人魚の島 1-2
*
雲井正行の目は、手品を見せられた少年のようにきらきらと輝いている。
見つめるは、若い魔法使いの手のなかで。
「つまりですね、こうして魔法を体内に取り込んで、発露させるとですね――」
五本の指が開かれた、白い手のひら、不意にきらと赤い光が灯ったと思えば、人間の頭ほどの火球がぼっと燃え上がり、魔法使いの顔を赤く照らし出す。
「おおっ、すげえ!」
正行がぱちぱちと手を叩くのに、魔法使いは照れた顔、火球を空中へ放り投げたかと思えば、ようやく晴れ渡った城のはるか上空、青い空のなかで火花が散って、火球は消え失せた。
「とまあ、魔法はこんな感じのものです。おわかりですか?」
「わかんないけど、すごいってことは理解した」
「うーん、どう説明すればいいのかなあ……」
魔法使いが腕組みして悩むのも無理はなく。
異邦人にして、魔法のまの字も知らぬ正行、魔法の仕組みを教えてくれと貪欲に知識を求めるのはよいが、魔法使いにとって魔法とは呼吸のようなもの、どうやって息をしているのかと問われても、とにかく息を吸い込んで吐き出すのだとしか言いようがない。
紺色のローブが魔法使いの証、それを冷たい朔風にひらとなびかせ、若い魔法使いが悩むのに、両腕を広げて、
「こう、魔法が漂ってるじゃないですか。それを身体のなかに取り込んでですね――」
「魔法が漂ってるってのがそもそもわかんないんだよ。空気みたいなもんか?」
「空気ともちょっとちがうんですけど、ううん」
「わかった、燃料みたいなもんかな。火を燃やすのに、火種が必要みたいな感じで。だったら、空気みたいにあたりを漂ってる魔法を体内に取り込んで、それを放出する、それが魔法だな?」
「えっと、まあ、言葉で説明するなら、そんな感じになりますか」
「だったら、魔法を使ったら疲れるのはなんでなんだ? 燃料は空中から調達するわけだろ。それを使うのに、なんで体力が減るんだ」
「だって、魔法ですもの、当然使ったら疲れますよ。それはだから、こう、空中から取り込んで、魔法として発露させるときに……うーん」
ふたり揃って腕組みし、首をかしげ合うのが、セントラム城の城門前である。
市民の憩いの場となっている広場で、早朝のここなら魔法の実習もできるだろうと選ばれたのだが、理屈で引っかかりがあるせいか、いまいちはかどらぬ学習らしい。
ふたりしてどうしたものかとうなるうち、城のなかから衛兵の交代時間か、兵士がぞろぞろと出てきて、その最後尾にひときわ目立つ巨躯がある。
「おう、正行殿、こんな朝っぱらからどうしたんだ」
と寄ってくれば、それが武官としては最高位を任じられているロベルトで、若い魔法使いは慌てて敬礼し、ロベルトも軽く片手で答えながら、正行は腕組みしたのを解こうともしない、ロベルトをちらと見て、
「いや、魔法について教えてもらってたんだけど、いまいち理解できなくてさ。まあ、ロベルトに聞いてもしょうがないよな、魔法使えないんだし」
はじめから期待もしていないような正行の声色、ロベルトはむっと顔をしかめて、
「いくら魔法が使えないからって、この世界で生きてんだ、正行殿よりは理解できるだろうぜ。なにがわかんねえんだ?」
「魔法の理屈だよ。魔法使いもそういうところは感覚でやってるから、うまく説明できないらしくてな。やっぱり、じいさんに聞くしかないかなあ」
と正行、何気なく頭上へ目をやれば、抜けるような青空で。
澄み渡った冬空は無限の色を持ち、無窮の広さでもって頭上を包み、気まぐれな朔風もいまは止んでいるよう、いくつか浮かぶ雲も揺れず、静止したような世界である。
しかし足下に目をやれば、昨日まで降り続いていた吹雪で積もった雪が正行の腰ほどまでになり、除雪したものが城壁のそばにまとめられている。
除雪が済んだ雪は埃や泥を孕んで薄汚れているが、城下町に目をやれば一面雪化粧、屋根という屋根が、路地という路地が輝くような白で覆われて、この地方にとっては暗く厳しい冬の代名詞だが、あまり雪に親しんでいない正行はすこし心が躍るらしい、魔法を至近距離で観察するとき同様に炯々たる瞳で。
「じいさんなら説明してくれるだろうが、聞きに行かないのか」
帯剣するロベルト、何気なくその柄に手を置いて問えば、正行は頭を掻いて、
「ま、朝だし、それにあんまりじいさんに頼るのもどうかと思ってな。できることは自分でやりたいんだ。国も、役に立たない子どもを養うほどは安定してない。ここにいたいと思うんなら、自分で居場所を作らないと」
「ふむ――そういうことなら、おれもひとつ協力しよう」
にたりとロベルト、正行はいやな顔をする。
「なんか、いやな予感しかしないんだけど」
「気のせいだろ。魔法の理屈か、ふん。たしかにおれは魔法使いじゃないが、魔法使いも兵隊の一部、魔法使いじゃなくてもわかることは把握してるつもりだぜ。でないと運用もできねえ」
「そうなんだよ。おれもそれで魔法について知りたくてさ。このあいだ、エゼラブルの魔法隊に協力してもらったけど、あれも魔法に詳しかったらもっと有効な使い方ができたんじゃないかと思うんだ」
ロベルトは感心した顔で、
「あれ以上を望むのか、正行殿は。おれは、あれでも相当うまくやったと思うぜ。こっちの兵にはほとんど被害が出てねえし、友軍のエゼラブルとオブゼンタルもほぼ無傷、これ以上の成果はねえだろ」
正行は視線を落とし、足下で一度溶けて冷気に凍ったような雪をがりがりと蹴りながら、
「いや、被害は出たよ。甚大だ。貴重な兵士が、二千も失われた」
「それは敵兵だろう」
「敵は、味方さ。見ろよ、ロベルト」
とあごでしゃくった先、もとはセントラム王国の傭兵だった兵士が、いまもセントラム城の巨大な城門を守っているのである。
「降伏した四千のうち、手元に残ったのは三千五百、それにグレアムの兵三百を加えた三千八百が、いまのグレアム王国の兵力だ。もし六千の大群を無傷に降伏させられたら、いまの倍近くの数を兵力として吸収できたんだ。そう考えたら、ノウム軍との対決なんて、本当に愚策としか思えない――三千もの兵を全滅させるなんて、あまりに無駄だ。勝つためには、敵兵を全滅させる必要はないんだ。頭を叩いて、兵士はすべて味方に取り込めたら、それ以上の勝利はないんだよ――ってまあ、おれがいまさら言うことでもないけどさ」
途中で照れたように正行は頭を掻いて、ロベルトは正行の言葉に圧倒された顔、ゆっくりとうなずいて、
「たしかに、そうだな。正行殿はやはり大学者ベンノの弟子にふさわしい戦術家だ。おれなら敵兵をひとりでも多く殺したほうが勝ちだと考える。じいさんは、おれのこういう性格を見抜いて戦術家には向かんと言ったんだろうな」
「いざ戦闘になれば、やっぱりロベルトの考えが正しいんだ。結局のところ、負けたら意味がないんだから。そもそも戦わざるを得ないところまで追いやられるのがまずい。戦わず、和平で済むならそれに越したことはない。兵士といったって機械じゃない、親も子どももいる人間なんだから、無駄使いするには高価すぎる」
「和平か。たしかにそうかもしれん――なるほど、そのために魔法使いを最大限に利用したいというわけか。そんなところまでじいさんに似て、勉強熱心だな」
「ロベルトだって毎日身体を鍛えてるだろ? 同じことだよ。おれはこうしなきゃ、この国にはいられないんだから」
ロベルトはなにか思うところがあるふうな顔つきで、しかし言葉には出さず、不意に腰をかがめた。
足下に薄く積もった雪を、その大きな手でかき集め、丸めて雪玉を作り、にたりと笑った次の瞬間、不思議そうに首をかしげる正行の顔にぱっと雪が散る。
「わっ――な、なにすんだよ!」
「魔法ってのは、こういうことさ」
他人の顔面に雪玉をぶつけておいて、ロベルトは平然そのもの、かじかんだ手をすり合わせながら、
「この場合、空気中にある魔法ってのが、雪だ。それで作られた雪玉が、魔法使いが放つ魔法だな。つまり魔法使いってのは、雪をこね、雪玉を作る人間のことだ。雪玉は、降り積もった雪の分だけ作れるが、雪玉を作るにも体力、労力がいる。一日に使える魔法の量が決まるってのはそういうことだ。魔法使いは、いかにすくない労力で大きな雪玉を作れるのか訓練して、うまく魔法が扱えるようになっていく。たとえばエゼラブルの魔女は、それぞれが優れた魔法使いだが、集団で暮らし、知識や経験を共有することで全体としての強さを保ってるのさ」
「――なるほど、雪玉か」
ようやく理解したように正行はうなずくが、はっと気づいて、
「口でそうやって説明すりゃいいだろ、なんでぶつけた?」
「ま、おれの趣味だな」
「こいつ――」
正行は急いで足下の雪をかき集めるが、正行がその手で雪玉をひとつ作るあいだに、ロベルトは正行よりも大きな手で雪玉をふたつ、両手に持って笑っている。
「やるか?」
ロベルトが聞けば、正行はふんと鼻を鳴らし、
「おれの軍師としての力を見せつけてやるよ」
「おっと、そいつは本気でかからねえとまずいな」
にやりと笑うロベルトの顔、さっと雪玉が飛ぶのを軽くかわしたころには、正行は背中を見せて逃げ出している。
どうやら城下町に紛れ、ロベルトを狙うつもりらしいのである。
ロベルトは、訓練のために城から出てきたのだが、これはこれでおもしろい訓練になるだろうと、号令ひとつ、兵士を集めて、
「いまから実戦的演習を行う。武器は方々で集めた雪玉、内部になにか仕込むのは違反とする。目標は城下町に紛れた正行殿だ。心してかかれよ、相手はこの国一のずるがしこさを持つ者だ」
「お、おまえ、兵士使うのは卑怯だろ!」
とずいぶん離れたところから正行が叫べば、ロベルトも腹の底から、
「兵士はおれの手足みたいなもんさ、卑怯なもんか。それより、早く逃げねえとすぐに囲まれるぜ」
「くっ、見てろよ、絶対その顔面に一撃入れてやるからな――わっ」
泡を食って逃げ出した正行、雪に足をとられながら城下町へ消えてゆく。
数の利点を殺すため、ロベルトはそれからもしばらく待ってから、兵士を城下町に送った。
そして自らも気楽な様子、顔には笑みを浮かべ、町へ降りていくのだった。
先に城下町へ入った正行、櫛比と立ち並ぶ家々の影に潜みながら雪玉製造に勤しみ、とある家の裏手で百個ほどの製造を終えたところで、ひょいと細い路地を覗き込んできた兵士の顔面に一発くれてやり、持てるだけの雪玉を持ってその場を逃げ出した。
すぐに後ろから、
「いたぞ、こっちだ!」
「そっちから回り込め、城のほうへ行くぞ、追い詰めろ!」
「くそ、あいつら、本気じゃねえか。どう考えたって本職の兵士何十人かにおれひとりっておかしいだろ」
細かな決まりはだれも把握していないが、ともかく一撃食らえばその人間は退場という決まりらしいと把握し、正行はすぐに追いつかれる大通りを避け、家と家のすき間を、身体を横にしてずりずりと服をこすりながら進んだ。
追う兵士は、本職だけありどれも屈強な体つき、正行が家々のすき間にひょいとすべり込むのが見えても、そのわずかなすき間に入り込むことができず、反対側へ回っているあいだに正行は取って返してもとの方向から抜け出し、もう姿はないという有り様。
どこへ行ったのか、とすき間に顔を押し当てて見ていれば、
「わははは、甘い甘い、戦場は平面とか限らんのだ!」
と芝居がかった哄笑、屋根の上に正行で。
ばっと雪玉を兵士に浴びせかけ、ほかの兵士が気づいたときには、雪が積もって柔らかい地面へ飛び降りて、また姿を消している。
「猫のような動きだ、囲んで追い詰めるぞ!」
参加する兵士に上下関係はないが、自然と指揮をする人間が現れ、ばらばらの個がひとつの集団となって正行を追いかける。
正行は雪の欠片を蹴り上げながら振り返り、これはこれで訓練になるかもしれないと思いつき、すこしまじめにやってみようかとにやり。
「あ、笑ったぞ、悪巧みをしている顔だ!」
「はっはっは、おれを捕まえてみろっ」
兵士は雪で足下がおぼつかぬなか、正行を追うが、入り組んだ城下町、細い路地がいくつもあって、すぐにその背中を見失う。
闇雲に探すには広すぎる町であり、それならと兵士は一塊になって町を精査し、ゆっくりとだが着実に、正行がひそめるような場所を潰していく。
吹雪のあとの、晴れ渡った空の下、なにをやっているのだと住民も興味深げに見守って、子どもなどは混ざって雪合戦をしようとしているらしいが、兵士に見つからぬ正行が子どもに見つかるはずもない。
途中、とある家の裏手にて正行が作ったらしい雪玉の倉庫を見つけ、おそらく正行はそこへ雪玉を取りに戻ってくるはずだと、三人の兵士が残って張りつき、ほかはまた城下町をぐるぐると歩きはじめる。
正行は雪の積もった屋根の上、その様子を見下ろして、ふふんと笑った。
「甘いのう、甘いのう――雪は町のどこにでもあるのだ、そんなものに執着するはずもあるまいに。ここはひとつ、戦術というものを見せてやらねばなるまい」
すっかり悪役気分、正行は緩やかに傾斜した屋根にぴたりと張りついて、積もりに積もった雪の一部を靴の裏で押しやった。
すると雪がずると動き、文字どおりの雪崩れである、屋根の半分の雪が一斉に路地へ落ちるのに合わせ、正行も下の路地へ飛んでいる。
「な、なんだ、雪が落ちて――あっ」
白い雪の幕の向こう、正行がちらと見えた瞬間に、固められた雪玉が戸惑う兵士を直撃している。
正行は野生動物のように身体を震わせ、雪を払い落とし、事前に作っておいた雪玉の倉庫へ飛び込んで、残りふたりの兵士も仕留める。
「不意を打つ! これぞ兵法の基本よ。数で勝っているから、待ち伏せしているからといって優位とは限らん、そのなかで主導権を握ることが真の優位なのだ。むしろ数の優位、待ち伏せなどというのは油断の温床で、戦においては油断こそ真の敵なりと昔のえらいひとも――」
と大演説をぶつ後ろ、いくつもの足音で、
「こっちから声がするぞ!」
「先に向こうへ回れ、逃げ道を塞ぐんだ」
「やべっ、囲まれる前に逃げねえと」
正行は両手に雪玉、さっと路地へ飛び込んで、兵士が呆然とするあいだに、どううまく立ち回ったものか、姿が消えている。
こちらへきたばかりのころは馬にすら乗れなかった正行、大した運動神経もないが、やはりずるがしこい考えばかりは次々に浮かぶらしい、一度など大通りで兵士にぐるりを囲まれ、じりじりと距離を詰められて絶体絶命というところ、偶然通りがかった城下町一の美人とうわさのロザリータ嬢の背後に隠れ、
「やれるもんならやってみろよ、この人質がどうなってもいいならな!」
と吠え、まさかロザリータ嬢に雪玉を投げつけるわけにはいかぬ兵士たちを悔しがらせた。
突然盾にされたロザリータ嬢、びくびくしながらも兵士のあいだを抜けたところで正行はさっと逃げ去り、投げる雪玉もその背には届かずで。
さらに、年端もいかぬ少年少女を使い、それぞれひとつずつ雪玉を持たせ、兵士たちのもとへ送り込んで至近距離で投げつけさせるという卑劣極まりない戦法を用いるに至って、あれは本当に倒さねばならぬ敵だと兵士全員が認識し、追う顔つきもまるで敗走兵を追うよう。
そもそもの体力がない正行、ひいひいと声を上げながら逃げ惑い、
「ほ、本気になりすぎだろ、あいつら!」
独りごちる頬のすぐ横を、豪腕によって投げられた雪玉がびゅんと走る。
正行は入り組んだ城下町の隅に隠れながら殺人級の雪玉に怯え、冬のあいだは立ち入り禁止となる港へ逃げて、ようやくほっと息をつくが、無論除雪もされぬ積雪に残った足跡を消し、むしろ誤った方向へ導くように足跡をつけるという姑息な工作をするあたり、身体は疲労でいっぱいでも意識は冴えている様子。
冬の海はとにかく荒れている。
石が積まれ、桟橋がいくつも延びる港にも際限なく波が打ち寄せ、それによって桟橋に積もった雪が溶かされ、一部分だけは雪も被らずに残っていた。
しかし歩けば膝あたりまで埋まってしまうような積雪で、どこまでが石造りの防波堤になり、どこからが海なのかは判別しがたくなっている。
正行は背後をちらと振り返り、兵士がこないことを確認しつつ、足跡を消す工作も続けながら港を奥へ奥へと進んだ。
春や夏のあいだは、港には二十を超える船が繋がれ、鮮魚や荷物が行き交う海の拠点となるセントラム港も、冬のあいだは静かに波が打ち寄せるだけ、一面の白い雪と打ち寄せる波の音は不思議とひとつのもの悲しさ、得も言われぬ寒さを作り出していて、正行は白い息を吐きながら、しばらく呆然と海を見つめる。
際限なく押し寄せる波と、いつまでも降り続くような白い雪、どこか儚く通じ合って、自然の偉大さを思えば、自らの矮小さが身に沁みるというもの、正行は分厚い手袋をはめた両手に握られたふたつの雪玉を見て、
「……もうちょっと大きくして、破壊力を増そう。その分距離は死ぬけど、どっちみちおれの射程距離なんか向こうより断然短いんだし。当たった瞬間派手に散れば、ほかの兵士への目くらましにもなるかもしれないな」
水が染みて硬くなった雪を求め、正行は足下を見つめながら波打ち際へ近づき、そこに座り込んでもそもそと雪を漁りはじめる。
やがてほどよく海水に固められた雪を探し当て、これ幸いと掘り起こして雪玉を作る途中である。
雪のなかにさくりと突き入れた手の、分厚い手袋越しの感触が、なにやらぐにと硬い。
地面たる石積の防波堤に触れたにしてはやわらかく、雪よりも硬いそれはなんだろうと、雪玉を放り出して穴掘りの要領、雪をかき分けてゆくと、肌色のなにかがちらと見えた。
「……ん?」
よほどいやな予感が正行の脳裏を掠めたにちがいない、眉をひそめ、一瞬手を止めたが、気づいた以上放っておくわけにもいくまい。
「うわあ、もしかして、あれかなあ……」
ここは波打ち際で、あたりにはどこからか流れ着いたらしい腐った枝や海草のようなものが雪にまみれている。
そこへきて、微妙な弾力に肌色とくれば、想像するものはひとつ、正行は顔をしかめつつも雪を掘り返し、金色の美しい髪が出てくるにあたって確信を持った。
「うう、水死体か……」
兵士を呼ぶかどうか、正行は顔を上げてあたりを見回すが、そこは無人の港で。
喉の限りに声を張り上げるのも得策とは思われず、仕方なく正行はそのまま雪を掘り返す決意を固めた。
そのあいだにも波は打ち寄せ、ゆっくりと引いて、また打ち寄せ、桟橋がぎしと軋んで、どこかで海鳥が鳴く。
雪を退けていくと、それが若い女だということがわかった。
まだ下半身は見えず、上半身の一部しか見えていないが、なぜか服も着ていない裸の身体、見間違えようもない。
若い身空で、事故かなにかで溺れたのか、あるいは自ら海へ身を投げたのか。
なんの因果かそれがセントラム港に流れ着き、偶然に正行が見つけていなければ、すくなくとも春まではだれも立ち入らぬ場所、これもひとつの運命かもしれぬ。
正行は、できるだけ身体には触れぬようにしながらまわりの雪を退けていくが、ふと、これだけの雪に囲まれていながら肌が柔らかいというのもおかしな話、ということに気づいて、恐る恐る手袋を外し、肩のあたりにちょんと触れてみれば、豈図らんや、まだたしかに温かいのである。
「や、やばいっ」
いくら生きていてもこの雪に埋もれていては致命傷、と正行はちまちま雪を退ける作戦から無理やりにでも引っ張り出す作戦に変更し、掘り出した上半身をぐいと掴み、雪のなかに足を踏ん張った。
はじめは水を含んだ雪の重量のせいか、なかなか動かなかった。
二度、三度と足を踏ん張り、雪のなかに半ば埋もれながらぐいと背中を反らせば、
「わ、わっ――」
ようやく身体が雪から抜け、その反動で正行は雪のなかにひっくり返った。
一瞬見えた青い空、跳ね起きて引っ張り出した身体を見れば、やはり一糸まとわぬ裸体で、長くしっとりと濡れた金髪が白い身体にまとわりつき、ほっそりとくびれた腰、大きく盛り上がった胸が青白く輝いている。
顔を見れば、やはりまだ若い女、両目を閉じて、傷ひとつない白い頬はきめ細かく、唇はさすがに血色を失って紫に使い。
正行はともかく城へ運ぼうと、その身体を抱えようとしたところ、ふと女の下半身を見た瞬間にこの急場にあってぴたりと動きを止める致命的失策で。
それも無理はないというような、女の下半身である。
すらりと上半身を見れば、さぞ美しい足があるかと思う場所、降り積もった白い雪の上にべたりと寝るのは、燦々たる太陽の光を浴びて輝く緑の鱗、立派な尾がゆっくりと波打ち、雪の上にぱさりと落ちる。
正行は思わずまじまじと女の身体を見下ろした。
上半身は疑いなく人間で、ちいさな頭に美しく波打つ金髪、濡れて束になったのが頬や鎖骨にかかり、細い両腕は正行の格闘を表す乱れた雪の上に投げ出されている。
そこから豊満な胸へ、細い腰へと至るところまでは人間で、愛らしい臍もあり、その下はというと、やわな皮膚が硬い鱗へと変質していて、明らかに魚の尾が続いているのである。
「に、人魚……?」
呆然と呟く正行のはるか後方、港の入り口で、正行を見つけた兵士たちの声があり。
彼らが近くに寄ってくるまで、正行はその異形の女をぼんやりと見下ろすのみであった。




