流星落ちるはかの国に 1-2
*
商店からの帰り道、待ちきれず一巳はアイスクリームの袋を開けて、棒付きのそれ、咥えながらいかにもうれしそうに歩いている。
「行儀が悪い」
と正行が窘めても、口をもごもご、
「だれもいないじゃん」
「現代っ子か、おまえ。さては、現代っ子だな」
「お兄ちゃんとひとつしか変わらないけどね」
舌をつつと伸ばして、ソーダ味、ちろちろと舐め取る先から気温と体温で溶け落ちる。
手首をきゅっと返して、正行をちらと見る視線、どことなく扇情的である。
「お兄ちゃんも、食べれば?」
「おれはちゃんと帰ってから食べる」
「じゃ、これ、一口食べる?」
ぐいと食べかけのアイスを差し出され、正行も戸惑って、
「い、いらないよ、そんなの。なんでおまえの食いかけを」
「おいしいのに」
とあっさり引っ込めれば、なにやら惜しい気もする。
そうした仕草も、あどけない表情も、あくまで無邪気な一巳なのである。
正行はそんな妹に戸惑うよう、子どものころからそんなこともないが、見目形ばかり成長して中身の変わらぬ妹だから、どう接してよいのかわからぬらしい。
買ってきたばかりのビニール袋を握る正行、なかにはまだ封の開いていないのがひとつと、すでに中身が空になっているのがひとつ、緩やかに前後へ揺らしながら歩いている。
空は薄闇、いつしかもくもくと雲が立ちこめ、夕陽の姿も見えぬよう、雲を透かして薄ぼんやりと光が照っているが、それも儚く消え去る間際。
「明日、雨なんだってな」
「蒸し暑いからやだなあ」
半分ほどアイスを食べて、しゃべるたび、平べったい棒がぴょんぴょんと跳ねている。
「あ、そうだ、明日プールあるの、中止になるかな?」
「雨が降ってりゃ中止になるだろうな」
「プールは疲れるから中止になってもいいや」
「現金なやつ」
歩いていくふたりの速度も、まるで落ち行く夕陽を名残惜しむよう、ゆっくりとして、なかなか進まない。
風も凪ぎ、あたり一帯生温い空気、どんよりと動きもなくわだかまって、正行はうらやましそうに一巳のアイスクリームを見ている。
視線に気づいた一巳、口元をにいと釣り上げて、
「あれー、お兄ちゃんも食べたいの? 行儀が悪いんじゃなかったっけ」
「う、うるせえな、食わねえよ。おれはちゃんと家に帰って、手洗ってから食う」
「いま食べちゃえばいいのに。おいしいよ、暑いなかで食べたら。行儀は悪いけどね」
くすくす笑う一巳に、後ろからちりんと鈴の音、正行が一巳の腕を引っ張って道の脇へ寄せれば、買い物袋を乗せた自転車、そばを通り抜けてゆく。
狭い路地で、ふたりが並んで歩けばすき間もなく、正行が掴んでいた腕を放せば一巳はその前を歩く。
「こういう道ってさ、なんだか興ざめだと思わない?」
一巳は踵を鳴らして、憤るような足取り、
「いまは別にいいけど、たとえば好きなひととかと手繋いで歩いてるとするでしょ。そこにさ、ああやって鳴らされたら、雰囲気壊れちゃうじゃん」
「道いっぱいに広がってるほうが悪いけどな。でもまあ、言いたいことは、わかる」
「でしょ。国はせめて三、四人で並んで歩けるくらいの道を作らなきゃだめだね」
腕組みし、ふんと鼻を鳴らして義憤に駆られているらしい一巳であった。
その後ろ、活発に揺れる黒髪を眺めながら、正行は苦笑いして、
「その前に、いっしょに歩く恋人でも作れよ」
「あ、それ言う?」
一巳はくるりと振り返り、正行をにらむ。
「それ、お兄ちゃんだってひとのこと言えないじゃん。彼女のひとりも作んないでさー」
「勉強が忙しいんだよ、いまは。大学入ったら本気出す」
「そんなこと言うひとはいつまでも本気出さないんだよ」
ふうと年長者の顔で息をつく一巳に、正行はむっと眉をひそめて、
「いまに見てろよ、すげえ美少女連れてくるから。腰抜かすぞ、あまりの美少女っぷりに」
「あー、はいはい、楽しみにしてるよ」
振り向きもせず、手を顔の横でひらひら、正行は後ろからそっと近づき、人差し指を突き出して、一巳の背中を指先でつつとなぞれば、
「ひゃあっ」
とよほどに敏感なのか、一巳は声を上げて飛び上がる。
振り返るのに、正行はにたり、
「兄をばかにした罰だ。おまえの弱点など知り尽くしておるわ」
「む、むむう……」
すっかり食べ尽くしたアイスに、棒だけを歯で咥えて、一巳はまだぞくぞくとするように背中を撫でさする。
「あ、明日のご飯、お兄ちゃんのきらいなやつばっかりにするからね」
「やめろ、そこまで根に持つな」
「ふふん、妹に体罰を与えたことを悔いるがいいわ」
芝居がかった口先の台詞、また一巳はくるりと前を向いたが、はたと立ち止まって、
「忘れてた! 見たいドラマの再放送があるんだった――お兄ちゃん、急いで!」
「先に帰ってろよ。おれはあとでゆっくり帰るから」
「じゃ、帰るね。アイス冷やしとくから」
とビニール袋を手渡したとき、指先がちらと触れるが、お互いに気づかぬ顔、一巳はすぐに駆け出して、正行はその背中に、
「車には気をつけろよ」
「大丈夫っ」
さすがの陸上部、走り出せば、あっという間に角を曲がって見えなくなる。
手ぶらになった正行は、ポケットに手を突っ込んで、別段足を速めるでもなく、うつむいたり空を見たり、落ち着かぬ様子でのろのろと歩く。
ときに夕方の四時すぎ、正行はジーンズにTシャツ一枚という格好で、ポケットには財布があるだけ、なにも持たず、身ひとつで。
すこし前に一巳が消えた角から、自転車が一台すっと出てきて、すれ違いざまに正行は顔を上げる。
その角の向こうが、例の鎮守の森なのである。
コンクリートの塀をこするように西へ曲がれば、一直線の細い路地、家並みはずらりと整列しているのに、生い茂る木の頭だけが道へはみ出して、ほとんど感じられぬ程度の風にゆらゆらと手招きをしているよう。
鎮守の森を立ち入り禁止にしているフェンスも、もとは白い表面だったのが、いまでは蔦がぐるりと巻きつき、細長い葉がぱっと繁ってすっかり植物の一部と化している。
奥も、並外れて密集する木々、透かして見ようにも暗い闇があるだけで、ともかく鬱蒼として怪しい。
生活の気配色濃い住宅街にあって、この一角、森のなかだけは、まさに異世界、異空間なのである。
正行はすこし猫背になりながら前を通りすぎようとして、なにを感ずるのか、ふと立ち止まって森の奥を見た。
猫のような丸々とした目、黒い瞳がきゅっと絞られ、森の奥をじいと見つめて、一歩、二歩、ふらふらと吸い寄せられるように近づく。
時ならぬ一陣の風吹き抜ければ、正行の身体はふわりと宙へ舞い上がって、まさか、見下ろせばそこに町はなく、恐ろしいほどの高度、どうやら雲の上らしいのだ。
足下は雲海、頭上にはどうやら青空、太陽もないのに、その片隅に青白い月がぎらと輝き、それが無窮に広がる空の、唯一の装飾であった。
波打つ雲、輝くばかりに白いものあれば、傍らが薄くかすれて消えかかるものあり、青空に一点の曇りなく、宇宙の一端を忍ばせる紺碧鮮やかで、東の空のほうがわずかに白く明るい。
風は感じず、音はなく、意識だけがふわりと浮遊するのが、なにかの拍子にするすると足下へ向かって落ちはじめた。
雲のなかは深い霧、上下もわからずようやく抜け出せば、驚くべき光景であった。
足下はすべて大地、海は見えず、険しく隆起する山々があり、薄茶色の禿げた山もあれば木々が生い茂っているのであろう碧い山も見えて、尾根は幾重にも折り重なり、その麓は恐ろしく広い森、町のひとつどころか国ひとつさえ飲み込みそうな植物の隆盛著しい。
地平の果ては白く霞んで皆目わからぬ。
すくなくとも空と同じだけの面積を持つ大地に、起伏に富んだ地形、まるで原始的な地上の風景である。
正行の意識が徐々に高度を下げてゆけば、広くは見えぬが、仔細までわかる。
足下の森、くぬぎによく似た木が生い茂り、青々と若葉が出て、遠目ではわからぬながら、ある程度近づけば森全体が波打つように揺れているのがわかる、どうやら山から吹き下ろす風のせいらしい。
山に目をやり、その麓、自然のなかにぽつりと人工物らしいものが見えて、灰色の城のよう、いくつもの塔が沖し、強固な城壁ぐるりと囲んで、内側には赤煉瓦の目立つ城下町、背後を山に塞がれて、まるで山肌へすがるように建っている。
その手前には地ならししたような青い野面、背の高い草もなく続き、一角になにやら黒い塊のようなものがもぞもぞと蠢くのを見、正行の意識は不思議に思う。
野原を囲むように、深い森、仔細に見てゆけば植物の種類も豊富で、くぬぎめいたもののとなりには松に似る植物、森の一角は竹林で雰囲気が異なり、見たこともない鮮やかな青い鳥、正行を出迎えるように何羽が飛び上がり、くるくると正行の周囲を旋回している。
その忙しない羽根使いはじゃれつくよう、正行がどうにも動けぬと知れば、とぼとぼと飛び去ってゆくのに、手のひらに乗るほどの小鳥が寂しげ。
正行の意識はどうやら下降を続けて、徐々に石造りの城、強固で古びた城壁のなかへ近づいている。
森を越えた先の山は、一部が削り取られ、赤茶けた土が露出していた。
なにかの産出があるのかもしれぬと考えるのもそこそこに、はっきりと見えてきた城の風景に目を奪われる。
正行の想像を遙かに超えるような規模の城壁である。
高さは二十メートル以上、上部が回廊になっていて、昼間だというのに無数の松明が掲げられて煌々。
野面に対する正面には巨大な城門、木製のもので、大きく観音開きになって出入りは自由、門前にはすらりと長い槍、先端は鋭い刃物が剣呑に光り、銀に輝く鎧をつけた兵士がふたり、左右に立っている。
城下町を見れば、路地は入り組み、光の当たらぬような場所も珍しくはないが、通り沿いには一面洗濯物、白いシーツや木綿のシャツが揺れていて、下の往来、活気づいて道行く人々も活発である。
色褪せた褐色のスカートを履いた太った母親、筋骨隆々たるを誇り、上半身もろくに覆わず歩いている青年、物陰に座り込んで明るいうちから酒を呷っている酔っぱらいがいれば、それを窘める苦労女房、黒い砂のようなものを籠いっぱいに詰めて牛車がゆけば、だれもが道を譲ってご苦労さんと声をかける。
一時も騒音収まらず、子どもの泣く声か女の笑い声か聞き分けることも不可能、怒鳴り声かと思えばどっと爆笑が起こり、どこからともなく鉄を鍛えるような音、人々が入り乱れて生きている城下町を奥へ進めば、ようやく静かな城の前。
二十段ほどの階段だが、裾ほど広く、上れば絞られて、それが城の入り口らしい、兵士が左右にふたり並ぶが、どちらも鎧は着ておらず、町人と変わりない褐色のベストにくすんだような白いシャツ、ズボンという出で立ちで、傍らには申し訳程度の槍が一本ずつ。
さすがに城の玄関は閉ざされているが、正行の意識はそれをするりと抜けて内部へ侵入している。
何十メートルという高い天井に、豪奢なシャンデリア、床は大理石で、壁をちらと見れば斧から短刀まで、ありとあらゆる武器が飾られ、博物館の様相。
玄関ホールの中央、シャンデリアの真下に立ち、はあとため息にあたりをぐるりと見渡せば、正行、いつの間にか体を取り戻して、二本の足で大理石に立っているのである。
しばらく気づかぬふうに様々な形状の武器を見学していたが、不意に気づいたよう、自分の身体を見下ろして、足をとんとん踏みならし、しっかり硬い感触が靴越しに伝わってくれば、むにと頬を引っ張っても痛いはず、なにしろ生身の身体で存在しているのだ。
「――どこだ、ここ」
慣れ親しんだ町を歩いていたはずの正行は、いつの間にか、名も知らぬ大陸の城のなか、ひとりで立ち尽くすのみ。