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八重鏡  作者: 藤崎悠貴
八つの宝と風の行方
111/122

八つの宝と風の行方 3-2

  *


 見たいテレビの再放送が終わって、アイスもすっかり食べ尽くし、がじがじと噛んでいた心棒をぽいとごみ箱に放り込んで時計を見れば、かれこれ一時間経っている、ドラマを一本見たのだから当然だが。

 しかし正行は、まだ帰ってこない。

 ドラマに夢中で、いままで存在をすっかり忘れていたが、さすがにあの場所から一時間はかかるまいと、正行の妹である雲井一巳、ソファからのっそりと立ち上がり、短いスカートの裾も気にせず玄関へふらふらと。

 ちょうどそこに、がちゃりと扉が開いて、正行がひょっこり顔を出す。


「あ、おかえり、お兄ちゃん」


 と一巳は当然言うが、向こうでは一巳をまじまじと見つめて、言葉も出ない様子。


「な、なに、どうかしたの?」


 まさかまたあらぬものが見えているのでは、と一巳は自分の格好を見下ろすが、別段おかしなところもない、上も下もしっかり隠れているはずだが。


「一巳、か――久しぶりだなあ」


 ようやく、正行が言った。

 万感こもったような、なんともいえぬ声色、しかし一巳は不思議そうに小首をかしげて、それがなんとなく婀娜っぽいのも変わりなく、


「久しぶりって、一時間くらいじゃん。遅かったね、お兄ちゃん。寄り道してたの?」

「寄り道か――そう、かもな」


 ゆっくりと確かめながら言葉を紡ぐような正行、これはおかしいと一巳も気づいて、裸足のまま玄関に降り、正行の頬をぺちぺちと叩く。


「どうしたの、眠たいの? なんか変だよ、お兄ちゃん」

「変じゃねえよ、ぺちぺちすんな」


 と普段なら嫌がるところだが、今日は言葉ばかりで、嫌がるどころかむしろうれしそうなのが、一巳には不気味である。


「まあ、大丈夫ならいいけど――あ、そうだ、アイス、ちゃんと冷やしといてあげたからね」

「アイス?」


 正行は首をかしげ、たっぷり時間を使ってから、


「ああ、アイスか。そういや、アイス買いに行った帰りだったっけ」

「お兄ちゃん、ほんとに大丈夫? 転んで頭とか打ってない?」

「打ってないよ、ちょっと遠くのほうまで寄り道はしてたけどな」

「どこ行ってたの」

「異世界」

「はあ?」

「冗談だよ。ちょっと、いろいろな」


 と笑うのが、兄であって兄ではないような。

 一巳が表現し得ぬ違和感に首をかしげているあいだ、正行が玄関に入ってきて、あたりをぐるりと見回し、またうれしそうに笑った。

 毎日見ている玄関の、なにを見てうれしがっているのかしらん、と一巳、しかし言葉にする前に、ぎょっとして目を見張る。

 正行の後ろから、そのシャツの裾をきゅっと握った見たこともない少女が続いているのである。


「お、お兄ちゃん、だだ、だれ、それ」

「ん?」


 と正行、ちらと振り返り、


「ああ、知り合いだよ。ちょっと事情があって」

「し、知り合いって、あたし知らないよ、そんな子!」


 恐ろしく色白で、年は一巳より幼そうだが、形の整った眉といい、すっと通った鼻筋といい、丸く大きな目といい、墨を流したような黒髪といい、明らかに普段着ではないドレスといい、美少女も美少女、テレビのなかですら見ないようなのが、正行のシャツの袖を掴み、半ば背中に隠れるよう、一巳を見ている。

 はっと一巳は気づいて、


「ま、まさか、これがうわさの、腰を抜かすほどの美少女ってやつ? こ、行動が早すぎるよお兄ちゃん!」

「なんだ、腰を抜かすほどの美少女?」


 と本人はわかっていない顔、それも仕方なく、一巳にとってはほんの一時間前の会話も、正行にとっては三年近く前の会話なので。


「なんだかよくわかんねえけど、とにかく知り合いなんだよ。詳しい話をすると長くなるから省くけど」

「説明してよ、わかんないよっ」

「また、時間があったらするよ。たぶん信じねえんだろうなあ、おまえは――まあ、おれも経験しないと信じなかっただろうけど」


 ぼんやりと言う正行の後ろから少女が出てきて、一巳に向かって頭を下げる、そしてなにか言ったようだが、日本語ではなく、一巳にはなにも聞き取れない。


「日本のひとじゃないの?」

「ちょっとな。えー、名前はアリスだ。見てとおり、おまえより年下だから、いじめるなよ」

「い、いじめないもん」

「それで、こいつが妹の一巳――」


 と日本語で言ったあと、驚いたことに、正行もまた日本語ではない、聞いたことのない言葉で少女になにか言って、少女はこくんとうなずいた、それもかわいらしいなあと同性ながら思う一巳だが、それどころではないと思い出し、


「ちょ、ちょっとお兄ちゃん、こっちきて!」

「な、なんだよ」


 強引に腕を引いて洗面所に引っ張り込めば、玄関で少女、アリスが不安そうに眉をひそめるから、一巳は安心させるように笑いつつ、


「ど、どうなってんの? あ、あの子、どっから連れてきたの。お兄ちゃん、いま自首したら間に合うよ!」

「犯罪じゃねえよ!」

「どう見ても犯罪だよ。年下の、あんなかわいい子連れてくるなんて――それも、日本語しゃべれないなんて。下手したら国際問題になっちゃうよ」

「大丈夫だって。話せば長いから省くけど」

「省かなくていいよ! ほ、ほんとに、あの子、お兄ちゃんの知り合いなの? どっかから連れてきたわけじゃないんだよね?」


 ここで正行も、まあ連れてきたといえば連れてきたけど、というものだから、一巳は一層強く正行に自首を進めたが、正行はそれを断って、


「いろいろ事情があって、今日、あいつここに泊まると思うから」

「と、泊まるって」

「母さんたちにはおれから説明するよ。でもベッドがねえから、おまえの部屋、使わせてやってくれないか。おれの部屋でもいいんだけど、男の部屋よりは女の部屋のほうがいいだろ」

「そ、それは、別にいいけど……」


 一巳は正行の顔をじっと見つめて、


「お兄ちゃん、ちょっと変わった?」

「か、変わったかな?」


 正行もどきりとした顔、


「うん――なんか、顔とかは別に変わってないんだけど。雰囲気っていうか、なんかちょっと変な感じ」

「変って言うなよ――ま、いろいろあったからな。おまえは変わってねえなあ」

「普通、一時間じゃ変わんないよ、人間って」

「一時間――そうか、あれから一時間後ってことなのか。時間の流れが、こっちと向こうではちがうのかもしれないな。それにおれは三年前に戻っただけなのに、アリスは三年以上若返ってる……向こうの人間とこっちの人間の、体質のちがいなのかな」


 ぶつぶつと呟く正行、一巳はいよいよ不思議そうな顔をするが、そこにアリスがちょこちょことやってきて、心配げにふたりの顔を見上げる。

 そうすろと面倒見のいい一巳も放ってはおけず、


「大丈夫よ、なんでもないから。アリスちゃん、だっけ? 言葉は通じないんだもんね」


 全世界共通の言語といえば笑顔だろうと笑えば、アリスも控えめに笑みを浮かべ、それがあまりにかわいらしいものだから、一巳はほとんど無意識にぎゅうと抱きしめている。


「なにこの子、お持ち帰りしたい」

「もう家だけどな」


 と正行も苦笑い、アリスは慌てるような、戸惑うような。


「スキンシップもほどほどにしとけよ」

「いいの、女同士なんだから。お兄ちゃんがやったら犯罪だけど」

「やらねえよ、さすがに」


 正行はふうと息をついたあと、ちいさく笑ったが、その笑顔はいつもいっしょにいたアリスだけがわかる、城では決して見せない心の底から安堵したような笑みで。

 一巳に抱きしめられながら、アリスはこの選択も間違いではなかったと深く思うのだった。



 夜になり、共働きの両親も雲井家に戻ってきて、全員揃っての食事、今日は簡易式の麻婆春雨。

 食欲をそそる茜色を、ずるずるとやりながら、雲井家の家長、雲井正成はちらと上目遣い、つるつると流れてしまう春雨に四苦八苦しているアリスを見て、


「取りにくいときはな、こうしてぐるぐると巻きつけてやれば楽に取れるぞ」


 と実演してやれば、アリスはフォークに春雨を巻きつけ、ようやく食べられたらしい、ぱっと笑みを浮かべるのに、正成のとなり、正行と一巳の母、雲井椿はぽつり、


「ほんと、かわいいわねえ。食べちゃいたいくらい」

「母さん、日本語がわかんねえからって危ないこと言うなよ」


 アリスは正行と一巳のあいだに座って、ちょうど雲井家三人目の子どもという雰囲気、年もひとつかふたつずつ離れているという雰囲気だからちょうどよい。


「しかしでかしたぞ、正行」


 と正成、麻婆春雨に入っているピーマンを息子の皿へ移しながら、


「まさかこれほど早く、息子の嫁を拝めようとは。それもこれだけの美人だ。国際結婚というのも、父さんとしてはうれしいぞ」

「そういうんじゃねえって言ってるだろ。あとピーマンを食え。死ぬぞ。もう年なんだから」

「ばかもん、もう年だから、食わないんだ。きらいなものを食うくらいなら、おれは早死を選ぶ」

「だめな親父だ。仕方ない、おまえが食ってやれ、一巳」

「ちょっと、こっちのお皿に退けないでよ!」

「おれもきらいなんだよ」

「親子そろってだめなんだから」


 はあとため息の一巳、脳天気な男ふたりとちがって、椿はいくらか感じることもあるふうで、箸を置いてじっとアリスを見つめ、


「いつの間にか正行も大人になったのねえ。外国人の嫁を連れてくるなんて」

「嫁じゃねえって言ってんだろ。友だちだよ、友だち。いろいろ事情があって、うちへ連れてくるしかなかったんだ」

「だから、その事情ってなんなの?」


 一巳が春雨をつるつるとやりながら言うのに、正成は首を振って、


「そこは聞かずにおくのがいいだろう。一巳、男にはな、だれにも話せないことのひとつやふたつはあるもんなのさ」

「ふうん。出張先の外国で浮気したこととか?」

「たしかにそれも黙っておかねばならぬことだ――痛っ、痛いっ、冗談だって、机の下で足を踏まないで!」

「ばかは置いといて」


 と椿、がんがんと机が揺れるのが恐ろしいが。


「まあ、人生いろいろあるもんだから、別に詳しく事情を聞こうとは思わないけどね。正行、ちゃんと考えて行動しているんでしょうね。自分のことやこの子のこと、それにまわりのことを考えて行動しているなら、どんな結果になってもわたしたちは受け入れるわ」

「大丈夫だよ。おれなりに考えてやってるつもりだ」


 正行はアリスにちらと流し目、


「もしもう一回過去に戻ってやり直せても、きっと同じことを選択すると思う」

「そう、ならいいの。やっぱり子どもの数は計画的にしないとね」

「そんな話じゃねえよっ」


 言葉は通じないままだが、これらのやりとりを和気あいあいと受け取ったのか、アリスがくすくす笑う。

 それを見て一巳と椿が同時に、


「かわいいわあ」


 とため息、正行は別の意味で息をついて、


「ほんと親子だな、このふたりは――ま、でもアリスを受け入れてくれてよかった」


 なんだかんだといって順応性の高い家族に、正行はぽつりと呟くのだった。



 一巳は鏡に映ったアリスの姿をちらと盗み見て、にやりと笑みをひとつ。

 外国人といっても、発育は千差万別、どうやら日本人も負けてはいないようである。

 もっとも、年下であろうアリスに勝っているのは、当然といえば当然ではあるが。


「ほんと、きれいな髪ねえ。しっかり洗って、ケアしないと」


 ――雲井家の風呂場、アリスは一巳に背を向けて座り、一巳はアリスの白い背中を眺めながら、長い髪を洗ってやっている。

 この髪というのが、長ければ長いだけ時間がかかるのが道理、ひとりではとてもできないからと一巳が手伝ってやっているが、アリスも髪の一部を身体の前へ流し、自分でもせっせと洗っている、そのすこしうつむいたうなじの蠱惑的なこと。

 つい、一巳が指を伸ばしてつつとくすぐれば、アリスは悲鳴を上げて身体を震わせ、責めるように一巳を振り返る、その顔もまたかわいらしく。


「ごめんごめん、つい」


 と通じない言葉で謝りながら頭を撫でれば、アリスもなにか納得した顔、また前を向く。


「ほんと、不思議よねえ」


 シャワーも止めて、湯気が立ちのぼる浴室に、一巳の声だけがゆったり反響する。


「お兄ちゃんとは、どういう知り合いなの? あたしの知ってるお兄ちゃんは、外国語も話せないし、外国人をナンパする度胸なんかないひとなんだけど」


 アリスが不思議そうに振り返る、一巳はそれに笑顔を返しながらも、


「お兄ちゃんの様子も、なんか変だし。突然しっかりしたっていうか、なんか大人になったみたいな顔してさ。前からそうだったけど、十七歳と十六歳のくせに、あたしのこと断然子ども扱いするし。なんか癪なんだよね、そういうの。いっそ、裸のまま部屋に突入してびっくりさせてやろうかと思うけど――ねえ、あなたはお兄ちゃんが変わった理由、知ってるの?」


 話しても無駄なことだが、そうせざるを得ないというのが、一巳の正直な気持ちらしい。

 シャワーを使い、髪をさっと流してやって、アリスがぎこちなく浴槽へ、一巳が自分の身体を洗うのを、アリスはぼんやり見つめている。


「なんか、いいなあ」


 と一巳はぽつり。


「ずるいなあ。あたしの知らないお兄ちゃんの顔を知ってるなんて――なーんてね、愚痴は終わり」


 シャワーで身体を流して、一巳もじゃぼんと湯船のなかへ、驚いた顔のアリスににやにやと笑い、


「でもあなたが知らないお兄ちゃんの顔を、あたしは知ってるもんね。それで五分五分にしてあげる」


 ひとりごちれば気分も晴れたよう、透明な湯の、揺れる水面を透かして見えるアリスの身体にごくんと唾を飲むのが、いかにも危険な仕草だが、それに気づくアリスではない。

 一巳はにひひと口元を歪めて笑い、徐々にアリスに近づいて、その腕をつんつんとつつきながら、


「ほんと、きれいな肌してるね、アリスちゃん。触ってもいい?」


 と聞くのに、アリスが理解できずに首をかしげる。

 すると一巳は裏声で、


「いいよ、好きだけ触って――なーんだ、アリスちゃんもこういうの、好きなんじゃない」


 にたりとする一巳に、アリスは本能的な恐怖を覚えたらしい、湯船のなかで後ずさるのも、狭いなかではすぐ背中がぶつかる。


「うふふ、逃げようったって無駄よ。女同士なんだし、恥ずかしがることもないんだから」


 アリスがなにか言えば、


「だめよ、言葉がわかんないもん。それ、触ってもいいってことだよね?」


 と自分勝手な解釈で、アリスにざばと襲いかかる。

 波打つ水面、入り乱れる白い身体、充満する湯気がかろうじて覆い隠すが、影絵のなかで動くふたり、あとには、アリスのわずかな悲鳴めいた声だけが残されて。



 正行は久しぶりの自室で、ぐったりと椅子に腰掛け、なんともいえぬ心地でぼんやりと天井を見上げていた。

 そこで輝く照明は、当然蝋燭や松明ではない蛍光灯、光のゆらめきもなく、風が吹いて消えてしまうこともない。

 足元はフローリングで、靴も履かず、靴下越しに、ひんやりとした感触が足裏から伝わってくる。

 もたれかかる椅子も、傍らにあるベッドも、コンクリートでできたこの部屋そのものも、あの世界にはまだ生まれていないもの。

 口元に薄く笑みを浮かべているのは、生まれ育ったその環境に馴染まない自分を自覚したせいで。


「知らないうちに、おれはもう向こうの人間になってたんだな――とっさに日本語も出てこなかったし、静かすぎるのも落ち着かない」


 両腕をだらりと下げ、目を閉じて考えるのは、正行としては約三年ぶりに会う妹や両親のことではなく、いまも進行しているであろう皇国とハルシャの戦争のこと。

 血みどろの、剣と魔法の世界。

 この現実と、どちらが夢のようかと比べて、即答できない時点で正行はすっかりあちら側の人間になっている。

 無論、あれは夢では済まされない。

 正行の心と身体は、あの世界で経験したすべてを覚えている。

 はじめて間近で見た人間の死体、それを自分の一声が生み出したのだという恐怖、逃げ出したくなるのを必死に押さえて、震える膝を掴んでいたころ、気のいい仲間たち、馬のいななきに舞い上がる土くれ、城下町の賑わいに香る酒と香辛料、皇国の風景に風の肌触り――この世界では十七年暮らし、向こうへ行ってからはわずか三年だが、思い出せることは向こうの世界で経験したことばかりなのだ。

 あるいは、この世界こそが夢なのかもしれぬ。

 はっと気づいた瞬間、霧散して失われる幻、光の具合か心の具合かで目の前に現れる蜃気楼、辿り着いたと思えば乾いた砂を握るだけというような。

 正行は、セントラム城の一室で眠りから目覚める自分を想像する。

 おそらく目覚めたあとのほんの一瞬、この世界を名残惜しく思い、次の瞬間には頭を切り替えて、戦争のことを考えはじめるにちがいない、しかしそれはこの世界に未練がないわけではないので。

 正行は、十七年生きたこの世界が好きなのだ。

 この世界にいる友人や家族が好きなのだ。

 しかしこの世界において、正行にはなんの責任もない。

 ひとの命を預っているわけでもなく、自分の一声で何十万という人間が動くわけでもない。

 だれに信頼され、だれの人生を背負っているわけでもない。

 戻らなければ、と正行は感じる。

 あの世界に戻らなければ。

 がちゃりと扉に開く音、振り返れば、風呂から上がったところらしい、長い髪を後頭部でまとめたアリスと、はじめからまとめるほど髪も長くない一巳が、身体から湯気が立ちのぼるのが見えそうな湯上り顔で立っている。


「お風呂空いたよ、お兄ちゃん」

「ん、わかった。なんだ、いっしょに入ってたのか?」

「女同士、ね?」


 と一巳が言うのに、アリスは言葉も通じぬはずだが、ただでさえ湯上りの赤い顔をさらに上気させて視線を逸らす。


「なにしてたの、お兄ちゃん」


 一巳は本も広げられていない勉強机をひょいと見て不思議顔、


「考え事だよ」

「えっ、お兄ちゃんが、考え事……?」

「なんだよ、そのリアクション。おれだって考え事くらいするっつの」

「うそっだー、テスト前だって勉強なんかぜんぜんしないタイプじゃん、お兄ちゃん。それなのに考え事なんて」

「おまえのなかの兄のイメージはすこしおかしいぞ。テスト前もそれなりに勉強してたはずだけどな」

「二十分くらいでしょ? 普通はね、もっとするもんなの」

「おまえはおれよりしてなかっただろ」

「あたしは天才だからいいんです」


 と胸を張るのに、正行がぽつりと、


「張る胸もないくせに」

「むむう、言ったなあ!」

「やべ、独り言が漏れてた」

「あたしだってね、胸のひとつやふたつありますー! なんなら見せてあげるよ、ほら!」

「ぬ、脱ぐなばか!」

「あー、ばかって言った!」

「だから脱ぐなったら!」


 ふんと鼻を鳴らす一巳は、そのまま廊下をどんどんと踏み鳴らして部屋へ戻っていく。

 はあとため息の正行、アリスはくすくす笑って、


「本当に仲がよろしいんですね」

「どうかな」


 と正行は言葉を切り替え、ようやく家族に聞かれるのはまずいと考えたのか、扉を閉める。

 アリスは一巳から借りているらしい丸襟のパジャマ姿、ベッドの端にちょこんと腰掛けるのが、年が年なら色っぽくも見えるところだが、いまは幼い容姿のせいでそれもなく。

 ただ、服を変えれば、アリスも異世界の女王にはまったく見えぬ、やはり女王というのも服の上から着るものらしい。


「こっちの風呂は、どうだった?」

「すごく不思議でした。あの銀色の筒についたものをひねるとお水とお湯が出るんですね。どういう仕組みなんでしょう?」

「さあ、詳しい仕組みまではおれもわからないな――向こうへ戻ったときに使えそうな知識を、できるだけいまのうちに溜め込んだほうがいいかもな」


 正行が言うのに、アリスはむうと唇を尖らせて、


「いまは、向こうのことは忘れてください。そうじゃないと心も身体も休まりませんよ」

「ああ、わかってるけど――でも、完全に忘れるわけにはいかないだろ。こっちではただの学生だけど、向こうに戻れば兵士の命を預かる参謀なんだ。そもそも、向こうとこっちの時間の流れが気になる――こっちの一時間が、向こうの一日とか一週間とかに相当してなきゃいいけど。なんにしても、できるだけ早く向こうへ戻ることだな。方法もわからないけど、あの森へ行ってみるしかない――なんだよ、アリス?」


 アリスは濡れた髪のまま、ばたりと正行のベッドに寝そべって、動こうとしない。


「わたし、向こうの世界に戻りたくありません」

「は、はあ?」

「わたし、この世界で生きていきます」

「な、なに言ってるんだよ。向こうの世界ではきっとクレアたちが心配してるぞ。戦争まで、もう時間がないんだ」

「そんなこと、わたしには関係ありません。わたしは、ここでは女王ではなく、ひとりの人間なんです。女王であるなら国民の生活を気にして、国の行方に心を痛めなければなりませんが、いまはその必要もありません。人間としてわがままが許されるなら、わたしはここにいたいんです――重圧も、悲しい出来事もないこの世界に」

「アリス……」

「正行さまも、そうじゃありませんか?」


 アリスは顔を上げ、まっすぐ正行を見つめた。


「あの世界へ戻れば、戦争をしなくちゃいけません。心が壊れてしまいそうな重圧のなかで、仲間たちの死を一身に背負い、仲のいい、大好きなひとの死さえ見なければなりません。きっとそれは苦しいことでしょう、きっとそれは悲しいことでしょう。でもこの世界にいるかぎり、そんなものは見なくても済むんです。――それに正行さまは、もともとこの世界のお方です。否応なくわたしたちの世界へ連れてこられて、戻れなくなっただけの異邦人なのです。正行さまがこの世界に留まるという決断を下しても、だれもそれを非難することはできません」


 正行はぐっと喉を鳴らし、言葉に詰まった。

 反論はいくらでも思いつくのに、切羽詰まったようなアリスの顔を見ていると、それは喉を震わせる前に拡散し、どこかへ消えてしまうのだ。


「わたしは、もう女王ではありません」


 アリスはゆるゆると首を振った。


「女王だからと諦めていたことを、ここでは諦めなくてもいいんです」

「なにを諦めていたんだ?」

「平和で気楽な暮らしを――大好きなひとを」


 立ち上がったアリスは、呆然と立ち尽くす正行にするすると近づき、その身体に抱きついた。

 ふわりと香るシャンプーかなにかの匂い、熱い体温が身体を包み、アリスのちいさな身体はちょうど正行の腕のなかに収まる。


「向こうでは、わたしは女王です。もっと気楽に暮らしたいといっても、だれもそれを許してはくれません。父から受け継いだ国を捨てることも、わたしにはできません。それに、皇国へ逆らうことも――クラリスさまが正行さまを求められても、わたしには引き止めることもできないんです。でも、ここならちがいます。ここならひとりの人間として、正行さまのことを独占できるんです。クラリスさまにだって渡しません」

「アリス――」

「ここでいっしょに暮らしていきませんか、正行さま」


 アリスは正行を見上げて、まつげを震わせながら懇願する。


「ここなら、わたしたちふたりで暮らしていけます」

「でも、向こうの世界はどうする? おれもアリスもいなくなって、戦争をやるのか。ロベルトやアントンさんを、クレアやヤンを見捨てるのか」

「それは――」


 とアリスは悲しげに目を伏せて。


「きっとみんなは、おれたちのことを信じて待ってるはずだ。向こうがどうなっているのかわからないけど、もし姿が消えたことが確認できたら、必ず戻ってくるって、いまも信じてるはずなんだ。それを裏切ってこの世界に残ることは、おれにはできない」

「でも、だったら! ここはどうなるんですか。正行さまの家族は、きっと正行さまのことを心配するはずです。今回はほとんど時間も経たずに戻ってこられたみたいですけど、次もそうだとは限りません。そもそも、次にここへ戻ってこられる保証はどこにもないんです」

「それは――家族のことは、たしかに心配だけど、でも、おれはやっぱりあの世界を選びたい。もしいまその選択をさせてくれるというなら、おれはあの世界に帰りたいよ」

「正行さま……」


 アリスは悔しそうに唇を噛み、目を細める。

 それほど感情をあらわにするアリスを、いままで正行は見たことがなかった。

 しかしおそらくはそれが本当のアリスなのだ。

 王族としての威厳もなく、豪奢な服を着ているわけでもない、年相応にわがままで、人間らしく自分勝手、人々の模範となる人格ではないが、だれよりも人間らしいのが、アリスの本当の姿なのだ。


「でも、アリスの気持ちもわかるよ」


 正行はアリスの頭を撫でる。


「おれは、突然向こうの世界に放り込まれて、ベンノやアリス、それにグレアム国王によくしてもらった。それでなんとかここまで生きてこられたんだ。アリスもいま、おれと同じようにこの世界へ放り込まれて、おれの家族によくしてもらってる、そこできっと憧れが生まれるんだろう。だから、おれが正しいわけでも、アリスが間違ってるわけでもない。むしろ、アリスが言うのことのほうが自然なんだろうな。おれはこの世界に生まれ育ったんだから、この世界で暮らすべきなのかもしれない。アリスも責任ある王族としてじゃない、ひとりの人間としての生き方がここにあると思うなら、たぶんこの世界のほうがふさわしいんだ。もし向こうにたくさんの仲間がいなかったら、おれも向こうに戻ろうとは思わないはずだから」

「正行さまは、それでもよいのですか。向こうへ戻って、またつらいことをたくさん経験しても」

「つらいことをたくさん経験するより、おれを信じてくれる仲間を裏切るほうが怖い」

「じゃあ、正行さまはあの世界へ戻られるんですね」

「そうするよ。アリスは、どうする?」


 正行は静かに、言い聞かせるように言った。


「もしこの世界に残りたいっていうなら、それもいいかもしれない。一巳や母さんたちなら、きっと受け入れてくれるはずだ。ここならきっとアリスが望むような、ひとりの人間としての生活を得られると思う。おれが言うのもなんだけど、悪い世界じゃないんだ。大きな争いもないし、大抵のひとは他人を思いやれる。あの世界になくて、この世界にあることはたくさんあるよ」

「でも、この世界には正行さまはいらっしゃらないのでしょう。だったら、この世界にいても無駄なんです。正行さまがいないなら」

「ん――そうか。じゃあ、いっしょに帰るか」

「正行さまが、本当にそれを望むなら――どこへでも、ごいっしょします」


 くすぐったいような、腹の底からじんわりと温かくなるような。

 正行はなんともいえぬ心地で、ただちいさく笑みを浮かべると、アリスもそれを真似るように笑って、花もほころぶような温かな雰囲気に、互いになんとなく抱き合ったままでいると、


「アリスちゃーん、髪の毛乾か――」


 扉とは、ノックもなしにがちゃりと開くもので。

 抱き合うふたりと、脳天気に緩んだ一巳の目、がちりとぶつかり、どちらが先に動いたものか。

 正行とアリスははっと気づいて身体を離したが、それからしばらく遅れて、一巳はぷるぷると拳を震わせて、


「お兄ちゃんの、へんたいっ!」


 と絶叫、それで階下からも何事かと両親が上がってきたり、言い訳をしたり。

 アリスはその喧騒のなかで、いかにも楽しげに、くすりと笑うのだった。

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