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婚約破棄を申し出て鐘楼当番も返そうとした伯爵令嬢は、十二の鐘の下で硬い掌ごと選ばれる

作者: 真神 慧
掲載日:2026/09/08

「その手を晩餐の席へ出せるとお思い?」


 一つ目。


 アストギク様は私の手袋を裏返し、硬くなった掌を見て鼻先を曇らせた。


「スノッリ様もおっしゃっていたわ。働く女の手は、公爵夫人にふさわしくないと」


「スノッリ様が?」


「ええ。お気の毒だから、わたくしから伝えて差し上げるの」


 公爵夫人の命で同じ鐘楼稽古へ入った方の忠告だ。疑う理由などない。ないったらない。胸の内側が鐘より先に割れそうなのは、信憑性とは無関係である。


 私は鐘楼靴を寝台脇へ荷造りした。


 あとは嫌われるだけだ。婚約を解き、当番も返す。二つ。きれい。数えられるものは怖くない。


 翌朝、私はスノッリ様の見守る前で手袋を外した。


 細い指で上品につまむふりはしない。撞木の綱を掌の奥へ食い込ませ、鐘守に教わった深い握りを堂々と晒す。公爵夫人候補としては落第、鐘守としては満点の握りだ。


「いきます」


「どうぞ」


 腕ではなく腰で引く。撞木が鐘腹を打ち、朝の空へ澄んだ一打が抜けた。


 広場の鳩が一斉に飛ぶ。


 その下で、スノッリ様が誰より先に手を叩いた。


「見事です、ハスミク」


 満面の笑みだった。


 一度目の拍手。まだ足りない。


 たぶん、遠目で掌の硬さが見えなかったのだ。次はもっと淑女らしからぬところを、至近距離でお見せしよう。婚約破棄というものにも、下準備は必要なのである。たぶん。


    *    *    *


 昼には裾を帯へ挟んだ。


 足首が出る。縄を踏むよりずっとよいし、幻滅されるなら一石二鳥。私の評判だけが沈み、領民の昼餉は正しい時刻に始まる。たいへん善良な失恋計画だ。


 礼拝の音は鐘の縁へ浅く、作業開始は腹へ強く。定刻の音は撞木を戻し、余計な響きを止める。


「止め!」


 鐘守の声で掌を返す。三つの音は混じらず、屋根の向こうへそれぞれ走った。


 鐘守たちは黙って親指を立てた。そこは協力しなくてよい。


「皆も、彼女から学んでください」


 スノッリ様はまた拍手した。今度は鐘守たちまで続く。


 二度目の拍手。計画が合わない。


 縄をほどいた私の手を、スノッリ様が見た。親指の付け根が裂け、古い傷の上に赤い筋が浮いている。


「次の当番は休んでください」


 ほら来た。


「承知いたしました」


「代わりはこちらで手配します。それから、これを」


 彼は傷へ触れず、柔らかな裏革の手袋を私の指先へかぶせた。一指ずつ整える手つきが妙に丁寧で、追放の装備としては上等すぎる。


「痛みませんか」


「働かなければ」


 私が答えると、彼の眉が寄った。


 仕事ごと遠ざけたいのだ。アストギク様は正しかった。


 なのに手袋は温かい。嫌われるのも、存外ぬくぬくしている。困る。


    *    *    *


 三度目は婚約祝賀日の大時報だった。


 私の婚約を祝う鐘を、私が鳴らして、それから婚約を返す。


 たいへん手際がよい。祝賀と破談を同日に済ませれば、招待客の馬車代も一度で済む。伯爵家の娘として経済観念まで立派。誰か褒めてほしい。できれば婚約者以外に。


 鐘楼の下には、飾り布を張った見物席が設けられていた。正面中央にスノッリ様、その隣に公爵夫人。鐘守たちは塔の入口へ並び、祝賀の時打ちを待っている。


 そしてアストギク様は、私のために空けられたはずの中央の席へ立っていた。


「ハスミク様は予鈴だけで結構よ」


 彼女は銀糸の手袋で鐘楼鍵をつまみ、私へ差し出さず胸元へ寄せた。


「十二の時鐘はわたくしが。手のお加減が悪いのでしょう? スノッリ様も、無理をさせたくないと」


「アストギク」


 スノッリ様の声が近づくと、彼女の語尾がふわりと丸まった。


「わたくし、ハスミク様を案じておりますの。先日も掌を傷めていらして。公爵家の祝賀で失敗なさったら、おつらいでしょう?」


 二人きりのときには、その手は恥だと断定した口が、ずいぶん可憐に心配している。口調にも礼装があるらしい。


「役を決めるのはあなたではありません」


 公爵夫人が手を差し出した。


 アストギク様は鐘楼鍵を握ったまま笑う。


「でも、公爵夫人。わたくしはスノッリ様とも鐘を鳴らしたことがございますし、ハスミク様より公爵家の作法を——」


「鍵を」


 短い。


 アストギク様の指が一本ずつ開いた。公爵夫人は取り戻した一本の鍵を、私の手袋の上へ置く。


「三度目も、あなたが鳴らしなさい。最後まで」


「最後まで」


「何か?」


「いいえ。承りました」


 都合のよい言葉だった。


 これが最後なら、全部を正しく終えられる。


 私は鐘楼靴へ履き替えた。寝台脇から持ってきた、革の擦れた靴。今日が済めば箱ごと返す。鍵も、当番も、婚約も。三つ。増えた。よくない傾向だ。


 石段へ足をかける。


 一段、二段、三段。


「ハスミク」


 振り向くと、スノッリ様が階下に立っていた。


「手は」


「手袋をいただきましたので」


「そうではなく」


 四段目へ上がる。


 彼は何か言いかけたが、公爵夫人に呼ばれた。私は聞こえなかったふりをした。得意ではない。今日から練習する。


 鐘楼の上階には、日の光と油と古い麻縄の匂いが溜まっていた。


 中央に大鐘。その左右へ予鈴と終鈴。足元には撞木縄、戻し縄、止音の革帯。毎日触れたものばかりなのに、返すと決めると急にこちらを見てくる。物に顔はない。今日はある。たいへん迷惑。


「綱、よし」


 鐘守の頭が結び目を確かめる。


「止め革、よし」


「時刻、あと半刻」


「早いですね」


「いつも通りだ」


 そう言って、鐘守たちはまた親指を立てた。


 やめてほしい。親指一本で人の決意を揺らさないでほしい。


 私は手袋を外した。


 スノッリ様からいただいたものは柔らかすぎて、縄の癖が読めない。そっと畳み、窓台へ置く。硬い掌が風にさらされた。


 広場からアストギク様の声が上がる。


「まあ。せっかくのお品を」


 見なくても、口元が分かる。人の傷を憐れむときだけ、あの方はよく通る声を出す。


 撞木縄へ右手を掛けた。


 浅い。違う。


 指をほどき、掌の奥へ縄を入れ直す。親指で押さえ、左手を一巻き下へ。撞木の深い握り。これでよい。


 正午まで、あと十息。


 十。


 広場の話し声が低くなる。


 九。


 旗が西へ膨らむ。


 八。


 スノッリ様が見物席から一歩出る。


 七。


 アストギク様がその隣へ並ぼうとする。


 六。


 公爵夫人の扇が閉じ、行く手を塞ぐ。


 五。


 鐘守が予鈴の留めを外す。


 四。


 掌の傷が、手袋のない風を思い出す。


 三。


 寝台脇の箱。中はもう空だ。


 二。


 終わらせる。


 一。


 私は予鈴の縄を引いた。


 高い音が一つ、広場を撫でる。市場の売り手が手を止め、荷車の御者が馬を寄せた。領都が時刻を受け取る姿を、私はずっと上から見てきた。


 返したくない、などと考えてはいけない。


 予鈴の戻りを肩で受け、縄を送り、揺れを殺す。次は大鐘。


「時鐘、入るぞ」


「はい」


 撞木縄を握る。足を半歩引く。息を吸った。


 一打目。


 腰を落として引くと、撞木が鐘腹へ入った。


 どん、と胸骨の裏まで震える。


 一つ。


 縄が跳ね戻る。手を開けば皮を持っていかれる。握り込まず、逃がさず、戻りに沿って腕を上げる。


 広場の端で、パン屋が窯の蓋を閉めた。


 二打目。


 二つ。


 残響が薄くなるところへ次の音を重ねる。早すぎれば警鐘、遅ければ偽の時刻。私がどれほどみっともなくても、領民にだけは間違った鐘を渡さない。


 見物席で、スノッリ様がこちらを見上げている。


 掌ではなく、顔を。


 三打目。


 三つ。


 縄が指の節を擦る。昨日開いたところへ熱が走った。


 アストギク様は扇で日を避け、正面中央へ半歩戻った。大丈夫。十二が済めば、あの場所も空く。婚約者の隣も空く。欲しい方が入ればよい。


 撞木を戻す。


 四打目。


 四つ。


 鐘の影が床を横切る。


 子どもが母親の袖を引き、塔を指した。母親は耳元で何かを教え、子どもが両腕で縄を引く真似をする。


 淑女らしくない格好まで、よく見えるだろう。


 よし。幻滅なさいませ。


 スノッリ様は笑っていた。


 なぜ。


 五打目。


 五つ。


 私は裾を膝へ挟み、さらに深く踏み込んだ。飾り布の下から拍手が一つ聞こえた。


 彼だ。


 まだ五つです。拍手が早い。時刻を乱さないでいただきたい。私の心拍だけが勝手に乱れる。


「間、よし」


 鐘守の声。


 六打目。


 六つ。


 右の掌で、何かがほどけた。


 傷だ。


 縄に細い赤がつく。握りをずらせば次の打ちは浅くなる。警鐘ではない。祝賀の大時報だ。正しく十二。終鈴まで。


 左手を一巻き詰め、右の力を減らす。


 広場には分からない。


 分からなくてよい。


 七打目。


 七つ。


 鐘楼靴の底が石を噛む。荷造りしたとき、泥を落としておけばよかった。返却物として減点。いま気にすることではない。ではいつ気にするのだ。破談の直後か。忙しいな、今日の私。


 笑いそうになった口を結ぶ。


 スノッリ様の笑顔は消えていた。


 彼は私の手元を見ている。


 八打目。


 八つ。


「手を!」


 下から声が飛んだ。


 スノッリ様だ。


 私は返事をしない。いま返せるのは時刻だけ。


 縄が戻る。掌の赤が麻へ吸われた。


 鐘守が動こうとしたので、首を横へ振る。


「続けます」


「替われるぞ」


「私の当番です」


 最後の。


 それだけは声にしなかった。


 九打目。


 九つ。


 残響の底で広場が静まる。誰も話さない。アストギク様の扇だけが動き、金具を光らせた。


 私は息を吐く。


 引く腕はまだある。指も五本。左右で十本。十二打には足りる。計算として何かがおかしいが、勢いで押し切る。


 十打目。


 十。


 撞木の入りがわずかに深い。


 鐘守が「いい音だ」と呟いた。


 褒められた。今でなくてよい。今でなくてよいのに、喉の奥が狭くなる。


 窓の下で、スノッリ様が見物席を離れた。塔の入口へ向かってくる。


 十一打目。


 十一。


 石段を上がる足音がした。


 速い。


「ハスミク!」


 短い。怒っているようにも、困っているようにも聞こえる。


 あと一つ。


 私は縄の戻りを待った。焦れば間が縮む。彼の足音ではなく、残響を聞く。鐘が遠い屋根へ届き、薄くなり、空へほどけるまで。


 十二打目。


 十二。


 全身で引いた。


 撞木が鐘腹を打つ。


 音が塔を満たし、掌の熱も、階段の足音も、寝台脇の空いた場所も、何もかも一つに潰して広場へ落ちた。


 これで終わり。


 縄を送る。撞木を戻す。勝手な十三打目を鳴らさせない。止音の革帯を当て、揺れを受け止める。


 まだ終鈴がある。


 右手を開くと、皮膚が縄へ貼りついた。一本ずつ剥がす。鐘守が布を差し出しかける。


「終鈴が先です」


「おう」


 誰も止めなかった。


 終鈴の細い縄へ左手を移す。祝賀を結ぶ最後の一音。強すぎず、弱すぎず。


 引く。


 明るい音が、十二の残響へ銀の糸を通した。


 下で歓声が上がった。


 鐘守たちはまだ拍手をしない。仕事が終わるまで動かない人たちだ。だから好きだった。


 好きだった、ではない。


 好きだ。


 困った。返す直前に確認することではない。


 階段からスノッリ様が飛び込んできた。


「手を見せてください」


「時打ちは終わりました」


「手を」


 質問ですらない。ずいぶん公爵らしくない。


 私は畳んだ手袋を差し出した。


「お返しいたします」


「それではありません」


 続いて、鐘楼靴を脱ぐ。さすがに素足はまずいので、持参した室内履きへ替えた。準備のよい破談者である。


 靴を揃え、両手で彼へ差し出す。


「本日の大時報をもちまして、鐘楼当番をお返しいたします」


 スノッリ様が動かない。


 広場の拍手が階下から昇ってくる。一つ、二つ、もう数えきれない。三度目の拍手を勘定する予定だったのに。


「なぜ」


「公爵夫人にふさわしい方へ、お譲りするためです」


「誰に」


「アストギク様です。祝賀時打ちも、あなたのお隣も望んでおられます」


「私が望んでいません」


 即答だった。


 まだだ。言わなくては。一度で済ませる。ここで引き延ばせば、次の時報に差し支える。


「それから、スノッリ様。わたくしとの婚約を、破棄していただきたく存じます」


 三度目は、拍手より先に彼の顔が崩れた。


 笑顔が消えた、だけではない。


 目が見開かれ、息が止まり、伸ばしかけた手が宙で固まった。私が傷を見せたときより、ずっと痛そうな顔をした。


「なぜ」


「ですから、わたくしの手は公爵夫人には」


「なぜ」


 一歩。


 鐘楼靴を挟んで、彼が詰める。


「私の何を見て、私を要らないと決めたのです」


 数えられない。


 短い問いが胸へ入って、十二まで並べた数字を全部さらっていった。


「要らないのは、スノッリ様のほうでしょう」


「誰が言ったのです」


「アストギク様が。あなたが、働く女の掌を恥じていると。彼女とは共に鐘を鳴らしたこともあり、祝賀の役も任せたいと」


「一度もありません」


 階段口にいたアストギク様の扇が止まった。いつ上がってきたのだろう。公爵夫人もその後ろにいる。


「ですが、アストギク様は」


「彼女と二人で鐘を鳴らした事実は、一度もない。役を任せたいと言ったことも、あなたの手を恥じたこともありません」


「では、当番を休めと」


「傷が開いていたからです」


 彼の声が掠れた。


「触れれば痛むと思った。だから手袋だけを直した。休む日を作りたかった。それを、仕事を奪う言葉に聞こえるよう言ってしまったのは私です。ですが、あなたを鐘楼から遠ざけたいと思ったことなどない」


「でも、この掌を晩餐の席へ」


「出してください」


「硬いのですよ」


「知っています」


「縄だこもあります」


「見れば分かります」


「今日など、血まで」


「それでなぜ、私があなたを手放す話になるのです」


 知らない。私に聞かないでいただきたい。こちらは三回も嫌われようと励み、そのたび拍手された側である。計画書を返してほしい。赤字でいいから添削してほしい。


 アストギク様が小さく笑った。


「まあ、行き違いですわ。わたくしはただ、ハスミク様が公爵家で恥をかかないよう——」


「あなたは彼女に、私がその手を恥じていると告げたのですか」


 スノッリ様が振り向く。


 アストギク様の声が、急に塔の壁へ吸われた。


「心配、でしたの。奥様も、若い令嬢に鐘楼を理解させたいと、わたくしたちを同じ稽古へ——」


「理解したのは、虚言でも鐘は鳴らせないということね」


 公爵夫人が言った。


 上品な声で、切れ味だけが俗だった。ばっさり。


 アストギク様は公爵夫人の腕へ縋ろうとした。公爵夫人は半歩ずれ、扇の先で空いた階段を示す。


 逃げ道ができたのは彼女なのに、なぜか私が逃げたくなった。


 手を背へ隠す。


 スノッリ様がこちらを向いた。


「見せてください」


「見たでしょう」


「足りません」


 何が。


 彼は私の右手を取った。傷を避け、指の付け根と手首だけを支える。柔らかいところを探すような持ち方だった。


 広場からは塔の窓が見える。


 鐘守も、公爵夫人も、アストギク様も見ている。


「スノッリ様、硬いですから」


「ええ」


 逃がそうとした掌を返される。


 彼は膝を折らなかった。ただ私の手を高く持ち上げ、目を逸らさないまま、縄だこの重なった掌へ口づけた。


 傷ではなく。


 隠してきた、いちばん硬いところへ。


 広場の拍手が一瞬遅れ、それから大鐘より大きく塔へ押し寄せた。


 嫌われる計画、大失敗。


 ざまあみなさい、私。こんな失敗なら、もう一度くらいしてもいい。


「私は自分であなたを望み、婚約を申し入れました」


 彼の唇が掌から離れる。


「鐘を正しく鳴らすあなたも、傷を隠して笑うあなたも、嫌われようとして三度も私を喜ばせた不器用さも。誰にも譲る気はありません」


「喜ばせていたのですか」


「毎回」


「最初の拍手も?」


「抑えたつもりでした」


「二度目も?」


「かなり」


 あれで。


 では三度目はどうなるのだ。下から響く拍手を数えようとして、三つ目で諦めた。これは無理。領都じゅうが計算を妨害している。


    *    *    *


「わたくしも」


 声がうまく出ず、一度のみ込んだ。


 ここで軽口へ逃げれば、たぶん一生逃げる。


「鐘楼も、あなたも、譲りたくありませんでした」


 スノッリ様の指が強くなる。


 私は左手に持った一本の鐘楼鍵を、彼の掌へ置いた。


 それだけでは返却に見える。今日の私は返すことばかり考えていたから、彼の顔にも一瞬、同じ影が戻った。


 違う。


 鍵の上へ、自分から右の掌を重ねる。


「ですから、返しません。どちらも」


 硬い皮膚が、彼の手へ触れた。


 彼がようやく息を吐いた。笑い直そうとして、失敗した顔だった。そちらも大失敗である。目元がまるで公爵らしくない。


「承知しました」


「スノッリ様がお決めになることではありません」


「では、お願いします。私の隣にいてください」


「鐘楼でも?」


「鐘楼でも、晩餐でも」


 これでようやく、二つとも私が選んだ。


 背後で衣擦れがした。


「奥様、わたくしは祝賀のためを思って——」


 公爵夫人は階下へ向かい、見物席を見下ろした。中央には私が抜けたままの席があり、その隣にスノッリ様の椅子がある。


 端には、柱で塔が半分しか見えない小さな席が一つ。


「アストギク様をご案内して」


 従者が進み出る。


「祝賀時打ち役はハスミクです。あなたは端で見物なさい」


「ですが、わたくしにも稽古の成果が」


「虚言を吹き込む暇はあったのでしょう。見物の時間も取れます」


 公爵夫人、二太刀目。乱発はなさらない。だから深い。


 アストギク様の祝賀用の手袋から、飾り房が外された。従者が彼女の名札を中央席から抜き、端の椅子へ差し直す。


 彼女はもう公爵夫人の腕へ触れられなかった。


 広場へ下りると、アストギク様は人垣の端へ案内されていた。望んでいた中央では、スノッリ様が私の傷んでいない側の手を取る。


 鐘守たちが一斉に帽子を脱いだ。


「いい時報だった」


「次も頼む」


「手ぇ休めてからな」


 三人目だけ余計である。正しいけれど。


 スノッリ様は受け取った鐘楼鍵を私へ戻した。


「次の時報は、二人で鳴らしませんか」


「公爵様に撞木縄が引けます?」


「学びます。あなたから」


「手の皮が剥けますよ」


「なら、手袋を貸してください」


「柔らかすぎて滑ります」


 彼は少し考え、私の右手を両手で包んだ。


「あなたの掌が傷んだ日だけ、私が縄を引きます。あなたは隣で間を教えてください」


「毎回休ませようとなさらない?」


「しません」


「鐘楼から遠ざけない?」


「私も上がります」


「晩餐には?」


「その手で来てください」


 硬いでしょう、と逃がした手を、彼は離さなかった。


 私は数えるのをやめ、指を絡め直した。

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