たましいを守って 6-2
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ゆく先は霧の森であった。
フォークナーは、また漂いはじめた白い靄に決して好感は抱かなかったが、いまさら引き返す手もない、皇国による合同軍はおそらく背後に迫っている。
智将は、ある程度優秀になれば、実際に兵士をぶつける以前から勝利への道筋を立てているものである。
そしてフォークナーは、自らを智将と信じてやまなかった。
かのロマンには劣るが、それでもハルシャでは二番、三番の智将であろうと。
策とはすなわち裏の掻き合い、相手の出方を想定し、誤った方向へ巧みに導いて、一瞬の隙を作り出し、突く。
ここは正念場だ、とフォークナーは無駄だと知りながら両腕を振り回し、霧をすこしでも払おうとする。
皇国軍の勝利条件は、逃げるハルシャ兵に追いつき、残らず捕らえること。
ハルシャ軍が敗北を回避するには、ともかくこの場から逃げ出し、軍を立て直すしかない。
フォークナーは兵士がどれだけ疲労し、憎しみに似た哀願をしようと、足を動かせと命じ続けた。
霧は深まる。
空気はやけに冷たく、鎧の表面にはいつしか水滴が無数に浮かび、髪もしっとりと濡れていた。
フォークナーは水とも汗ともつかぬもので濡れた額を拭い、霧のなかで立ち止まった。
前方に、影がある。
木々の影ならあたり一帯すべてに見えるが、そうではない、わずかに動いているのを見逃さなかった。
兵士に合図し、音もなく剣を抜いて、徐々に影へ近づく。
足元で落ち葉が鳴るのは仕方ない、霧の向こうでもがさがさと小動物が飛び回るような音。
霧のなかで接近し、兵士だ、と確信した瞬間、相手も同じようにこちらを認識して、飛びかかっていた。
わっと悲鳴、きいんと剣が鳴り、銀の鎧がこすれて鬼哭啾々。
剣戟の心得などないフォークナーは無意識に後退り、代わりに兵士たちは戦闘へ向けて殺到する。
動物の雄叫びが何度か響いた。
フォークナーは霧のなかで影絵のように浮かぶ戦闘の様子を見ながら、なにかおかしいと考える、敵が追いついてきたとしても、なぜ全速力で逃げてきたわれわれの前方に現れる?
「――やめろ、戦うな! それは味方だ、同じハルシャ兵だ!」
叫びは空しく林中に消え、霧中で踊る兵士の影にも変化はないが、フォークナーが再び喉も裂けよとばかりに叫べば、ようやく戦闘音が止んだ。
冷静に見てみれば、そのとおり、どちらも同じ鎧をつけたハルシャ兵なのである。
互いに呆然と見つめ合い、それから、なにかそのあたりに人間を化かした獣でもいるのではというようにあたりを見回すが、ただ霧がゆったりと漂い流れるのみで。
フォークナーは即座に怪我人の確認を命じ、一方で新たな仲間と合流できたことをよろこんだ。
霧のなか、相手の兵士に聞いてみれば、それは五万からなる軍団らしい。
もとは第二戦線で戦っていた兵士たちで、皇国軍が襲いかかってきた時点で森の奥へ逃げ込み、その後司令本部との連絡もできず、森のなかをさまよっていたところ、こうして合流できたらしいのである。
こうしてフォークナーの手元には八万の兵が集い、さらに森の奥へ進むに連れ、合流する味方も増えてくる。
八万が十万に、それが十五万になって、二十万あまりにまで膨らんだころ、ようやくフォークナーは違和感を覚えた。
どうしてこの広い森で、それも深い霧が立ち込めて方角もままならぬなか、これほどの兵が偶然に出会うのであろう。
無論、合流して一塊になることは望みこそしても拒むことではないが、望みどおりに物事が進行しているときほど足元をすくわれやすいときはない。
フォークナーは兵士たちの足音や鎧がこすれ合う音を聞きながら、じっと考え込んだ。
森の奥へ進むという選択は、本当に正しかったのか。
森の外へ出るのは敵の思うつぼ、という考えは変わらない、やはり兵士がまとまらぬうちは森の外へ出るべきではなかった。
だから、森の奥へ向かい、相手が手を伸ばすよりも先に逃げてやろうと考えたが、それは本当におれの考えだったか。
皇国軍の動きに、そう考えるように仕向けられたのではないか。
事実、森の奥へ進む以外、あの場所で選択できる作戦はなかったのだ。
あたりは暗闇で、一条の光だけが差し、それを目指して進んだが、その光は敵が誂えたものだったのでは。
不自然なほどの味方との合流、これは無論、相手に対抗する戦力を得たということにほかならぬ。
運がよかったと片付けるか、その奥を覗きこんでみるか。
フォークナーは、この状況に対する違和感を抑えきれなかったが、深く考えるには疲労が重なりすぎていた。
すでに何時間、足場の悪い森のなかを歩いているかしれない。
両足はぬっと地面から生えた木のように固く、動かしづらい。
喉は乾き、空腹を感じる余裕はまだないが、頭はぼんやりと朦朧で、超えたと思った根に足先を引っ掛けて何度転んだことか。
太陽の恩恵もすでに受けられなくなっている。
どこまでも続く霧のなか、そうでなくても暗闇で視界はないが、いたるところで掲げられる即席の松明が灰色に霞んで見える。
「フォークナーさま、どこまで進めばよいのです。兵も、すでに限界です」
と進言してくる部下に、ここで休もう、と答えられればどれだけよいか。
フォークナーは首を振り、
「まだだ。限界を超えて進むのだ。われわれの限界は、追ってくる連中の限界でもある。われわれが限界を超えてはじめて、連中の手のなかから逃れられるのだ」
そしてさらに彼らは進むのである。
はじめは気を逸らすための雑談も聞こえていたが、あるところを超えたあたりから、足裏で落ち葉を踏み潰す音、細い枯れ枝を折る音、そして深い息づかい以外は響かなくなった。
歩くということ以外のなにも考えず、彼らはただ前方へ向かって進み続ける。
霧のなかの彼らは知るはずもないが、恐ろしくよく晴れた、空気も澄みきった夜であった。
湿度の低い森の外では、風は氷のような肌触り、空は紺碧で、三日月が眩しく輝く。
星々のまたたきも尽きず、いくつかとくに明るい星は、人間の天命を示しているともいう。
しかしニナトールの森のなかをさまよう兵士たちの頭上には霧があり、茂る木があり、そのさらに向こう側で待つ夜空は到底見えなかった。
もっとも、兵士たちには空を見上げる体力などとうに残っていなかったが。
フォークナーも自然とうなだれ、足元だけを見つめて、その足元も霧でおぼつかぬが、どんと背中にぶつかるまで、前を歩いていた兵士が立ち止まったことに気づかなかった。
「どうした。まだ休めとは言っておらぬぞ」
とフォークナーが前を覗き込めば、先をゆく兵士のすべてが立ち止まっている。
両腕をだらりと下げ、まるで棒立ち、意識をなくしたように動かない。
「おい、どうした?」
「フォークナーさま――あれを」
ゆっくりと兵士の手が動き、斜め上を、これから向かう先を指さした。
フォークナーは目を細め、霧のなかを透かして見る。
はじめはただ乳白色に煙っていたのが、徐々に黒い影がぼんやり、強くはない風にゆったりと霧が流れれば、その姿が見えてくる。
崖である。
足元から、頭上はるかまで続く切り立った崖である。
赤茶けた地面が露出し、以前にがけ崩れでも起こしたのか、崖の麓には土砂が積もり、崖の表面には太い木の根が空しく浮き上がっていた。
はじめの数メートルは土を掴んで登れぬこともなさそうだが、それより上は土よりも岩で、ほとんど切り返しのように反り返っている。
疲れきった兵士たちが、もし体力を充分に残していたとしても、この先に進むことは不可能であった。
フォークナーは全身から脱力するのを感じながら、それでも力を振り絞り、激しい目つきで兵士たちを見回した。
「目の前が崖なら、迂回すればよいのだ。山があるなら麓を進めばよい。いったいなにを、木偶の坊のように立ち尽くす!」
「では、フォークナーさま、お言葉ですが――」
兵士のひとりがぐるりとあたりを見回しながら言った。
「いったいどこを、どのように迂回すればよいのです?」
フォークナーは激しく動揺し、前後左右を見た。
後方には、数えきれぬ兵士が幽鬼のように立っている。
いつの間にか、右側には岩をむき出しにした峻峭な山があった。
左側も同じく、登攀不可能に思われる山、見上げても、その頂点が見えぬ。
気づけば、フォークナーは三方を山に囲まれた袋小路へ入り込んでいた。
「あの小僧、なかなかやりおる」
兵が戦線を作るために駆けていった後方で、首長たちは一塊になり、ゆったりと森のなかを歩いていた。
首長自身が戦闘に参加することはなく、細かい兵の指示もすでに必要ない段階まで戦闘は進行しているから、やることといえば、状況を見極める以外にないのである。
「雲井正行――その名ばかりはよく聞いたが、さてどれほどものかと思えば、聞こえてくる名声に偽りなしというところかの」
あごひげを長く伸ばした白髪の老人が呟けば、となりで筋骨隆々たる男もうなずいて、
「クラリスさまが夫だと言ったときはなんの冗談かと思いましたが、はてさて、終わってみればさもありなんというところですか」
「それどころか、私は末恐ろしく感じますよ」
痩せぎすの、ほかに比べて小柄な男は神経質そうに頬を撫でる。
「まだ二十にもなっていない若者が、あれほどなのですからね。クラリスさまにしても、まだわずかに十八、美しさの盛ではあっても、知や理にはまだまだ通じてはいない年ごろ。それが、これだけ大勢の、それも国が異なる兵を率いてもあのように堂々としてらっしゃる。こう言ってはなんですが、あれぞ皇帝の素質というんでしょうか。正直、気弱な弟君よりクラリスさまのほうがどれだけ皇帝向きかしれません」
「クラリスさま自身、そう思っておられるのであろう。だからこそ、自ら指揮官に志願され、こうして目に見える結果を出しておられる。雲井正行を夫と称したのも、将来のためかもしれん。いまの年寄りは、クラリスさまが統治なさるころにはすでに引退しておるか、せいぜい五年十年と悩めば済むが、同年代、あるいは年少者の有力者は、生涯を通して関わらなければならんからの。敵に回して困る相手は、早いうちから手を結んでおくに限る」
「まあ、なんにしても」
と一同は、さらに後方に控えているクラリスをちらと振り返り、
「クラリスさまの初陣は、どうやら完全勝利に決まったようですな」
ミドリの導きにより、比較的歩きやすい場所を選んで進んではいても、さすがに馬では厳しい場所もある。
正行やクラリスは徒歩で森のなかを進んでいた。
そのあいだもミドリは細かな状況をつぶやき続け、正行はそれをもとにどこを締めてどこを緩めるべきか、とっさの判断でロゼッタに指示を出す。
ロゼッタはそれを前線に控える魔女たちに伝え、魔女たちは兵士に伝えて、結果として兵士たちは、ひとつの意識を共有しているかのように柔軟な動きを見せ、思惑どおり、ほとんどすべてのハルシャ兵を山間の袋小路に閉じ込めていた。
こうなれば、戦力差などまるで関係ない。
袋小路の奥へ閉じ込められた兵士たちは戦うこともできず、表面の兵士は退くことも進むこともできない不自由な戦いを強いられ、皇国軍はじりじりとハルシャ兵を削り取り、勝利を確定させようとしていた。
「正行」
とミドリが顔を上げ、
「同じ森のなかに、まだ五千ほど孤立している敵軍がいる。それはいいのか」
「こっちには気づいてないんだろう。だったら、放っておいてもいい――ロゼッタ、大丈夫か?」
今朝から魔法を使い続けているロゼッタは、額にうっすらと汗を浮かべたまま、ぎこちなくほほえんだ。
「まだ、大丈夫だよ。だってあたし、王女だもん。いちばん強い魔女なんだから、いちばん最初に倒れるわけにはいかないもんね――指示をちょうだい、正行くん」
「ロゼッタ……そうだな。もうすこしの辛抱だ。こんな戦いは早く終わらせて、それぞれの家に帰ろう」
クラリスは、その様子を満足げに見ていた。
正行はそこにかすかな反感を覚えるが、クラリスの態度が正しいことはわかっている。
司令官たるもの、兵士と同じ場所に立ち、同じ危険に身を晒せばよいというものでもない。
兵士たちのため、司令官は最後の最後まで生き残り、敗北するならその責任をとらねばならならない。
戦が進行している途中は、もっとも後方で堂々と待つのが正しいのだ。
しかしそれは兵士から臆病と見られるかもしれず、また傲慢の謗りも受ける、それでも床几で堂々たる振る舞いを見せるクラリスは、やはり司令官に、ひいては皇帝にふさわしい器である。
理屈ではわかっていながら、正行はクラリスのやり方に生理的な嫌悪感を禁じ得ない。
ミドリが正行の裳裾をきゅっと引いた。
「どうした、ミドリ」
「これまでだ」
「なに?」
ミドリは正行の顔を見上げ、言った。
「相手は白旗を振っている。これは、人間のあいだで降伏を示す合図なのだろう?」