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八重鏡  作者: 藤崎悠貴
流星落ちるはかの国に
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流星落ちるはかの国に 5-1

  5


 日が去っても立ちこめる雲に変化なく、降り続く霧雨、大地はすっかりぬかるんで泥を跳ね上げ、草の葉を雨粒伝えばぴんと跳ね、風もないのにふらふら揺れる。

 薄ぼんやりと霞む野面、雨音が響くほどは強くなく、代わりにがちゃがちゃと鎧が鳴って、ぬかるんだ大地を踏みしめてゆく音。

 グレアム王国の城からある程度の距離で野営を張っていたノウム軍が、ついに進軍をはじめたのである。

 三千人余り、全五隊に分かれ、第一から第三隊までが横一列、後ろに第四、第五隊と続いて、第一隊と全軍の隊長たるルーベンは馬上、第二隊の隊長たるマキロイは馬を出て引き、進んでいる。

 周囲はすべて兵士たち、銀の鎧を雨が伝い、濡れた髪をかき上げるのも面倒で、全員が後ろへぐいと撫でつけている。

 足下はすっかり泥まみれ、冷たい雨がじっとり染みて、冬なら対策を講じねば危険なところ、ルーベンは周囲の兵に言うのに、


「これぞ時勢というやつよ。天はどうやら雨雲をもってわれらが軍を手助けしておるらしい。進め、この機にグレアム王国を殲滅せしめるのだ!」


 そして兵たちに声を張り上げさせるのである。

 それを遠くに聞きながら、むしろ静まり返る第二隊、顔を伝い伝う雨粒を大きな手のひらで拭い、マキロイはぐるりと周囲を見回して、


「決して気を抜くな。先を取り、数で勝り、兵糧で勝ると考えるな。その油断が死となり、積み重なって敗北となるのだ」


 方法はちがうが、揃って兵を鼓舞することに変わりない。

 それもこれも、雨のせいである。

 灰色の霞んだ視界、大切な武器の柄を濡らす雨粒や、わずらわしく垂れ下がる濡れた髪の毛、おぼつかぬ足下に奪われる体力、すべて戦いの利点とはならぬもの。

 自然、兵の士気も下がるのを、なんとか奮い立たせようというふたりの意図なのである。

 ルーベンは隊長然とした方法、マキロイは一兵士としての振るまい、どちらも面には出さぬが、この雨に目を見開き、雨粒が眼球を濡らすのも構わず仔細を注視している。

 実際の戦闘も間近に迫り、いまやこの行軍さえ戦闘の一部、すでに命の取り合いがはじまっているのだ。

 マキロイは周囲の状況、地形、兵士の顔色を常に窺い、なにかあればすぐに動いて指示を出すなり鼓舞するなり、気疲れにふうと息をつけば側近がぽつりと、


「もうすこし気を抜かれてはいかがです、小隊長殿。勝てる相手でも、油断はもちろん、疲労あってはおぼつきませぬ」


 と窘められるほど。

 マキロイは苦笑いして、


「それもそうだ。どうも、貧乏性でいかん」

「どうぞ、馬に。馬上のほうが周囲もよく見えましょう」

「いや、馬上から見える景色は、あくまで馬上の景色、兵士の視点ではない」


 と強固に言うのを、部下もあえて強くはいわず。

 霧雨のなか、三千人余りの行軍は異様である。

 煙ってあまり利かぬ視界、いっぱいに兵士たちが広がるのも、霧の向こうにも影が見え、それが無限に続く合わせ鏡のよう、遠く旗印など見えるのもぼやけて、白昼夢のごとき光景。

 ただ鎧を揺らす音、ぐちゃぐちゃと泥を踏みならす音、息づかいだけが聞こえている。

 マキロイは空を見上げた、その頬や額、傷のひきつれにも雨粒がぽつりぽつり。

 分厚く立ちこめる雲は、当分そこを退きそうにはない。

 せめて風が強まれば多少晴れる希望も持てようが、肝心の行軍中に晴れる気配はまるでないのだ。


「そのようにご心配なさることもないと存じますが」


 と側近は、マキロイの不安顔に笑みさえ浮かべて、


「ルーベン隊長殿の話では、戦闘は籠城戦になる様子、そうなればわが方に損害は出ぬまま終結するでしょう。時間こそかかっても、勝ちが揺らぐことはありますまい」

「そう、国の参謀もそう思っているようだ」


 マキロイは雨粒を拭いもせず、大きく目を見開き、臆病な小動物のごとき仕草、首を細かく左右へ振ってあたりを警戒する。


「だからこそ、おれは不安なのだよ」

「なにが不安なのです」

「だれも考えていない奇策をとられることだ」

「奇策と申せば」

「たとえば、向こうは端から死にものぐるい、籠城して飢え地ぬほどなら一矢報いてくれると、突撃してくるかもしれん」

「まさか」


 部下は一笑に付すも、マキロイはまじめ顔、


「いや、あり得る」


 と断言する。


「もしおれなら、そうするだろう。籠城し、敵にひとりの犠牲も出さぬまま死にゆくとあっては、兵士の名折れ、とてもではないが死にきれん。それなら敗北の決まった負け戦、しかしひとりでも多く殺してやろうと、でたらめに剣を振り回すことくらいはするだろう。そして忘れてはならぬのは、連中、数はすくなくともこのあたり随一の兵士たちということ。武器の扱いに長け、なにものにも負けぬ強き心を持つ者たちだ。警戒こそして、油断などあってはならん」


 激するでもなく、叱るようでもなく、じっと前を見据えて冷静に言うものだから、部下も驚いたように槍の柄をぎゅうと握りしめ、


「では、まさか、三百余りの戦力で、わが軍に正面突破を仕掛けてくると。数で押されて、おしまいでしょう」

「言っただろう、はじめから連中は勝つことなど考えておらんのだ。ひとりでも多くの敵を殺し、ひとつでも多くの首を切り落とす、それしか考えておらんやつらなのだとしたら、窮鼠どころの話ではない。まるで化け物、それも手負いで相手を殺すことしか考えておらん化け物を相手にするようなもの」


 部下はぞっとして身を震わせる。

 いまになって死の予感を覚えたらしいのである。

 しかしマキロイはふと独りごちるように、


「連中が籠城を選択せず、突撃を敢行するのも不安といえば不安だが、しかし真に不安なのは別の理由だ」

「別の?」

「死にものぐるいの突撃、これはおれにも予期できる。しかしかような戦いにおいては、時折まったく想像できぬ奇策を用いることもある――それが恐ろしい。グレアム王国には知に聞こえる学者ベンノもいるが、それがなにか悪知恵を働かせなければよいが」

「どのような奇策に打って出ても、兵力が所詮三百、三千のわが軍に比べてあまりに少数でございますゆえ、悪あがき以上のことにはならぬと存じますが」


 自ら励ますように言う部下に、あえて言葉を継がず、マキロイもちいさくうなずく。

 そのときである。


「全軍、止まれ!」


 と号令、慌ててその場で足を止めれば、後ろから後ろから兵士が突っかかり、何人か泥のなかへ倒れる音もする。

 見れば、薄煙の向こう、グレアム城の黒い姿が、ぼんやりと浮かび上がっているのだ。

 険しい山を背にして、ふたつの尖塔がぬっと突き出すさまは角を持つ動物のよう、その下にうずくまった城に、ただならぬ威圧感を覚える。


「なぜ、こんなところで止まるのだ」


 マキロイは部下に聞こえぬようぽつりと呟き、兵をかき分け前へ出た。

 昨夜の進軍計画では、このまま城を取り囲むつもり、なにか変化が起こったらしいとは見受けられたが、軍の前へふらりと出たマキロイが見たのは、ちょうど城門の前、ずらりと整列するグレアム王国の兵士たちである。

 しまった、と思う矢先、もう戦闘がはじまっている。

 無数の炎、霧雨をかき消しながら現れたと思いきや、ぐんと宙へ舞い上がり、放物線を描いてノウム軍へ降り注ぐ。

 ひとつひとつの炎が人間大、それがいくつも落ちれば、命中精度は悪くとも被害は甚大、マキロイは自軍へ戻って声を張り上げる。


「退け、退け! 魔法隊前へ、反撃を!」


 逃げ惑い、下がる兵士たちに、なかなか前へは進めぬ魔法隊、ひとりふたりと現れて魔法を放つが、断続的にひとつふたつの炎が宙を舞うばかり、各隊とも似たような状況。

 やがてグレアム軍からの第二波、先ほどよりも大きな炎が頭上轟々と音を立てて降り注ぐに、陣形は呆気なく崩れ去る。


「槍を持て、くるぞ!」


 マキロイ自身は腰に帯びる剣すらりと抜き放ち、高く掲げる。

 絶叫や怒号飛び交うなか、号令もままならぬが、喉も裂けよと張り上げれば、どうにか兵士たちが戻って槍を構える。

 そこに、霧雨隔てた向こう側、幻のようにちらつくグレアム王国の兵士たちが一斉に咆吼し、それが鬨の声。


「魔法隊は後ろへ、槍を突き出せ、正面から!」


 足音地鳴りのごとく、咆吼はびりびりと空気を震わせ、霧雨が恐れをなしたようにぱっと散れば、早敵兵が目前に迫っている。

 双方、槍ががちんと組み合い、それでも止まらぬ勢い、グレアム兵は一瞬も足を止めずに、まさに捨て身の特攻。


「退くな、持ちこたえろ!」


 指揮官の声に兵士たちは必死で槍を構え、ぐいと前に突き出して、それがなにかにぐさりと刺さる感触、やったと気を抜けば、槍をぐいと奪い取られて、腹から長い槍の柄を生やしたグレアム王国の兵がぬっといずる。

 濡れた髪、狂気を孕んだ恐ろしい目がぎらぎら、


「あっ――」


 と背を向ければ、すかさずそこに鋭い剣先ぐいと食い込んで、袈裟斬り。

 倒れた仲間を見るうち、となりの兵士の、まだ幼いような白い頬、ぴっと血が飛んで、なにかと拭えば自らの腕がない。

 肘のすこし下からすっぱりと切り落とされ、まるではじめから存在していなかったかのよう、赤い肉の断面だけが鮮やかに濡れて、


「すまん」


 と低い一声、まだ二十年も生きぬ若者の首がどんと飛んで、ぬかるんだ泥のなか、ごろごろと転がって宙を見上げる目もまだ濡れて。

 風のようにふたり斬り倒した兵士、自らの腹に刺さった槍を抜き去り、その刃が自らの血でべっとり濡れているのを見、にたりと恐ろしく笑う。

 槍を投げ捨て、さらに奥へと切り込めば、ちょうど仲間たちもあとを追う。


「いけ、突っ込め、ひとりでも多く殺せ!」


 だれともなしに絶叫し、躍りかかる先、一瞬の混乱で乱れた陣形を崩すのはわけもない話。

 しかし早陣形を立て直し、ずらりと一列に並び槍を構えるノウム兵、その奥に、顔に大きな傷がある男をちらと見て、グレアム兵も腹の底から咆吼する。

 ひとり、雨に濡れた槍の先が立ちはだかるなかに飛び込んで、ひとりのノウム兵の首に剣を深々と突き刺したが、同時にその屈強なる身体にはいくつもの傷、そのひとつが心臓まで貫いて、地面に崩れ落ちることもなく槍に引っかかったまま息絶える。


「払い落とせ!」


 とマキロイが命じれば、兵士たちは死体を足蹴に地面へ転がし、いまだ血が滴る槍先、ぐんと突き出す。

 グレアム兵が一瞬戸惑ったように立ち止まり、そのなかからすらりと剣が伸びて、


「退け!」


 と一声。

 たちまちグレアム兵は踵を返し、追いすがる兵を払いながら引き下がってゆく。

 マキロイはじっと立ち去る兵を見ながら、それが霧雨に消えるころ、ようやく、


「追う必要はない、陣形を立て直すぞ。負傷者を見てやれ、いつ攻撃がくるかわからん」


 と指示したが、それをかき消すような怒号がすぐとなりから上がって、


「追え、追え! いまこそ好機、追いすがってひとり残らず叩き潰すのだ! 城門が閉じられては籠城される、それまでにすべて殺し尽くして、城門が閉じる前に城を占領しろ!」


 それが隊長のルーベンの声なのである。

 ルーベンが指揮する第一隊はもちろん、ほかの隊もそれにつられるよう、激しく地面を鳴らして逃げるグレアム兵を追ってゆく。


「いかん、追うな!」


 とマキロイが叫ぶも、この騒擾では聞こえるはずもない。


「深追いはよせ、籠城でもなんでもさせてゆっくりと落としてもよいのだ。急いていらぬ深手を負うな!」


 言いつのっても、ほかの隊は霧雨のなか消えてゆき、死体と泥のまみれた大地、地震のように震える。

 マキロイは唇を噛み、周囲に残った少数の兵をちらりと見ては、首を振った。


「こうなっては、仕方ない、おれたちも行こう」


 それで全軍が敗走せるグレアム兵を追い、城門近くへ殺到したのである。

 マキロイは馬を捨てて駆けながら、踏み乱れた泥の地面、そこにうち捨てられる槍や剣、ときには人間の腕や生首に、得も言われぬ悲しみを抱く。

 味方のものもあれば、敵のものもある、死ねばすべて同じ肉塊である。

 なかにはまだ息のある者もあろうが、足を止めるわけにはいかぬ、マキロイは少数の兵を引き連れ大群に加わり、グレアム兵の背後から波状攻撃を試みる。

 しかし逃げるその足の早いこと、見れば鎧も軽装、武器も捨てて逃げている。

 それに完全武装の人間が追いつくことむずかしく、この地面では馬も活きぬとなって、マキロイはつい空を見上げ、天命を恨むのだ。


「時勢というなら、これほど向かぬこともあるまいが――」


 無理に追いすがれば、走る邪魔にはならぬ懐刀、巧みに返して切り捨てられ、どうと兵士が倒れて転がる、それを踏みつけまろび乗り越えながら三千もの兵士が追うのである。

 ノウムの軍勢が追ったあとには、ぽつぽつと原形も残らぬ死体、腕が折れ、腹が割け、頭がわれたものが泥にまみれて散乱するに、巨大なる猛獣が食い散らかしたよう、事実もさほど変わらぬ。

 ひとり、またひとりと逃げるグレアム兵にやられて脱落していくのに、鎧に守られていない首をぐさりとやられた若い兵士が倒れもせず大群に飲み込まれ、マキロイは走りながら彼を抱きとめて傷口を押さえた。


「大丈夫か、走れるか。立ち止まるな、踏み殺されるぞ。逃げるなら、横へ逃げろ、おとなしくしていればすぐに戻る。魔法隊も控えておるであろうし、死に急ぐなよ」


 しかしマキロイの大きな手のひらが押さえる下、際限なく赤い血が噴き出し、喘ぐように唇を動かしても言葉にならぬ。


「なんだ、なにか残す言葉があるのか」


 すこし立ち止まり、マキロイが彼の口元に耳を寄せれば、そうとは知らぬ兵士が後ろから後ろから、体当たりするように飛び込んできて、マキロイは抱きとめた兵士もろとも泥のなかに沈んだ。

 頭の先まで泥で汚れ、なんとか踏み殺されぬよう起き上がれば、もう傷ついた兵士の姿は見えない。

 遺言も聞けぬままだが、涙に濡れた瞳だけがマキロイの目蓋に焼きついて離れず、それだけでも残された家族に伝えてやろうと決心する。

 グレアム兵は、逃げに逃げて、すでに城門の手前、大きく左右へ開かれたそのなかへするりと飛び込んだ。


「逃がすな、突っ込め! 城門を閉めさせるな!」


 どこかから声が上がり、それが全軍に伝わって、ひとつの雪崩れ、城門に殺到し、われ先にとくぐって城下町へ飛び込んでゆく。

 それがあまりに激しいせいで、だれもかれも抜き身の武器を持っているから、殺到するうちに味方同士傷つけ合って死者さえ出る始末、その死体さえ邪魔なものと足蹴にして城下町へ飛び込むのだから、さながら狂気の行軍であった。

 遮るもののない野面とちがい、場は城下町、それも霧雨のせいか灰色に煙って視界がほとんど効かず、向こうは慣れ親しんだ町、どこで待ち伏せているかわからぬ。


「味方でないものを見かけたら、すぐに斬りつけろ。敵兵でなくても、所詮敵国の民である」


 という意見がどこからともなく現れて、鬼気迫る兵士たちのなかで伝播するのに時間はかからなかった。

 さすがに野面の勢いはないが、それでも瞬く間にノウム兵は城下町を占領し、そのままグレアム城の本丸へ迫る勢い、もはや籠城など利かず、この数時間で帰趨決しようという覚悟。

 雨や泥、血にさえ汚れ、目を細めて薄煙をにらみつける兵士たち、鬼哭啾々たる面持ちで、視界のどこかできらりとなにか輝こうものならたちまち絶叫し、躍りかかっては味方同士斬り合うこともひとつやふたつではない。

 混乱に狂気、死と生の坩堝で、冷静になれようはずもないのだ。

 マキロイも顔に残る泥を拭い、途中で落とした剣の代わり、地面へ崩れ落ちた仲間の剣を借りて奥へ奥へと進み、赤煉瓦で統一された城下町に目を凝らす。

 狭い路地で、曲がり角も多い、そのどこから敵が飛び出すかもしれず、気づいたときには一太刀浴びていることもあり得る。

 そうはさせじと左右に前後、激しく首を振れば、獣が餌を探るよう、目にぎらぎらと狂気が灯る。

 路地に沿った家々、その扉が開いて切り込んでくる想像、屋根の上から数人が飛び降りてくる仮定、マキロイはそのいちいちに警戒し、かすかでも物音がすれば振り返ったり仰ぎ見たり、後ろには歩いてきた無人の路地で、屋根からはぽたぽたと雨粒が滴る。

 警戒に反して、敵は姿を現さぬ。

 扉の影に潜むかとこちらから押し入れば、なかはまったくの無人、この薄暗いなかで火も点しておらず、家財はそのままだが、住人が消えている。

 マキロイはふと剣先を降ろし、それが石畳の地面、触れてぎぎと耳障りに鳴るのにも気づかず、呆然とあたりを見回した。

 果たして霧雨といって、これほど視界を遮るものであろうか。

 まるで雲のなかを泳いでいるよう、左右上下ともにほとんど白く、なにも見えぬ状況。

 それに惑い、仲間同士で斬りつけ合うのもいるくらい、加えて城下町に人影なしと見れば、マキロイはその場で剣を捨て、一心不乱に駆け出した。

 背後からのそのそと追ってくる兵士がマキロイの形相にぎょっとして剣を構えるが、それも見ているひまはないという様子、脇を抜けて戻れば、先ほどまで開いていたはずの巨大な城門がぴたりと閉ざされ、叩いても叫んでも開きはしないのだ。


「やられた!」


 とマキロイは一声、口惜しげに頭上を見上げても、遮る妖しげな霧に視界もわずか。


「どうなされたのです、小隊長。お怪我でも」


 周囲の兵士が不安げに寄れば、マキロイはぐいとあたりを見回して、


「いますぐに出口を探せ。どこでもいい、城門の外へ出られる場所を探すのだ!」

「なぜ、そのようなことを。それよりもどこかに隠れている敵兵を見つけなければ」

「それこそ無駄なこと、もはや連中、この城内にはいないだろうよ」


 心底から感嘆するようにマキロイは息をついて、がっくりとうなだれる。


「おれたちは、はめられたのだ」


 理解できぬという兵士たち、互いに顔を見合わせ、マキロイの正気さえ疑うほどだが、マキロイはきっと顔を上げて、


「いまならまだ、どこか穴があるかもしれん。探せ、どんなちいさな穴でも扉でもいい、城壁の外へ逃れる場所を探さなければ、二度と生きて故郷の土は踏めぬぞ」


 それでも戸惑う兵士に、


「行け、命令だ!」


 と怒鳴り、ようやく兵士たちが驚いて立ち去れば、マキロイ自身は閉じた城門、じっと見つめて動かぬ。

 両手を添え、ぐいと押してみるが、さすがにびくともしない様子、高い城門の上は白く煙って見えず、周囲をぐるりと見回してもどうやら抜け出せそうなところはない。


「やられた、なんという奇策か」


 マキロイはぽつりと呟き、雨に濡れた顔を拭った。

「外にいくらか兵が残っていればよいが、それも期待はできぬ。やはりあの場で留まるべきだったか――すべてを知る者、ベンノか。念には念を入れたつもりだが、寸前で侮った」

 悔しさに唇を噛みしめ、歯が薄皮を突き破って血が滲めば、頭が多少なりとも冷静に戻る。

 マキロイは顔を上げ、今度はあたりの警戒もせず、城下町を歩いた。

 姿は見えぬが、仲間たちと信じられる足音や声があちこちから響いてくる。

 ぐるりと城下町を見て歩けば、なるほど、生活の名残があるようで、ほとんどものは持ち出されているらしい。

 家を覗いて、大きな家財道具はそのままだが、小物や貴金属は見当たらぬ。

 持てるものは持って逃げ出したという雰囲気、いまごろどこで笑っているのかもしれぬが、笑われてもおかしくはない失態を侵したのだとマキロイは目を伏せる。

 しかし、美しい町並みである。

 視界を遮る霧さえなければ、さらに鮮やかな赤煉瓦、活気ある町並みが見えただろうに、いまはその名残をわずかに伝える程度、ほとんどすき間なく並ぶ屋根もしとどに濡れて情緒漂う。

 途中、出会う兵士たちは敵兵を見つけられず、戸惑っているようであった。

 彼らに出口を探すよう指示し、さらにマキロイが進むのに、目の前が開け、大きな階段が現れる。

 その上こそグレアム城、裾が広く、上ればその分狭くなる階段も雨に濡れて、歩けばぴちゃぴちゃと音が鳴る。

 しかしどうやら、霧雨は止んだらしい、となればやはりこの霧も自然のものではなく、魔法にちがいない。

 頂点まで至り、振り返っても、町並みはすこしも見えぬ。


「念の入ったこと」


 マキロイはぽつりと呟き、城門をくぐって、もとは豪奢であったはずの大広間、いまはシャンデリアも地に落ち、その破片がきらきらと散らばって、上を歩く兵士たちのせいでさらに細かく粉砕されていく。

 ルーベンは壊れたシャンデリアの上、どかりと腰を下ろし、痩せた頬に張りつく髪を気にしていた。


「おう、マキロイ小隊長、よいところへきた」


 と手招きするに従えば、ルーベンは苦り切った顔、


「あいつら、城のどこかへ隠れたようなのだ。いま探させているが、おまえの部隊も呼んで、城の内部を徹底的に調べ尽くせ。敵を見つけたら即殺しても構わぬ。命乞いでもしようものなら、兵士の名折れとひと思いに殺してやったほうがよい。それから、見つけた宝飾類はここへ集めるのだ」

「まずはご無事でなによりでございます、ルーベン隊長殿」


 マキロイが慇懃に頭を下げれば、ルーベンはうむとうなずいて、


「おまえもよく無事だったな。まさか、特攻してくるとは。しかし無謀な連中よ、おかげで数ヶ月かけて包囲するまでもなく片がついたわ」

 それこそわが意とばかりに口元を歪ませるルーベンに、マキロイはちらとあたりを見回して、

「城下町の様子はごらんになりましたか」

「ここへ攻め上がる途中、見たが」


 不審げにマキロイが首をかしげるのを見て、この上官はまだ気づいていないのだとマキロイも理解する。


「では、いますぐ兵を集め、城門を破れるか、あるいは城壁の一部でも破壊できぬか試してみなければなりますまい」

「なに、城門と城壁を破壊する?」

「どうやらわれわれ、まんまと罠にかかったようにございります」

「罠だと?」


 シャンデリアの破片を踏みつけ、すくと立ち上がるルーベンだが、マキロイは胸を張って頑と動かず、


「ちょうど、籠のなかに餌を仕込んで鳥をおびき出すようなもの。城門をごらんなればわかりましょうが、われわれはこの城に閉じ込められたのです」

「なにを――」


 と嘲笑う顔がふと凍りついたのを見れば、ルーベンも思い当たったよう、いまさら激しく四方を見回して。


「まさか、そんなことが。だ、第一、兵士たちがここへ逃げ込んだはずであろう。連中もろとも、ということか」

「そうも考えられますが、あの兵士たちはこちらが惑っているあいだにどこからか逃げたのでしょう。いまごろその出口も塞がっておるでしょうが、探して打ち破れぬかどうか試してみる価値はある。いますぐ全軍呼びつけましょう」

「しかし、まずは敵兵を捜してからでも遅くはあるまい」

「なりませぬ」


 マキロイはぴしゃりと言って、


「こちらは雨に濡れ、体力も消耗しております。おそらく城下町と城を引っかき回しても芋ひとつ出てきやしますまい。まだ動けるいまのうちに脱出できなければ、希望は一刻ごとに失われてゆきます」

「む、むう……」


 悄然たるルーベン、倒れ込むようにシャンデリアへ座るが、ふと思いついた顔でマキロイを仰ぎ見て、


「城へ潜み、こちらが飢えたと思わせるのはどうだ。水さえあれば、幾日かは凌げるであろう」

「城下町の井戸には、おそらく家畜の糞尿でも仕込んであるのでしょう。頼りは雨ですが、それもどうやら上がったよう――天道はわれらに向いてはおらぬようです」

「むう、そうか……」


 再びうなだれるルーベンだが、再び立ち上がるころにはさすがに隊長然たる顔、痩せぎすに似合わぬ太く通る声で兵士を呼びつけ、城の前、裾の広い階段に呼び寄せれば、偽りなく情状を説明する。

 マキロイはルーベンの傍らに立ち、ぐるりと兵士を見回して、真実を告げられ呆然とする顔をひとつひとつ見つめた。

 そしてぽつりと、


「生き残るのは不可能か」


 と呟く――厳しい戦いのあと、それでもなおしかと生にしがみつく力は、もうほとんど残っていないのである。

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