八つの宝と風の行方 2-1
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約一年間の準備期間で、戦争に参加する国々はできるかぎりのことを実行した。
兵士の充実から、兵糧の確保、武器の調達――それぞれの国に専属の兵士はいたが、それでもまだ足りず、どの国にも属さない傭兵を取り合い、武器を取り合って、それらの価値は急激に上昇することとなった。
皇国が負けてもハルシャに取り入る自信のある商人たちはそれをよろこび、そうでない人間たちは無常や虚無といったものを感じ取って、その年の冬は一層寒々とした風が吹いた。
グレアム王国の雲井正行は、早い段階から招聘を受け、数人の兵士とともに皇国へ出向いている。
そのあいだ、国内に残って強兵や兵糧の充実に務めたのはアントンやロベルトといった昔ながらの臣下たち。
なかには、この大事なときに正行が不在をするとはどういうことだと憤る声も聞こえたが、正行がグレアム王国よりもはるかに大きい規模で似たようなことをやっているのだということは容易に推測できる分、行き場のない苛立ちをぶつけるほかは、正行のことを悪く言う声も聞こえなかった。
一方、正行は正行で、皇国にて慣れぬひとびとに囲まれ、戦争の準備で四苦八苦、寝る間も惜しんで動きまわり、作戦を立て、勝利へ続く道を探していた。
「とにかく、兵糧はぐんと多く必要になるんだ。いまの想定よりも三倍か四倍は準備したい」
「よ、四倍ですと。さすがにそれは」
「戦争がはじまるまでにありったけの兵糧を貯めておきたいんだよ。もし戦争がはじまれば、農民にまで剣を持たせるんだ。そのあいだ、生産はほとんどできない。ある一点から全軍に補給するのもむずかしい。大陸中から食料をかき集めて、いくつかの拠点に分配しよう」
「はあ――では拠点の洗い出しを」
「頼む」
会議といっても、ひとつの部屋でじっとしている時間もない。
皇国の底、宮殿内の廊下を、ばたばたとひとが行き交っている、そのなかに正行の姿もあり、ようやくひとつ話が終わってひとりになったかと思えば、扉を開けた先ですぐにまた別の会議。
「連絡員として使う魔法使いは確保できそうか?」
正行が椅子に座る時間も惜しんで机に手をつけば、すでに席についていた文官が慌てて書類をめくり、
「な、なんとか確保はできそうです。しかし配置はいかがなされますか」
「軍団ひとつにつき二、三人でいい。今回は戦線が広いから、情報伝達をうまくやらなきゃ、まともに戦うこともできないからな」
「正行殿」
と背中から声、振り返れば武官が待っていて、
「装備のことで少々お時間よろしいですか」
「ん、わかった――魔法使いの確保は任せたぞ。全部で二、三百は必要になるはずだ」
「はっ、了解いたしました」
「それで、装備がどうかしたのか」
部屋を出て、再び廊下を早足に、こつこつと鳴る踵とともに、武器の調達が遅れているという報告がなされる。
正行は唇を噛み、
「兵の数が集まっても、武器を持たなきゃ意味がない。なんとしてでも人数分の槍や剣を容易しなきゃな。それから、弓を重点的に集めてくれ。遠距離から一斉掃射できるように」
「しかし、現時点でも武器の製造は限界まで早めているのです。これ以上はどうしても不可能ですよ」
「鍛冶屋が足りないなら、兵士に代わりをさせればいい。自分の武器だ、自分で作るほうが愛着も沸くだろ――まあ、それは冗談として、手が足りないなら兵士にさせればいい。農作業でもなんでも。鎧を着せたまま硬い土を耕して、太い木を斬り倒せば、そのまま鍛錬にもなる」
「はっ、ではそのように」
兵士がさっと離れれば、正行はひとり、なにやらぶつぶつと呟きながら急ぐ、その目も落ち窪み、疲れの色も濃いが、宮殿に詰めている全員が全員そんな様子で。
皇国軍も十万を超す大群、正行ひとりですべてを指示することなど不可能で、実際いくつもの指示系統に分かれて担当を決めているのだが、最終的には参謀長である正行のもとにすべての情報が集まるようになっている。
その情報に溺れぬよう、両手足をばたつかせるだけでも必死で、正行がまた新たな部屋に入れば、すでに五、六人の男たちが席について正行を待っている。
「遅れて申し訳ない。はじめてくれ」
ばっと机に広げられるのは、大陸全体の地図、もともと皇国にあったものを正行が指示してさらに細かく作り直したもの。
これから、正行の本業ともいうべき軍事作戦の会議なのである。
集まったのは正行の部下となる参謀、どれを見ても正行のはるか年上で、父親以上というのもちらほら。
いまさら正行は戸惑わず、全員の目をじろりと見たあと、地図に目を落とし、
「いまも兵をかき集めているけど、おそらくハルシャ兵を上回ることはない。だから、はじめからこっちは不利な状況だ。それをひっくり返すにはなにかしら向こうよりもうまく働くしかない」
「そこで、作戦を考えたのですが」
さっと地図上に指先が走る。
「ハルシャの目標は、おそらくこの皇国でありましょう。われわれはなんとしても皇国を守らねばなりません。必然、布陣としては皇国をぐるりと取り巻くか、その前面に兵を展開して防御線を敷くということになりましょうが、加えて一部を左右へ流してはどうです。正面でもってハルシャ兵を受け止め、そのうちに左右から挟撃する、ハルシャは三方を敵に囲まれて戦うことになります。数の不利はこれで跳ね返せましょう」
「左右からか――」
正行は伏し目がちに地図を見て、
「奇襲をするなら、左右へ出した兵はハルシャの目の届かない距離まで遠ざける必要がある。それも、あまりに少数では奇襲の成果も上がらないだろうから、ある程度を兵を割くことになるけど、そのあいだ、ただでさえ数がすくない正面の兵が耐えられるかどうか。もし左右の挟撃が成功したとしても、ハルシャとすれば一旦兵を下げればいいだけだ。そして二度目の奇襲は、成功しない。兵を引かせるための罠としては使えるかもしれないな」
「ともかく、兵の分割は避けるべきであろう」
別のひとりが言う。
「全体として、数では劣っておるのだ。そこを分割し、各個撃破にあってはどうしようもない。むしろ全軍を一塊にし、一点突破を目指すべきである。敵軍を分断し、それを数の利で叩けば、必ずや勝機はある」
意気込んで言うのにも、正行は浮かぬ顔、
「相手の出方次第では、それも有効な手ではあると思う。ただ、今回は大陸全土が戦場だ。ハルシャが一ヶ所に兵をまとめてくるとは思えない。そうでないかぎり、こっちが兵をまとめても意味がない」
「では、どのような作戦が有効だというのか」
と不機嫌そうに腕組み、その表情には、自分よりもはるか年下の正行に対する奇妙な嫉妬めいたものも混ざっているらしいが。
「皇国を守ることを目的とするなら、兵は皇国の前に並べるしかない」
目を細める正行に、地図上で自軍と敵軍が動きはじめる。
「相手は中央に布陣するこっちの軍を見て、左右のどちらかに兵を流して背後をとるか――それを防ぐためにはこっちも左右へ兵を流すしかないが、そうなってくるとどっちへ動くか賭けになる。ロマンって男はそういう賭けを好む性格かどうか――ニナトールでの動きを見ていると、それよりはむしろ確実な勝利を望む性格だろう。となれば、相手の布陣が判明するまで兵を動かさないのが最善と見るだろうが、それはこっちも同じだ。お互い動きのないまま偵察ばかりし合うのもばからしい。宣戦布告を仕掛けてきたのは向こうだから、動くとすれば向こうが先に動くはず、こっちはひとまず向こうが動き出すまで粘ればいい。そしたら自然と対応も決まる」
唇を細かく震わせ、ひとりごちるようにぶつぶつと言うのに、まわりはなにかしらぞっとしたように身を引いた。
「数で負けているところ、後手後手に回ってもよいのですか」
「先に出て、向こうに正解を教えてやるよりはいい。数で負けているからこそ、一度でも失敗したら終わりなんだ。ともかく向こうがどう出るかによってこっちの動きも変えていくから、そのつもりで兵士に移動の訓練を徹底してくれ。移動速度が早くなるだけで勝利はぐんと近づく。敵の行動による具体的な兵の動かし方は、今夜に詳しく打ち合わせよう。いままでろくに寝られてないだろうから、それまではゆっくり休んでくれ」
「休んでいないのはあなたも同じでは?」
とひとりが眉を潜めて気遣わしげに言えば、正行はちいさく笑って、
「こう見えても身体は頑丈でね。心さえ折れていなければ大丈夫さ」
その心が、いまはひどく焦っている。
会議室を出た正行は、さらにぶつぶつとひとりごちながら廊下を歩き、ふと宮殿正面の広場に面した通路へ出た。
宮殿の三階、金で作られた手すりの向こうに、数万人は収容できる巨大な広場、空をぐいと見れば、風こそ吹かぬが、冬の澄み渡った空気が地の底にまで届いている。
皇国周辺には、真冬であっても雪はほとんど降らない。
そうした雲は北の大地に吸収され、乾いたこのあたりにはなかなか流れ込んでこないが、空がいくつもあるわけではなく、この澄みきった青空がセントラムの白い景色ともつながっているのかと思えば、忙しい毎日にふと心が落ち着く。
正行はちいさく息をつき、それが白く染まらぬ程度には気温も高いから、野外へ開いた場所でも寒すぎず、むしろ火照った身体には、握った手すりから伝わるひんやりとした金の感触が心地よい。
そこに、
「正行」
とこの空気に合わせたような清廉な声、背中に聞いて振り返れば、髪と合わせたような銀色のドレス、裾が長く、床を引きずりながら近づいてくるのもどこか優雅で美しい。
「クラリスさま」
礼儀のとおり、正行は頭を下げる。
クラリスもひとつうなずけば、そこから先は気楽な様子で正行に並びかけ、
「よく働いておるようだな。宮殿のなかを走り回っておるのをよく見かけるが、こうして止まっておるところを見るのは数週間ぶりだ」
と笑うのに、正行はわずかに首をかしげて、
「忙しいことは忙しいですが、それほどでもないですよ。それにおれの場合は、いまがいちばんの戦場なんです。実際に戦闘がはじまってから動くのは兵士だけ、おれたちはどれだけ有利に戦闘をはじめられるかというところが主な役割ですから」
「ふむ、しかし戦場で指揮することもあろう」
「その場の機転で指示しなきゃいけないのは、むしろ手落ちだ。本当ならはじめからあらゆる可能性を考慮して、どんな展開になっても勝てるように道筋を作っておかなきゃいけない。いまがその段階です。ハルシャ側でも、いまごろどう戦うか会議を開いているはずだ。直接兵を戦わせたときには、もう結果は決まってる――おれたちが勝つか、あいつらが勝つか、いまのがんばりですべて決まるんですから、忙しいのなんだのとは言っていられません」
手すりを握り締める正行の、きっと引き締められた横顔をクラリスはぼんやりと眺め、口元だけでそっと笑った。
「私はそなたらにすべてを任せておるし、それに関して敗北を考えたことは一度もない。必ず勝つものとして理解しておる」
「その期待に答えられるかどうか」
と正行はさすがに不安げな顔、クラリスは正行の手にそっと自分の手を重ね、
「私が信じておるのだから、それだけで充分であろう。そなたは自分の仕事をこなせばよいのだ。そしてすこし疲れたと思うなら、満足するまで休むがよい。あまり頭を動かしすぎても、よい考えは浮かばぬもの」
「まあ、それはそうかもしれませんけど――まだ休む必要はない程度ですよ。それにいま休めば、きっとあとで後悔することになる」
「そうか――では、いますこし休んでまた仕事に励め」
するりとクラリスの手が外れ、正行はどこかほっとした顔、そこにすかさず、
「この窓がどんな意味を持っているか、知っているか?」
「意味?」
「ここは年に一度の祭りで、われわれ皇族が民に姿を見せる窓なのだ」
「ああ――言われてみれば、そうか」
「今年の祭りはおそらく戦で流れるであろうが、来年の祭りには、そなたはまたここに立つことであろう」
「どうしておれが、来年の祭りに?」
「来年の祭りのころには、私は皇帝を名乗っておるであろうし、そうなればそなたは皇帝の夫、皇族のなかでも中央の、まさにいまの立ち位置の通りに立っておるはずだ」
それで正行はびくりとして、不遜にもクラリスのとなりに並んでいるのだと自覚し、慌てて下がって、
「す、すみません。そんなつもりはなかったんですが」
「なにも無礼なことはない。むしろ、私はうれしいぞ」
とクラリスは美しく笑うので。
正行は戸惑うように頭を下げ、泡を食ってその場を逃げ出した、クラリスはその遠ざかっていく背中を見て、いつまでも楽しげに、まるで少女のように笑うのだった。