かんの(う)弁護士(1)
外は晴れていた。風は凪いでいた。外耳に嵌ったイヤホンからは、大河ドラマのテーマ曲が流れていた。
「暑い……」
言わずもがなの台詞を吐いて、私は小さくため息をついた。だいたい最寄り駅か遠すぎるのだ、私の職場は。
池袋駅から徒歩二十分の私の職場は今にも壊れそうな古びたビルの二階にあった。三階建て築四十年のその白いビルは、十五階建てのマンションと、二十階建てのホテルの隙間に、挟まるように存在していた。よくぞ地上げに負けずに残ったと褒めたいところだが、歯と歯の間に挟まったスルメのような異物感はいなめない。一階がテナント募集中なところも、もの悲しい。
う
か ん の 法 律 事 務 所
ふと気がつくと、階段脇にあるプレート式の表札に、マジックで落書きがしてあった。かんのう法律事務所。官能法律事務所。私は自分のボスである「かんの法律事務所」の女王の姿を思い出し、思わず笑ってしまった。どこの誰のしわざかは知らないが、ツボを押さえている。
そう。大自然と歴史をこよなく愛する私こと守永雅は、海とも山とも戦国武将とも無関係な法律事務所で事務員として働いていた。学生時代は法律のほの字も知らなかったくせに、人生とは不思議なものである。
もちろん希望して選んだ職業ではなく、就職浪人であえいでいたときに、母親がはとバスツアーで知り合った弁護士が、太っ腹にも雇ってくれると言ったのだ。それが目下の私のボス、管野恭香先生だった。いつもながら、母のコミュニケーション能力には恐れ入る。
とりあえず落書きはそのままにして、私は狭い階段を上って、二階に上がった。すぐ左手にある扉の鍵を開け、事務所内に入る。暗い室内。当然のことながら、先生はまだ来ていなかった。
弁護士を何人も抱えた総合法律事務所などと違い、弁護士一人事務員一人の管野法律事務所は狭かった。入ってすぐに依頼人の足止めを兼ねたカウンターがあり、その右手に私のデスクがある。部屋の左側はパーティションで区切られた応接スペースになっていて、その奥にトイレと簡易な給湯室があった。先生の無駄に大きなデスクはというと、私の机の奥、カウンターから見てやや右寄りの正面に、南の窓を背にどんと構えてある。雑多に散らかっているうえに無駄に花なんかが飾ってあるから、先生がいないにもかかわらず妙に威圧感があった。机の奥に置いてあるハイバックの最高級革張りチェアが、あまりにも巨大であるせいかもしれない。
電気をつけて机に鞄を置くと、私は給湯室に向かった。これからまた先生のお相手をするかと思うと、コーヒーでも飲まないとやっていられない。
コーヒーメイカーの電源を入れたとき、ノックの音が聞こえた。依頼人かと慌てて入り口まで戻ってみるが、誰もいない。扉を開ける。人気のない短い灰色の廊下と、その先にある狭い階段が見えた。なんというか、この世に人間が一人もいなくなったかのごとく寂寥としている(古いから)。
扉を閉めると再度ノックの音がした。背後(、、)から(、、)。私の背中にぞっと鳥肌が立った。背後には窓しかない。
間髪入れずに鳴った三度目のノックの音は、今度は切羽詰まったように速かった。私は恐る恐る窓の方を振り返った。そして「ぎゃっ」と悲鳴を上げた。先生のゴージャスチェアの横、地上五メートルの窓の外に、少年のベビーフェイスが浮かんでいた。
「カケスくん、お願いだから今度来るときは入り口からにして」
先生のふかふかの革椅子に座った少年にお茶とお菓子を出しながら、私は懇願した。カケスは出されたエクレアをぺろりと平らげると、
「だって上りやすそうな壁だったんだもん」
こともなげに言った。そうだろうか? このビルで唯一建造物に阻まれていない南側の壁は、ざらつき程度の凹凸はあろうが、ほぼフラットだ。足場になるような突起はなかった。窓にもベランダのようなものはついていない。スパイダーマンでもあるまいし、下から上るにも上から降りるにも適したビルとは思えない。私が疑わしそうな目で見つめると、カケスは可愛い顔でにこにこ笑った。大概の人が大概の事を許してしまうだろうその笑顔に、私もついついつられて笑ってしまう。今年中学三年生になったはずの少年は、幼児のように無垢な童顔の持ち主であった。
「でも不思議だよ。ボルダリングのプロだって、ここの二階の窓からの登場は難しいんじゃない?ましてカケスくんの身長じゃ……」
「しつこいなあ、雅ちゃんは。そんなんだから彼氏もできないんだよ」
うっかりコンプレックスに触れてしまったせいか、カケスは機嫌を損ねたようだった。相変わらず感情は面には出ないのだが、その代わりにカケスの不機嫌は言動に表れるのだ。
「彼氏くらいねえ……」
「いないでしょ? いないよね? 見ればわかるよ。その髪型! その服装! その身体!」
「うう……」
反射的に反論しようとしたら、ぴしゃりと遮られた。口が達者とはこの事を言うのだろう。母親の遺伝子を受け継いだ毒舌に私が再起不能になりそうになると、カケスは慌ててフォローを入れた。自分で叩きのめしたくせに。
「泣かないで、雅ちゃん。三十過ぎても結婚できなかったら、俺がお嫁に貰ってあげるから」
「母親として断固反対するわ」
どこかねっとりしているにもかかわらず良く通る声が響いた。
私とカケスは声のした入り口に同時に目をやる。そこにはこれ以上ないくらいの存在感を放つ、豊満な美女が立っていた。この事務所の女王、管野恭香先生だった。
先生はまあ、強烈なインパクトの持ち主だった。先生を見た者の十人中十五人くらいが呆気にとられる。昔芸能界を賑わせた叶姉妹の姉と妹の名前を一文字ずつ持っていることが自慢の管野先生は、容姿、服装、言動、どれをとってみても凡人の想像の範疇を超えていた。




