第8話「手当ての温度」
子羊が怪我をしていた。
牧場から報せが入ったのは昼下がりのこと。ルカが息を切らして駆け込んできて、「子羊が柵に足を挟んだ」と叫んだ。
ノアは無言で鞄を掴んだ。私もスカートの裾を持ち上げて後を追う。
「ヴィオレッタ、来るのか」
「お手伝いします」
ノアは何も言わずに歩幅を広げた。止めないということは、許可だ。
走る。ドレスの裾を握りしめて、牧草地を突っ切る。前世なら運動靴で走れたのに、令嬢の靴は底が薄くて小石が痛い。ノアの歩幅が長いから追いつくのに必死で、汗が額に滲む。
コロが一緒についてきた。こういうとき犬は「散歩だ!」と解釈するらしく、ご機嫌な尻尾の振りっぷりで場の緊張感を台無しにしている。
牧場に着くと、柵の隅で小さな白い塊がうずくまっていた。
あの子だ。鼻先に黒い模様のある子羊。先日、私の指を吸っていた人懐こい子。
「メエエ……」
弱々しい声。右前足が不自然な角度で投げ出されている。
ノアが膝をついて子羊の足に触れる。子羊がびくりとして、また鳴く。
「骨には異常がない。裂傷と捻挫だ」
血が出ている。柵の角で切ったのだろう。赤い筋が白い毛を伝って、地面に滴り落ちる。
鉄の匂い。
「押さえてくれ」
「はい」
子羊を抱く。震えている。体温が高くて、心臓がどくどくと速い。怖がっている。
「大丈夫よ。大丈夫だから」
耳の後ろを撫でながら声をかける。子羊の毛はあたたかくて、脂で少しべたつく。その下の皮膚に脈拍が伝わってくる。
ノアが鞄から消毒液と布を取り出す。傷口を洗浄し、布を当て、手際よく包帯を巻いていく。
その手つきが──やさしかった。
大きな手。節くれだって、タコだらけの手。でも子羊に触れるときは、信じられないほど繊細に動く。指先が傷口の周辺を探るとき、力加減がまるで羽毛みたいに軽い。
「痛くしないぞ」
ノアが低い声で子羊に語りかける。
食堂でぶっきらぼうに「牛」としか言わない人が、子羊にはそんなふうに話すのだ。
消毒液の冷たさに子羊がまた震えて、私は少し強く抱きしめる。子羊の鼻先が私の腕に押しつけられて、ふすふすと温かい息がかかる。
「包帯、ここを持っていてくれ」
ノアの指が私の手に触れた。
あたたかい。
包帯の端を渡すために重なった指先が、日に焼けていて、ごつくて、でもあたたかい。
「……っ」
心臓が、一回だけ大きく跳ねた。
何。何今の。
「どうした」
「な、なんでもありません」
ノアが怪訝そうに首を傾げる。眼鏡の奥の灰色の瞳が近い。こんなに近くで顔を見たことがあっただろうか。まつ毛が長い。睫毛の影が頬に落ちている。
──いやいやいや。今は子羊の手当て中。集中しなさい私。
ノアが包帯を巻き終えて、副木を添える。子羊の足を固定して、そっと地面に下ろす。
子羊がよたよた立ち上がる。包帯のぶん足が太くなっていて、バランスが悪そうだけれど、歩ける。
「メエ」
元気な声。さっきの弱々しさが嘘みたいに、子羊がとことこ歩いて母羊のそばに行く。
「二日で包帯を替える。化膿しなければ一週間で外せる」
「よかった……」
安堵で力が抜けて、その場にへたり込む。膝が草で緑色に染まっている。ドレスは泥だらけ。爪の間に消毒液と子羊の脂が残っている。
令嬢としては落第点だろう。でも子羊が歩いている。それで百点満点だ。
コロが子羊を追いかけようとして、ノアに「こら」と止められている。コロは不満そうに鼻を鳴らして、仕方なく私のそばに伏せた。
ノアが立ち上がって、鞄の中身を整理し始める。使った布を畳み、消毒液の蓋を締め、器具を元の位置に戻す。一つ一つの動作が正確で、無駄がない。
「ノア様」
「なんだ」
「お手がお上手ですわね」
「……手当てが?」
「包帯の巻き方が丁寧で。子羊も安心していたように見えました」
ノアが手を見る。自分の手を、じっと見る。
「……昔、師匠に言われたことがある。獣医の手は温かくなければならない、と」
「素敵な教えですわね」
「冷たい手で触ると動物は怯える。体温で安心させろ、と」
だからノアの手はあたたかいのか。
技術ではなく、温度。相手を怯えさせないための温度。
「ヴィオレッタ」
「はい」
「お前の手も──悪くなかった」
ノアの背中越しに放たれた言葉が、風に乗って耳に届く。
「子羊が暴れなかったのは、お前が落ち着いて押さえていたからだ」
「そう、ですか」
「動物を抱くのに慣れている。どこで覚えた」
「その……実家の牧場で」
架空の牧場設定がまた活躍している。
「そうか」
ノアはそれ以上追及しない。この人はいつも、深入りしない。聞かない。踏み込まない。
帰り道、夕日が牧草地をオレンジ色に染めていた。足元の草が長い影を落として、遠くで羊の鈴がからからと鳴っている。
ノアが隣を歩いている。いつもより少しだけ──距離が近い。気のせいかもしれない。
でも指先に残る温もりは、気のせいではない。
あの一瞬の、手が触れた感触。
私の手のひらに、まだノアの体温が残っている。
──やばい。これはちょっと、やばいかもしれない。
コロが門の前で待っていた。尻尾を振って飛びついてきて、私のスカートに鼻を埋める。子羊の匂いを嗅ぎつけたのだろう。
「コロ、嗅ぎすぎ。くすぐったいってば」
犬のぬくもりで、ノアの手の温度を上書きしようとする。
──でも、消えない。
あの温度だけが、しつこく残っている。




