第1王子の側近でしたが婚約破棄された悪役令嬢を大事にします
――その日、王宮の大広間は異様な静けさに包まれていた。
煌びやかなシャンデリアの下。
大勢の貴族たちが見守る中、一人の令嬢が壇上に立っていた。
金色の髪を背中へ流し、背筋を伸ばしている。
その姿は、まるで咲き誇る一輪の薔薇。
セレナフィア・ローゼンベルク。
この国で知らぬ者はいない、公爵令嬢だった。
そして今日――彼女は、この国で最も恥辱的な立場に立たされていた。
「セレナフィア・ローゼンベルク」
玉座の前に立つ青年が、冷たい声で彼女の名を呼ぶ。
エルディア王国第一王子。
レオンハルト・エルディア。
かつて彼女の婚約者だった男だ。
「君との婚約を破棄する」
ざわり、と大広間が揺れた。
セレナフィアは一瞬だけ目を伏せた。
しかし、すぐに顔を上げる。
「……理由を、お聞かせくださいませ」
「君がリリアーナを虐げていたからだ」
レオンハルトの隣に立つ少女が、小さく肩を震わせる。
リリアーナ・フェルメール。
男爵令嬢でありながら、王子の寵愛を受けるようになった少女。
「私は……何度もセレナフィア様に嫌がらせをされました」
涙を浮かべながら、リリアーナが訴える。
「教科書を破られたり、階段から突き落とされたり……私なんか王子殿下に相応しくないって……」
「嘘です」
静かな声が響いた。
セレナフィアだった。
「私は、そのようなことをしておりません」
「まだ言い逃れをするのか!」
レオンハルトが声を荒らげる。
その瞬間。
大広間の隅に立っていた一人の男が、目を細めた。
アーノルド・ヴァレンシュタイン。
これまで第一王子の筆頭側近として仕えてきた男だった。
彼は知っている。
セレナフィアがリリアーナを虐げてなどいないことを。
それどころか――。
王子が知らないところで、彼女が何度も王子を助けていたことを。
他国との交渉。
王宮内の派閥争い。
民から上がってきた陳情。
レオンハルトが王太子として恥をかかないよう、裏で処理していたのはセレナフィアだった。
だが、その事実を知る者は少ない。
「証拠もある」
レオンハルトが一枚の紙を掲げる。
「これは君がリリアーナを害するよう命じた証拠だ」
セレナフィアの顔から血の気が引いた。
「……そのようなもの、私は知りません」
「もういい」
レオンハルトは冷たく言った。
「君には失望した」
その言葉に。
セレナフィアの瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
それでも彼女は泣かなかった。
「……承知いたしました」
深々と頭を下げる。
「婚約破棄、お受けいたします」
大広間がざわめいた。
そしてレオンハルトは最後の言葉を告げる。
「さらに、ローゼンベルク公爵令嬢セレナフィアを王都から追放する」
その瞬間だった。
「――お待ちください」
低い声が響いた。
全員が振り返る。
アーノルドだった。
「アーノルド?」
レオンハルトが眉をひそめる。
「何のつもりだ」
「本日をもちまして、私は殿下の側近を辞任いたします」
「……何?」
「これ以上、殿下にお仕えする理由がなくなりました」
アーノルドは胸元の紋章を外した。
そして、それを王子の前へ差し出す。
「好きにしろ」
レオンハルトは吐き捨てた。
「お前の代わりなどいくらでもいる」
「……そうですか」
アーノルドはそれ以上何も言わなかった。
ただ、壇上のセレナフィアを見る。
「セレナフィア様」
「……何でしょう」
「私と婚約していただけませんか」
「…………え?」
大広間が凍りついた。
「アーノルド……?」
セレナフィアが目を見開く。
「私と結婚してください」
「なぜ……?」
震える声。
アーノルドは静かに答えた。
「私は、あなたがただの令嬢などではないと知っています」
セレナフィアの瞳が揺れる。
「あなたが殿下のために何をしていたのかも」
「……」
「だから今度は、私があなたを守ります」
その言葉を聞いた瞬間。
セレナフィアの瞳から、一粒だけ涙が落ちた。
「……変な人」
彼女は小さく笑った。
「こんな私を選ぶなんて」
「こんなあなた、とは?」
「もう何も持っていない女です」
「それなら、私が持っているものを半分差し上げます」
「……何を?」
「私の人生です」
セレナフィアはしばらく黙っていた。
そして――。
「……よろしくお願いいたします」
小さく頭を下げた。
こうして。
王宮を追われた悪役令嬢と、第一王子の元筆頭側近。
二人の婚約生活が始まった。
◇
アーノルドとセレナフィアが婚約してから、半年。
二人は王都から少し離れたヴァレンシュタイン領で暮らしていた。
「アーノルド様」
「どうしました?」
「今日もお仕事ですか?」
「ええ。ただ、今日は早く戻ります」
「……本当に?」
セレナフィアが不安そうに尋ねる。
以前なら考えられなかった。
誰かの帰りを待つこと。
誰かに甘えること。
けれどアーノルドは、そんな彼女を笑わなかった。
「約束します」
「……はい」
それだけで、彼女は嬉しそうに笑う。
そんな日々を重ねるうちに。
二人の間には少しずつ変化が生まれていた。
アーノルドは気づけばセレナフィアの好きな紅茶を覚えていた。
セレナフィアは、アーノルドがいつ帰ってきても過ごしやすい環境を用意した。
「……不思議ですね」
ある夜、セレナフィアが呟いた。
「何がです?」
「私は以前、愛されることに必死でした」
彼女は窓の外を見る。
「殿下に認めてもらいたくて、完璧な婚約者でいようとして……」
「……」
「でも今は」
セレナフィアがアーノルドを見る。
「あなたに嫌われないように頑張る必要がない気がするんです」
「当然でしょう」
「どうして?」
「私はもう、あなたを愛していますから」
「…………」
セレナフィアの顔が真っ赤になる。
「……突然、そういうことを言うのは卑怯です」
「申し訳ありません」
「謝らないでください……」
彼女は俯いた。
「……嬉しいですから」
その夜。
二人の距離は、ほんの少しだけ近づいた。
◇
一方、王宮では――。
「なぜだ!」
レオンハルトが机を叩いた。
政務が滞っていた。
外交交渉は進まない。
貴族たちの派閥争いは激化する。
財務状況にも問題が出始めた。
「アーノルドがいなくなっただけで、なぜここまで……!」
さらに悪いことは続いた。
セレナフィアが処理していた案件まで次々と発覚したのだ。
彼女が王子に報告する前に解決していた問題。
彼女が独自に動いていた外交。
彼女が止めていた貴族たちの陰謀。
すべてが表面化した。
「……まさか」
レオンハルトは震えた。
「今まで……セレナフィアが……?」
しかし。
もう遅かった。
◇
それから一年。
王宮で開かれた夜会に、一組の男女が姿を現した。
アーノルドとセレナフィアだった。
かつて「悪役令嬢」と呼ばれた女は、以前よりもずっと穏やかな顔をしていた。
そして、その隣には彼女を愛する男がいる。
「……セレナフィア」
レオンハルトが近づいてくる。
「久しぶりだな」
「ええ。お久しぶりです、殿下」
「君に……謝りたい」
セレナフィアは黙って彼を見る。
「私は間違っていた」
「そうですか」
「君を疑うべきではなかった」
「……」
「もう一度、やり直せないだろうか」
その瞬間。
アーノルドが一歩前へ出た。
「申し訳ありませんが」
穏やかな声だった。
「妻に近づくのは、その辺りにしていただけますか」
「妻……?」
レオンハルトが目を見開く。
「ええ」
アーノルドはセレナフィアの手を取る。
「私の妻です」
セレナフィアも、その手を握り返した。
「私はもう、殿下の婚約者ではありません」
彼女は微笑む。
「私はアーノルド様の妻です」
「……!」
レオンハルトの顔が歪む。
だが、もう彼女の心は王子にはない。
かつて愛した男ではなく。
自分を信じてくれた男を見つめる。
「帰りましょう、セレナフィア」
「はい、あなた」
二人は並んで歩き出す。
その背中を、レオンハルトはただ見つめることしかできなかった。
かつて自分が捨てたもの。
それがどれほど大切だったのか。
失って初めて気づいた。
――けれど。
もう二度と戻ってはこない。
王宮を出た二人は、夜空を見上げた。
「アーノルド様」
「はい」
「私、今とても幸せです」
「私もです」
「……昔の私に教えてあげたいです」
「何を?」
セレナフィアは微笑んだ。
「あなたを信じていれば、大丈夫だって」
アーノルドは彼女の手を握る。
「では、これからも私を信じてください」
「はい」
二人は歩き出した。
もう振り返ることはない。
悪役令嬢と呼ばれた女は、愛する男とともに。
自分だけの幸せを見つけたのだった。




