流星落ちるはかの国に 6-2
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一日に何度空を見上げることか。
もはやできることといえば、それしかないというように、空を見上げては俯き、見上げては俯き。
次第にうなだれる時間が増えてゆけば、それが命の終わり、心の終わりである。
マキロイは知らず広場に寝転がり、曇り空、ぼんやりと見上げていたが、起き上がろうと手をつけば、その手は早朽ちゆく死人のように枯れて、骨が目立つようになっている。
ノウム軍約三千がグレアム城に閉じ込められ、八日目である。
まだ曇り空は去らぬ。
しかし日増しに風が強まり、それが立ちこめる雲をどこかへ運び去る気配があって、雨も降らぬ曇天よりは身を焼くような晴天がよいと、マキロイは不思議に清々しい気持ちなのである。
たった八日、それだけで人相とはこれほど変わるものか。
角張って厳めしかった名残といえば、いまやその骨格程度、青白い頬はこけてそこに髭がまばら、ぐいと落ちくぼんだ目元は黒ずみ、額には深い皺が刻まれ、眉間を割る古い傷口がなければ当人と判別することもできぬほど。
腕に力を入れ、なんとか立ち上がれば、端から力が抜けて膝が折れ、がっくりと倒れ伏す。
それでも無理に、痩せた頭、重たげに持ち上げてあたりを見回せば、もはや動くもののほうがすくない。
死体など数えるのも飽きるほど、生きていてもやせ細って動かぬせいで、生者も死者も判別できぬ。
この城には文字どおりパンの一欠片もなく、三千人の兵士が飢えるには時間もかからなかったが、八日目まで生きのびたなかでもまだ二千人、この先は日増しに死者だけが増えてゆく。
マキロイは膝を引きずり、四つん這い、広場を這って、もっとも身近な兵士に近づいた。
「おい、生きているか」
水の一滴も得られぬ乾ききった喉は、もうほとんど声も発しない。
枯木のあいだを抜けるような、ひゅうひゅうと妙に甲高い声でマキロイが言えば、仰向けに倒れてぴくりともしない兵士、ほんのうすく目蓋を開けた。
「まだ、生きているか」
マキロイはにいと笑い、そのとなり、どかりと倒れ込んだ。
「おれも、まだ生きているようだ」
「小隊長殿」
と兵士がそよ風よりもかすかな息づかい、返答すれば、マキロイは曇天をにらんで、
「まだ、死ぬな。生きるのだ。おれたちは一刻でも長く生きなければならん」
「飢えは、人間が感じる最大の苦痛ですな」
自嘲するように兵士が言って、眼球だけが痩せぬ顔、笑うように歪ませたが、筋肉もほとんど動かぬよう。
しかしその目に見る見る涙が浮かんで、水分もとっていないというのに、はらはら落涙する。
「殺してください、小隊長殿。剣が、そこにございます、それで私の首を切り取ってください」
「ならぬ」
厳しい一声、しかし継ぐ声は柔く、
「かく言うおれも、もう剣を振るう力もない。いかに痩せた首といえど、骨もあれば筋もあろうし、切り落とすにも一苦労だ。それではおれのほうが先に死んでしまう」
「では、いっそ、白旗でも振りましょう。城を包囲する彼らも獣ではないはず、降参と見るや水や食料を与えてくれましょうぞ」
「うむ、それも考えた。だが、やはりだめなのだ。このような失態、死以外に責任もとれぬ。おめおめ国へ戻り、大変だったなと慰められでもしてみろ、そのほうがよほど死にたくなるというもの」
しばらく兵士は言葉も継がぬ。
マキロイはじっと曇天を見るに、ようやく風の効果が発揮されたのか、分厚い雲がさっと裂け、わずかな切れ目、一条の光が広場へ射したのだ。
天女が下りてきたような、その黄色がかった清新な光、ほうとため息が洩れるほど美しく、思わず涙がにじむほど神々しい。
「見ろ、陽が射した。おい、雲が晴れるぞ」
とマキロイが子どものように声を上げるあいだ、兵士は物言わず、ちらと見れば、涙も乾いて死んでいる。
「惜しいことをしたな、光が射したというのに」
哀れむようにマキロイは呟き、広場に射した光、俯せでもぞもぞと這い、手を伸ばす。
天上からその光景を見るに、果たしてだれが冷静に眺められようか。
無数の兵士がさまざまに横たわるなか、ほんのちいさな光を目指して這っていくのに、マキロイはようやく指先が暖かなものに触れ、ほっとその場で息をついた。
自分でも、その呼吸がどうやら最後だと思ったらしいが、それでも苦しみはまだ続いて、果てのない喘ぎを漏らしながら意識は失われる。
グレアム城のなか、高い城壁が囲む内部では、数えきれぬ死がいままさに生まれようとしている。
城下町、城門の前、いつか開くのではないかと期待して殺到する兵士の大半はそのまま息絶え、門に寄りかかってうなだれるものがあれば、その手前で共の裳裾を握ったまま息絶える者もある、その数は二百を越え死屍累々。
霧もなく澄んだ城下町にも飢えた兵士が倒れ、家々のなかには安楽椅子で息絶える者、壁にもたれかかって両手足を投げ出す者、台所の扉という扉が開け放たれ、そのなかへ顔を突っ込むようにして動かぬ者。
城内も同じ様子である。
もとは美しかったであろう城内の、至るところが破壊されているが、それはグレアム兵の手によるもの、呼び込んだノウムの兵隊を逃さぬように出入り口を塞いだ証。
それを儚くも破ろうと殺到し、やがてその力もなくしてうずくまった形のまま、あるいは絶望の果てに自刃した形のまま、死は静寂で、なにひとつ変わらずに存在している。
自害は許さぬ、という隊長の命を最後まで守り餓死を迎えた者の顔には、かすかな安らぎさえ見える。
マキロイもまた、苦しみと満足のなか、光に手をかざして死する寸前であった。
それが、
「おい、マキロイ小隊長、生きているか」
無遠慮に肩を揺すられ、かろうじて目蓋を開けて全力を投じれば、ぐるりと身体を翻して仰向けになる。
ちょうど雲間の光、マキロイの顔に降り注ぎ、白い眩しい視界のなか、これが天国かと錯覚するような光景。
その光を遮って、痩せた顔、にいと笑う。
「生きているようだな。お互い、しぶといものだ」
「ルーベン隊長――」
もとが痩せていたせいか、この期に及んでもルーベンはほとんど痩せたようには見えぬ。
光を後頭部に背負い、笑うさまなど朗らかとも見えて、マキロイはゆっくりとした仕草で上体を起こした。
そうして見れば、ルーベンはしっかりと鎧を着て、悄然の影はなく、痩せているがたしかな目つき、右手に持つ剣も引きずってはいない。
一悶着あったふたり、マキロイはちらと、ここでルーベンに斬り殺される姿を想像し、無感動にそれを受け入れた。
第一、すでに抵抗する気力も体力もないのだ。
ルーベンとて同じはず、そこを押して自分を殺したいのだというなら、そうさせてやるのがよかろうと、慈愛にも似る心情。
「マキロイ小隊長よ」
ルーベンがなにを言うのかと思えば、その場にどんと座り、足を組み、
「どうやら、このあたりが終焉のようだ」
「ルーベン隊長……それは、どのような意味で」
「文字どおり、人生の終わりよ」
とルーベンは下心もなく笑うのに、マキロイははじめてルーベンの顔を見つめるような、新鮮な気持ちがするのだった。
「部下同様、餓死するのもよいが、隊長としてふさわしい死に方でなければおれを隊長に任命した国王に顔向けできん。おれの最期は、マキロイ小隊長、おまえに任せようと思う」
ルーベンは持っていた剣、マキロイのほうへ放り投げた。
がらんと地面を転がるのに、マキロイはちらと目を向けたものの、ゆるゆると首を振って、
「斬れとおっしゃっても、もう私にはそれだけの力、残ってもおりませぬ。任務果たせず、申し訳ござりませぬが――」
「甘えたことを抜かすな!」
と不意に腹の底からの声、マキロイがびくりとしてルーベンを見やれば、ルーベンはその痩せた目をいっぱいに開き、憤怒に鼻孔をふくらませている。
「散々、堅物を通してきた貴様であろうに、なぜいまになって萎えるか。ここぞもっとも堅くあるとき、死をもって忠せず、いつをもって忠するのだ。なんのために貴様、これまで生きてきた。意気地なく、ただ死を待っておったのか。それともふさわしい死を求めた末か。ここが貴様の死に場所でよいなら、勝手にせい、おれもおれで勝手に死のう。だが、おれはおまえなら未だに生きる意思ありと思うから、おまえに最期を委ねたのだぞ」
「ルーベン隊長――まだ私に、生きろとおっしゃりますか」
「生きたければ生きるがよい」
「いかにして」
ふんとルーベンは鼻で笑い、
「生きるだけならなにも仔細はあるまい。ただ食って飲んで寝ればよいだけよ」
「その、食うものも飲むものもないのです」
「よく見ろ、食うものも飲むものも山のようにあるではないか」
もしやルーベンは気が触れたのかとマキロイも疑うが、はたと言葉の真意に気づいて眦を決す。
「ルーベン隊長、あなたは、部下の肉を食い、上官の血をすすれとおっしゃるのか」
「生きるためであろう。やがて、朽ちて土となる肉塊よ、鳥に食われようが人間に食われようが同じこと」
平然とルーベンは言うのに、マキロイは身じろぎひとつできず。
「おまえが生きているかぎり、外の連中は警戒を解かぬ。その分だけノウム王国へ迫る軍勢が減るということ。そのために生きるというなら、おれの肉でも血でも糧とすればよい。しかし、おれはおまえほどの愛国心がない、そこまでして国のために尽くしたいとは思わぬ。隊長の義務として、部下死に果てるまで生きておるつもりだったが、それもここまで、おそらくいま生きておるのはおれとおまえくらいのものよ」
マキロイはふらりと立ち上がった。
長身痩躯がぐらりと揺らぐのに、なんとか持ちこたえれば、長い腕で剣を拾い上げる。
ルーベンは満足げにうなずきひとつ、
「人肉を食らい鮮血飲み干し、畜生以下と成り下がっても国のために生きるのなら、おまえこそ真の英雄であろう――おれは、そうはなれん」
ぎぎと剣先が地面をこする、マキロイは自らの足さえ引きずるようにルーベンの後ろへ回って、両手でしかと柄を握った。
ルーベンは背筋を正し、目を閉じ、荒れてひび割れた唇、薄い笑みに、呟く。
「酒に女よ、待っておれ。いまそちらへ行こうぞ」
筋肉が充分に残っていれば、痩せた首など力任せに一刀両断できたろうが、それが弱った身体、あてが狂って、振り下ろした剣先が肩へざくりと食い込む。
剣を引けば、深い傷口、ぐつぐつと血が沸き出すに、ルーベンはかすかに眉をひそめるばかり。
マキロイは再び剣を振り上げて、今度こそ首を刈るが、刃が半分ほど食い込んで断ち切るどころかぴたりと密着したように抜けぬよう、無理に引き抜けばルーベンの身体がどっと倒れ、地面に深紅の血、どろりと流れ出してマキロイの靴を汚す。
差し込む光を背に、マキロイは最後の一撃、剣先きらりとひらめいて、地面にぶつかりぎいんと鳴れば、ようやくルーベンの首がごろごろと転がり、耳に突っかかって向きを変え、ちょうど俯せ、後頭部を晒している。
マキロイは血の滴る首を抱え、多少荒い切断面を下にして、地面にどんと据えた。
「立派なひとであった」
ルーベンの生首、薄く目を閉じて眉をひそめているが、死後に弛緩したものが、それが薄く笑みのようなものを作り出している。
魂天に沖するものか、マキロイは空を見上げ、徐々に晴れゆく曇天、うまくすき間から上ってゆけばよいがと、握っていた剣ががらんと落ちる。
地面に跪き、それでも天を見上げる目濁らず、どこまでも無垢に透明に、きらと輝き光を望む。
視界の端を青い鳥の長い尾、ひらりと待って、追うように視線を下げれば、横たわるルーベンの胴体、マキロイは四つん這いで近寄ると、両断した首からいまも流れ出る新鮮な血液、すくえるだけ手のひらにすくって、そこに乾いた唇を寄せるのだった。
滂沱たる涙止まらず、嗚咽はなんのためか。
どろりとした血でもって八日ぶりに喉を潤し、いくらか力の戻った手で身体を切り分けて硬い肉を頬ばれば、生きるということがなんたることか理解できてくる。
マキロイは懺悔とも歓喜ともつかぬ呻き声、ただ無理やりに肉を口へ運び、ただただ生きんとせん。
それがすべて国のため、死にゆく兵士のためならば、正気などうち捨てるという血に濡れた横顔なのである。