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八重鏡  作者: 藤崎悠貴
たましいを守って
101/122

たましいを守って 6-1

  6


「かかれ、かかれ!」

「きたぞ、後ろから――いや、右からだ!」

「敵味方を間違えるな、よく見て慎重にやれ!」


 いくつもの声が飛び、絶叫、悲鳴、絶叫、すべては深い森と濃い霧に霞んでいる。

 ある兵士は濃霧のなかで短く息をつき、前後左右、激しく首を振っていた。

 濃い灰色の霧にぼんやり浮かぶのは、ほとんどが木の幹、太い枝、大きな葉で、わずかに動けばそれは風の仕業だが、本当の敵は風も連れずに背後へ迫る。

 ぱきりと鳴ったのは、足元の枯れ枝。

 振り返りざまに抜き身の剣をぶんと振り、がんと硬い手応え、しまった、鎧だ。

 兵士はそのまま地面へ押し倒される。

 太い幹の根本、張り出した根に背骨を打ちつけ、激痛にのたうちまわろうにも身体を押さえ込まれた。

 兵士は血走った目を頭上に向ける。

 そこに鏡があるのかと疑ったほど、相手も同じ目をしていた。

 きらと剣が光るのに、彼はすべて諦め目を閉じた。

 立ち上がった若い兵士は、鎧に当たった刃が跳ね返って傷ついた頬を拭い、血まみれの剣を相手の首から引き抜く。

 ずるりと、首がついてきた。

 面倒そうにそれを払いのけ、立ち上がった後ろから雄叫び、振り返るよりも先に剣の先端を背後へ向けている。

 ぎんと弾かれた剣が手を離れ、今度は立場が入れ替わったように押し倒されたが、それでも負けずに相手の首に手を伸ばす。

 鎧に守られていない、熱い相手の肌に触れ、若い兵士はぐっと握った。

 息が詰まったような声、腕の先は霧に消えて見えやしないが。

 若い兵士はいつまでも相手の首を締め続け、どれほど時間が経ったか、指の感触もなくなってようやく外れれば、充血した目がぐんと飛び出した男が降ってくる。

 その身体を退け、地面に手をついて落ち葉のなかをがさがさと手探り、頭上できらと光った剣に気づくこともなく。

 がしと剣が鳴ったのは、若い兵士の首を落としたまま勢い余って地面に突き刺さったせいで、そうでなければひとを殺すときに音などしない。

 深い森と霧のなか、そのような惨劇が、百か二百。

 そのあたり一帯はひどく騒がしく、落ち葉を蹴散らす音や絶叫が入り混じるが、そこからすこしでも離れれば音響はすべて木々が吸い取り、ただ風に揺れて葉擦れが聞こえてくる程度であった。

 とくに、森の外に陣取っている正行には、直接には悲鳴もなにも聞こえない。

 ただ伝令の兵士がやってきて、敵と自軍の損害を数字として伝え、去っていくのみ。

 正行はヤンを使い、自ら戦場の様子を探ってはいたが、それにしても直接見ているわけではないから、命がけで戦っている兵士と、安全な場所からそれを指揮する自分との乖離が大きくなっているのを強く感じていた。

 天幕の下などには、もちろんいられない。

 正行は切り株のひとつに腰を下ろし、そこを自分だけの作戦本部に定め、落ち葉を退けた柔らかい土に枯れ枝で戦況を書き込んでいた。

 クラリスは、総大将としてしっかり天幕の下に控えている。

 ミドリは森から入ってくる詳細にして膨大な情報を常に正行へ伝えなければならないため、正行と同じ切り株に、背中合わせのように座っていた。


「西の森で二百、敵兵が孤立している」


 ミドリがぽつりと言えば、正行はうなずき、空に向かって、


「ロゼッタ、西に兵を四百!」

「了解っ」


 と正行の頭上に浮かんだロゼッタは、微弱ながら人間の声よりもはるかに遠くまで空気を響かせることができる伝達魔法、同じ魔法使いにしか捉えられないわずかな声で、指示を伝える。

 ほかの位置に待機している魔女たちがそれを伝え合い、もっとも近い位置の軍まで伝達されるまでわずかに数秒である。

 しかし同時に伝えられる情報はすくなく、細かな損害については伝令を待つほかない。


「これで――いま戦闘中の集団はいくつだ?」


 正行は足元に書き込んだ数字を見下ろし、ミドリの協力で作られた詳細な地図と照らし合わせる。

 背中には、常にミドリの体温と体重を感じていた。


「直接戦闘しているのは、八十一――いや、八十。戦闘のために移動中なのが十三」


 動物や森を通して、ニナトールの、ミドリの意識は戦闘域に集中している。

 ミドリには、視界を邪魔する霧も関係がない、もっともその霧はミドリが木々を通して周囲の水分分布を操り、冷たい空気に晒して霧にしているのだが。

 木々が見、動物が見、感じる世界では、兵士たちの動きが文字どおり手にとるようにわかる。

 ある兵士が腕を振りかぶったその角度、ある兵士の歩く速度、森に捨て置かれた剣、だれかの生首、そういったものはすべてミドリの感覚の内側にある。


「二千人あまりからなる軍勢がある。どうするか」

「まだ当たるには早い」


 正行はすかさず応える。


「こっちの兵力を集中して、まずそれを分断しなくちゃ。でもそのための兵力が足りないんだ。ほかの場所で戦闘が終結するのを待って、結集が済み次第実行する」


 そこへヤンが戻ってきて、


「正行さま、戦場の様子ですが、どの場所でもわが軍が勝り、被害は軽微に済むと思われます。やはり、森のなかで各個撃破するという作戦がうまく機能しているようです」


 ヤンは頬を紅潮させ、正行の作戦を褒め称えるようだが、正行は軽くうなずいただけで。


「ともかく、数では負けてるんだ。これ以上兵を減らせば、その分だけ不利になっていく。三十万からいる敵のうち、いま討ち取った、あるいは捕虜にした分でもせいぜい二、三万、兵力ではまだ向こうのほうが圧倒的有利だ。持久戦だけは避けたいな――」

「正行」


 とミドリが背中で呼んでいる。


「戦場が、すこしずつ森の奥へ進んでゆく」

「そうか――やっぱり、それを選んだか」


 立ち上がった正行を、ヤンとミドリが見上げた。

 正行はそのまま、そばの天幕を除いて、床几に座るクラリスの前で跪く。


「クラリスさま。戦場は森の奥へ移動しはじめたようです。指示を出すにはできるだけ前線から近い位置がいい。これからわれわれも森に入りましょう」

「ふむ――」


 クラリスは正行を見下ろし、うなずいた。


「そなたがよいと思うなら、そうしよう」

「ありがとうございます。これから森の外を囲ませていた兵もすべて森へ入れ、仕上げをはじめます」

「勝てそうか」

「負けられません――でも、それはあなたのためじゃない。おれに預けられている兵士のためだ。おれの指示に従ってくれる兵士たちのために、おれの立てた作戦で負けるわけにはいかない」

「なんのためでも構わぬ。とにかく、この戦に勝ちさえすればよい」


 クラリスは立ち上がり、周囲の兵士に作戦本部の移動を命じた。

 それから正行をちらと見て、


「勝利は、いつごろわが手に収まる?」

「さあ――遅くとも、明日の夜には。もしそれまでに終わっていなければ、作戦は失敗したということです」

「ふむ、そうか」


 クラリスの見上げる空では、太陽がすでに西へ向けて傾きはじめている。

 夕暮れにはまだ遠いが、クラリスは太陽が沈むであろう西の空を見て、にやりと笑った。

 今朝早くに戦がはじまってから、早数時間、戦の帰趨はいまだに不透明である。


 三十万いたはずのハルシャ兵は、果たしていま何人残っているのか。

 フォークナーはそればかりを気にしながら、深いニナトールの森を奥へ奥へと逃げていた。

 ちらと振り返れば、付き従うは三万程度の兵、ここまで合流できたことも奇跡だが、同じ森のなかにはまだ二十五万以上がばらばらになって生き残っているはずなのである。


「やられた――やられた!」


 口を開けば、そんな言葉ばかり突いて出る。

 背後を強襲されてから、ハルシャの軍勢はただひたすら逃げ続けているばかりなのだ。

 おれはなぜ、連中は森に潜んでゲリラ戦を繰り広げると考えていたのだ。

 フォークナーは地面から張り出した根を超え、蔦の巻きついた幹に手をつき、風に揺れる木の葉を見上げ、舞い落ちてくる夕陽に目を細める。

 前方にも、幾筋の茜色が降り注ぎ、触れる葉に合わせて揺れ動いていた。

 美しい森だ、と思う一方で、ここは化け物の腹のなかだという意識も消えない。

 ここはニナトールだ、連中はニナトールを助けにきた、だからニナトールの森に潜むと無意識のうちに考えていたのか?

 いったいその決定になんの根拠があったのか、いまになってみればまるでわからない。

 狙うなら、背後以外になかったのだ。

 山をいくつか超えたことで補給線は伸びきり、それ以外に相手がいなかったせいで戦線はただひたすら前方を向いていた、背後を強襲することはまさしく赤子の手をひねるようなものである。

 おまけに、山を丸裸にすることでこちらの正確な通り道まで連中は知っていたのだ。

 それから森へ逃げ込めば、まさか深い森のなかで即座に兵を集めて戦線を作り直すわけにもいかない。

 おまけに、あの霧だ。

 こちらは霧に囲まれれば身動きもとれぬが、連中はニナトールの指示によっていくらでも動くことができる。

 霧にまぎれた、徹底した各個撃破。


「フォークナーさま」

「なんだ」


 立ち止まり、振り返ったフォークナーの顔にも濃く疲労の色が浮かぶが、あとからあとから続いてくる兵士たちも同様、むしろ一線交え、命からがら逃げ落ちた兵士たちのほうがすでに歩くこともむずかしいほどで。


「進むべき方向は、これでよいのでしょうか」

「方角は、太陽の向きで理解しておる。森の奥へ行くのだ、進むべきはこの道しかない」


 道か、とフォークナーは自嘲する。

 どこまでも木々が茂り、腐葉土に覆われたこの森のどこに道などあるというのか。


「なぜあえて森の奥へ向かわれるのです。これでは連中の思惑どおりではありませんか。私は森から出て戦うべきだと考えます」

「そして、森から出たところを待ちぶせしている兵士たちに殺されるのか? おまえも気づいておるであろう。森のあちこちで戦いは起こっているが、十万はあると考えられる敵兵のすべてが参加しておるわけではないようだ。おそらく、不自由な森のなかで戦うことにしびれを切らしたわれわれが森から飛び出してくるように仕向けておるのであろう。背後強襲といい、徹底した各個撃破といい、敵もやりおる――単純に当たるばかりではない、われわれをニナトール領内から追い出すばかりが目的でもない。連中は、本気でわれわれに勝つつもりでおるのだ」


 三十万の軍勢に、指揮系統もろくに確立できていないはずの急造軍十万が、勝つつもりでいるとは。

 もし笑顔を作る余裕があれば、フォークナーはそうしただろうが、いまはそれだけの余裕もない、ただ低く息をつくばかり。


「十万、いや、せめて五万でもまとまった兵があれば、森から突撃を仕掛けてなんとか敵の包囲網を突破できるかもしれぬが、たかだか二、三万の兵では一網打尽になりにゆくようなもの。そもそもこの森はニナトール、こちらの行動は、あるいはこの会話さえ、連中に聞かれておるかもしれん。この森におるかぎり、連中の虚を突くことは不可能なのだ」


 兵士ははっとしたように口をつぐみ、あたりを見回した。

 それからおずおずと、


「しかし、ならばなおさら、なんとしてでも森から抜け出さなければならないのでは。このまま奥へ進んで、ニナトールからは逃げられませぬ」

「いま言ったように、しびれを切らして森を出るのはやつらの構える網に自ら飛び込むようなもの。たしかにどれほど奥へ進んでもニナトールの目を逃れることはできぬが、連中に位置が知られても兵が追いつけぬ場所まで逃げることができれば、ともかく一度休んで兵をまとめることができる。さすればどこかで山を超え、やつらの手の外へ逃げることもできる」

「しかし――」


 と納得していない顔の兵士に、フォークナーはすばやく剣を抜き、ぎらつく視線とともに剣先を突きつけた。

 兵士はどきりと後退り、驚愕にフォークナーを見る。


「フォークナーさま――」

「指揮官はおれだ。おれが、いつおまえの意見を聞いたというのだ? それほど森を出たいなら勝手にしろ――と言いたいところだが、おまえの命、ハルシャ兵の命はすべてハルシャのものだ、勝手に死ぬことは許さん。おまえも戦力のひとりだ、これ以上兵を失うわけにはいかん。だまっておれに従え。よいな?」


 兵士はがくがくと何度もうなずく。

 フォークナーが剣を納めれば、ようやくほっとしたように息をつき、それから踵を返したフォークナーの背に憎悪のこもった視線を向けたが、フォークナーは気づかぬふりをした。

 恨むなら、恨むがよい。

 憎悪も歓喜も生き残らなければ無駄なのだ。

 フォークナーを森のなかをゆく。

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