八つの宝と風の行方 2-2
*
大陸最南端に位置するハルシャ王国は、かつてはのどかな田園風景の広がる、時代をひとつふたつ遡ったような牧歌的な王国であった。
いまでも風景に変化はない。
山と呼べるような起伏もなく、どこまでも続く緑の地面、ゆったりと波打つような地形にはありとあらゆる種類の植物が育ち、南の温暖で安定した気候のなか、今年も豊作を誇る。
農夫たちは素朴で欲がなく、貧しい農民同士助け合って生きているが、奇しくもその豊かな土地こそハルシャの軍事的成功の後ろ盾となっていた。
大勢の兵を養えるだけの食料が、ハルシャにはそもそも備わっているのである。
そこへきてロマンは、農民から厳しく作物を取り立て、あちこちへ分配して補給拠点を作り、数十万という大群を自由自在に動かせる土台を作り上げていた。
そのロマンも、ここ数年は遠征続きで、ハルシャ城はほとんど無人の打ち捨てられた城となっていたが、農夫たちがほっとした矢先、ロマンは大群を引き連れてハルシャ城へ戻ってきた。
ハルシャ城の尖塔の上、穏やかな海を眺めるロマンの後ろ、若い兵士が跪き、必要なだけの食料が確保できたと報告する。
「これでいつでも攻め込むことができます。わが軍勢の前にあっては、皇国など一捻りでしょう」
熱っぽく言うのに、ロマンが返す言葉は一言、
「そうか」
とそれだけで。
まだロマンのもとについて間もない若い兵士は不満げに、
「なぜ、宣戦布告などなされたのです? いや、宣戦布告など無視してしまえばよいではありませんか。いま皇国へ攻め込めば、連中はまだ準備も整っていないでしょうから、あっという間に全滅させることができるはずです。そうなされないことにはなにか理由があるのですか」
ハルシャは背中でそれを聞いて、海風に頬を晒せば、表情も変えず。
「無論、理由はある。しかしおまえがそれを理解する必要はない。戦う理由を理解しているのはおれひとりで充分だ。兵士たちは、ただ戦いたくて戦っておるのだから」
「――さようでございますか」
と声から不満げな響きが消えないのに、ハルシャがくるりと振り返れば、若い兵士はようやく口を出しすぎたと気づいたらしい、はっと顔を伏せ、
「お、お許しくださいませ、ロマンさま――決して、ロマンさまの決定に異議があるわけでは」
「異議など、どうでもよいが――しかしこの単純な図式が理解できぬか」
「単純な図式とおっしゃいますと」
「互いに食料と武器を万全に準備し、なんら焦ることなく戦いをはじめられるのだ。戦いというのは、およそ同等の戦力ふたつが正面からぶつかり合うときがもっとも双方に大きな犠牲を出すもの。おれは最後のひとりにまで殺し合いをさせるつもりでいるのだ。戦いが終わったあと、大陸の人口はどれほどに減っているであろう――そしてどちらが生き残っているであろうか。そうして想像すれば、これ以上に愉快なことはあるまい」
「で、では、ロマンさまは、現時点で攻撃を開始すれば必ず勝利できるとご存知なのに、敵が準備を終えるまで待つというのですか」
「相手がおれをどう見ているか知らんが、おれは勝利などいらん。勝つだけでよいというなら、なんと楽な話であろうか。しかし勝つだけでは、答えは得られぬのだ」
「答え?」
「すべての答えだが、まあ、おまえには理解できぬであろう。ともかく、食料の確保が済んだのなら武器の確保へ移れ。兵をちらと見たが、刃こぼれした剣を使っている兵士が目立つ。すべて新たな剣と取り換えよ」
「はっ――」
若い兵士が慌てて下がるのに、ハルシャは再び海を見る、紺碧の穏やかな海を。
冬の深まったこの時期でも、南から吹く風がふわりと暖かい。
潮の匂いをどこへ運ぶか、ロマンは飽きることなくいつまでも海の果てを、南風のもとを見つめていた。
冬が過ぎ、春がきた。
野山には雪解けを待ちわびた植物が新緑茂らせ、人々もまた雪の下からむくりと起き出し、白銀の世界をまばゆい陽光が駆逐していく様子を感謝と感動をもって見守る。
正行はセントラムの城下町や周辺の土地がゆっくり雪から浮き出してくる様子を、幸いにもセントラム城から眺めていた。
というのも、春になって戦争の準備もひと段落したところ、それでもまだやることは無数にあるが、このまま働き詰めでは肝心の戦争前に身体を壊すと、クラリスが直々、故郷へ帰って休養しろと正行に命じたのである。
本人はやるべきことがあるとずいぶんごねたが、結局は皇女クラリスの意見に逆らえるはずもなく、渋々馬に乗って雪解けのなかをセントラム城へ帰還したのが一週間ほど前のこと。
「こうして雪が溶けていくのを見ると、季節の流れを実感するな」
正行がぽつりと呟くとなりには、お決まりのようにグレアム王国の女王アリスの姿。
白くなめらかな肌触りの上から毛皮の外套を羽織り、城のテラス、セントラムの城下町を見下ろせば、まだ息もかすかに白いまま。
「セントラムへきてから三度目の冬か。でも、考えてみればおれこうやって雪解けを見るのははじめてだよ」
「そのはずです。だって正行さまったら、だいたいこの時期はお城にいらっしゃらないんですもの」
つんと唇を尖らせて拗ねた顔のアリス、正行は苦笑いして、
「そういやそうだよな。最初の年は、たしかフローディアと港で出会って、冬のあいだは向こうの島に行ってたんだ。戻ってきたのは春になってからだったし、その次の年はニナトールへの遠征中。今年も、ほんとなら皇国へ詰めててこっちへは戻ってこられないと思ってたんだけどな」
「そんなに落ち着きのない正行さまには、お目付け役が必要ですね」
「いらないよ、そんなの」
「だめです。だって正行さまは、遠くの戦争のことはわかっても、自分のお身体のことはすこしもわかってらっしゃらないんですもの。今度皇国へ戻るときは、クレアを連れていったほうがいいかもしれませんね。あの子がいてくれるならわたしも心配せずに済みます」
「自分ではちゃんとやってるつもりなんだけどな。仕事も、別にやりすぎってほどやってるわけじゃないぜ」
と頭を掻く正行だが、そこに運悪く兵士が寄ってきて、
「正行さま、例の武器改造の件と、コジモさまからの報告ですが――」
と耳打ちするのも、アリスが明らかに責めるような目で見ていることに気づき、兵士のほうが気を遣って、
「あ、あとでご報告いたしましょうか」
「う、うん、そのほうがいいらしい。悪いな」
「いえ」
そそくさ、兵士が逃げるようにされば、アリスははあと当て擦るようなため息、それもまた白く染まって流れてゆく。
「正行さま」
「ん、ん?」
そっぽを向く正行の横顔を、アリスがじいと見つめる。
「お仕事は一旦お休みして、ちゃんと身体を休めるって約束しましたよね? たった一週間前のことです、忘れているはずありませんよね?」
「も、もちろん覚えてるさ。さっきのは、なんだ、遊びの話っていうか、うん、そんなもんだ」
「だめですよ、許しません。わたし、皇女さまからも直々に親書をいただいて、頼まれているんですから。この城では正行さまに仕事をさせないようにと」
「してないしてない。ほんと、毎日気楽にのんびり過ごしてるよ」
「むむ……そのあたりの言葉は、いまいち信用できません」
「で、でも、早いもんだよな、もうおれがこの世界へきて三年目なんて」
とごまかしつつ、まだ肌を撫でるには冷たすぎる風から避けるよう、正行が城のなかへ戻れば、変わらず不満げなアリスも従って。
「はじめは、言葉も通じなかったっけ」
城のなかの階段を下りながら、正行が自然に差し出した右手に、アリスが左手を添える。
「あのころは、まさかこんなことになるなんて想像もしてなかったな――」
ひとりごちる横顔に、アリスも不満を収めて、
「でも、正行さまがすこしうらやましいです」
「うらやましい?」
「こことはまったくちがう世界で生きてらっしゃったんですよね。わたしも、ここではない世界を見てみたいです。どんな風景があって、どんなひとたちが暮らしているのか……不思議じゃありません?」
「向こうで十七年暮らしたおれとしては、むしろ不思議なのはこっちだけどな。魔法ももとの世界にはなかったし――でも、向こうに戻ってアリスにいろいろ案内してやるのも楽しいかもな」
「正行さまのご家族もいらっしゃるんですよね。お会いしてみたいです」
「楽しみにするほどの家族でもないけどなあ。普通だよ、普通。世界はちがうけど、家族の形はここと変わりない」
歩いていく廊下の先、とくにあてがあるわけでもないのが、正行のゆったりした足取りにも現れている。
「そういえば、おれがいた世界からこの世界へきた人間は、過去にも何人かいるんだよな」
「はい。昔から、そういう方が時折いらっしゃると」
「でも、この世界からおれの世界へくる人間はいないのかな――すくなくともこことちがって、ほかの世界から人間がやってくるなんて出来事が普通に受け入れられてはいなかったけど」
「そういえば、こちらの世界から向こう側へ行ったというひとの話は聞きませんねえ」
頬に手を当て、小首をかしげるアリス、その裳裾を揺らしてさらに石の階段を降りてゆく。
「ああでも、もしかしたら簡単な話かもな」
と正行はいたずらっぽく笑って、
「こっちの世界から向こうへ行くとしても、向こうからこっちへくるとしても、たぶん無事にもとの世界に戻れたやつはいないんだ。だから、こっちの世界から向こうへ行ったやつがいても、その話が伝わってくることはない。おれのいた世界でも同じことなんだろうな」
「うう、なんだかすこし怖い結論ですね」
「現実なんてそんなもんさ」
にやりとする正行、その手が把手を掴んで開いた扉というのが、かつて大学者ベンノが自室としていた資料室で。
一歩でもなかに入れば、乾いた紙の匂い、三方を本棚が囲み、そこにぎっしりと本が詰まるが、入りきらぬものが床にもうず高く。
アリスがするりと室内へ入ると、ちょうどそこに通りかかった侍女のクレア、
「アリスさま?」
と不思議そうに室内を覗きこみ、正行がいるのを見つけると、なにやらはっとしたように服の裾を握りしめ、
「も、申し訳ございません、あ、あの、おふたりの邪魔をするつもりは」
「なに言ってるんだよ。邪魔なわけないだろ。身体を休めがてら、適当に話してただけさ」
「そ、そうなんですか、よ、よかったあ……」
あらぬ現場に突入してしまったのでは、と不安に思っていたクレアはほっと息をつき、アリスがくすくすと笑うと、恥ずかしそうに赤らんだ頬を手で隠した。
「クレア、どうかしたの? わたしになにか用事かしら」
「い、いえ、正行さまを探していたんです。兵士の方がお呼びだったので。でも!」
とクレアは正行をじいと見つめ、
「いま正行さまは働いちゃいけないからって、断っておきましたからね。兵士の方も、急ぎじゃないから構わないとおっしゃっていましたけど、なんだか話を聞くと正行さまのほうからなにか兵士の方に頼んでいたそうじゃありませんか」
「まあ、本当に」
アリスも目を見開き、それから眉根を寄せて美しく責めるような。
正行はふたりの視線からすっと顔をそむけ、本棚を眺めるふりをしながら、
「わかった、ありがとうクレア。兵士のほうには、おれからあとで聞いておくから」
「本当に、そんなに忙しくしていたら身体を壊してしまいますよ」
「さっきアリスにもお説教を食らったところだ。ま、善処する」
「またそんなこと言って」
クレアとアリス、顔を見合わせてはあとため息、正行は慌てて別の話題を探して、部屋の片隅にまとめられた抜き身の剣や貴石を見る。
「そ、そういえば、これもずいぶん貯まったよな。そんなつもりもなかったけど、なんだっけ、英雄の秘宝だっけ?」
わざとらしい仕草で抜き身の剣を机に置き、ほかにもなにかとまとめられていたものを集める。
柄の飾りはずいぶんと錆び、古色蒼然色あせているが、刀身はすこしも衰えずぎらぎらと鋭い光を放つ剣。
となりにはエゼラブルから受け取った、透明の丸い水晶、人間の頭ほどの大きさのものをごろんと机に置く。
ほかに、人魚たちから受け取った、鱗のようにいくつもの貴石が折り重なったもの、琥珀色の、こぶし大の貴石、そこに銀製の細い王冠も加わる。
「クラリスさまに預かってろって言われたものだけど、たぶんこれも、宝のひとつだと思うんだよな」
本棚から取り出したのは、それもまた古い本だが、折り目に沿って開けば、いま机の上に並べたものとまったく同じ形状の貴石や王冠が挿絵として載っている。
正行は紙面に視線を落とし、いまだに不慣れた文字をぽつぽつと読み上げるのが、
「大地の宝剣に、馬の目、人魚の鱗に救世主の冠、魔の水晶――ってのがつまりこの五つだな」
しかし手元にある宝はそればかりではない。
クレアがふと気づいたように自らの手を握り、その白い指から装飾もなにもない指輪を抜き取った。
「これも、宝のひとつだと」
「たぶんな。特徴がないから、これだけじゃよくわからないけど、ベンノのじいさんはセントラムにあるはずの指輪って言ってたからなあ――」
受け取った正行、クレアの体温が残るのを手のひらで転がし、机にころんと置く。
「それから、アリスのそれも、宝のひとつだったか」
「これですね」
とアリス、肌身離さず持ち歩く首飾りを、ドレスのなかからするすると引っ張り出す。
青く輝くその貴石、書物には、女神の石と記される。
「これで七つ――八つあるって話だけど、あとひとつがわからないんだよな。この本にも、七つの絵はあるのに、最後のひとつがなんなのかは書いてないんだ。最後まで読んでみればわかるかもしれないけどなあ」
と正行は古い本をぱらぱらとめくる、そのすべてまでは時間も根気も足りず、読めていないのである。
「まあ、とくに集めてるわけでもないのに七つまで集まってるってのもすごい話だ」
「もしかしたら正行さまは、伝説の英雄の生まれ変わりなのかもしれませんね」
言う本人も信じていないようなアリスの笑みで。
そこにクレアがふと視線を落として、
「そういえば、お父さんから聞いたことあるかも――昔から兵士のあいだに伝わるうわさというか、伝説らしいんですけど、英雄の秘宝は、本当は実在しないんだって」
「実在しない?」
「戦う上の、八つの重要な方法を、宝と呼んで後世に伝えたんだとか。その八つがすべて揃っている戦では絶対に負けることがないんだってお父さんが」
「へえ、興味深いな」
正行が仕事に対する色気をちらり、すかさずアリスが裾を引いて、
「だめですよ、正行さま。戦いのことは、一旦忘れてください」
「い、いや、宝の話としておもしろいって言ったんだよ。戦いのことは考えてない、ほんとに」
「どうでしょうか」
「それで、クレア、八つの方法ってのはなんなんだ?」
「えっと、はっきりとは覚えていないんですけど、たとえば兵力はどれくらいか、つまり自分の軍隊は相手の軍隊に数で勝っているかとか、地の利はどうか、司令官の能力はどうか――とにかく、そういうことみたいです。それが七つあって」
「ふむ、必勝法ってわけだな。たしかに、それが全部揃ってる戦なら、負けることはまずないけど――それで七つってことは、最後にもうひとつあるわけだ」
「最後のひとつは、天上人のご加護、つまり運だってお父さんは言っていました。それを、伝説では貴石や王冠に例えて、最後のひとつ、天上人のご加護を、伝承では異邦人と呼ぶんだとか――」
「異邦人? じゃあ、八つ目の宝ってのは、異邦人のことなのか」
「だったら英雄の秘宝はここにすべて揃っていることになりますね」
とアリスはぽつり、
「七つの宝に、正行さまという異邦人で」
「たしかになあ」
不思議なこともあるものだ、と正行はむしろ笑い出すような表情で、口元をひくりと動かしたが、その瞬間、机に横たえた大剣の、鋭く尖った刀身がきらと光った。
「ん?」
と視線を落としたときには、刀身全体が眩く発光し、それに呼応してほかの宝、クラリスから預っている王冠や人魚たちから譲り受けた貴石が一斉に輝きはじめた。
光はあっという間に資料室を満たし、網膜を焼きつくすような強く白い光、正行はとっさにアリスの腕を掴み、アリスは目を閉じて正行にすがった。
「クレア――」
正行が声をかけた瞬間、まばゆさは最高潮に達し、光の洪水、音もなく資料室のすべてを洗い流し、奪い去って、クレアがようやく薄目を開けたとき。
「正行さま――アリスさま?」
クレアの立つ扉以外には出口もないはずの資料室から、ふたりの姿が消えていた。