流星落ちるはかの国に 1-1
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世界史の授業中、年老いてなお矍鑠たる教師の声がつらつらと響けば、教室の雰囲気も引き締まってまじめ顔。
ずらりと並んだ三十五人の教室で、ほとんどが黒板と手元のノート、それに教科書のあいだで視線を彷徨わせているなか、ぽつぽつとよそ見の生徒も見受けられ、なかでもいちばん後ろの窓際、雲井正行は完全に視線を窓の外、端から黒板など見るつもりない様子。
いとも涼しげな横顔、鼻筋はすっと通り、目は猫のように丸く、薄い唇をきゅっとはみ、頬杖に指先が耳朶で遊んでいる。
髪は傾けばさらと流れ、眉目秀麗といってもよいが、その目つきに多少のほの暗さ、鬱々としたものが見え隠れ。
せめて笑えば人懐っこく、だれにでも好かれるような彼だが、押し黙っているとまるで周囲を見下しているよう、窓の外を眺める視線にしても、特定のなにかを捉えているようで曖昧模糊、なにも印象は残さぬ様子でただ視界に収める。
午後のうちで最後の授業、終わりも近く、正行はちらと壁掛け時計を見上げて、自分の腕時計と時間を比べた。
腕時計のほうが二分早く、チャイムが鳴ったのは手元の時計で午後三時三十二分、一斉に机と椅子ががたがたと打ち震え、正行は教科書を鞄にしまって、ちいさく息をついた。
夏のこと、窓越しの空は充分に明るく、日暮れの気配もいまだない。
白い紙でこすったような水色の空、雲もいくつか浮かんでいて、明日には雨が降る予報。
「雲井」
と声かけながら近づいてくる友人に、
「おう」
と正行も応えて席を立つ。
ふたり連れ添って教室を出れば、廊下はひどい混雑で、会話もままならぬほどやかましい。
昇降口から下駄箱へ、行き交う生徒たちの楽しげな顔、ふたりか三人連れがほとんどで、ブレザーのスカートをひらめかせて階段を駆け下りる女子があれば、手ぶらで階段を上ってくるあばた顔の男子、高かったり低かったり動物園のごとき騒音。
校庭へ出てようやく会話ができるほど、広々とした空の下、正行が大きくあくびをすれば、傍らの桝村竹治は低く笑って、
「授業中から眠たそうな顔してただろ、おまえ。先生も見てたぞ」
「でも、当てられなかっただろ?」
と正行は自慢げに笑って、
「時間を確認しながら、よそ見してたからな。あれがもうすこし早い時間なら当てられるんだ」
「知能犯だな。そこまでしてよそ見したいかよ。女子がプールでもやってるんならまだしも」
「そしたら、時間なんて気にするか、ずっとそっち見てるよ」
「ちがいない」
笑うふたりの後ろから、たたと元気な駆け足、振り返る間もなく、
「またふたりでいやらしい話してるんでしょ」
黒髪を短く切った、くるくると目がよく動く少女、正行の妹たる一巳である。
一巳が並べば、ふたりは自然と歩幅を狭め、一巳に速さを合わせる。
「いやらしいってほとでもないよ。なあ、桝村」
「そうだよ、一巳ちゃん。ちょっとした世間話さ」
「うそ」
正行によく似た丸い目、濡れてきらと光って交互に見やり、
「お兄ちゃんと桝村さんがあんなふうに笑ってるときって、だいたいいやらしい話してるときだもん。あたし、知ってるんだから」
「ほんと、ちがうって。なあ、桝村」
「そうだよ、一巳ちゃん。ただ水着美少女の優先順位について話してただけさ」
「ほら、いやらしい話!」
「ばか、妹に兄の恥部をばらすんじゃねえ」
とんと腕を叩けば、竹治は大げさに押さえてにやにや、
「おまえはもうちょっと一巳ちゃんに嫌われたほうがいいんだよ。知ってるか、あのうわさ」
「どのうわさだよ」
「一巳ちゃんのブラコン説」
「はあ?」
と首をかしげる一巳、兄の正行を仰ぎ見て、
「このお兄ちゃんと、ブラコン?」
心底不思議そうな顔、正行はあごを撫でながら、
「なんか顔を見て言われると不愉快だな……」
「昼休みも放課後も、おまえらだいたいいっしょにいるだろ」
「だって兄妹なんだし」
「普通は兄妹でもそこまでべったりじゃないもんなんだよ。うちなんて、見てみろ、学校ですれ違ったこともないぞ」
「おまえんちの弟はまだ小学生だろうが。すれ違うわけねえ」
「まあ、とにかく、そのうわさが雲井の株を下げてるのは間違いないな。ブラコンとシスコンじゃしょうがねえ、って」
「待て、いつの間にかシスコンが追加されたぞ」
「やあねえ、こんなお兄ちゃんのブラコンなんて」
頬に手を当て、婀娜に首をかしげる一巳の愛らしさ、竹治は深々とうなだれて、
「ここだけの話な、一巳ちゃん。おれ、たまに流れ星に祈ったりするんだ。雲井正行に天罰をって。本人に言っちゃだめだぜ」
「聞こえてるよ」
竹治はぐいと顔を上げ、
「恵まれすぎなんだよ、おまえ。こんなかわいい妹がいて、ほかになにが望みだ」
「おれにだけやさしい美人の姉ちゃんとか」
「うわあ、へんたい」
「見ろ、妹に引かれたぞ、おまえのせいだ」
「おまえの願望が変態的なせいだろ」
ゆくゆく三人、あたりは昔ながらの家々で、塀の上では猫も鳴く。
コンクリートの塀ばかり左右を囲むなかに、等間隔の電柱と街灯、このあたりは夜中になると人通りもなく、一巳は正行がとなりにいなければ通らぬ道である。
道中にはなぞめいた由来の鎮守の森があり、あたりはすっかりコンクリートで埋めつくされた現代、喬木灌木異様なほどに入り乱れ、広さはせいぜい十坪程度、立ち入り禁止の柵はあるものの、それさえ育った木の枝葉に飲み込まれてほとんど見えぬよう。
道へ向かってもりもりと溢れ出しているような有り様だから、そのあたりは妙に薄暗く、霊感などなくとも妙な寒気を感ずるが、それもひとりでいればのこと、三人も揃ってかしましければ、知らず鎮守の森も過ぎ去って、二股の分かれ道、竹治は手を振りながら右へ。
「また明日な。主に一巳ちゃん」
「またあしたー」
と一巳も手を振り返せば、ブレザーの白いシャツ、袖がひらひらはためいて、となりで見ている正行、左へ歩き出しながら、
「半袖のシャツってさ、腕のところから胸のほうが見えたりするんだよな」
あとから追う一巳、ばっと鞄で胸を隠して、
「み、見たの?」
「見えたりするときもある、って話だ。気をつけなさい。おまえはそそっかしいんだから」
「お兄ちゃんほどじゃないもん」
ぎゅうと鞄を胸に抱きしめ、正行の傍ら、自然と合わせてくれる足取りで疲れることもなく、
「お兄ちゃんだって、たまにズボンのファスナー開いてるじゃん。気づいても教えないけど」
「教えろよっ。そのせいで兄は一日恥ずかしい思いをするんだぞ」
「あたしが恥ずかしいんじゃないし」
「他人事だなあ、おまえ……」
一七三センチの正行と一五四センチの一巳の身長差で、正行は一巳を見下ろす格好、するとだらしなく開けたボタンのなかがちらと覗いて、
「ほんっとそそっかしいな、おまえ。制服はちゃんと着なさい」
「着てるよ」
「あと白いシャツのときは派手な下着はやめなさい」
「み、見たなあ!」
「おれ以外にも見られてるかもしれないぞ。いいのか、それで」
「うう、やだ」
「だろ。だったら、生徒手帳にあるとおり、ちゃんとボタンを止めなさい」
一巳は自らの胸元をぐいと広げて覗き込み、それがまた正行には見えているのだが、気づかぬふうに鞄で隠して正行を見上げる。
「お兄ちゃんだって、いちばん上外してるじゃん」
正行も自分の胸元を覗き込み、一巳につられる形。
「おれはだれに見られてもいい覚悟なんだよ。下にはいちばん格好いいTシャツ着てるからな」
「無駄だよ、それ」
「見えないところをおしゃれするのが粋な江戸っ子ってもんよ」
「静岡生まれ静岡育ちじゃん」
「うるせえ、ナチュラルに下着見せてる変態妹め」
「ナチュラルに妹の下着覗いてる変態兄貴のくせにっ」
道幅二、三メートルの路上、ふたりはばっと立ち止まりざま向かい合って、しばらくにらみ合ったのち、どちらともなく前を向いて歩き出す。
「あたしはお兄ちゃんの将来が心配だよ」
息とともに吐き出すような一巳の声色である。
「いまの段階でこれだけ変態なら、この先はどうなっちゃうんだろ」
「おれだっておまえの将来が心配だ」
飄々ともいえるような、あまり感情の乗らぬ声、正行。
「このペースで服を脱いでいけば、二、三年後には真っ裸だろ」
「脱がないもん」
「わかんないぞ。この際だから言うけど、おまえ、家着でたまにミニスカート穿いてるだろ。そのくせ足癖が悪いから、結構いっつも見えてるぞ」
いまさら一巳は耳を赤くし、スカートの裾をぴたと押さえて、ぐいと正行を上目遣いでにらむ。
「い、いままで黙って見てたなんて!」
「気を遣って言わなかったんだよ。まあとにかく、もう子どもじゃないんだから、ちゃんと自分で注意しなさい」
「お母さんみたいなこと言っちゃって」
唇を尖らせる一巳の横顔は、やはり正行によく似る。
学校まわりは古い町並みだが、しばらく行けばここ十数年で開発された一角、大通りを避けて歩けば建て売りの一軒家がずらりと並び、その名もフラワータウン、道端には花の一本も咲いていないのだが。
そのあたりは同時期に入居した人間がほとんどで、近所付き合いも濃く、レンガ敷きの地面、ふたり分の足音が響けば玄関からひょいと太った主婦が顔を出し、気軽にお帰りと声をかける。
ふたりもそれに応えながらわが家の前、正行が鍵を開けて、
「ただいま」
といえば、すぐ後ろから一巳が、
「おかえりと、ただいま」
正行も、
「おかえり」
ふたりして靴を脱ぎ、一巳はその場で靴下も。
脱いだばかりの白い靴下をくるくる振り回しながら裸足でばたばた、階段を上がっていく様子に、正行はぽつりと、
「また見えてるっつうのに。あいつだめだな、ほんと」
深々ため息には、兄というよりも父親の色。
それもわけあって、雲井家は両親共働き、平日は大抵ふたりきりで家に残され、一巳の面倒をいつも見ていた正行なのである。
近ごろは一巳も大人になってきたとはいえ、心配性は変わらぬらしく、正行は首をかしげながら二階へと上がる。
正行の部屋は西向きに窓があって、いまはまだ夕陽も差し込まぬ薄明かり、年頃にしては物のすくない部屋。
入って正面に勉強机、異様に片づいているのはあまり使わぬせいか、左側のベッドは多少雑多で布団も起き抜けのまま、制服を脱いで型崩れせぬよう壁にかければ、ポスターの一枚もない白い壁がようやく多少の暖かみを持つ。
勉強机に向かうともなし、椅子に腰掛ければ、ぎしと軋んで部屋のなか、妙に寒々として響く。
すぐ隣室では、なにやらがさごそ、一巳が箪笥を漁る音聞こえれば、やがて外の廊下をとんとんと歩いて階下へ降りてゆく。
それを聞くともなし、正行は背もたれにぐいともたれかかって、両手足を投げ出し、ぐったりとした体。
端から見ていてだれもが褒め称えるような若者たる正行だが、なにを思うか、薄く開いた目はひどく暗い光、なにもない部屋のなかをじろりとにらんで休まらぬ。
やがてそれにも倦んだように目を閉じれば、眉根を寄せて苦しげな表情、いつまでそうしていたものか、正行はふと目を開けると窓に歩み寄り、すこし開いてようやく冷たくなってきた風を室内に取り込んだ。
夕焼けも窓辺まで迫り、それがじりじりと室内を窺う。
正行は椅子へ戻って、また先ほどと同じ体勢、椅子の上で身を横たえれば、抜けるような白い頬がむしろ不健全な色を帯びる。
どうやら正行の心は、見目形ほど健全な形ではないらしいのである。
熱い夕陽、椅子からだらりと下がった正行の左手の、すらりと長い中指や人差し指を徐々に赤く染め上げる。
それが肘、肩と侵していって、やがてにきびのひとつもないまっ白な頬、朱色の光が強く照らせば、産毛がきらきらと光って美しい。
閉じた目蓋まで行き着き、ようやく正行は眩しさを覚えたらしく、顔をしかめて起き上がれば、時間はもう三十分ほど過ぎている。
窓の外には物干し越しの薄暮、徐々に分厚く増してゆく雲をかっと燃え上がらせ、いまにも天が落ちゆくよう、すさまじい色合いであった。
雲間の朱色、後光のような一条の光りにちらと目をやり思いを馳せれば、どうにかこうにか今日も終えたらしい、と安堵のため息。
正行は窓を閉め、部屋を出て、リビングをちょいと覗いた。
テレビ画面は暗く、無人かと思いきや、一巳はソファの上、体育座りのように両膝を立て、そこに氷の入った空のグラスをちょこんと乗せて、だらだらと流れる水滴を指先で拭っては片方の膝に塗りつけ、また拭っては塗りつけ、かといって楽しくはなさそうな顔である。
「テレビもつけないで、なにしてんだ」
振り返った一巳は、ようやくおもちゃを見つけたようにぱっと顔をほころばせ、
「いまね、考えてたんだけど、ね、お兄ちゃん」
とわざとのような甘い声、正行はぐいと眉根を寄せて身を引いて、
「なんのお願いだ?」
かわいらしい桃色の唇が言うのに、
「アイス、買ってきてほしいなあって」
「自分で行けよ」
にべもなく、冷蔵庫を開けて冷たい麦茶、そこに氷を入れるあたり、兄妹で冷たいもの好きは揃っている。
一巳はソファの背もたれにひしとすがって、小動物めいた大きな瞳、切なげに細めれば、いかにも懇願、聞かぬはひとにあらずという様相すら。
「お願い、お兄ちゃん!」
ぱしんと手を打ち鳴らし、
「アイス買ってきて!」
「いやだって」
とそれでも感じ入らぬ正行はごくごくと喉で楽しんで、
「おれは別に食いたくないもん」
「いいじゃん、かわいい妹のお願いでしょ」
「かわいくない妹のお願いでもいやだね」
「じゃあ、なによ」
と一巳はふくれっ面、
「か弱いあたしがひとりで買いに行って、薄暗くなった帰り道、だれかに襲われたりしてもいいってこと? お兄ちゃんってそんなに薄情だったんだ」
「まだ明るいから大丈夫だよ。心配せずに行ってこい」
「やだあ、もう家モードだもん、外出たくなーい」
ばんばんとソファの背を叩けば、まるで年端もいかぬだだっ子である。
「おれだって出たくないね」
「じゃんけんしよ」
一巳が拳を突き出し、爛々とした目をすれば、さしもの正行も仕方なく付き合ってやるかという顔、コップを置いて、
「一回勝負な」
「うん。あたしが勝ったら、お兄ちゃんが買いにいく。お兄ちゃんが勝ったら、あたしとお兄ちゃんで買いにいく」
「待て、どっちみちおれが行くことになってんじゃねえかよ」
「出さなきゃ負けよ、じゃんけんぽんっ」
コップのなかで、氷がからんと鳴って崩れ落ちる。
一巳はふふんと鼻で笑って、指二本突き出した手を自慢げに掲げた。
正行は自らの手のひらを見下ろしてため息。
「わかったよ、買ってくりゃいいんだろ。金は払えよ」
「お兄ちゃん、大好き!」
満面の笑顔で言われても、
「はいはい、どうも」
と頭を掻くばかり。
正行はリビングを出て、自分の財布をちらり、とりあえずふたり分は買えることを確認してから靴を履く。
一巳は玄関まで見送りにきて、額にぴしと手を当て敬礼、正行はジーンズのポケットに手を入れて、覇気もなく外へ出る。
ちょうどもっとも激しい夕焼け空である。
蝙蝠か鴉か、黒い影がさっと飛び去る方向、燃えるような太陽がぎらつき、上空すべてを深い赤、あるいは朱色に染め上げている様は、清々しくも不気味で、胸騒ぎがするのに立ち止まれば、無関係ではあろうが背中越しに呼びかける声。
「お兄ちゃん、やっぱりあたしも行くから、着替えるまでちょっと待って!」
やはりひとりで家に残るよりは買い物のほうが楽しいと踏んだらしい一巳、人前には出られぬショートパンツから細身のジーンズに履き替えて出てくるまで、正行はただ苦笑いで一巳を待つのだった。