たましいを守って 7
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ロマンは数週間滞在した古城を出て、いまは再び馬でニナトールの森まで寄っていた。
手勢はわずかに二百あまり、それ以外はハルシャ国内に留まるか、あるいはニナトールの領内へ投入している。
ロマンは馬上ですこし背筋を丸め、ぼんやりと森と山を見ていたが、不意に兵士を呼んで、
「機は熟した。出るぞ」
「はっ――出る、とおっしゃいますと」
にやりと笑うロマンに、兵士はぶるると身体を震わせる。
「ハルシャと皇国の、ニナトールを介した前哨戦が終わったのだ。おれはそれを待っていた。もうよい時機であろう」
「ということは、フォークナーさまが勝利なさったのですね」
「勝利? ふん、なるほど、勝利といえぬこともない」
焦らすようにロマンは馬を歩かせる。
「たしかに、フォークナーはよくやった。おれの予想を出ることなく、おれの予想どおりに動いたはずだ。やつが貴重な人材だというのは、まさにそこよ。やつの考えることであれば、おれはどれだけ離れた距離にいてもわかる。それほどやつの考えは単純なのだ」
「はあ――」
「単純に、その状況の最善だけを目指す。あまりに単純ゆえ、その裏を掻くことはむずかしくない。ましてや雲井正行なら、必ずフォークナーの裏を掻く――いまごろハルシャ兵の一割程度は殺され、残りはまとめて捕虜になっておるだろうな」
「ま、まさか、そのようなことが――三十万の兵でございます。皇国側は、あっても十万、まさかそれほどの大敗を喫するとは考えられませぬ」
「大敗ではない、消滅だ。あるいはフォークナーが兵を分散させ、細かい集団を森のなかへ放ち、独自に死に物狂いのゲリラ戦をさせたのであれば結果は大いにちがったはずだがな。しかしそのとき、ハルシャ兵の損害は一割では収まらぬ。フォークナーは一割の犠牲に留め、あとはおとなしく捕虜としたというところまで、よくやった。あとはおれが仕上げをしてやる」
「仕上げ、と申しますと」
「憎たらしいニナトールの化け物を、皆殺しにしてやるのだ」
にたりと笑ったハルシャの笑顔は、珍しく純粋なよろこびに満ちていた。
夜は明けていた。
正行はやるべきことのほとんどを終え、ほっと息をついて、ひとしきりほかの首長や兵士たちから「よくやった」と最大限の賛辞を受け取ったばかりであった。
できればもっと早くに逃げ出したかったが、皇国軍の参謀という責任ある立場上そうするわけにもいかず、結局クラリスが生き残った兵士たちの前で演説をしているあいだも、まるで右腕のようにとなりで立っているしかなかった。
ようやく身体が自由になったころには、太陽はもうすっかり高く登って、冷たい空気もいくらか和らいでいる。
「クラリスさまは、捕虜の処理を終えてそのまま戦勝祝いをやるとおっしゃっていましたよ」
と兵士たちの輪から逃げ出した正行に従うヤンが、ぽつりと言う。
正行は困ったように頭を掻き、
「なんだあ、ヤン、おまえもおれに参加しろって言いたいのか? 散々クラリスさまやほかの首長に言われて、ようやく断って出てきたおれに?」
ヤンは明るく笑い、
「どうして正行さまがそれほど戦勝祝いをお嫌いになるのか、ぼくにはわかりませんよ。演説なんかを嫌う気持ちは、すこしわかりますけど。ほかの方々と楽しく騒ぐのがお嫌いなのですか?」
「嫌いってわけじゃないんだけどな。合わないとは、思うよ――たしかに、生き残った人間には賞賛とお祝いが必要だろうけど、生き残れなかった人間を思うとな。要は、考えすぎなのさ、おれも。ヤン、おまえは行ってきてもいいんだぞ。酒もあるらしいし」
「はあ――じゃあ、すこし、様子を見てきます。伝令官として、そのほうがよいですよね?」
いたずらっぽく笑い、ヤンは踵を返して、いまは宴会場と化している司令部に戻っていく。
正行も苦笑い、となりにはミドリが立っている。
「明るいのはいいことだ。死んだ人間はもうなにも感じられない。でも生きてる人間は、暗い雰囲気も感じられる」
「戦に勝ったのに、うれしくはないのか」
「敵味方のどちらからもひとりの犠牲者も出なかったっていう勝ちなら、素直によろこべるだろうけどなあ」
「そんな戦は考えられない」
「だから、戦い終わったあとはいつもこんなもんだ。ほっとしたような、取り返しのつかないことをしたような――まじめに考えるとどうにかなりそうだから、こういうときは散歩するようにしてるんだ。ひとりで行くのもなんだし、いっしょに行くか?」
ミドリはすこしのあいだ正行の顔を見上げたあと、ちいさくうなずいた。
それが人間らしい気遣いの結果かどうか。
心中、ぽつりと感謝しながら正行はミドリと共に森のなかへ入ってゆく。
感謝とは別に、ひとりで森に入って迷子になるというのも間抜けだから、いっしょにきてくれてよかったなと正行、無論口には出さないが。
「ニナトールの森は、なんとか被害を最小限に食い止められたかな」
こくんとうなずいたミドリは、まっすぐ前を見つめ、迷うことなく歩を進める。
正行はその足取りについていった。
「人間には礼をしなければならない」
「そのへんはクラリスさまがちゃんと要求するさ」
と正行は笑い、
「きっとあのひとは、そういう決まりごとは見落とさない。強欲だとかっていうわけじゃなくて、仕組みとしてそうしなきゃいけないことをわかってるひとだからな」
「きみはどうだ。礼はいらないのか」
「おれは別に――そうだな、一言、ありがとうとでも言われれば、それで充分以上かな」
「そうか」
ミドリは立ち止まり、正行の顔を見上げて、
「ありがとう」
とまっすぐ言った。
むしろ照れたのは正行で。
「ど、どういたしまして」
「それで充分以上なのか?」
「ま、まあな。ほんとに言うとは思わなかったけど。とにかく、礼なんて別にいい。おれはこれで飯を食ってるんだから」
ふたりは歩き出す。
森のなか、どこへゆくか正行は知らないが、ミドリの足取りに迷いはない。
「ニナトールってのは、不思議だな」
いまさら正行はぽつりと言って、傍らの木の幹に手をついた。
蔦がぐるぐると巻きつき、巨体を締め上げているのを指でなぞりながら、
「この木もニナトールで、土も、葉も、動物もそうだ」
「すべてがニナトールと呼ばれるものではない。木は木であり、葉は葉、動物たちは動物たちだ。私はただそこに居座ることができる。彼らの心に触れられる。ただそれだけのこと」
「ふむ――それだけ、か」
「この森すべてに意識が行き渡るわけでもない。ニナトールは、無限ではない」
ふたりの行く先が、なにやら開けている。
正行はいつかもこんな光景を見たと思い出しながら、森のなかで唐突に開いた空間へ足を踏み入れた。
円形の空間である。
ある線より内側は木々が存在せず、青い植物が足元をわずかに覆って、太陽型に森を切り抜いたよう、燦々たる光は白く光って美しい。
あたりには風も吹いていなかった。
耳鳴りを起こすほどに静まり返った森のなか、正行とミドリはその空間の端に立って、中央を見る。
もとは石造りらしかったが、いまはそこに緑の蔦がぐるぐると巻きついて、ひとつ植物の塊めいて見える台座である。
そこから、蔦に隠れてわずかだが、貴石のついた剣の柄が見えていた。
刀身が見えないのは、柄の根本から刀身すべてが石造りの台座に差し込まれているせいらしい。
「あの剣を、きみに渡そう」
ミドリは正行を見上げた。
「ニナトールに伝わる、古いものだ。実用には耐えないだろうが、ニナトールには宝と呼ばれるたぐいのものはこれしかない」
「だったら、それを渡すのはおれじゃなくてクラリスさまだろう」
「私は、ニナトールはきみにこそふさわしいと考えた。人間の世界でどれほどの価値があるのかは知らない。あるいは、価値などないかもしれない。きみがいらないというなら、無論無理に受け取らせるものでもないが」
「いらないってわけじゃないけど――そうか、でも、こういうことなのかもな」
歩けば、足元でさわさわと草が鳴る。
台座に近づき、絡みついた蔦を剥がすのに悪戦苦闘していると、後ろからミドリが不思議そうに、
「引きちぎってもかまわないが」
「うん――でも、引きちぎらずに済むなら、それに越したことはないだろ。ほら、外れた」
正行は柄を握り、にやりと笑ってミドリを振り返った。
見たところ、刀身はしっかり台座に突き刺さり、隙間など見当たらぬ。
むしろ一体化しているようにさえ思えるほどで、抜くとなれば怪力自慢の男でもむずかしいだろうが、正行が柄を持てば、油でも塗ったように刃がするりと動いた。
そのまま引き抜き、空へかざせば、何十年、何百年そうして石に突き刺さっていたともしれぬ刀身は、いましがた鍛え終わったばかりのように美しい刃でもってきらきらと輝く。
正行は冗談めかした笑顔で、剣を構え、
「どうだ、似合うか?」
ミドリはただただ沈黙で。
なにか一言くらい言えよ、と正行がため息をついたとき、ふと風が吹いて、鼻先がひくりと動いた。
なにかが焼け焦げるような匂い。
風は朔風、風上を振り返れば、もくもくと黒い煙が立ち込める。
「あれは――」
ミドリも振り返り、おそらくは森の北端、幾筋も立ち昇る黒竜に、無感動に呟いた。
「やられた。火をつけられたようだ」
朦々と立ち上る黒い煙は風上に向かって流れ、炎はそれ以上の速度で冬の乾燥した空気を走る。
こんなときばかりは木から木へと自由自在に絡みつく蔦が導火線となり、炎は蔦の表面を伝って木々を飛び交い、一丸となっても燃え上がれば動物たちが慌てて逃げ出す。
赤い炎、黒い煙、青い空、白い光、緑の森。
ぐるぐるとかき回され、炎は森となり、森は煙となって、光は閉ざされ空は消える。
一ヶ所の炎ならどうとでもなるが、炎は森の北端全体に熾り、風の吹くまま、ニナトールの森を屠り、山々を打ち崩し、灰を歓喜に舞い上げて、尽きぬ尽きぬは火の粉の爆ぜる音、森の悲鳴にも滅びの拍手にも聞こえるが。
ハルシャの皇帝ロマンは、自らの指示が完全に達成されたことを確信し、燃え上がるニナトールの森に背を向けた。
「ごらんにならないのですか、ロマンさま」
「見てなんになる? ニナトールにこれだけの炎を堰き止めることはできん。ニナトールは、すでに滅んだのだ。これで大陸がすっきりした」
ロマンは馬をハルシャ領内へ走らせながら、にたりと笑ってひとりごち、
「残すは皇国ひとつ。おれがはじめた大陸の終わりも、最終局面というわけだ」
天を穿つ黒煙が、ロマンの背後を覆い隠していた。
死に物狂いというなら、戦いよりもよほど現状。
「できるだけ広範囲の木を切り倒せ、延焼を防ぐんだ!」
「だめです、炎の勢いが強すぎる! 退却しなければ、われわれが危険ですっ」
剣を振り回し、手当たり次第に幹を傷つけていた兵士たちも、強い朔風に巻かれた熱気を肺腑の奥まで吸い込んで、咳き込みながら慌てて逃げ出す。
ぎりと唇を噛む正行は、揺れる炎の指先に触れるかどうかという位置、身体の前面を焦がすような熱気にも目を見開き、瞳のなかで苛烈な炎を燃やした。
「正行くん、逃げないと!」
ロゼッタが危ういところで正行の腕を掴み、そのまま魔法でぐいと宙に引っ張りあげる。
宙に浮かんだ正行の視点、迫りくる炎がつま先に追いすがるのもなんとか振り払い、上空から見れば、そこから以北の森や山はほぼすべてが焼き払われていた。
赤い炎の境界線は、風にも押されて猛烈な勢いで南下する。
そのあとに残るのは灰と煙、炭化した木々に勝利の美酒が苦渋に変わってゆく。
背後を振り返れば、まだ青々と茂る森は広大、峻峭な山々も健在だが、これから数日かけて炎はすべてを燃やし尽くし、あたりには絶望の灰が巻かれ、月夜に唸る動物もなければ残月に揺れる葉もなくなる。
炎から先回りし、必要な分の木を切り倒して延焼を防ごうにも、炎の断面が大きすぎる。
北端から、森全体へ波紋のように広がっているのだ。
正行はロゼッタに連れられ、焼け焦げた匂いが染み付いた身体を後方へ下げる。
兵士たちにはできるだけ木を切り倒し、延焼を防げてと命じたが、じきにこのあたりも炎に包まれる。
諦めるしかないが、諦めきれるものではない。
正行が憎悪を込めて朔風睨めば、そこにミドリが歩み寄って、正行の服の袖をぐいと引く。
「もういい。炎の広がりを考えれば、延焼を防ぐのは不可能だ」
「不可能でも、やるしかないだろ」
ほとんど怒りを込めて呟くのに、ミドリはただ正行を見上げるばかり。
「このままじゃ、森のすべてが死ぬんだ」
「ニナトールも、な」
「――ニナトールも?」
「ニナトールは、この森でなければ存在できない。この森の木々、何百年と生きてきた木々だからこそ、心を持ち、通い合うことができる。ニナトールはひとつの生物、あるいは植物に収めておけるほどちいさきものではない。この森に広く分散していたからこそ、ニナトールは存在できた」
「じゃあ、この森がなくなったら、ミドリも死んじゃうのか――だったらなおさら、このまま炎に任せてはおけない」
「死ぬのではない。消えるのだ。ニナトールは、この大陸から消滅する」
「だったら!」
「ニナトールはすこし長く存在しすぎたようだ」
ミドリはふと頭上を見上げ、まるでそこに古の歴史を思い浮かべるよう、それが正行には、涙を堪える姿に見える。
「まだこの大陸が、大陸として存在していなかったころ――多くの人間がいて、ニナトールは彼らと別れ、独自の道を進んだ。あらゆるものがひとつになり、それが理想だと信じたが、果たしてどうだったのか――孤独は、消えたのか。それはいまでもわからない」
「孤独は、消えたさ」
正行はミドリの手を握った。
その手が、やけに軽く。
はっと思えば、ミドリのちいさな身体がうっすらと発光し、青白い燐光があたりを満たそうとしている。
まぶしさに、正行は目を細めた。
手を離さなければ、ミドリはいつまでもそこにいるのだと信じたが、光が消えたとき、そこに緑の髪の少女はいなかった。
*
ニナトールは、いまや草木の一本も生えぬ不毛の土地となっている。
目指したのは人間の立ち入りを拒む深い森と山だったが、立ち去るのは灰と炭と煙。
皇国の呼びかけによって集結した合同軍は、皇国まで列を作って戻り、そこで解散が宣言された。
十万の兵の損害は、千人に満たず。
しかし捕らえたはずの三十万の敵兵は、山火事の混乱に乗じて逃げられ、もし炎に巻かれていなければ、相手は数万の損害を受けただけでハルシャ領内へ逃げ込んだのだろう。
大陸北端のグレアム王国から、大陸西端のニナトールまで、三ヶ月かけて行軍し、守れたものはひとつもなく、失ったものばかり膨大で、兵も数百だが失った。
それでもクラリスは、皇国での解散式で勝利を宣言する。
正行は敗北を抱え、兵を率いて、グレアム王国へ戻った。
馬に載せた荷のなかには、クラリスから受け取った古い冠と、ミドリから受け取った剣がある。
勝利の代わりにこれらをぶら下げ、正行は言葉もすくなく、グレアム王国を目指した。
ため息のひとつひとつが雲になるなら、いまごろはこのあたり一帯を分厚い雨雲が覆い隠しているにちがいない。
山火事のなか、兵を引き連れて皇国軍の手から逃げ出したフォークナーは、すぐさまロマンに面会を求めた、かといってどんな顔をすればよいのか、見当はつかぬが。
ともかく、兵を失った経緯を説明し、責任はとらねばならぬ、たとえ首を斬られるだけの結果になったとしても。
ロマンとは、ハルシャ城ではなく、それよりも手前の古城で会うことになっていた。
フォークナーが部屋に入ったとき、ロマンは窓辺に立ち、両手を後ろに、背筋を伸ばして立っていた。
「ロマンさま――」
跪くフォークナーに、ロマンはちらと目を向けて、どんな叱咤が飛んでくるかと思いきや、
「よくやってくれた。おまえの働きには満足している」
「はっ――し、しかし」
「ニナトールの意識を、森の一部に集中させることこそがおまえの役割だったのだ。おまえはそれを充分に果たし、結果、ニナトールは滅んだ。褒美をとらせよう。なにがよいか」
フォークナーはすかさず答えた。
「今後とも、ロマンさまのもとに」
「ふむ――では、そうするがよい。しかしその役目もすぐに終わるかもしれんぞ」
「すぐに終わるとおっしゃいますと」
「最後の戦いが近いのだ」
ロマンはくるりとフォークナーを振り返り、言った。
「明日、わがハルシャ王国は、数千年来大陸を支配してきた皇国へ宣戦布告する。大陸に住むすべての人間が武器を持ち、戦うのだ――果たして、終わったときにはどのような世界が待っておるのか、それはまだだれも知らぬ」
ぐいと下がった目尻に、ロマンは笑みを乗せて、心底愉快そうに笑うのだった。
歴史書に、この一件はほんのちいさくしか載っていない。
いわく、
「皇国のもとに集った兵十万が、大陸西端のニナトール地方にてハルシャ軍三十万と衝突。一時は勝利するが、起こった山火事に巻かれ、ハルシャ兵を取り逃がす」
ニナトールという得体のしれぬ存在は、歴史書には記されていない。
了