八つの宝と風の行方 7-1
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大陸の中央、ハルシャ軍と正面から対峙していた皇国軍は、突然の猛攻にじりじりと下がりながら、それでも決死の反抗を続けていた。
とくに顕著な働きを見せたのはグレアム王国からやってきた鉄砲隊、二百人足らずの彼らは、だれも見たことがない兵器でもって自らの三倍以上の敵を仕留めつつ、左右の兵が押されるのに従って後退するしかなかった。
その皇国軍の緊張が途切れたのは、ハルシャ軍が皇国にはまったく興味を示さず、相変わらずの猛攻で北へ北へと迫ってきたこと。
いままでは皇国になにかあってはならぬと死も厭わず勇敢に戦ったのが、敵は皇国を落とすのではなく自分たちを殺したがっているのだと知れたあとは、反撃する剣も鈍り、後退する速度もぐんと上がる。
なかには隊列を崩し、文字どおりの敗走をはじめる兵士までいて、二十万の軍隊の隅々まではクラリスの威光も届かぬらしい、すべてを統率することなど不可能で。
それでも皇国軍の本隊は可能なかぎり粘り、左右の兵が逃げて囲まれる寸前に退却してはまた隊列を立て直し抵抗する、という気が遠くなるような戦いを続けた。
日に日に減っていく仲間に、あらゆる瞬間に脳裏をよぎる死の予感、それを敵への憎悪とクラリスへの信仰で押し殺し、朝に握った剣を夜まで離さない活躍の彼らも、やがて限界は訪れる。
クラリスは常に馬上で兵を鼓舞し続けたが、囲まれて退却も不可能になるまで粘るような愚は犯さず、絶妙なときに退却を指示し、いまや皇国からはるか離れ、むしろ大陸北端のほうが近くなっているような状況である。
逃げる途中も、クラリスは今後の作戦をどうするかと聞かれるが、決まって答えるのが、
「予定通りに」
の一言。
クラリスがそう指示するかぎり兵士に逆らうことはできず、いままでどおり限界まで粘ってはすこし後ずさり、またそこで戦い、ということを繰り返しながら、次第に兵のなかで、この作戦はとうに失敗しているのだと陰口が囁かれるようになる。
「そもそも、こんな作戦は不可能だったんだ。ハルシャ軍の後ろをとるなど」
「正行殿はそれがわかっていて、自分と一部の兵士だけで逃げたのではないか」
「このまま粘ってもすこしずつ兵を失うだけだ、いっそ隊列を離れて逃げたほうがよい。そうしなければ、明日死ぬのはおれたちかもしれぬ」
「そうだ、逃げよう。クラリスさまには悪いが、命のほうが大事だ――」
と隊列から離れ、どこか深い闇のなかへ姿を消す兵士たちも続出し、そうなればただでさえ押し込まれていたのが、さらに抵抗がむずかしくなって、ほとんど立ち止まるひまもなく背後を追われるようになる。
一度など、クラリスの間近までハルシャ軍が迫り、白刃きらめくのをクラリスも見たが、周囲を固めていた忠臣たちが盾となることでクラリスはなんとか北へ逃れることに成功した。
これにはさすがにクラリスも平静ではいられず、逃げる馬上でぽつりと、
「忠臣から先に死んでゆく。臆病者は生き残り、真に勇敢なものは死んでゆくことが正しいはずはない」
と悔しげに呟いた。
そうして逃げる皇国軍は、徐々に左右を狭められ、一塊になって、ついに大陸の北、セントラム城の目前まで逃げ落ちることとなった。
彼らがかろうじてハルシャ軍に捕まらなかったのは、ハルシャ軍が道中の村や城を襲うのに時間を割いたせいであり、セントラムまで追い詰められたころ、むしろ戦意がある兵士のほうがすくないほどであった。
皇国軍はセントラムの城塞を見つけ、まるでそこに救いがあるかのように殺到する。
我先にと城塞のなかへ消えてゆく皇国の兵たち、そのすこし南ではロマンが珍しく兵のあいだを歩き回りながら声を張り上げていた。
「すでにわれわれの勝利は目前だ。連中の敗北は現時点で決したも当然、しかしこのまま生かしておくのも目障りである。いまこのときに、大陸から皇国を消し去ってやろう。やつらを大陸から叩き落とすのだ。なに、むずかしいことではない、連中はわが軍に追われて逃げるしか能がないのだから、そのまま崖の縁まで追いかけ、自分で海に飛び込ませればよいのだ――やつらは、城塞の内側に逃げ込んで助かった気でおるのだろうが、すでに崖から飛び降りておるのだから」
ハルシャは剣を抜き払い、天に突き立てる。
「城塞を取り囲め。ねずみ一匹逃がすな!」
二十万以上のハルシャ兵、おうと応える声が地を揺るがせて、大地にそびえ立つ巨大な壁へ取りつく。
ロマンはどこか冷たい目でそれを見たあと、興味を失ったようにくるりと踵を返して、自らの天幕へ戻る。
白い天幕の下、机がひとつあり、そこにはいつものように地図が広げられているが、それを両手で払いのけると、ロマンは机の上にごろんと寝そべった。
今日は晴天、初夏にはじまった戦は、すっかり夏の盛りになって終わろうとしている。
「おれの勝ちか」
ロマンはぽつりと呟いたあと、それよりもぐっとちいさな声で、
「なんだ、こんなものか」
それがまるで、幼い子どものような声で。
事実、戦況はほぼ決している。
セントラムの城塞に逃げ込んだ皇国軍は、いまだ八万程度はいるだろうが、その倍以上の数が城塞を取り囲んでいるのだ。
こちらには無限の兵糧があり、相手には畑のひとつもなく、背後は海、逃れようがない。
もしまともな頭を持つ指揮官であれば、ここで敗北の白旗を上げるだろう。
自ら馬を乗り回して戦場を駆けるほど勝気なクラリスがその判断をするかどうか、しかしどちらにしてもこれ以上の進展はない。
セントラムにも兵糧はたっぷり貯めこんであるだろうが、八万の兵と住民を養うのに、どれだけの食料が必要か。
それに対してハルシャはすでに大陸全土を手中に収めた。
向こうが二年、三年と篭城するつもりでも、あるいは十年二十年経ったところで、ハルシャ軍が先に音を上げることはない。
「雲井正行は、結局こなかったな」
ロマンは薄く目を閉じる。
「敗北を理解し、素直に退いたか。ふむ、たしかにそれが正しい選択であろう」
ああしかし、とロマンは息をついた。
「答えなど、どこにもないではないか――おれはなんのために戦ったのだ?」
セントラムの城塞へ逃げ込んだクラリスは、そのままほっと息をつく兵士のあいだを縫って馬を走らせ、すこし離れた位置にあるセントラム城へ向かった。
今後戦うのであれば、拠点はセントラム城に据えるべきだという判断である。
これには絶対の忠をもって付き従う兵士でさえ、
「まだ戦われるのですか。こう言ってはなんですが、すでに帰趨は決しております。これ以上は無駄の犠牲を出すばかりでは」
「無駄かどうかは私が決めることだ」
兵士はクラリスの厳しい視線にびくりと震え、あとを追うことすら一瞬ためらう素振り、しかし護衛のために馬を並べる。
クラリスはそのままセントラムの城下町へ入り、閉じた城門を皇女の命により開けさせて、セントラム城内へ入った。
本来城内にいるはずの人間は、いまやほとんど城塞のほうへ駆り出され、城内はしいんと静まり返り、大理石の床も冷たげに。
城門から王の間まで、まっすぐ赤絨毯が敷かれてあるのをクラリスが進めば、中程まで行ったところで王の間が開き、兵士ふたりに付き添われてグレアム王国の女王アリスが現れる。
ここはアリスの城だが、頭を下げるのはアリスのほう、クラリスはこくんとうなずき、
「すでに理解しているとは思うが、皇国軍はほぼすべて城塞の内側へ逃げ込んだ。それらの兵士に振る舞う食料を要求する。加えて、武器の補充も必要だ。城内に残されたすべての武器の提出を求める。無論、拒否は認められぬ」
まるで礼儀と思いやりを欠いた、なにかに急かされるような口調、目つきもそれに従って、なかばアリスをにらむようだが、アリスのほうではちいさくうなずき、
「すべておっしゃるとおりに。それで勝利が得られるのであれば、セントラム城内、あるいは城下町に残るすべてのものを提供いたします」
これにはクラリスが面食らって、目を見開いた一瞬、ふと憑き物が落ちたように笑う。
「すまぬ――どうも、気が立っているらしい」
「無理もございません。ここまで、おつらい進軍だったのでしょう。どうか、クラリスさまだけでも城でお休みください」
とアリスが心を込めて言えば、クラリスはゆるゆると首を振り、
「兵を置いて、そのようなことはできぬ。すぐに戻らねば――食料と武器は、すでにここまで取りに戻る体力もないはず、住民に頼んで運んでもらえるか」
「はい、そのように」
アリスは視線を宙へ向けて、
「正行さまも、いまごろ勝利へ向けて新たな作戦を考えておられるのでしょうね」
「うむ――正行は、最後の最後まで諦めぬであろう。ゆえに、私も諦められぬ。必ずや勝利を――その言葉しか、いまは信じるものもない。では、なにかと苦労をかけるが、頼む」
クラリスがくるりと踵を返すのに、アリスはその背中に一歩追いすがり、
「食料と武器の提供の代わり、というわけではありませんけれど、戦いが終わったら、ひ
とつ褒美をくださいませんか」
「ほう」
とクラリスは振り返り、目を細めて猫のように笑い、
「グレアム王国の功績は大きい、なんでも好きなものを与えよう――ただし、ある男だけはだめだが」
「あら」
アリスは首をかしげて、
「それじゃあ、なにもほしいものはありませんわ」
「残念だったな」
「でも、相手が皇女さまでも、そのひとだけは譲れませんから――もしかしたら、謀反でも起こして奪いに行くかもしれません」
「ふむ、では受けて立とう。世界をめぐる戦いのあとに、男をめぐる戦いというのも悪くない」
ふたりは視線を交わし、子どものように笑い合って別れた。
クラリスは再び馬に乗り、背筋をぐっと伸ばして、皇女らしい威厳を取り戻して兵士のもとへ、アリスは兵士ふたりを引き連れて王の間へ。
彼女たちは、この状況でも正行が戻ってくることを、そして正行さえ戻ってくれば勝利が得られるのだということを、いまだに疑ってさえいないのである。