八つの宝と風の行方 3-1
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記憶の断裂、意識の覚醒、空気のちがい、正行は自分が気を失っていたことを知り、はっと両目を見開いた。
視界の端に、アリスの白いドレス、羽織っていた毛皮の外套は見えず、むき出しの白い肩を守るよう、正行がぐいと抱き寄せる。
「アリス、大丈夫か。アリス!」
黒髪がさらりと揺れ、まつげが揺れて目が開くのにほっとして、正行の意識はすぐに状況把握へと向かう。
すばやくあたりを見回せば、無論資料室であるはずがない、それどころか屋内ですらなく、生ぬるい風が吹き、あたりは妙に赤かった。
目の前には森がある、ほんのちいさな、それでいて底知れぬ深さを持つ森が。
「ここは――」
「正行さま?」
腕のなか、アリスが顔を上げた。
乱れた髪の何本か、額にかかっているのを退ける指先は無意識で、正行はそれに気づかずあたりをぐるりと見回している。
アリスも真似をし、あたりを見るが、恐怖に駆られたように正行の胸にすがった。
「正行さま、ここは、どこなのですか」
「ここは――」
正行は呆然とした顔で、いつまでもあたりを見回していた。
決して初見ではない、目の前に現れた鎮守の森、その左右は民家で、石造りでもなければ木造でもない、ざらついた質感のコンクリートを暖色に塗っている。
足元は色のくすんだアスファルト、道の両側には白線があり、遠く交差点には「とまれ」の文字、正行が読むのに苦労しない言語で。
「ここは、おれの世界だ」
正行が立ち上がるのに合わせて、アリスも立ち上がる、そこではじめてアリスは正行の変化に気づいて、ちいさく声を上げた。
「正行さま、ど、どうなされたんですか」
「どうって――」
と見下ろした正行も、ふと気づく、アリスの表情がぐんと幼くなっていることに。
年のころで、十四か十五、あるいはもっと幼いか。
正行はといえば、そこまで幼い顔でもなく、いくらか背が縮んで、十七、八というところ、シャツにジーンズという格好も、まさにあの世界へ飛ばされる直前の姿である。
場所は、異世界へ飛ぶきっかけになったであろう鎮守の森、正行もアリスも姿を幼くして、道端、抱き合うように立っていれば、人目にも触れる。
ちょうど自転車に乗った主婦がひとり、それまでのんびりと漕いでいたのが、ふたりの姿を見つけ、びくりと驚くとわざとらしく知らぬ顔で横を抜けてゆく。
正行は、セントラム城には決してないその自転車をじっと見つめて、それから幼くなったアリスを、背もぐんと縮んだアリスを見て、心の底から呟いた。
「どうなってるんだ、これ」
正行とアリスが城から消えた、という情報は、広まる速度こそ早かったが、すぐに機密扱いを受け、口にしたものには重大な罰を与えると決まってからは、セントラム城内は不自然なほどに静まり返っていた。
消失現場となった資料室には、うわさを聞いて集まってきたアントンとロベルトの姿、クレアはいまだに動揺したように服の裾を強く握りしめ、その自覚もないようで。
「ふうん、たしかにここから消えたのか?」
とロベルト、机の上に並べられたままの六つの秘宝を眺めて、半信半疑という顔。
「ここ以外には出口もないのか。どこぞの魔法使いにやられたのではないか」
アントンに至ってははじめから信じていない顔だが、クレアは必死になって、
「ほ、本当に、この秘宝がぱっと光って、それが収まったころにはおふたりの姿がなくて、わたし、その」
「いや、おまえさんの言葉を疑ってるわけじゃねえさ」
ロベルトは頭を掻き、
「正行殿とアリスさまか――たしかに、なにかしらやっかいなことに巻き込まれそうなふたりではあるが」
「当面はこのことを隠し通すしかあるまいな」
ふうと腕組みのアントンは、疲れた顔は隠そうともしない。
「時期が時期だけに、あらぬうわさが立ちかねん」
「あ、あらぬうわさ?」
「正行殿とアリスさまはふたりで逃げ出したのだ、と」
「そ、そんなこと!」
クレアは眦を決し、
「アリスさまも正行さまも、城のことを見捨てて逃げ出すような方ではありません!」
「おれたちは重々承知さ」
とロベルトはクレアの肩にぽんと手を添え、
「おれもアントン殿も、考えていることはおまえさんといっしょだよ。アリスさまにしても正行殿にしても、いまになって城を捨てて逐電するはずがねえ。ニナトールから帰ってきた正行殿と同じさ――裏切りなんか、ちらとも心配してなかったってな」
ふんと鼻を鳴らすアントン、ロベルトはちいさく笑って、
「もしなにかに巻き込まれたんだとしても、正行殿がいっしょならアリスさまにも危険はないだろう。必ずふたりで無事に戻ってくるはずだ。こっちから迎えに行けりゃいいが、そういうわけにもいかねえ。いまはふたりが戻ってくるのを待つしかない」
「なにもこの忙しい時期に消えずともよいであろうに」
恨みっぽくアントン、ロベルトはもはや心配もしていないというように笑って、
「正行殿にとってはいい休養になるかもしれねえな。近ごろの正行殿はすこし働きすぎだ。あれじゃあ戦前に死んじまう。まあ、ゆっくり休めるほど安全な場所に行ってるなら、だが」
「そ、そうじゃない可能性もあるんですよね」
「そうじゃない可能性のほうが高い。もしかしたら地獄みたいなところに連れて行かれたのかもな。おまえはひとを殺しすぎた、とかなんとか天上人に言われてさ」
「それなら、正行殿より先にロベルト殿が連れて行かれねばなるまい」
「ちがいねえ」
仲がよいのか悪いのか、ロベルトとアントンはなにやら連れ立って資料室を出ていく。
クレアはぽつんとひとり静寂に残って、机の上に残った六つの秘宝、ぼんやり眺め、心配そうに呟くのだった。
「アリスさまも正行さまも、どうかご無事で」
すこしも変わらぬ街並みである。
民家がずらりと立ち並び、空はいくらか霞んで見えるが、ちょうど夕方、赤々と燃える太陽が、西の空に沈むころ。
茜色に染まった町には煉瓦もなく、城壁もなければ、振り返ったところで城の威容もない。
くんと鼻を鳴らせば、ちょうど頃合い、どこからか夕食の匂いが漂ってくる。
「やっぱり、間違いない。おれが向こうの世界へ連れ込まれた、あのあとだ」
「ここが正行さまの世界……」
アリスは正行の胸にすがりながら、というのも背がぐんと縮んで、ちょうど正行のあごの下に頭が収まるので、正行も無意識のうちにアリスの背へ腕を回すから、知らず抱き合う体勢で、あたりを見回している。
「見たことのない形の家がたくさんあります。この地面は? 土を固めたものなのですか」
「土っていうか、アスファルトっていうんだけど――いや、そんなことは、いまはいいんだ。とにかくおれたちは、おれのいた世界にきちまったらしい。いったいどうやって戻りゃいいんだ?」
正行は鎮守の森をじっと見つめるが、かつて向こう側へ連れて行かれたときのような、不思議な感覚はいつまで待っても訪れない。
代わりに時間はゆっくりと流れ、そばを過ぎていく自転車、主婦やら高校生やら、さすがに道端で抱き合うのも恥ずかしく、ふたりはゆっくりと身体を離す。
「とりあえず、向こうの世界に戻る方法を探そう。もしかしたら大騒動になってるかもしれない。おれはともかく、女王が突然消えたんだからな」
「はい――クレアは、大丈夫かしら」
「そういえば」
とあたりを見回すが、なんとなく淀んだような風が揺れるばかり、クレアがいっしょにこちらの世界へ飛んできた形跡はない。
「クレアは、こっちにはこなかったのかもしれないな。無事に向こうに残れてりゃいいけど――この森が、やっぱり怪しい。なかに入って調べてみるか」
鎮守の森は常に立入禁止であるため、緑のフェンスで覆われている。
もっとも、茂った木々はフェンスを半ば飲み込むように成長して、ぐっと路地に張り出しているから、線引きはあってないようなものだが。
正行はフェンスに手をかけ、禁忌を犯すよりももとの世界へ帰ろうという一心で乗り越えた。
「アリスは、そこで待っててくれ。なにかあったら声を上げるといい」
「はい――正行さま、お気をつけて」
とフェンスの外で見送るアリス、その視界から、正行の姿があっという間に消える。
森といっても、いまやわずかな土地に数十本の木々が茂る程度だが、密度が過剰で、幹と幹の隙間に身体を滑りこませることもできない。
くぬぎかなにか、立派な幹同士が寄り添って、栄養は足りているのかと思うが、それ以上先には進めそうにもなく、仕方なくがさごそと引き返す。
「だめだ、なにもわからない。もともと、前に向こうへ飛んだときは、なかに入ったわけじゃなかったしな」
「正行さま、あの」
とアリス、白いドレスの裾を揺らして、正行の服をちょんと掴む。
「向こう側へ戻ることも大事ですけど、無理に戻る方法もないなら、しばらくここでゆっくりしてはいかがでしょうか」
「ここで?」
幼くなったアリスがこくんとうなずくのも、美しいというよりは愛らしい仕草で。
「ここは正行さまの世界なのでしょう? だったら、このところの疲れもとれるかも」
「でも、向こうに戻れるかどうかもわからないし、戻れるなら一刻も早く戻らないと。この大変な時期に城を開けるわけにはいかないだろ」
「そこが、だめなんです」
ぴっと指を立てるアリス、年下の少女に叱られるふうの正行は、フェンスにもたれかかって困り顔。
「セントラム城でも仕事はしないでってお願いしたはずです。それなのに正行さまったら、時間があったらすぐ兵士の方とこそこそ……仕事熱心なのはうれしいですけど、いまは、だめです。正行さまが仕事のことを忘れるまで、わたし、ここから動きませんからね」
と腕組みで。
ううむと正行もうなって頭を掻くのに、アリスはちらと上目遣い、いたずらっぽく、それでいて哀願するような目つきに、
「それにわたし、正行さまが住んでいたこの世界をいろいろ見てみたいんです。だめ……ですか?」
「だめってわけじゃないけど」
幼くなっても美しい少女には変わりない、それにこうまですがられては、正行も鬼ではないから、
「じゃあ、ちょっとだけこっちでゆっくりしていくか。そんなのんきなことしてる場合じゃないはずなんだけどな」
ということになる。
アリスはぱっと表情をほころばせ、
「はいっ」
元気なうなずきひとつ、正行は馴染みの町で、やはり困り顔。
茜色の横顔から、すっと視線を外して空に流せば、
「とりあえず、うちでも行ってみるか――そういや一巳のやつ、どうしてるかな」
正行の主観では三年近くも会っていない妹のことを思い出しつつ、フェンスから身体を離す口元、さすがにうれしげで、それを盗み見たアリスもほっとしたように息をつくのだった。