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八重鏡  作者: 藤崎悠貴
秘宝と王女と大鳥と
20/122

秘宝と王女と大鳥と 1-2

  *


 かつてのグレアム城はすぐ背後に山々控え、その裾野に建っていたものであるから、敷地の面積としてはちいさくこぢんまりとしていた。

 そこへきてノウム城、広大なる野原に建つ城である。

 城下町も広々としていれば、城自体も広く、グレアム城では城の前の広間で演習をしていたほどだが、ノウム城においては城の内部、民衆の目に触れぬ位置に中庭があり、それも充分な広さを持っているから、兵士の訓練はおおむねその中庭で行われる。

 地面は乾いた土、石造りの壁にぐるり取り囲まれ、端のほうにちらちらと植物が生えて、薄暗く湿気てはいるが、訓練には適した庭である。

 兵の管理をする武官では最高位につけるロベルト、ほかの兵士に比べれば城のなかで仕事をすることも多いが、たまにはこの中庭へ出てきて、ほかの兵士に稽古をつけたり、自ら身体がなまらぬように鍛えたり、勤勉な姿勢を示して部下にもよい影響を与えている。

 自然、ロベルトが中庭へ出ると、どこから聞きつけたものか、ロベルトの鍛錬を一目見ようと兵士たちが集まってくるようになる。

 ロベルト自身は慣れたもの、しかし今日ロベルトとともに中庭へ出ている青年、雲井正行は、刻々と増えてゆく兵士たちをちらりと見て、


「なあ、場所、変えない?」


 といたたまれぬような顔。

 ロベルトはふんと笑って、


「別に悪いことするわけでもねえのに」

「そりゃ、そうなんだけどさ……なんていうか、恥ずかしいし」

「最初はだれだってできねえもんさ。繰り返すうちにすこしずつ覚えていくんだ。とりあえず、正行殿もはじめてみることが大事よ」

「わかってるんだけどさ。なんか恥ずかしいんだよな」


 正行はぽりぽりと頭を掻き、周囲の兵士、これからなにが行われるのかと興味津々、目を光らせて中庭に集まる。

 正行とロベルトは、踏みならされた硬い地面、確かめるように何度か足を鳴らして、それから向かい合う。

 ロベルトは帯剣、すらりと抜き払えば、薄暗い中庭に炯々たる反射光。

 石造りの壁を白銀に近い光がさっと駆け抜け、剣先がぎらと光るのに、正行は顔を引きつらせて後ずさる。


「ちょ、ちょっと待った! 真剣はだめだって、練習なんだから!」

「真剣でやらなきゃ、うまくならねえぜ」

「段階を踏んでから、最後に真剣だろ。最初は当たっても怪我しないような、木の棒かなんかがいいよ」


 ふむ、とロベルトは剣を鞘へしまって、そばにいた兵士に、


「模擬剣を持ってきてくれ」


 と頼む。

 兵士はすぐ城のなかへ、正行はふうと息をついて、


「練習で死ぬとこだよ、まったく」

「臆病だなあ、正行殿は」


 ロベルトは快活に笑い、


「それがあんな大それた作戦を考えたとは思えねえぜ」

「頭で考えるのと、実際に体験するのとは話が別だろ」


 唇を尖らせる正行、足をさっと蹴り上げれば、硬い土塊がころりと転がる。

 中庭は四方を壁に取り囲まれるが、頭上は抜けて、青い空、四角く切り取られて見える。

 今日も天気はよいが、風が強く、四角い枠のなか、白い雲が見る見るうちに流れ去ってゆけば、時折風にまかれたような鳥も飛んで、空気もひやりとしていた。

 やがて、兵士が模擬剣を持って戻ってくれば、正行は荒削りで無骨な、文字どおりの木の棒に驚きながら受け取って、


「これはこれで、当たったらやばいなあ……」


 ぱちぱちと手のひらに当てて打ち鳴らし、口元を引きつらせる。

 長さは剣よりも短く、重さだけはずっしり、ぎゅっと握っていなければ取り落とすほどで、振り回すにも腕力がいる。

 正行が両手でようやくまっすぐ構えるのに、ロベルトは片手で軽々と振り回し、


「ちと軽すぎるな」


 と呟けば、正行はすかさず、


「鍛えすぎなんだよ、ここの兵士は」

「正行殿がひ弱すぎるんじゃねえか。馬には乗れるようになったかい?」


 ロベルトが聞けば、周囲の兵士がくすくすと笑い、正行はむっとして、


「の、乗れるようになったよ。すくなくとも落ちない程度には。おれは昔から、やればできる子って言われてたんだから」

「じゃあ、剣もあっという間に覚えるかもな」


 ロベルトは木の棒で肩をとんとんと叩きながら、その頭は正行よりもはるか上、背中へすっぽり隠れれば姿が見えなくなるほど体格がちがう。


「じゃあ、まずは攻撃の練習だ。とりあえず、おれに攻撃してみろ。加減は必要ないから、一撃必殺のつもりでな」

「む、じゃあ遠慮なく」


 と正行も、自分の一撃が千軍万馬の兵士たるロベルトに当たるとは思っていない。

 両手で木の棒を構え、たたと駆け寄り、右へ振りかぶって一閃、硬く乾いた木同士がぶつかり合う鈍い音に、正行は思わず目を細めた。

 無論、難なく受け止めたロベルト、正行はちらとその顔を見て、


「どうだった?」

「率直な感想で言うなら」


 とロベルトは頭を掻き、


「子どもでも、もうちょっとマシだろうぜ」

「むっ、そんなことないだろ。結構全力でやったぞ」

「全力ってのはな」


 ロベルトはすたすたと何気ない足取り、壁に近づいたかと思うと、筋骨隆々たる腕がぐいと背中へ反って、ぎしと身体が軋むよう。

 ばね仕掛けのように力が放たれ、撲殺さえできるような木の棒、石の壁に叩きつけられ、身をすくませるような轟音。

 ぼとり、と音がしたとみれば、柄の部分から棒が折れて、荒々しいささくれを晒しているのである。

 先端部分は後方へ、正行の足下へころころと転がって、それがまるでひとの頭部のよう、靴の先にこつんと当たって止まれば、なにやらぞっとするような白い断面に、正行は肩をすくませたままロベルトを見た。

 ロベルトはちらと振り返り、にたりと笑って、


「こういうのを、全力って言うんだろう」

「そ、それは怪力っていうんじゃないのか」


 まさかこの世界の住人はだれでも可能なのかと見回せば、周囲の兵士も茫然自失、眦決して、口をあんぐり。

 ロベルトは根本だけになった木の棒を手のなかでくるくると回しながら、


「技術より、まずは力だな。正行殿、剣を持つ前に鍛えたほうがいいぜ。無力のまま剣を振るえば、自分も危険になる。いまの段階では戦えんと思ったほうがいい。そういう場面に出くわせば、まずなにより逃げることを考えるんだ」

「はあ……まあ、そうかもしれないな」


 逃げる自身もないがゆえ、剣を教えてくれと頼み込んだ正行だったが、ロベルトの人並み外れた怪力を目にすれば、とてもあんなものとは戦えぬという心情、素直に諦め、重たい木の棒を手放す。


「なに、心配はいらんさ」


 とロベルト、慰めるようにぽんと肩を叩いて、


「正行殿にはベンノのじいさんにも負けねえ頭があるんだろ。いざとなりゃ、それを使えばいい」

「じいさんほど、ねえ。ほんとにそうならいいんだけどな」


 とため息ひとつ、どうもこの荒々しい世界で生きていくのが不安になったらしい正行である。

 ロベルトとふたり、そして野次馬をしていた兵士数人も引き連れて中庭を出て城へ戻れば、複雑に入り組んだノウム城のなか、兵士たちはそれぞれ持ち場へ戻るため、散り散りになってゆく。

 なにも予定がないロベルトと正行は、何気なく連れ立って、大理石の床、こつこつと鳴らしながら、なんとなくの雑談。


「ロベルトは、昔からそんなに強いのか」


 正行の視線は、自分の身体ほども太いロベルトの腕、ちらと見て。


「昔はおれも病弱だったよ」


 とロベルト、身長差から正行を見下ろして、


「それでまあ、一時期は頭のほうがいいだろうと思ってな、じいさんに弟子入りを頼んだりしたが、結局こっちの道にきちまったのさ。いまから思えば、おれはこの道が合ってると思うぜ。なんたって気が楽だ」

「気が楽?」

「正行殿やじいさんみたいに、自分の考えひとつで国が動くってわけじゃねえ。おれは戦うだけ、目の前にいる敵を倒すことだけ考えてりゃいい。そのほうが性に合ってる。人間がどうのこうの考える必要もねえからな」


 部屋を抜ける度、正行の指先は扉の表面を撫で、離れる指先も名残惜しげ、また次の扉まで壁をつつと伝う。


「でも、直接ひとを殺したりするだろ」


 と正行が言えば、ロベルトは口元をゆがめて、


「おれの手が殺すのも、おれが他人の手を使って殺させるのも、同じことだ」


 そのゆがめた口元に、得も言われぬ強さと繊細さを感じ取って、正行は思わず押し黙った。


「正行殿はどうだ。自分の手で殺すのと、他人の手で殺すの、どっちが楽だ?」

「さあ――どっち、かな」


 正行はぽつりと、


「おれは、他人の手で殺すほうが楽かもしれない」


 と答えるのに、ロベルトはちいさく笑って、


「それなら、正行殿の進む道は正しい。苦手なら、やる必要はねえのさ。ただ理解だけしていればいい。そこにある悲しみや痛みを理解していれば」


 ふたりは進んで、派手派手しい部屋、壁一面に花畑のごとき絵、白いアネモネの花弁に黒点のような虫が止まれば、爽やかに青く控えめな竜胆の奥、獣の目がきらりと光って、すらりと空へ向かって伸びる葉の彼方には白い身体、どうやら兎らしい耳がひょいと覗く。

 そこに風が吹きつけているようになびく草花の頭、抜けていく爽やかな風の匂いまで感じられるような、鮮烈な絵である。

 四方の壁一面の絵には木々もあるが、棗などほんのちいさな黄色が葉の根元に見えるかと思えば、同じ枝には丸々と実がなる。

 季節も場所も厭わず乱れ咲くのに、天井を見上げれば、そこには青空という趣向。


「こういう部屋は、グレアム城にはなかったな」


 と頭上仰ぐ正行が呟けば、ロベルトもあたりをぐるりと見回して、


「たしかに、国王さまは贅沢を好まん性格だからな。このようなものは無駄、というわけだ。しかし見てみれば、贅沢も悪くはない」


 無窮の自然を思わせる部屋を抜ければ、次はまばゆいばかりの金箔、壁といわず天井といわず貼りつけられ、揺らめく炎の光を受けて妖しく陰影が動いている。

 さすがにこれは悪趣味だ、と正行とロベルトが顔を見合わせて笑えば、ちょうどそこに扉が開いて、


「わっ、わっ――」


 と焦るような声。

 ロベルトの背中にとんとぶつかって、


「きゃっ――」


 悲鳴ひとつ、どんと大理石の床に転がったのは、城の女中である。

 ロベルトはちらと振り返り、


「おっと、すまねえな。怪我はないかい」


 と手を差し伸べる、無意識のうちにそれを掴んでいながら、女中ははとロベルトに気づいたよう、


「ろ、ロベルトさま、もも、申し訳ございませんっ」

「なに、こんなところで立ち止まってるおれが悪い」


 ロベルトが言えば、となりの正行、腕組みに首肯して、


「たしかにロベルトのでかい身体は邪魔だ」


 と中庭での意趣返し、ロベルトは苦笑いで女中を助け起こす。

 女中は慌てて立ち上がり、スカートの裾をさっと払えば、正行も見覚えのある顔、


「クレアじゃないか。また城のなかで迷子か?」

「はっ、ま、正行さまっ」


 まだ年若い女中、クレアは丸い頬をさっと赤らめ、恥ずかしげに髪を引っ張るが、前髪は眉毛の上でつんと突っ張り、顔を隠すにははるか足りぬ様子。


「そ、その、ま、迷子では、あの」

「ま、落ち着けって」


 と正行、ロベルトのたくましい腕をぺちぺちと叩き、


「この身体に威圧感を覚えるのは無理もない。でかすぎるよな、このひとは」

「うーむ、おれは正行殿を見て余計に緊張したようにも思えるが」


 ロベルトは腕組みし、無骨そうな外見に似合わず鋭いらしい、にやりと笑ってクレアの肩をぽんと叩いた。


「ま、がんばれよ」


 クレアは首までまっ赤、うつむいてもじもじとスカートの裾を触るのに、唐変木たる正行、なんのことだと首をかしげて、気づかぬは当人ばかりなり。


「正行殿、この女中、どうやら迷子らしい。目的地まで送ってやれよ」

「ろ、ロベルトさまっ」


 とクレアが悲鳴を上げるのに、正行はやはりわからぬ顔、


「そりゃ、送るくらい別になんでもないけどさ。どうしたんだよ、急に」

「頭の出来はともかく、心情見抜く目はおれのほうが達者なようだ。これも若いうちに経験しておくべきことだな。はっはっは」


 高笑いのロベルト、背中でひらひらと手を振りながら部屋を出ていく。

 金箔の、過剰に眩しい部屋のなか、正行は不思議げで、クレアは言葉を失って。

 長いスカートをぎゅっと掴む指先白く、ぐるぐると内側へ巻いて後頭部でまとめた髪、やわな産毛が生える首筋さわさわと揺れて、いまにも落涙しそうな大きな瞳がちらと正行を見上げた。

 その目にぱっと花が咲いたようなのにも、正行は気づかぬらしい、平然と見返す無情さよ。


「どこ行くつもりだったんだ。食堂か?」

「いえ、その……」


 もじもじ、うつむいてちいさく頭を振れば、黒い髪が一房肩へ落ちて。

 慌ただしくそれをぐいと持ち上げる指先は、ようやくすこし落ち着いたようで、


「あの、王女さまのお部屋に。その、近くご出立なさるということですから、その準備に」

「ああ、そっか。たしかにアリスはいろいろと準備も大変そうだな。じゃ、そこまで案内しよう」

「あ、あの、正行さまにそのようなことをさせては、またあの、わたし、叱られてしまいますから」


 歩き出す正行の背中、つと指先を伸ばしたことにクレア自身驚いた顔で、びくりと腕を引っ込めてぎこちなくスカートの裾がするすると。

 振り返った正行は、口元に薄く笑みを浮かべて、そこに自らの指先をあてがい、


「おれたちが内緒にしてりゃ、ばれないよ」


 気取ったようなその仕草、あとで自身恥ずかしくなって照れ笑いするが、その笑顔にもクレアは「はあ」と熱い息、目を見れば、心に温かな愛情ありとだれの目にも明らか。

 根が鈍感なのか、まさか自分がと思っているのか、正行は微塵も気づかぬ足取り、クレアは慌ててその背中を負って、斜め後ろ、歩いていることさえ恥ずかしく、うつむいてちらちらと正行の背中を窺えば、愛らしい眉毛も照れたように傾く。

 金箔の部屋を抜ければ、一見装飾のすくない小部屋、四方の壁はただただ白く、視線が無意識のうちに装飾を探せば、紺色の天井の隅にぽつり、わずかなおぼろ月。

 派手派手しい装飾のなかで、こうした空白を使う演出も巧み、正行はほうとうなって、


「この装飾を指示したひとって、たしか前の王妃なんだよな。ずいぶんと芸術が好きだったんだろうな」

「芸術好きは、それより一代前の方から続いているそうです」


 とクレア、控えめに解説する。


「一代前って?」

「それは、その、アリスさまの大伯母さまにあたる方で。嫁がれてからはあまり関わりもなかったようですけど。その方が、ノウム王国が建国されたとき、建国の英雄たるノウムさまのお母さまとしてこの城の装飾などを指示なさったそうで」

「ははあ、そうなのか。人間関係も複雑だな、そのへんは」

「かつてはこのあたりの国もひとつでしたから。それが三十年ほど前、いくつかの小国に分裂して、グレアム王国もノウム王国もそのひとつ、もとは同じ王国の臣下同士でした」

「ああ、なんかそのへんの話、ベンノのじいさんから聞いたことあるな」


 正行はぽりぽりと頭を掻き、クレアをちらと振り返れば、クレアはそれだけで身体をびくり、視線から逃れるように正行の背中へするすると隠れる。


「よく覚えてるな、クレア」

「いえ、その、そういうお話を、昔お父さんがよく聞かせてくれて……お父さん、グレアム王国の兵士だったんです。いまの国王さまの下で戦って……いまはもう、病気で死んじゃったんですけど」


 クレアは目を伏せ、まつげがふるふると揺れる。


「最後まで、病気では死にたくないって、兵士なんだから戦って死にたいって――あ、あの、ごめんなさい、こんな話」

「いや、うん、おれは兵士じゃないし、ここの人間でもないからいまいちその心情は理解しきれないけど、でも、わかるような気はするよ」


 正行は次の部屋の扉、まるで非効率にちいさな部屋が並ぶなかを行くに、


「男って、そういうもんなのかもしれないな」


 扉ひとつ越えるたび、ふたりの距離が近づくような、離れるような。


「自分の死に方は、自分で選びたい。それ以外の死に方をするくらいなら、どれだけつらくても生きのびたほうがいい」


 続く部屋は、こんなときに限ってなにもないがらんとした部屋、クレアはなにが悲しいか、目いっぱいに涙を溜めている。


「正行さまも、そう思われますか」

「おれか? おれは、どうかな」


 と正行の口元に浮かぶは自嘲のような笑みで。


「おれは、とりあえず生きていたいよ。一回死んだようなもんだからな。せっかく余分な人生をこうして生きてるんだし、もうすこし生きていろいろ見たいし経験もしたい。――なんだ、泣くなよ。しまったな、泣かせるつもりはなかったんだけど」

「ごめんなさい、ごめんなさい」


 正行は立ち止まって、クレアは肩を震わせる。

 ぽたりぽたりと足下へ涙の雫が落ちていくのに、正行は困ったようにあたりを見回すが、クレアはちいさく首を振って、


「わたし、どうして泣いてるんでしょう――どうして悲しいんでしょう」


 無論正行が答えられるはずもなく、押し黙っているうちにクレアはぐいと目元を拭って、顔を上げれば笑みもあるが、目元がはっきりと赤い。


「ごめんなさい、お時間をとらせて」

「いや、いいさ。なんの予定もないし」


 正行は後頭部に手をやりながら嘯いて、またすたすたと歩き出す。

 それが、どうやら王女の部屋へ向かっているのではないと気づいたクレア、細い廊下を歩く正行の背中を心細そうに追って、


「あ、あの、どちらへ」

「いっしょに散歩でもしようぜ」


 と気軽に歩いてゆけば、城壁の上、ぐるりと囲む回廊に出て、青空が覗く。

 クレアは赤く腫れた目元にふと気づき、恥じ入ったようにうつむいて、その首筋に肌寒い風。


「すみません」

「クレアは謝りすぎだな」


 先を行く正行、歩く速度を遅くしたかと思えば、クレアに並びかけて、クレアはびくりと驚くやら恥ずかしいやら、もぞもぞと背を向ける。


「おれの態度のでかさを見習うべきだな」


 と正行、呵々と笑って。


「おれなんか、アリスも呼び捨てだぜ。すごいだろ」

「そ、それは、正行さまは立派な軍師さまですから」


 熱く火照った首筋にひたと手をやれば、そこに感じる冷たさもなく、クレアはつと顔を上げた。

 正行の服の裾、ぱたぱたとなびいて、風上に背を向けるよう、


「寒くないか」


 さすがに照れるらしく明後日の方向を向けば、クレアもかっと身体を火照らせて、


「だ、大丈夫です――あの、正行さまこそ」

「おれは大丈夫だよ。ま、これを一周するころには目の充血も戻ってるだろ。あと、おれのことは呼び捨てでもいいんだぞ。客じゃないし、ましてや国の重鎮ってわけでもない、ただの居候なんだから」

「そんなことっ」

「おれはちょっと、ここでいい暮らしをしすぎてるんだよな」


 と独りごちながら、正行はクレアの歩調に合わせて歩く。


「もうちょっと厳しい世界だと思ったよ。実際、おれは恵まれてるんだろうな」

「みなさま、正行さまの頭脳はすばらしいとおっしゃいます」

「たまたまなんだよ、それも。次はどうかな。みんなおれのことなんか見放して、どっか行っちゃうかもしれない――そうなりたくないから、おれも努力はしてるけど」


 城壁の外、ちらと視線を向ければ、収穫を間近に控えた稲畑、重たい穂を揺らしてゆったりと波打っている。

 その向こうには延々と青い野原、起伏がほとんどない地形で、時折細い川がちいさな蛇のように流れている。

 ずっと視線を遠くへ向ければ、ほんのかすかに山の陰、そこまで見渡せるのも空気がよいせいだろうが、のっそりと稜線が現れ、裾野は白く煙って見えぬさまは、ただただ壮大で偉大なのだ。

 青い野面、いままでいくつの戦場になった土地であろう、いまはその気配もなく静まり返り、風に揺れる高い葉もない、ただがらりとした古戦場を肌寒い風が抜けるのみ、それを感ずるは地下に巣作る土竜かちいさな昆虫の触角くらいのもの。

 壮絶なもののあとにくるのは、常に無情なのだ。

 正行がふと立ち止まれば、流れる毛先、小柄なクレアがぼうと見上げる。


「おれはひとを殺したこともないし、殺されかけたこともない。身近なだれかが死んだこともないし、自分が死ぬなんて本当は微塵も思ってない。ここのひとたちが経験してることを、おれはなにも経験してないんだ。そんなおれに、あのひとたちほど説得力がある言葉は使えない。そんな生き方もできない。おれみたいなのがここにいて、みんなと話したり笑ったりしていいのかと思うよ」


 よほど、その表情が寂しげに見えたものらしい。

 気づけばクレア、正行の裳裾をきゅっと掴んで、熱心に正行を見上げている。


「そんなこと、ないと思います」


 気弱で謝ってばかりいるクレアらしくない、断固とした口調である。

 正行が驚いて見下ろすのに、クレアはまっすぐその目を見返して。


「正行さまは、立派にこの国の、わたしが暮らすこの国のひとだと思います。経験しているとかしていないとか、そんなこと関係ないと思うんです。他人を大切に思う気持ちというか、その、あの……な、なにが言いたいのかわからなくなっちゃいましたけど、とにかく正行さまはご立派ですっ」


 言いつのって落ち着くところがそれなら、正行もなんとなく笑って、


「ご立派か、おれは」

「ご立派ですっ」


 鼻息も荒く言えば、正行はいよいよ朗らかに笑う。


「じゃあ、そういうことにしようか。でもあんまり興奮するなよ、また泣いちゃうぞ」

「な、泣きませんっ」


 クレアはぱっと裳裾を離して、恥ずかしげにうつむいてスカートの裾をひらひら、思わしげに揺らせば風が吹き抜け、髪留めがずるりと外れて髪が散る。


「わ、わっ――」


 慌てて髪を押さえ、正行はせめて風防にと風上に立つ。


「すみません、すみません」


 正行に気遣って急げば、髪はいよいよ乱れて収まらぬ。


「ゆっくりでいいよ。時間はあるんだし。なんならおれがやってやろうか」

「ま、正行さまが?」

「妹がな、いるんだ」


 と一瞬正行の表情に得も言われぬ悲しみが通りすぎるのには、さすがにクレアも気づかぬ様子、次の瞬間には正行も笑顔になって、


「ガキのときはよく頭をめちゃくちゃにしていじめてやったもんだ。最近は、それやったら本気で怒るからあんまりやらなくなったけどな」

「と、ときどきはやるんですね、それでも」


 クレアは城壁の上を掠める強風に髪をなびかせ、それを下の城下町、幾人かがちらと見上げている。


「その代わり、やったあとはちゃんと元どおりにしてやるんだ。だから髪まとめんのとかはうまいんだよ。ちょっと貸してみ、芸術的な髪型に仕上げてやるから」

「い、いいです、自分でできますから! それに、げ、芸術的な髪型はちょっと……」

「ちぇ、おれの言うとおりにしてれば道行くひとすべてから笑われるのにな」

「笑われたらだめじゃないですかっ」


 けらけらと明るい笑い、それが収まらぬうち、クレアは落ち着いて髪をまとめて、後頭部に髪留めを挟む。

 それでふたり、並んで歩けば、まるでひとときの逢瀬を楽しむ恋人のよう。

 城壁を一周するうちに陽もすこし傾き、城下町にふたりの影が落ちて、それが笑うように揺れたり、すこしずれたり重なったり、淡い気持ちを感じさせる影絵となる。

 クレアは基本的にスカートをぎゅっと握りしめ、緊張するような面持ちだが、正行はとくにそれを気遣う様子もなく気楽な顔。

 城下町の子どもが正行に気づき、声を上げて手を振れば、ひらひらと振り返したり舌を出したり、きゃっきゃと明るい声が返ってくるのを、クレアは後ろに控えてやわらかな笑み。

 やがて城内へ戻り、王女の部屋の前、正行はくるりとクレアを振り返って、


「さすがにここまで案内すれば、迷子にはならないだろ」


 と笑うので、クレアもちょっとふくれ面、


「もともと迷子じゃありませんから」

「どうかな」


 正行は笑声残して廊下を去っていくが、クレアはそれを呼び止めたものかどうか散々迷い、指先がスカートの上をするすると這って一度など宙へ持ち上がったが、結局「待って」の声が出ないまま、正行の背中は廊下の角を曲がって消えた。

 しゅんとしょげるクレア、うつむいて、スカートの裾を左右へひらひら、いじけたように揺れるのを見ている。

 しかしはたと自分の目的を思い出したようで、慌てて扉にすがって、こんこんと叩く。


「王女さま、ご準備は済みましたか」


 と声をかければ、室内でとんとんと足音、扉が開けば、世にも美しい顔がひょいと覗く。


「それがね、まだ済んでいないの。手伝ってもらえるかしら?」


 小首をかしげれば、長い黒髪がさらと背中を流れ、肩をつるりと滑って身体の前へ一房。

 頭のまん中でふたつに分けた黒髪は、濡れ光るように深い黒、毛先までしっとりと落ち着いて、繊細に揺れる。

 肌はといえば対称的に白、よく晴れた日の爽やかな朝日のように輝いて、ドレスからあらわになる肩や胸元も清廉、それでいて同性の視線さえ惹きつけて止まない。

 大きな目はやさしく目尻が垂れ、眉は細く真横へすっと通り、うす紅色の唇は小鳥のように愛らしい。

 クレアはどうしたものか、同性でありながらこの王女、アリスの前でも落ち着かぬ心地、もじもじとスカートを掴んでいるところなど正行への態度と大差ない。

 そこへきてアリスも正行同様、クレアの照れやちょっとした機微など気づきはしないから、


「あら」


 ひょいと手を伸ばしてクレアの髪に触れ、乱れた髪を直すあいだ、クレアはびくりと身体を硬直させて、アリスの白い腕をちらちらと見ていた。

 アリスのこまやかな指先、すこし乱れていたクレアの髪を直して、髪留めを着け直し、ぽんとやさしく叩く。


「これでいいわ。かわいくなった」

「あ、ありがとうございます――わ、わたし、女中なのに、王女さまにこんなこと」

「いいのよ、頭の後ろは自分では見えにくいから、仕方ないわ」


 アリスはぱっと花が咲いたように笑って、室内へ、クレアもほんのりと頬を赤らめて続く。

 部屋自体はがらんと広く、ものがすくない。

 すべて石造りだが、壁には天鵞絨の赤い布がかけられ、ほんのちいさな窓辺には水仙が一輪、室内に大きな影を落として揺れている。

 ベッドは国王に付き添うため、この部屋から王の寝室へ運び出されているから、残っているのは白木に金の装飾があしらわれたドレッサーと棚くらいのもの、アリスはそれを開け放ち、四角い箱へ詰め直す作業をしている。


「向こうには、何泊くらい泊まるのかしら」


 頬に手を当ててアリスが首をかしげれば、クレアは日程を把握しているから、


「道中で二週間ほど、あちらのお城に滞在するのは三日程度になるかと」

「ずいぶんここを開けることになるのね」


 憂う目元、思うは病状が依然として不安な王のことにちがいないが、


「国王さまも、ぜひ行ってきてくれとおっしゃっていましたし」

「そうね――お父さまの代わりを、しっかり果たさなきゃ」


 ぐっと拳を握りしめれば、目にも鮮やかな使命が宿り、自分の身に降りかかる運命を受け入れようという姿勢。

 道中を含めれば、長い旅となる。

 そのあいだの衣装はなるべく節約しなければならないが、向こうの城でみっともない衣装を着て笑われるわけにはいかず、道中もまた決して人目がない道のりではない、そう考えてゆけば、衣装の箱はひとつからふたつ、ふたつから三つとなり、あれやこれやと選定するうち、陽もほとんど置いて水仙の影も消える。

 室内に火を入れ、なおもあれこれと状況を考えて、それでもなんとか三つ以内に収めると、アリスとクレアは同時に深く息をついた。

 それから、どちらともなくくすりと笑い、


「今回の旅も、あなたがいっしょにきてくれると聞いてうれしかったわ。まわりが男のひとばかりというのも気を遣うものね」

「それも、ほかは兵士の方々ですものね」


 クレアは床に座り込み、ふわりと裾の広がったスカートを手でぱたぱたと押し潰しながら、どうやら優秀で屈強なる兵士の姿を想像したものらしい、なんとなく苦笑いするのに、アリスは小首をかしげて、


「ついてきてくださるのは、兵士の方ばかりじゃないわよ」

「え、そうなんですか? ほかにだれが――あ、ベンノさまですか」

「ベンノさまはこちらでお仕事があるから、一月も抜けられないでしょう。いっしょにきてくださるのはね、正行さまよ」

「ま、まさ――え、え?」


 とクレア、慌ててアリスを振り返れば、その表情には笑みもなく、なにを驚いているのかと純粋に不思議がる色。


「まだ聞いていなかったの、クレア?」

「き、聞いてないです……!」


 わわ、とクレアはいまから慌てた様子であたりを見回し、とにかく落ち着かぬらしい、スカートの裾をあまりに握りしめるので、すっかり皺だらけになっている。

 これから一月あまり、正行といっしょに行動するのだと考えるだけで、クレアは耳まで赤くしてぐっとうつむく。

 果たしてこんな様子で無事に旅を終えることができるかどうか、アリスはただ不思議そうにクレアを眺めるのみ。

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