流星落ちるはかの国に 5-2
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霧雨上がり、しかしまだ曇天去らず、昼間にしてわずかに薄暗く陰鬱、とくに戦場の跡ともなればより一層色濃い。
両軍入り乱れての騒乱で、あたりの野草は踏み荒らされて跡形なし、ぬかるんだ地面は無数の足跡で隆起したりへこんだり、雨水と土がかき回されてどろりとした泥となり、歩くだけでも足を取られる、それも雨が上がって徐々に乾きはじめているようだが、見渡せばその野面、至るところに死体がある。
死体とはいえ、五体満足のほうが珍しい。
斬られ、裂かれ、踏みつぶされ。
切断面も鮮やかにぼとりと落ちる何某かの腕あれば、激しく踏みつぶされてどこからちぎれているのか定かではないような足もあり、なかにはどうしたものか胴体を真っ二つに両断されているものもある。
そのほとんどはノウム王国の軍勢、華々しい国旗も泥にまみれて判別がむずかしい。
グレアム王国の兵も数人、ほとんどが槍に貫かれ、それが抜かれぬまま、槍の尻がくいと空へ向かって伸びている。
森閑たる戦場の跡で、蠢く者はいましも戦死しようという者、それ以外に生きとし生けるものは存在しないのがこの場所なのである。
無情といえば無情、陰惨といえば陰惨だが、果たして戦乱のさなか、かような光景は珍しいものではない。
むしろひとつの戦場としては、死体の数もすくない。
両軍揃えて百人に届くかというところ、それが広大な野面にぽつりぽつりと点在しているものだから、死体を見つけてしばらく歩き、忘れたころにまた出くわすという程度。
その騒乱も、どうやら去ったらしい。
どこへ隠れていたものか、踏み荒らされた叢中がうごめき、丸い目をした毛むくじゃらの獣、臆病そうに鼻面を覗かせる。
ひくひくと黒い鼻先が動くのに、血の匂いを嗅いだものか、一度などさっと草の根本へ引っ込んだが、またそろそろと現れて、手のひらに載るほどの小動物、泥の上をちいさな足でとことこ。
身近な死体へ近づき、鼻を寄せて匂いを確かめるのに、しとどに濡れた黒い瞳がなにを思うか、ぴくりと空を仰いで、きいと甲高く鳴く。
すると空にも生き物が戻り、いつしか黒い羽根を寝かせて、何羽かの怪鳥、曇天の下を旋回している。
小動物は慌てて前足で泥を退け、頭から突っ込んで潜っていったが、怪鳥が狙うは腹を満たすに足りぬ小動物ではない様子、ふわりと一羽舞って、横たわる死体の上、鋭い爪を立てて降り立つ。
ぐいとつり上がった目が輝けば、すらりと長い嘴、死体の皮膚を突き破って肉を引っ張り出す。
一羽がはじめれば、先を争うように上空から何羽も降りつのって、さながら黒い雨が降り出したよう、集られた死体は背に黒い小山を抱いて、泥の上にも抜け落ちた羽根、さらりと落ちる。
怪鳥の羽音、禍々しい鳴き声があたり一帯に響いて、しかしこれが自然の営み、肉体はやがて土となり、他の生物を生かすのである。
そのような野面からすこし離れた場所、グレアム王国の城門前には、敵味方の死体には見向きもせず、多数の兵士が詰めかけている。
直接城門に触れているもの、遠巻きに見るもの、ようやく戦闘を終えて抜き身の剣を鞘へ収めるもの、ともかく共通しているのは、どれも呆けたような顔である。
雨に濡れた髪が額や頬に張りつき、鞘の先からはまだ雨粒が滴る。
疲れもあり、虚脱感もないではないが、それよりも不思議に思う心がはっきりと現れているのだ。
城門前に終結している兵士の数、およそ百、だれからともなく顔を見合わせ、
「成功したのか?」
と問い合って、だれひとり失敗したとは言わぬ。
それでようやく作戦の成功を理解し、その瞬間、百人余りの男たちは一斉に絶叫した。
「やったぞ、連中を全部閉じ込めた!」
「おれたちの勝ちだ、戦争に勝ったんだ!」
地を揺るがすような咆吼、鎧が鳴るのは抱き合うせいだが、濡れた目元は霧雨のせいではあるまい。
快哉を叫び、あるいは言葉にもならず喉を震わせ、跪いて天に祈る者、肩を抱き合う者、様々あってもよろこびは一貫している。
「さすがベンノさまだ」
「聞いたときは、そうはうまくいくものかと思ったが、やはり学者さまの考えはちがう」
「見てみろ、あいつらひとり残らず城内へ飛び込んで、いまやすべて生け捕りだ。なんと間が抜けた連中だろう!」
笑い合えば痛快で、仲間の犠牲も自らの負傷もひととき忘れ勝利に酔う。
しかし、やがて叱咤する声が上がって、
「おまえたち、よろこんでいるひまはないぞ。すぐに次の行動を開始する」
「ロベルト隊長」
ただひとり、よろこびにむせぶ兵士のなかにあって、厳しい顔を失わぬ男、ロベルトは兵士をぐるりと見回して、浮かれ立った部下を目線で叱りつける。
「まだ戦闘は終わっていない。予定通り、百あまりはここへ残れ。三十は森のなか、避難する民衆と負傷者を護衛し、残りはすべて武器を持ち替え進軍するのだ。それが済んだときにこそ完全勝利、浮かれるも勝手泣くのも勝手好きにしろ。しかし気を抜けばこの勝利も失うぞ」
獣じみた声でロベルトが怒鳴り、視線激しく左右へ振れば、兵士たちもみな表情を引き締め、自らの役割を理解し配置へつく。
城壁の外を包囲するもの、森へ向かうもの、散っていた兵士たちも再合流し、泥を踏みつけながら陣形を作った。
先頭に立つロベルトは、鮮やかに剣を抜き払って一声、
「ノウム王国へ、進め!」
男たちの返答低く、一斉に進軍を開始する。
どれも一度は戦いに参加し、疲弊したものばかりだが、勝利の美酒がよく回ったのか、頬を紅潮させ覇気を欠くものはひとりもいない。
旗印もないが、深く雲が立ちこめる下、行軍する二百あまりの兵士たちはさながら天の使いのよう、白銀に淡く輝く。
ロベルトは剣を振り、煌めかせて指示しながら、しんがりを見送ると自らはそれに背を向けて、先刻まで自らの城だったグレアム城を一瞥、西の森へ向かう。
さほど深い森ではないが、立ち並ぶ樹木のおかげで地面もぬかるまず、ただ青々とした葉に朝露のごとく水滴が流れるだけ、細い枝をかき分け、鬱蒼と苔生した地をゆけば、開けた空間に天幕、野営が現れる。
衛兵に敬礼し、ロベルトは野営の奥へと進んで、不安げで見守る民衆に堂々たる立ち姿、それだけで勝利を伝えている。
いちばん奥の天幕にはすき間なく布が張られ、野面に比べればいくらか肌寒い空気を遮断している、それを太い両腕、さっと左右へ割って入れば、
「戻ったか、ロベルト」
と王も寝床から起き上がり、満足げな顔でもって出迎える。
ロベルトはその場に跪き、
「作戦は現時点で不足なく成功しております。現在残った兵士でもってノウム王国へ進軍中、明日の夜には到着し、戦闘がはじまることと存じます。私もすぐに馬で追い、指揮をとる所存ですが」
「かまわん、そうしてくれ。して、敵の様子は」
「はっ。ほぼすべての閉じ込めに成功、あぶれた少数はすでに討ってあります。城門以下すべての出入り口は固く塞いでございますゆえ、数日中の脱出は不可能、食料もひとつ残らず運び出してございます。連中、保って数日、早ければ三日か四日後には降伏なりなんなりを見るでしょう。さすれば残りの兵もすべてノウム王国へ、かの国にはすでにほとんど残兵もおりませぬ。勝利は揺るぎないものと存じます」
「よくやってくれた。ことが落ち着けば褒美もとらせよう」
ロベルトは深々頭を垂れ、立ち去る間際、ちらと王の顔を見たが、兵のだれよりも疲労深く、目は一層落ちくぼんで頬は痩け、以前は太く凛々しかった首筋など、いまでは見る影もなく皮が張りついている状態、傍らで控える王女アリスもこれでは心休まらぬと嘆息するが、病ばかりはいかなる勇や武をもってしても追い払いようがない。
王の天幕を出て、ロベルトは馬を呼ぶあいだ、ぐるりと避難する民衆を見回して、勝利の報にほっと息をつくものあれば、顔色冴えぬものがあることに気づく。
たとえ勝利しようとも、慣れ親しんだグレアム城を捨てることに変わりなし、憂鬱も仕方なしか。
ちいさな天幕に数人が寄り添い、子どもも老人も区別なく森へ逃げ込んでいるのを見るのも、とても勝利したとは思えぬ心地、夫を兵に出している女も、息子の帰りを待つ翁も、いまだ安心にはほど遠い。
ちらと頭上を見上げるロベルトに、王の天幕の傍らからひょいと現れる老人の顔、
「おう、ロベルト、戦闘はどうなった」
振り返るロベルトの顔に笑みが広がって、
「ベンノのじいさんか。なに、順調そのものよ。じいさんの考えたとおりに進んでるぜ」
友人にでも話しかけるよう、気楽に言えば、ベンノもうなずきながら天幕を出てきて、
「こちらの被害は最小限で食い止められたか。あまりここで兵を減らしすぎると、先に差し支えるが」
「おれが知るかぎりじゃ、死んだのは三人だ」
声をひそめるのは、そのあたりに家族がいるかもしれぬという配慮。
「ほとんど無傷、それに連中も残らず城内へ飛び込んできた」
「うむ、それならよい」
小柄なベンノがとなりに立てば、まるで子どもと大人、ロベルトはベンノの禿頭を見下ろして、
「じいさんよ、これからノウム側で一戦やるが、いっしょにきて指揮してくれねえか。おれだけでもよいが、気がかりがないでもない」
ベンノはちらと聡明な目、ロベルトに向けて、
「ノウムの残存兵力がこちらを上回る場合だな。ではわしも行こうか」
「そうしてくれるとありがてえ」
「しかし城内の様子も気にかかる」
と腕組みしたベンノはうつむいて。
「ノウム軍の指揮をしておるルーベンという男はわしもよく知っておるが、あの男の性質上、勝ち目なしとわかればすぐさま降伏するであろう。そのあたり、判断力に衰えなし、常に最善をとるが、執着心なきが玉に瑕。才ある指揮官ではあるのだが」
「その指揮官を知謀で絞め殺すのがじいさんだろう」
とロベルトがかかと笑えば、ベンノはちいさく首を振り、
「今回にかぎっては、わしの出番などほとんどない。ほとんどの作戦は正行殿が考えたのよ。わしはそれを補完し、実行のために後押ししただけだ」
「ふん、あの異邦人か」
ロベルトも腕組み、ちらと天幕を見やり、
「いったい何者か。若い男だが、それほどの才ありと見るか」
「わからん。愚鈍でないことはたしかだが、偶然ということも考えられる。とくにこの作戦、城に愛着を持つわれらには思いもよらぬが、そうでない彼なら思いついても不思議ではないのだ――敵に城を明け渡し、反対に籠城させるなど」
うむとロベルトもうなずいて、地面見下ろせば会議室の地図の上、駒を動かす手が浮かぶ。
作戦の基本は、だまし討ちにある。
城へ迫るノウム軍へ、籠城の気配感じさせず、捨て身の特攻なりと兵士を当て、まず第一の奇襲によって敵を翻弄する。
その後、合図ひとつで後退へ転じ、城のなかへ逃げ込む素振り、このまま籠城されては時間を使うと深追いさせて、敵兵をできるかぎり城内へ連れ込む。
ここぞと思う時期に残しておいた兵が城門を閉め、魔法隊が惑わすための霧を生めば、それに乗して一度は城内へ逃げ込んだ兵士たち、するりと城壁を抜け、その穴を崩したのち、城壁をぐるり取り囲めば、さながら敵に籠城を強いるよう、それも食料ひとつない絶望の籠城である。
と、ここまでは雲井正行の案だが、その先はベンノと正行が共同で考えた作戦となる。
城下町の井戸に糞尿を仕込むことを提案したのはベンノである。
それにより、二度と城下町には住めなくなるが、水を得て敵が勢いを得るよりは、いっそ城を捨てて剿滅せりと判断したのだ。
勝っても負けても城を失う、ではノウム城や城下町に住む決してすくなくはない人間をどうするかといえば、これは、別の町に住まうしかない。
そのためになんとしてでもノウム王国、その本丸へ攻め込み、落とさねばならぬ。
それをもって一度は失われたグレアム王国の再建を宣言するのだ。
「才の有無はまだわからんが、すくなくとも信たり得るとわしは見る」
ベンノは昂然と顔を上げる。
「おまえさんは兵の指揮もあって知らんだろうが、民衆が城下町を離れる際、だれよりもそれを手伝い、気遣ったのが彼よ。おそらく自分の発案で家を捨てることになった民への罪悪感もあろうが、そのような心を持つ者、われわれに仇なすとは思えん」
「ふむ、そうか」
ロベルトもうなずいて、
「じかにやつと話せるじいさんが言うなら、そうなんだろう。おれもやつを信ずることにする。早くこっちの言葉を覚えて話してみたいもんだ」
「言葉ならこの数日でわしがいくつか教えておるよ。どうやらその方面の才はないようだがの」
ベンノがため息をつけば、ロベルトは朗らかに笑い、
「じいさんとおんなじだけの頭脳を期待するのは無体だぜ。それじゃあ大陸一の天才になっちまう」
「まあ、そんなもんかの」
「しかし、そうなってくるとやつはじいさんの一番弟子というわけか。いままでそんなやつがいても断ってきたあんたが、どうした心変わりだ。おれのことも弟子にはしてくれなかっただろう」
「おまえさんにはもっとふさわしいものがあろうと教えたはずだ。おかげで武に才を見いだし、かような身分にもなっておろうに」
とベンノは禿頭を撫で、
「わしも、弟子をとったつもりはないが、しかしどうも放っておけんのよ。言葉も通じぬし、衣食住もない。不誠実の結果ならかまいはせんが、天のいたずらでこの国へやってきた青年、見殺しするには忍びない」
「ふん、そんな理由か。おれはてっきり、あの若造に特別なもんを見いだしたせいかと思ったが」
「そうさな、特別なものというなら、せいぜいその心程度か。清廉なる心は努力して得られるものではないからの」
語らうふたりに、若い兵士がひとり、馬を引いて近づいてくる。
それと時を同じく、ベンノがいた天幕からひょいと外へ出てきた若者を見つけて、ロベルトはにたりと笑い、手招きした。
若者は不思議そうに首をかしげ、自分のことかと指さすが、おずおず近づく。
「うわさの一番弟子よ、おまえさんもいっしょに行くかい」
と問うても、その若者、雲井正行は言語がわからぬのに戸惑うばかり。
追加の馬がくるあいだ、ベンノが正行に説明して、理解した正行はぶんぶんと首を振り、なにかわめいた。
「馬など乗れん、と駄々をこねておるの」
ベンノが言えば、ロベルトはふんと鼻で笑って、
「じゃあ、おれの後ろに乗ればいい。しがみついていれば振り落とされずに済むだろう」
通訳のあと、慌てて逃げようとする正行の腕を掴んだロベルトは、ぐいと身体を寄せて、
「発案者としての責任はないが、その結果としてどうなったのか、一度その目で見ておけ。それが死にゆく兵士のため、その家族のためだ」
眼光炯々たるにあてられ、正行はしばらくぼんやりしていたが、意味を理解すればきっとロベルトを見返して、こくんとうなずいた。
瞬間、ロベルトはにっと幼く笑い、力任せに正行の背を叩く。
「そうだ、それでよいのだ。何事も経験、それが説得力を持つ。死を見ずして生を語ることもなし、戦知らずに案もなき」
大きな手のひらが背中を叩くたびに飛び上がる正行、にっこり笑おうにも口元が引きつる。
はじめにきた一頭にベンノがひょいと乗り、あとからくるもう一頭、まずロベルトがその巨体に任せて飛び乗るのに、正行も後ろへ続こうとするが、どうも動きに精彩を欠く。
艶やかな毛並みを誇る馬の背、しがみついて足を上げてはずり落ちて、再び試みては失敗し、正行はロベルトを見上げる。
「間の抜けたやつだな、まったく」
とあきれ顔のロベルト、正行の腕をぐいと引けば、身体ごと浮き上がってなんとか飛び乗る。
ロベルトの大きな背中にしがみつけば、馬が走り出し、しばらくは森のなかをゆっくりと、あまり揺れもなく、せいぜい前から前から迫ってくる枝に気をつけるくらい。
しかし森を抜け、野原となればその比ではなく、まるで飛び跳ねるように駆け出して、文字どおり背中にひしとすがらなければ振り落とされてしまう激しさである。
正行はちらと足下を見、その予想外の高さに顔を青くしながら必死にロベルトを捕まえている。
一方でロベルトやベンノは慣れたもの、跳ねる馬の背で巧みに姿勢を正し、あまり身体も揺らさず手綱をとる。
ごうごうと耳元で鳴る風に負けじと正行がなにか叫び、ベンノがにたりと笑って答えれば、
「この国で馬に乗れぬは赤子ばかりよ。もしやおまえさんがいちばん下手やもしれんの」
その二頭、まっすぐ野原をゆくかと思いきや、森を出てから一度グレアム城へ向けて進み、道中、くだんの陰惨な戦闘域を通りかかる。
ロベルトがわざと馬を遅々とさせれば、過ぎ去ることのない戦闘の痕跡、まざまざと見せつけられるのである。
ちりぢりになった人間の身体、早鳥についばまれたと知る死体の、むき出しになった赤い肉、血が凝固して張りつけば黒く変色して、傷口など嘴で引っかき回されぐいと外側へささくれて、やけに白々とした骨が覗いている。
そんな死体がひとつやふたつではない。
いまも新たな黒い鳥舞い降りて、別の死体を突きはじめるのに、嘴の先に皮か肉か定かではないもの、だらりと引っかかって垂れ下がり、鳥が頭を振ればぶんぶんと揺れる。
それがぎらりと二頭の馬を振り返り、じいと見つめれば、逃げることもなく死体をついばむ。
うち捨てられた旗印、泥にまみれどちらのものかもわからぬが、その根本にいまだ離さぬしかと握って白い手、肘より向こうがどこにも見当たらぬ。
どんな剛の者でも顔をしかめようという戦場、ロベルトとベンノは冷静に見渡すが、ロベルトの背にしがみつく正行はそういかぬ顔色。
青ざめたのが、むしろ白いほどで、血色を失った唇はぶるぶると震え、ロベルトの裳裾を掴む指先も力が入って白くなり、小刻みに震えを催す。
それでいながら目を見開いて決然と背筋を伸ばすのに、ベンノは感じ入った様子、ぽつりと正行をかばうように、
「どうも正行殿の住んでいた世界では、このような陰惨極まる出来事は起こらんものらしい」
「なんにせよ、この場所にいる以上、甘えは許されん」
ロベルトは厳しい口調で言って、
「もとの世界がどうかは知らねえが、この世界で、この国で生きてゆくというのはこういうことだと、いまのうちに理解しておいたほうがよかろう」
馬の腹を蹴り、ゆっくりと速度を上げれば、死体をすぐ脇を抜け、ふてぶてしい怪鳥を蹴散らす。
それから方向をぐるりと変え、先に兵士が向かうほう、ノウム王国へ向けて二頭の馬は駆け出した。
揺れる背で、吐き気でも催すのか、正行はぐっとうつむいたまま、その実落涙するのを抑えられず、だれにも見られぬように肩を震わせる。
震える指先も止まらず、むしろ身体全体が小刻みに揺れるよう、ロベルトはそれを背で感じながらも声はかけず、どこか突き放すような雰囲気さえ放って馬を飛ばす。
馬が速ければ速いだけ、風を切ってごうごうと鳴る音も激しい、それが正行の口から漏れるかすかな嗚咽を隠すためとは、正行自身も気づいていない。