古き日の後始末 5-2
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大陸の北端でグレアム、エゼラブル、オブゼンタルの同盟三国が戦勝を上げたという情報は、早馬によって七日程度でノウム城まで届いていた。
ノウム城で暮らす人間にとってはよろこばしい報せではあるが、いまだ旧ノウム国民が多い城下町ではほとんど他人事のよう、それよりも厳しい冬に備えるほうが大切で、戦勝のうわさなど巷間にも上がらず、大通りを枯葉がからからと滑るのと同じようなもので。
早馬の報告をいち早く聞いたベンノは、ほっと胸を撫で下ろすやら、今後に山積みされた問題を思って眉根を寄せるやら、ともかく王に報告をと、ローブの裾をぐいと掲げ、細く生白い足首を晒して駆ければ、まだ事情を知らぬ城の者、学者先生があれほど急いでどこへ行くのかと首をかしげるわ、くすくす笑うわ。
それも気にせずベンノがひいひいと老体を苦しめながら、王の寝室、さすがに扉の前ではフードを脱ぎ、禿頭に残ったわずかばかりの髪を気にするように撫でつけて、
「王、王さま、ベンノでござります」
と入ってゆけば、病の匂いが濃い寝室、ここしばらく変わらぬ様子で、異様に湿気が多いのか、入り込んだ指先がじわりと湿る。
王はベッドに臥せり、目を閉じて、それはいつもどおりだが、今日は傍らのアリスも布団に顔を伏せて居眠りをしているようだった。
女中がさっと目くばせするに、もう遅いとベンノが首を振れば、アリスがはっと身体を起こして、
「ベンノさま――ごめんなさい、眠ってしまっていたみたいで」
「いや、王女さま、よいのです。わしこそ、知っていればもっと静かにきたのですが」
ベンノは禿頭を撫でて、アリスはぐりぐりと目をこすって、王をちらり、苦しげに息づくのにさえ安堵する状況で。
「王は、お休みか」
ベンノははばかるように言って、アリスはうなずきかけたが、それを病床の王が制して、
「近ごろでは眠るもなにもないのだ」
と乾いて、ほとんど声にならぬ声、ベンノは聞き取るために近づき、ベッドの傍らに腰を下ろした。
改めて見ると、なんとやせ衰えたことか。
いま呼吸をし、かすかにでも動いているのが奇跡のような身体である。
寝間着から覗く手首は子どものそれよりも細く、冬の枯れ木に似て乾き、あごから首へかけてはかろうじて皮が張りついているという程度、喉の奥がかすかに蠢くのさえ見てとれる。
いたたまれず、さっと顔に目をやれば、落ちくぼんだ目のまわりは鬱血したように黒く染まって、肌そのものが茶色に近く、目蓋も空いているのか閉じているのかわからぬ。
「なにかあったか、ベンノ」
王が問うに、ベンノは首を振って自らの観察を打ち切り、
「先ほど、早馬で報告が。正行殿やロベルトが北で戦勝を上げたそうにござります」
アリスははっと目を見開き、そこによろこびの光がきらと灯るが、王はすこしも表情を変えず、そもそも聞こえたのか、聞こえなかったのか。
ベンノはアリスを見て、アリスもベンノと王を交互に見つめ、女中さえその表情に見入って、静寂だけがしいんと響いて。
「そうか、勝ったか」
それだけの言葉を吐き出すのに多大な労力を払ったような王は、深く息をついて、ゆっくり目蓋を開いた。
黒い瞳がゆっくりと動き、白目は不自然なほど黄ばんで。
「では、おれも行かねばなるまいな」
「は、行くとおっしゃると」
「セントラム城へ、おれも行かねばなるまい」
「お、王さま?」
いままで目蓋を開けることさえ億劫だったのが、王は痩せ細っていまにもぽきりと折れてしまいそうな手首を布団に押しつけ、ぐいと身体を押し上げれば、女中とアリスが慌てて背中を支える。
「お、お待ちを。そのお身体でセントラム城へ?」
戸惑うようにベンノが言えば、王は数ヶ月ぶりに身体を起こして、ひび割れた口元にかすかな笑みを浮かべた。
「おれは、王だ。行かねばならん。近ごろ、どうもおまえやアントン、ロベルトに正行と、おれの仕事を肩代わりする機会が増えたが、こればかりは王がやらねばな」
自らの言葉に励まされるよう、このところの病状からは信じられぬが、王はベッドから自らの足で立ち上がり、さっと裳裾を払えば、まるで病に倒れる前の王が戻ってきたようで、アリスは思わず落涙し、ベンノは信じがたい奇跡を目の当たりにして愕然と動けぬ。
王は、それでもよろよろと女中にすがりながら、
「ベンノ、おまえも支度をしろ。すぐにセントラムへ向かう。アリス、おまえもくるのだ」
「は、はい、お父さま」
「では手配して参ります」
ベンノは慌てて寝室を飛び出して、また複雑な作りの城内を行ったり来たり、額に汗してなんとか数刻のうちに馬車を用意し、臣下たちが信じられぬという眼差しで見守るなか、王は自らの足で馬車に乗り込み、出立の指示を出したのだった。
同行するのは、女中がひとりとアリス、それにベンノで、御者のほかに兵士が五人、護衛としてついている。
それらを引き連れて馬車はノウム城を離れたが、奇跡は長く続かず、馬車が走り出すと王はぐったりと身体を横たえ、再び娘を見つめることさえむずかしくなった。
「お父さま、お父さま」
とアリスは王の手を握り、馬車がかすかに揺れて王が苦しげな顔をするたびに囁くが、王の顔からはさっと血の気が失せて、もはや幾ばくもないとベンノは見るに見られず、窓から顔を出して、
「もうすこし静かにやってくれ。到着は多少遅れてもよい」
と御者に指示を出した。
そうすると、馬車はほとんど歩くような距離で、揺れも減り、王の表情もいくらかは安らかで。
ちょうど外では、いままでじっとがまんしていたのが堪えきれなくなったように、いびつな雪の結晶がちらちらと舞いはじめていた。
幻のような雪に、不思議と風はなく、人間の息づかいに吹き飛んでしまうようなひとひらを御者はすくい取り、不倶戴天の敵であるかのようにぎゅっと握りしめれば、体温であっという間に消え去って、あとには涙のような水滴が残る。
「アリス」
と王が消え入るような声で呼びかければ、アリスはその口元に耳を寄せ、不自然なほど熱い王の手を握りしめた。
「お父さま。アリスはここにいます」
「もうすこし声を聞かせてくれ、アリス」
「お父さま、お父さま!」
叫ぶアリスの目元から、滂沱の涙が抑えようもなく。
「ああ、やっと聞こえた」
王はゆっくり息をつき、
「アリス、次の王はおまえだ。臣下を信じ、民を愛し、自分を認めるのだ。そうすれば、自然とひとはついてくる。おれは、そうした」
「お父さま……」
「ベンノ、いるか、ベンノ」
「ここにおりまする」
ベンノはフードを目深に被って、目元をそっと隠して。
「アントンやロベルトは?」
と王はもはや状況が見えておらず、薄く開いた目蓋の奥で、黒い瞳はなにも捉えずに揺れ動いている。
「正行、正行はどこへ」
「あれは北へ。国のため、戦っております。なにかお言葉があれば、このベンノが必ず」
「うむ、そうか――いや、なに、王としての言葉と思われては、困るが」
王はそれでもかすかに笑って、
「ベンノ、おまえとの付き合いも長いな。王と臣下ではなく、おれは友人だと思っている。おまえはどうだ」
「恐れながら、わしもそのように」
「では、これはただの男として、父親として、言う。ベンノ、娘を、アリスをよろしく頼む。決して不幸にはしてくれるな」
「御意に」
「それから、王として、言っておく。もしアリスに王の素質なしと見るなら、おまえが知るなかでもっとも健全なる王に近いものと代わらせよ。おれはおれ、娘は娘、王としての素質には関係がない。ベンノ、おまえがその判断をするのだ。よいな」
「仰せのままに」
ベンノはちらとアリスを見たが、アリスは瀕死の王を見下ろし、その色褪せた頬に落涙するばかり。
「ほかになにか、言葉はございますか」
「ほか、か」
王は困ったように呟いて、
「王として、父として、残すべき言葉は残した。ほかは、そうだな――」
その骸骨めいた顔にふと笑顔が浮かび、唇はなにか言いたげに震えたが、言葉にならぬまま、すっと王の首から力が抜け、動かぬ瞳があらぬ方を向いた。
アリスは握っている手が熱を持っているうちは信じられず、かすかに揺れる馬車のなか、いつまでもいつまでも握りしめていたが、やがてそれが自分の体温であることに気づくと、死した王の手を悼むように身体のそばへ返した。
それから、白く清廉な頬を両の手のひらで拭い、すすり泣く女中をちらと赤い目で見たあと、毅然と顔を上げれば、となりで見守るベンノがぞっとするほど美しい横顔で。
ほんの一瞬前まであった、子どもらしい甘えたものはアリスの白い顔からは消え去り、大きく見開いた目には落ち着いた光が灯り、きゅっと一文字に結ばれた唇も威厳に満ちて、黒い髪の毛の一本一本までが鮮烈に思われる。
「アリスさま――」
ベンノが思わず声をかければ、アリスは涙の気配など微塵も見せず振り返って、
「ベンノさま、これからよろしくお願いいたします。わたしに至らぬところがあれば、すぐに注意してください。それが父への忠義であるのなら」
と深々に、ベンノも慌てて頭を下げれば、その禿頭にフードがぱっと覆い被さり。
「それで、いかがなさりますかな――一度、城に戻れますか」
「いえ、このままセントラム城へ向かいましょう」
アリスは異様なほど冷静な首もとで、肩にかかった髪をさっと背中へ払うことさえすれば、艶やかな黒髪がゆったりと背で波を打つ。
「わたしは、グレアム王国の王となったのです。新たな領地をこの目で見て、戦った兵士をわたしの言葉で讃え、新たな国民を心から愛さなければ。でも――」
とアリスは一瞬だけ目を伏せて、
「父の亡骸を、グレアム城へ運びましょう。城の裏の墓へ、母とともに眠れるように」
ベンノはちいさくうなずき、窓から身を乗り出して、御者に行き先の変更を命ずるのだった。