た目にも美しい。

 下半身はまるで巨大な魚の剥製、ちょうど腰のあたりでやわい肌と硬い鱗の境になっているが、緩やかに変質しているというよりはなにかの境界線で分断されているようで、見れば見るほど不思議でありながら、全体として眺めれば奇妙に調和し、長い金髪に白い肌、美しい鱗にぴんと立った尾びれまで、ひとつの芸術品のようにも思われる。

 これが人魚か、とクレアは改めて思い、恐る恐る、湯のなかに手を入れ、鱗のひとつに触れてみると、やはり硬く、つるつるとした感触で。


「すごいなあ――海には、こんな不思議なひとたちがまだたくさんいるのかな」


 夢見る少女は両手であごを支え、いまだ前人未踏の世界、夢のようにきらめく世界を想像し、うっとりと目尻を下げるのだった。

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