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八重鏡  作者: 藤崎悠貴
流星落ちるはかの国に
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流星落ちるはかの国に 2-2

  *


 王の容体回復せり、と発表したものの、実体、いまだ回復といえるほどではない。

 一日に数時間、かろうじてベッドで上体を起こせる程度だが、それにしても多少病状がやわらかだことは間違いなく、あるいはこのまま、という期待さえ周囲は持っているが、王本人はどうやら一過性の回復と理解しているよう、いまのうちに必要な仕事をしておかねばと精を出し、今日もベッドの周囲には大臣以下必要な顔ぶれがずらりと揃う。

 そのなかに、まだあどけない女の顔がひとつ、王女にして時期の国王たるアリスである。

 アリスは一日の大半を王の寝室で過ごすため、ベッドの傍らには赤い肘掛け椅子、小柄なアリスには大きすぎるが、いずれさらに大きな王座に就かねばならぬと思えば、片方の肘掛けにぐいともたれかかる様子はちと頼りない。


「とにかく、有事になれば第一に城門を閉じ、民衆を守らねばならぬ」


 王はいくらか覇気の戻った顔、家来の目をひとつひとつ見てゆくのに、目を伏せる気弱なものがちらほら、それに嘆息すれば、王のそばに立つ痩せぎすの男がぐっと身を乗り出し、


「すでに対策は講じてございます。必要な食料は城の食料庫へ運び込んでおりますから、半年は籠城可能と存じます。心許ない食料ではございますが、なにしろ主要な交易国であるノウム王国との戦争、すでにさきから食料の交易は止められておりますゆえ」

「ふむ、そうか――武器のほうは」

「武器なら、わが国の特産、余るほどございますが、いかんせん担い手がすくなく――」

「アントン殿、遮って申し訳ないが」


 とひときわ容貌魁偉の男が割り込むのに、痩せぎすの男、アントンは露骨に眉をひそめ、ひらひらと青白い手を振った。


「アントン殿の報告と、わたしが理解している内容が異なるもので」


 男が慇懃に頭を下げれば、アントンはだれにも気づかれずちいさく鼻を鳴らす。


「なにがちがうというのだ、ロベルト」


 と王が問えば、男、まっすぐに王を見つめて、


「食料の件であります。衛兵はすべてわたしの指揮下、食料の調達並びに食料庫への運び入れも部下の仕事、上がってきた報告によれば、多く見積もっても一月程度の食料であろうと」

「ずいぶん開きがあるものだ。どちらが正しい?」


 王はアントンとロベルトを交互に見て、その深く物静かな目には敵わぬらしい、痩せぎすのアントンはちいさく首を振り、


「どちらが間違いということでもございませぬ。要は、考え方のちがいで」

「考え方で食料が増減するとはつゆ知らぬが」

「ご説明させていただくなら」


 とロベルトが引き取り、


「部下の報告は、現在城内にいるすべての人間に食料を分配したときの日数であります。アントン殿がおっしゃられる半年というのは、城内の一部に分け与えたときのものかと」

「一部、というのは?」


 王がじろりとアントンを見れば、旗色悪しと察して、


「申し訳ございません、勝手な心づもりをしておりました。わたくしが考えるに、現在城内、というのは城下町も含みすべての民衆に食料を分け与えては籠城戦には耐えられぬ。こちらが先に疲弊して、向こうが攻め入るころには餓死者も続出することでしょう。ですから、はじめから籠城戦に必要な人材を抜粋し、彼らにだけ食料を与えるという方法をとるほかないと思うものですから」


 身振り手振りで熱っぽく演説するに、場の雰囲気は動かぬ。

 王はじっとアントンを見つめ、アントンは額に汗しながら細長い目をぎょろつかせ、味方を探してもだれひとり視線を合わさぬ。

 なかにロベルトひとり、アントンの目をしっかり見返すものの、およそ好意的とは言い難い、頑として動かぬ茶色い瞳なのだ。

 王は疲れたように息をつき、はっとアリスが手を握れば、それをやわに握り返して、


「アントンよ、おまえの意見では、戦闘に役立たぬものは城内から追い出せというのだな。果たして彼らの家々、その記憶ごと枕にするというならよいが、追い出された彼らはどこへゆく。まずもって狙われるのがこの城だろうが、やがて戦渦は国中へ広がり、すがっては追われ、またすがっては追われ――そのような苦行をわが国民に課すわけにはいかぬ」

「――おっしゃるとおりでございます」


 とアントンは深く頭を下げ、うつむいた顔、薄い唇をぎゅうと噛みしめている。


「出過ぎた考えをお許しください」

「ロベルトよ」


 王の視線がさっと移れば、場の全員がロベルトを見て、なお気圧されぬ強き心の青年である。


「一月保たぬというのは事実か」

「はい。確保できる分は他国からも取り寄せますが、あまりに期間が短すぎます。森へ入れば獣はいくらでもおりましょう。それを見越して連中も、しっかりと城壁を取り囲みましょうから、籠城以降は葉野菜一枚手に入らぬと覚悟するがよろしいかと」

「たった一月、籠城というにもあまりに短きことよ」


 王の声がすこしずつ弱まっていくのを、全員が聞いている。

 なお指示を出そうとするその姿勢に、大の男が堪えきれず落涙するのを、アリスは間近で幾度も見ているのだ。

 これが王である、これが国である。

 まだ若いアリスに、その涙はあまりに重きものである。

 王が深く息をつき、重たくのし掛かる目蓋の奥、ちらとほかの家来を見やって、


「民衆の、彼らの様子はどうだ」


 と吐き出すように聞けば、すかさず、


「すべて伝えましたが、一見普段と変わらぬよう、衛兵に言わせれば、城門を開いてから出ていく民はひとりもおらぬと」

「そうか」


 王が口元に薄い笑みを浮かべれば、座もどこかほっとしたような空気、


「しかし、彼らはどちらなのかな。城を枕に死にゆくつもりか、敗北などつゆも信じておらぬのか」

「兵士一同は、すくなくとも死ぬつもりでおります」


 とロベルトが胸を張る。

 王は窘めるような目で、


「死に急ぐな。死なず済むなら、それがよい」

「はっ――しかし国に仕える身として、国滅び去るならわが身まで、それが至上の願いであります」

「国滅びるなど、縁起でもない」


 アントンが小声で言うのに、王はちらと後目で、


「各々、思うことはあろう。国というのは人間の集合体、いがみ合いもすれば、肩を抱き合うこともある。いまはともかく、ひとつの目的に手を組んでほしいのだ。頼む」

「そ、そのようなこと、国王さま、おっしゃっては」

「滅びゆく国の国王よ」


 と王は自嘲のような笑み、


「いまさらなにを守ろうか。国ひとつ守れるなら、ほかのものはいらぬ。おれの命ひとつで解決する問題なら話は早いのだが」


 目蓋を閉じて、細く息をつけば、いかにも病人という体、しかしベッドに横たわるその身体からはすさまじいまでの覇気が放たれ、見守る一同は気圧されたように押し黙ってびりびりと感じ入る様子。

 まずアントンが目を逸らし、ついでロベルトが頭を下げれば、呪縛が解けたよう、慌ててほかも会釈する。


「では、わたくしはこれで」


 とアントンはアリスにも一礼し、座を去ろうとするところ、外の廊下を気遣いが感じられぬ足音、


「だれだ、いったい」


 と一同眉をひそめれば、弾かれたように扉が開いて、座がどよめく。


「お、王さま、国王さま」


 飛び込んできたのは、黒いローブの小柄な老人、集結している国の重役には目もくれずベッドへ駆け寄れば、寝入っていたような王も薄く目を開け、


「おお、ベンノ、ようやく見舞いにきたと思えば、なんだその慌てようは」


 旧友でも見たように王は微笑み、


「薄い髪が、余計に乱れて見苦しい」


 とか細く言う。

 駆け込んできた老人、ベンノははっと自分の頭に手をやり、汗ばんでいるのを確認してすこし眉をひそめたあと、ふるふると頭を振るに、


「わしの髪のことなどどうでもよいのですよ、それよりも、大変なのです。なんと、連中、もう兵をして攻めてきておるようなのです」

「なに?」


 王がぐいと目蓋を開ければ、ほかも低く不安げにどよめく。

 いまさらわかったかとベンノはあたりをぐるりと見回すのに、ようやくアリスに気づいた様子、慌てて頭を下げたが、アリスも身を乗り出して、


「本当ですか、ベンノさま――」

「本当ですとも、うそでありますか」

「しかし、報告はまだ上がっておりませぬが」


 ロベルトが言うに、ベンノははるか年少の将軍をちらと見て、


「偵察は失敗だ、おそらく気づかれて捉えられておるか、すでに亡き者であろう」

「なぜ城から出てもいないあなたさまにそのようなことがわかるので?」


 と敵意のあるアントンの声、ベンノは気にせず、


「わしは見ておらんが、その目でしかと見たものがある。いや、議論のひまはないのだ。早急に軍を立てねば、籠城どころの騒ぎではないぞ」

「しかしいま誤った情報に踊らされてよいときでもあるまい」


 王はぽつりと、ベンノを見る。


「おれはよくとも、ほかが納得せぬだろう。理由を説明してくれ、ベンノよ」

「はあ、では」


 とベンノは咳払いひとつ、勢揃いの面々を見回して、


「どれほど前か、城内に不審者がおるということでひとり捕まってな、いまも牢に入れてあるが、どうやら変わった服を着ていて言葉が通じん、これは、というのでわしが呼ばれれば案の定、異世界からの旅人であった。まだ若い男だが、彼が言うに、北東に軍勢の影ありと」

「北東――やはり、ノウムの軍勢か」


 とだれかが呟くのにベンノはうなずき、


「おそらくはそうであろうが、詳しいことはわからん。ともかく、いますぐ城門を閉ざしたほうがよい」

「ベンノさま、あなたがたぐいまれなる学者だということは充分に存じておりますが」


 とまたもしてもアントがにたりと笑いながら、


「多少、軽躁の色がありますな。なにゆえそのような若者を信用なさるので? 妄言ならまだよいとして、あるいはノウムの手先やもしれぬというのに」

「軽躁とは、聞き捨てならんな」

「よせ、よせ」


 王はわずらわしげに手を振って、


「ベンノよ、おまえはその若者の言が信に足りると思うのだな」

「言葉も通じず、国の事情も知らぬもの、あえて虚言するわけもなし、必ずや真実であろうと信ずるところでございます」


 年老いた目が、それよりもいくらかは若い王を見つめて、一歩たりとも退かぬ色。

 王はちいさくうなずき、


「ただちに城門を閉めよ。これより籠城、一切の出入りは禁ずるが、逃げたいというものあれば通してやれ。戦闘が激しくなればそれも叶わぬだろうが、無益な犠牲はひとりでもすくないほうがよい」

「はっ」


 大臣以下が慌ただしく寝室を去るなら、アントンだけは粘着的な視線をベンノに向け、その脇を抜けるとき、わざとらしく目礼して見せるのに、ベンノははばかりもせず鼻を鳴らす。

 ずらずらと行列出てゆけば、すぐ外の廊下が騒がしくなり、怒号に似た命令があちこちへ飛ぶ、なかでもロベルトの声はよく通り、寝室までも耳元でしゃべるかのように聞こえていた。

 ベンノは大臣諸君とは一線を画す存在、どうもいっしょに出ていくのは気遣いがあるようで、ひとりベッドの脇に残っていたところ、王がちらと見て、


「ベンノよ、おまえは早々に逃げろ」

「無体をおっしゃいます」


 ベンノは皺の濃い顔に親しげな笑みで、


「たしかにわしはこの国の者ではない、流れ者でございまするが、もう何十年と住み着いて、すっかり城をわが家にと寄生しておるのです。いまさら逃げ出してどこへゆけと」

「どこでもよいのだ、この国でなければ」

「なに、このような年寄りは、いっそのことの国とともに滅びたほうがよい」

「なにをおっしゃりますやら」


 王の手を握る姫、長い黒髪を泳がせるように首振りして、


「ベンノさまのような学者さまは古今東西に類を見ません。幼いわたしでも存じているほどですから、だれもがあなたさまを尊敬し、その才覚を求めております」

「口のうまいのは父に似ましたかな」


 とベンノは孫のようなアリスに笑って、ふとまじめ顔、ベッドの上を老いた指先つつと撫でながら、


「わしが真にすぐれた人間たれば、この国を救うこともむずかしからんことでしょう。どうも、いままで禄を食んできた分、なにも返せぬままで赤面の至りにございまするが」

「言うな」


 王は目を閉じ、


「わがグレアム国、もとはただの田舎貴族、どうやら国の形をとれたのも、おまえの知謀があったおかげよ。その頭脳、失えば人類すべての損失だ。逃げて、さらによい国の助けとなれ。それが恩を返すということと思えば苦もないだろう」

「お心遣い、痛み入りますが――あけすけに言えば、わしはこの国が好きなのですよ」


 ベンノは禿げた頭をちらと掻き、


「なんだかんだと騒がしいが平和で、よい王がおり、美しい姫がおる。これ以上の国もありますまい。いと短き人生、どこで終えるかと聞かれれば、ここがよいのです」


 そうまで言われては、王も言葉がない、アリスはそっと顔を背けて目元を拭うに、堰きあえぬ涙がひとしずくふたしずく。


「しかし、その異世界からの旅人という若者、ずいぶんと運の悪い男のようだ」


 冗談めかして王が言う。


「なにもこのようなときでなければ歓迎もするだろうが、いまは構っている余裕もない」

「百年に一度あるかないかという珍事も、命がけの戦いを前にすればそんなもの、なかなかよい若者にも見えますが」

「無事に生きのびてほしいものだ。ベンノよ、ここに骨を埋めるつもりなら、その青年うまく逃げられるよう手助けしてやってくれ」

「承知いたしました。わしもまた死の間際にあって学ぶ機会を与えられ、さてどうやらわしの人生は常に学ぶことにあるらしい」

「おまえほどものを学んだ男も珍しいが」


 と笑えば、床に臥せってから久しく見ぬ心底から楽しげな笑みなのである。

 王はそのまま休むといって、ベンノは寝室から出て、ローブの黒い裾をひらひら、さて地下牢に戻って不運なる異邦人の相手をしてやろうと階段を降りてゆけば、後ろから軽い足音と呼び止める声がする。

 階段半ば、振り返れば、白いドレスの裾をなびかせて追ってくる美しい少女。


「ベンノさま、お待ちください」

「はて、どうかしましたかな」


 とベンノが数段上ろうとするのを、アリスのほうが駆け下りて、並び歩く狭い廊下、籠城に備えよと号令で、女中からなにから騒がしく出入りしている。

 アリスは白い靴の先を揃えて、言おうか言うまいか悩むよう、白い指をしっかり組み合わせて憂う目元も美しい。

 やがて決して、


「お父さまの容態なのですが、いかがなのでしょう。回復の見込みは」

「さて、その方面はわしも専門ではありませぬが」


 とベンノは腕組みして焦らす素振り、その実、いかにこの美しい少女を傷つけずに済むものか思考しているのである。


「数日前に比べれば、まるで常人、すくなくともひとつ峠を越えたといってもよいでしょうな」


 ベンノが言えば、アリスはほっと胸を押さえて、


「わたし、ただそれだけが気がかりで――本当はいけないのでしょうね。いま父を心配している時期でないことはわかっているのです。この国の命運定まるというとき、やがて国を背負う見として、どのような結果になろうとも見届ける覚悟を持たねばならぬことはわかっているのですが、あのお父さまが弱っている姿を見れば」

「わかりますとも。剛胆で鳴らした男、あれほど消沈しているのを見るのは奥方さまの死去以来か。ですが、王は王たる威厳を失わず、この期に相対しようとしておるのです。心配ご無用、どのような結果になろうとも、彼は王のまま死にゆくでしょう」


 アリスはぱっと顔を覆って、


「ああ、わたしが女だからなのでしょうか。死にゆくと聞いて、ただただ悲しいのは」

「名誉に死ぬるは誉れなりと、男は教わって育ちますからな。果たしてそれが正しいとも限らず、身内の死はだれにとっても悲しいものでございまする」


 小柄なベンノと女のアリスとでは、身長もさほど変わらぬ。

 白と黒、相反する衣をなびかせ、ふたりはいつしか城の玄関近くまで出てきて、前の広場に兵士がずらりと整列しているのを見る。

 並んだ兵士がおおよそ三百、壮観であり、頼りなくもある。


「あれがすべてであることが、この国にとってよいことかどうか」


 富国強兵を嫌い、自衛以外の兵を排した結果、外敵からはほとんど無防備な腹を晒すことになっている。

 ベンノはしかし間違いとは断ぜず、三百あまりの兵士を見て、その先頭、兵士を鼓舞するロベルトの背中を見つめる。

 ロベルトが野太い声を張り上げるのに、


「われわれはこの国を守る最後の兵士である。必ずやこの地に死のう、必ずやこの城に死のう。それこそ男の本懐なり」


 玄関ホールを過ぎ去り、ふたりの足取りは重く、薄暗く狭い廊下、なんとはなしにアリスもついてくる。


「あれはあれで、悪い男ではないのですが」


 ぽつりとベンノは本音を漏らす。


「どうも猪突猛進、気のよい男でありながら、多少好戦がすぎるところもある。一方でアントンはといえば、政治をやらせれば一級でも人間味に欠けて後ろ暗いところがある。あのふたりを束ねて国を率いた王の能力たるや、やはり並々ならぬ」


 と息つけば、となりのアリスもちいさく首肯、


「お父さまは、跡を継ぐわたしによく見ておけとおっしゃります。とてもわたしがあの方々をまとめるなどできようはずもありません」

「女の身、ましてや姫の若さでは仕方ありますまい」

「ベンノさま」


 アリスはローブの端、しかと掴んで、ぎゅうと握った指がいじらしい。

 いまにも溢れ出すかという潤んだ目、ベンノはじいと見つめられて、禿頭を掻く。


「どうか、お見捨てなきよう、平にお願い申し上げます」

「まさか、見捨てるはずもありませぬが」


 美しい少女にすがられて、ベンノは悪い気もせぬ様子、しかしさすがに色気を出すほど若くもなく、そっとアリスの手に老いた手を重ねて振り解けば、叱るように厳しい目つき、


「国が落ちたときは、お覚悟なさいませ、アリスさま。あなたさまは決して穢されてはならぬグレアム国王家の血、国とともに死すべきとは申しませぬ。しかしご自身はグレアム王国の宝でもあるのです。ゆめゆめ、他国に蹂躙されぬよう」

「自らの命ひとつなら、なんと簡単な問題でしょう。だれひとり巻き添えにしない死なら!」


 とついに落涙するのを、ベンノは直視もできず目を伏せる。

 しかし血は争えぬらしい、清廉潔白たるアリスの白い頬にも、父親譲りの剛胆が潜んでいるのだ。

 ベンノは眉根を寄せて考えるに、国なくともアリスがいれば再興は可能だと信ずるが、アリス自身が建国の勇など拒むだろうと思うに至り、ちいさく息をついた。


「王侯貴族というものは、いかなるときも自由の身ではございませぬ。死ぬも生きるも世の中ひとつ、お気持ちはお察しいたしまするが、いつまでも悲しんでいるひまはない、こうしているいまも敵軍勢が迫っておるのです。どうか、姫さまはお部屋へお戻りを」

「あなたは、どうなさるのですか」


 アリスは目元をぐいと拭って、気丈にも胸を張る。

 その指先がかすか震えていることに気づかぬベンノではないが、


「よくお顔をお上げなさいましたな」


 と一言、傍らの、鰐の口のごとき地下へ続く階段を見て、


「わしはこれから異邦人の相手をしてやろうと思いましてな。不運なり、うまく逃がせればよいのですが」

「では、わたしもお会いいたしましょう」

「なに、姫さまも?」

「だって、平時であれば大切なお客さま、臥せっている父の代わりこそわたしが務めるべきことですもの」


 アリスはいかにも王女らしく白いドレスの裾を払って、すっと背筋を伸ばして微笑んだ。

 そうしていれば、大陸中に聞こえる美しさ、より際立ってほとんど神々しいばかり。

 ベンノはちらと暗い地下を見やり、アリスの飾り気のない美しさ、牢に入っている青年の姿を考えて、困ったように視線を彷徨わせた。


「しかし、姫さまの思うような青年ではないやもしれんのですよ。なんといっても姫さまでは言葉も通じますまいに」

「言葉なら、ベンノさまが通訳してくだされば済む話。わたし、異邦人という方はついぞ見たことがありませんから、興味もあるのです」


 爛々と目に宿るのは、本来戦渦や病などなければこの年ごろの少女にあるべき輝き、好奇心に駆られ、早階段を降りようとするアリスはどこか幼い横顔で、ベンノも許可するしかない。


「危険はないと思いまするが、わしより前には出ぬように。万が一、怪我でもすれば大事ですからな」

「わかっております、ご心配なさらず」


 と本当にわかっているのかどうか怪しい声色だが、ともかく、ベンノはアリスを連れ、青年の待つ薄暗い牢へ向かうのだった。

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