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八重鏡  作者: 藤崎悠貴
秘宝と王女と大鳥と
26/122

秘宝と王女と大鳥と 4-1

  4


 エゼラブル城は山間にあるが、そこからさらに谷を下るには、いびつな石が積み重なった川沿いをひたすらに下りればよい。

 服を着替え、なるべく分厚い上着を纏った正行とロゼッタは雨のなか、しとどに濡れてよく滑る石の上をひょいひょいと飛ぶように移動する。

 足取りはロゼッタのほうがはるかに軽く、石から石へと飛び移っては遅れる正行を待つために立ち止まり、合流してはまた先へと急いでいたが、ひとつひとつの石をのたのた越えていく正行を見かねて、途中からは正行に合わせ、その手を引きながら進むようになる。


「ほんと、運動神経悪いね、正行くん」

「しみじみ言うな。ほんとっぽく聞こえるだろ」

「ほんとじゃん」


 ロゼッタがひょいと一足で飛び乗る巌も、正行はがしと両腕で捕まってよじ登らなければならぬ。

 どうせ身軽になる魔法でも使っているのだろうと正行もはじめは考えていたが、そうでないと知らされてからは、あえてその話題には触れぬようにしている。

 ふたりの行くすぐとなり、谷間を流れる川はこの雨でも水量を増さず、控えめにさらさらと清らかな音も耳にやさしい。

 完全には角も取れていない石がごつごつと積み重なる川辺を下って、早一時間あまり、振り返ればゆるやかに傾斜した川辺が続き、その果てのエゼラブル城は雨に霞んでほとんど見えぬ。

 しかし先にはまだずっと同じような谷間、正行は大きな石によじ登り、


「いったいどこへ向かってるんだよ、おれたち」


 といまさらの疑問を口にする。

 ロゼッタもちょっと驚いて、


「それも知らないでついてきたの?」

「ぼ、冒険に行こうって誘ったのはそっちだろ」

「それはそうだけど、ついてくるくらいだから行き先は知ってると思ってた。正行くんは、あれだね、天然ってやつだね?」

「ロゼッタには言われたくない」


 赤毛のロゼッタ、束ねた髪を馬の尻尾のように揺らして石から飛び降り、誘うように正行を振り返る。

 ここで負けては沽券に関わる、と正行も石から飛び降りるが、つるりと滑る濡れた石、転んであやうく倒れかけたところをロゼッタに抱きとめられて、


「これじゃ逆だっての」


 と自分でぶつぶつ呟きながら、運動神経のなさを恨む。

 しかしロゼッタはあくまで正行のペースに合わせ、ゆっくりと川縁を歩き、時折甲高い鳴き声を上げて飛び去る鳥に手を振ったり、傍らの森からのそりと顔を出す猪に挨拶したり。

 正行はそんなひまもなく移動に必死だが、余裕そうなロゼッタを後目で、


「楽しそうだな」


 と怨ずるように言えば、振り返るロゼッタは無邪気な笑顔。


「うん、楽しいっ」


 と素直なものである。

 正行はぽりぽりと頭を掻いて、


「苦手だなあ、こういうタイプの女の子は」

「え、なんか言った?」

「いや、なんにも。それで、おれたちはどこへ向かってるんだ。このまま山を越えるのか」

「ううん、もうすこし進んだところの森に用事があるの」


 ロゼッタは両手を後ろへ回し、正行のとなりを跳ねるように歩く、そのたびに長い赤毛が上へ下へ。


「このあたりじゃ秘密の森って言われてるんだけど、正行くんは知ってる?」

「いや――まだ城に着いて何日かしか経ってないからなあ。有名なのか、そこは」

「うん、このあたりのひとならだれでも知ってる。すごく深い森でね、入ったら最後、出られないってうわさの」

「で、出られない?」


 正行はぴたりと足を止めるが、ロゼッタは好奇心に顔を紅潮させ、気づかぬ様子で歩いていく。


「それがね、いろいろ伝説があるの。たとえば、森の奥にはエゼラブル王国に伝わる秘宝が眠ってるとか。ね、おもしろそうだと思わない?」

「ま、まあ、秘宝はたしかにおもしろそうだけど、出られない森ってのはいやだな。出られないって言われてるのに入るやつなんか、ただのばかだろ」

「でも、ほとんどだれも入ったことない森がすぐ近くにあるんだよ。行ってみたくなるでしょ?」


 目を輝かせるロゼッタに、正行は諦めたようにうなずいた――そのうれしそうな横顔を見ていれば、説得が不可能であることくらいすぐに察せられるのだ。

 空谷を行くふたり、左右には見上げるばかりの峻峭な山々に、雨は激しくなったり弱まったり、川もまだ水かさも増さずに穏やかな顔色。


「ってことは、今回の冒険の目的は、その秘宝なのか」

「ううん、目的はまた別のもの。秘宝もおもしろそうだけど、それよりももっとおもしろそうなものがあるの」

「なんだ、それ」

「鳥!」


 と一声張り上げて、ロゼッタは両腕をいっぱいに広げて立ち止まる。

 一歩進んで立ち止まり、正行が振り返れば、ロゼッタは満面の笑顔、両手をばたばたと動かして、


「森にはね、すっごくおっきな鳥がいるって伝説なの」

「すごく大きな鳥、ねえ」

「きっとこれくらい――ううん、もっともっと大きいはず。その鳥はね、秘宝を守ってるんだって伝説もあるし、昔はもっといっぱいいたけど、人間が増えたせいで森から出てこなくなったってお話もあるし、このあたりではみんなが知ってる伝説なのよ」

「へえ……鳥、ねえ」

「あ、ただでっかいだけの鳥だと思ってるでしょ?」


 ロゼッタは正行に駆け寄り、無防備にぐいと近づいて、きゅっと目を釣り上げて指をぴんと立てる。


「ただのでっかい鳥じゃないんだよ。その姿を見て、羽根を手に入れられたら、一生幸せに暮らせるって伝説がある鳥なの。ね、探してみる価値、あるでしょ?」


 正行は距離の近さにどぎまぎして後ずさり、ぎこちなくうなずいた。


「幸せになれるなら、たしかに探してみる価値はありそうだけど――それだけでっかい鳥なら、森のなかにいても見つかりやすいんじゃないのか。鳥なんだから、空も飛ぶだろうし」

「そう簡単に見つかったりしないから伝説の鳥なの! 一目でいいから見てみたいなあ。きっとね、羽根はきれいな虹色で、心やさしい鳥だと思うの」

「どうかなあ。でっかいんだろ。ひととか食って生きてるんじゃないかな」

「なんでそうなるのよー」


 不満そうにロゼッタは頬をふくらませ、すたすたと川縁を行く。

 すると、とある石の上、人間の頭ほどある大きな亀がのそりと横たわり、雨のなかでどれほど効果があるのか疑問だが、甲羅を乾かしていた。

 ロゼッタがすたすたと近寄り、


「こんにちは、亀さん」


 と話しかければ、四肢をだらりと伸ばしていた亀はぐいと首をもたげ、まるで挨拶するようにちいさく左右へ振った。


「ねえ、これ、甲羅乾くの?」


 ロゼッタが指先で甲羅を突いても、亀はまったく無反応、ただじっと足と尻尾を伸ばして怠けている。


「こっちの生き物は、人間の言葉が通じるのか?」


 と正行が独りごちれば、ロゼッタはちょっと顔を上げて、


「言葉は通じないけど、ほら、目と目を見たらなんとなく言いたいことってわかるじゃん」

「いやいや、さすがに亀の主張はわかんねえよ」

「そうかなあ、わかるような気がするけどな。ね、亀さん?」


 呼ばれた亀も、理解しているのかいないのか、まるで小首をかしげるよう。


「なんて言ったんだ」

「そんなこと知るかばかって」

「うそだろ。亀の気持ちを捏造するんじゃない」


 ロゼッタは明るい笑みで立ち上がり、亀にひらひらと手を振る。


「またね、亀さん。帰りに会ったらよろしく」


 亀のほうではぐいと首を横に向け、ロゼッタを見送るような体勢、本当に言葉が通じているふうでもあり。

 ふたりはさらに川沿いを下って、清流をひとひら流るる赤い花びらを拾い上げたり、水中に見え隠れする魚を数えたり、ロゼッタは遠足気分で持っている鞄を振り回しながら進んで、正行はただひたすら滑る足場と格闘する。

 そんな正行も、向かう正面、徐々に黒い茂みが現れていることには気づいていた。

 それがどうやら目的の森らしく、清流はその直前で右へ流れを変えているのが、まるで森への侵入を避けた結果のよう。

 遠目では黒くこんもりとふくらんだ、巨大な動物がうずくまった影のようにしか見えなかったが、近づけば一本一本の木々が見え、それが周囲の森や山では考えられないほどの密集率なのである。

 足の踏み場もないとはこのこと、木々のあいだは一メートルもなく、身体を横にしてなんとか入り込めるかというくらい。

 木の一本一本は、幹の太さのわりに背が低く、葉はところ狭しと生い茂って、枝と枝のあいだには蔦がかかり、足下は木の根と腐葉土、外からでは視界も利かず、入って数メートルから先は枝葉に阻まれまったく見えぬ。


「この森だな、秘密の森って」

「よくわかったね?」


 と正行のとなりで首をかしげるロゼッタ、この森を前にしても気分は殺がれぬらしい。


「見るからに入りたくない感じの森だもんな」

「えー、そうかな。見るからに楽しそうな森じゃない?」

「目がおかしいのか、頭がおかしいのか」

「どっちもおかしくないもんっ」


 ロゼッタはためらう正行の手を引いて、待ちきれぬよう、森のなかへ入っていこうとする。


「ちょっと待てって、まだ心の準備が」


 と正行がごねるのも空しく、ふたりは木のあいだを抜けて、森に一歩踏み込んだ。

 その瞬間、明らかに空気が変わったことを正行も理解する。

 頭上に繁る葉のせいか、降る雨が正行まで届かず、ただかすかにぽつぽつと音がしたり、葉から滴る水が見えたり、それが蔦の巻きついた幹を伝い、ふわふわとやわらかな腐葉土に染み込んでいく。

 ひくひくと鼻を動かせば、濃密な自然の匂い、土や草の匂いが鼻腔いっぱいに広がって、陽も差さぬ薄暗いなかに目が慣れるにも時間がかかる。

 湿度もまた桁外れに高いよう、肌にひたと張りつくような生暖かい空気で、分厚い外套を着ていてはとても暑くてたまらぬ。

 正行がもぞもぞと服を脱ぐ傍らでロゼッタも上着を脱いで、その下はやはり男物らしい長袖のシャツ、肌の露出には変わりないが、長い髪を気にしながら脱衣する姿にどきりとして。

 正行の視線に気づいてちらと顔を上げれば、口元にはいたずらっぽい笑み、


「えっち」


 と一言、くすくす笑う声だけが続く。


「どこが」


 正行はふいと顔を背け、ただ頬がほんのりと赤い。

 ふたりは森の入り口に上着を置いて、ロゼッタは跳ねるような足取り、正行は渋々という様子、ともかく並んで森の奥へと進んだ。

 長細い葉を持つ羊歯植物に、正行の顔よりもはるかに大きな葉を持つ木、腐葉土の上はふにふにと気持ちの悪い感触で、気をつけていなければ蔦に足をとられて何度も転ぶ。

 ほんの数分歩いただけで、振り返っても森の入り口は見えず、四方八方を青々とした植物に囲まれれば、人間はまるで場違い、ここは植物たちが繁栄を謳歌する楽園なのだ。

 蔦に気をつけて足下に目をやれば、そこには可憐な青い花、透き通るような薄い色合いで揺れているから、正行がじっと見ていると、


「それ、花びらにも花粉にも毒があるから、触らないほうがいいよ」


 とロゼッタの忠告、正行は顔を引きつらせて後ずさる。

 意識してみれば、木の根元には毒々しい赤色に白い斑点が浮かぶ茸や、無数の棘を持つ幹、ちょうど正行が振り返った目線と同じ高さに、顔ほども大きなナナフシらしい昆虫がぼんやり佇んでいたりと、恐ろしいことには事欠かぬ森である。

 薄暗さもまた不気味、がさがさと草を分け入って進むほかないが、すこし離れた草の陰まで風もないのにゆらゆらと揺れているよう、正行は森へ入ったことを後悔しつつも、帰り道はすでにわからないから、ロゼッタについてゆくしかない。

 そのロゼッタが不意に、


「ひゃああっ」


 と甲高い声を上げたものだから、正行はびくりと立ち止まって、


「だ、大丈夫か」


 急いで駆け寄れば、ロゼッタは首の後ろ、ひとつにまとめた赤毛の下あたりを押さえて、ほんのりと赤い顔、


「な、なんでもないよ。水が落ちてきてびっくりしただけ」

「なんだ、水か――化け物でも出たのかもと思ったよ」

「化け物なんていないよ、この森には」


 ロゼッタは心配性の正行をからかうよう、当然正行は唇を尖らせて、


「ロゼッタはその化け物を探しにきたんじゃないのか。でっかい鳥を見つけたいんだろ」

「あれは伝説の生き物なの。化け物とはまたちがうでしょ」

「似たようなもんだって」


 手で草をかき分けながらふたりは進み、腐葉土からむき出しになった木の根をまたぎ、蒸し暑さに噴き出す汗を拭う。


「なあ、ロゼッタ」


 と正行は木の幹に手をついて、


「適当に進んでるけど、方角とか気にしなくていいのか」

「ん、なんとなくわかるから、大丈夫。こっちが北だから」

「ほんとか。なんか目印でもあるのか?」

「ううん、勘」


 ロゼッタはけろりと言いきる。

 正行はちいさく息をつき、ロゼッタをまじまじと眺めながら、


「なんかさ、野生だな、きみは」

「な、なんで?」


 と心外そうなロゼッタ、ちょっと澄ました顔をして、


「あたし、こう見えても王女なんだから」

「おてんば王女だろ」

「おてんば、おてんば」

「な、何回も繰り返すことないじゃん!」

「いや、おれが言ったんじゃないけど」

「え? でも、いま、正行くんの声だったよ」


 とふたり、顔を見合わせれば、森のどこからか、紛れもなく正行の声で、


「おてんば、おてんば」


 とからかうように言うのだ。

 今度はロゼッタも正行の唇が動いていないのを見ているから、さっとあたりを見回して、


「むう、アレン猿がいるのか」

「アレン猿?」

「物まね猿のこと」


 ロゼッタは腕組み、眉をひそめて、


「別に害はないんだけどね、ひとの声とか言葉をすぐに真似するの。頭はとってもいいんだけど、いたずら好きな子が多くて」

「真似ねえ……」


 正行が呟いた矢先、どこかの枝で、


「真似ねえ、真似ねえ」


 と正行と同じ声色で繰り返したあと、嘲笑するように、甲高い、いかにも猿らしい鳴き声を上げる。


「ははあん、なるほど」


 正行はうなずき、


「たしかに腹立つな」

「腹立つ、腹立つ」

「真似すんなって!」

「真似すんなって、真似すんなって」


 けらけらと笑うような声、正行はとっさに石でも投げてやろうかとあたりを見回したが、この森にそんなものがあるはずもなく。


「まあ、気にしないのがいちばんかもね」


 とロゼッタは正行に背を向けて歩き出すものの、その肩がひくひくと動いている。

 正行も足を進めながら、


「ロゼッタ、おまえ、笑ってるだろ?」

「わ、笑ってないよ」

「うそだ、笑ってるね」

「笑ってるね、笑ってるね」


 頭上でがさごそと枝を移るような音、しかし姿は見えぬまま、葉が何枚か雪のように舞い落ちる。


「あはは、正行くんばっかり真似されすぎだよ」


 とロゼッタが耐えきれず笑い出せば、正行も枝を仰ぎ見て、


「ほんとだよ。ロゼッタの真似もやれよ、おまえら」

「ロゼッタ、ロゼッタ」

「名前じゃねえよ。その真似をやれって言ったんだよ」

「やれって言ったんだよ、やれって言ったんだよ。ロゼッタ、ロゼッタ」

「くそう、猿の分際で人間さまをばかにするとは」

「向こうは仲間だと思ってるのかもね」


 と口元に笑みを残しながら、ロゼッタ、


「アレン猿って本当は警戒心が強い動物だから、あんまり人間の前には出てこないの。正行くん、好かれてるんじゃない?」

「姿も見えない猿に好きって言われてもな」


 ぽりぽりと頭を掻けば、頭上から正行と同じ声で、


「好き、好き。ロゼッタ、好き」

「へ、へ?」


 ロゼッタが慌てた様子で振り返るのに、正行もぶんぶんと首を振って、


「お、おれじゃないよ、猿、猿!」

「あ、そ、そっか――びっくりしちゃった」


 と息をついたあと、ロゼッタは思い出したようにむっとして、


「そんなに否定しなくてもいいじゃん」


 すたすたと正行を置き去りにして進めば、正行も慌てて枝をかき分けて追いかける。

 しばらくはふたりの頭上をついてくるような、樹上の気配、甲高い鳴き声も聞こえていたが、いつしかそれもいなくなっている。

 あとはふたりが草をかき分ける音、あるいは森の外ではまだ降り続いているらしい雨音がほんのかすかに聞こえ、美しい声で虫が鳴くこともあれば、鳥が飛び立つような音や獣の鳴き声もあって、森のなかには様々な物音が満ちている。

 そのなかで、比較的するすると歩けるのはロゼッタの誘導があるおかげだと、正行はいまさらのように気づいた。

 ロゼッタの足取りには迷いがなく、はじめからよく知っている道を歩いているよう、しかし聞いてみればロゼッタも森に入るのははじめてというから、よほど野生の勘が鋭いにちがいない。


「おれひとりなら、間違いなく遭難してるな、これ」


 正行はさらに深まっていく森のなかでふと立ち止まり、恐ろしいやらなんやら、背筋をぞくりと震わせた。

 木々はさらに密集し、周囲は濃い色の緑で満たされ、折り重なる枝や蔦のせいで手の届く範囲すら視界がおぼつかぬほど。

 つと頭上を見上げても、幾重にも重なった葉はすっかり空を覆い隠し、ほんのかすかに木洩れ日、それも雨の日のことで弱々しく、鬱蒼とした森の奥まで照らすには至らない。

 幹に手をつき、根を乗り越え、蔦を踏みつけ、枝を払って。

 がさごそと進むロゼッタと正行を、森の至るところから、数えきれぬ目がじっと見つめている。

 たとえば木の幹にぴたりと張りついた甲虫、流れ出す樹液を舐め取りながらふたりの人間を見つめ、いびつにゆがんだ角を上下に。

 枝の上では嘴の長い黄色い鳥がじっとふたりを見下ろして、羽根を音もなくふわりふわりと振っている。

 足下にも腐葉土を這い回る蟻が、あるいは土のなかに潜っているみみずがふたり分の足音を感じ、木の幹にするすると上ったり土深くへ潜ったりと逃げ惑っていた。

 二時間ほど、ふたりは歩いたろうか。

 森のなか、正確な移動距離はわからぬままだが、疲労はそれなりに溜まって、正行はなんとなく情けない声、


「なあロゼッタ、いつまで歩くんだ?」

「まだまだ、森に入ってまだちょっとしかきてないよ」


 とロゼッタは後ろを振り返り、幹にもたれかかっている正行を見てため息、


「正行くんは運動神経もないけど体力もないね」

「きっぱり言うなあ、おまえ……ま、ほんとのことだけど」

「じゃあ、ちょっと休憩しよっか。まだ先も長いし」


 ロゼッタは正行が休む幹まで戻ってきて、近くに垂れ下がる人間の顔ほどもある大きな葉を一枚ちぎると、それを尻の下に敷いてちょこんと座った。


「なるほど」


 と正行も真似をして腰を下ろせば、ようやく足を休められる。


「ふう、疲れた」


 思わずといったように正行は呟いて、ぐいと頭上を仰ぎ見る。


「たしかにちょっと変な森だけど、思ったよりは普通だな。もっとこう、怖い感じを想像してたけど。ロゼッタも、ちょっとがっかりだろ」

「ううん、ぜんぜん」


 とロゼッタは膝をきゅっと抱え、なるほど、爛々たる眼差しは相変わらずである。


「やっぱり秘密の森っていうだけあるよ、ここは」

「そうなのか?」

「だってね、ほら、あれ見て」


 ロゼッタは正行にすすと身体を寄せてある植物を指さすが、その無防備さといえばない。

 正行はすぐ近くに感じるロゼッタの気配にどぎまぎしながら、ロゼッタの指先を追って、


「あの、ちいさな赤い花をつけてる木、あるでしょ」

「ああ、あるある」

「そのとなりにおっきな葉っぱの木があるの、わかる?」

「ああ、わかるわかる」

「あの二本はね、ほんとなら生えてる場所も適した季節もまったくちがう植物なの。葉っぱが大きいやつは、気温が高い場所にしか生えない植物。赤い花をつけてるのは、反対に寒いところでしか育たないはずの植物なの。それにあの花も、本当なら冬の寒い時期につけるはずで、この気温で咲くはずないんだけど」

「ははあ、それが共存してるわけか。なんで、そんなことができるんだろうな」

「それが秘密の森なんだよ、きっと」


 とロゼッタはいたずらっぽく笑って、そのくしゃとゆがんだ笑顔は、王女というよりはやはり好奇心旺盛な少女の顔なのだ。

 ロゼッタは抱いていた膝を離し、ぐっと幹にもたれかかって、


「それか、魔法が影響してるのかも」

「魔法? だれかの魔法のせいってことか」


 と正行が不思議そうに言えば、むしろロゼッタのほうが首をかしげ、


「正行くん、魔法のこと、詳しくないの?」

「ば、ばか言え、おれはなんだって詳しいぞ」

「じゃ、説明しなくていいね」


 ふいとロゼッタが顔を背ければ、正行はむっと悔しげな顔、


「ぜひ教えてください」


 と頭を下げ、ロゼッタはふふんと鼻で笑う。


「しょうがないなあ。あのね、魔法っていうのは、この世界全体に満ちてるものなの。空気って考えたらわかりやすいかな」


 ロゼッタは指をぴんと立て、隠そうともしない自慢げな顔。


「息を吸って、吐いて、人間もほかの生き物もみんなそうやって生きてるでしょ。魔法もおんなじ。この世界に満ちているものを吸収して、吐き出す。この森は魔法の濃度がとっても高いの。だから季節外れの花が咲いたり、不思議なことが起こったりするんだよ。わかった、正行くん?」

「くっ、その顔が腹立つ……ま、まあ、わかったよ」


 と渋々正行はうなずいて、


「でも、魔法は使える人間と使えない人間がいるだろ。おれなんか、まったく使えないけど」

「それは体質だね。同じ魔法使いでも、まわりに漂ってる魔法の力をたくさん取り込めるひともいれば、あんまり取り込めないひともいるし。ちなみにあたしはたくさん取り込めるひとだけど」

「自慢か」

「一応、エゼラブル王国の王女だからね。魔法のことは譲れないよ」


 胸を張るロゼッタは、あながち冗談ばかりで言っているのでもないような雰囲気、正行もふと自分の立場を思い出して。


「エゼラブル王国は、全員が魔法使いなんだろ。純粋なる魔女の血統、だっけ。だから、結婚しても男は国には入れない」

「魔女っていうか、修道女に近いけど」


 とロゼッタは苦笑いして、


「でも、なんにも特産のない国が、ずっと昔からいままで残ってきたのは魔法使いの血統を絶やさなかったおかげよ。魔法使いひとりは、兵士十人以上の力を持ってる。とくにエゼラブル王国の魔法使いはみんな優秀だから、ほかの国も簡単には手出しできない――うちの国を攻めようったってだめなんだからね」


 と後目で正行を見れば、正行も笑って、


「攻めるつもりはないよ。いまのうちにはそれだけの兵力もないし、自分の領地すら守れないくらいだ」

「ふうん――大変なんだね、そっちも」

「大変なのはアリスだけどな。おれはただの異邦人だ」

「ねえ――」


 とロゼッタが声をかけるのと同時、正行は立ち上がっていて、


「ん?」


 と振り返るが、ロゼッタはゆるゆると首を振った。


「ま、いいや。そろそろ行こっか」


 ひょいと立ち上がるロゼッタは、まだまだ体力が有り余っているよう、多少は回復した正行だが、心持ちうなだれて、


「帰ったら二、三日は筋肉痛で動けなくなるだろうなあ」

「そのときはあのきれいなお姫さまに看病してもらえばいいじゃん」

「王女に看病させる臣下がどこにいるよ」

「そんなこと言うんだったら、あたしのことも敬ってよ。一応王女なんだから」

「正式な場で会ったら、そうするさ」


 と素っ気ない正行に、ロゼッタは怏々たる顔のようでもあり、ほんのすこしうれしそうな顔でもあり。

 ともかくふたりは、森の奥へ向かって再び歩き出したのだ。

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